織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・他家自在天、夢幻のごとくなり
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第423回
織田信長、戦わずして勝つ、情報の蒐集、分析、比較、ストラテジー構築。
【桶狭間の戦い】から【本能寺の変】まで22年
永禄3年(1560)、5月1日、2万5千。駿河・遠江・三河の連合軍を率いた今川義元が尾張に侵攻。今川軍は桶狭間のうちの田楽狭間へ移動。梁田政綱の情報による。同日、信長はわずかな兵を率いて清洲を出発、進軍中に丸根砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約2000)、田楽狭間の今川本陣を急襲。見事に大将首をあげる。
5月19日、出陣の朝、信長は愛誦する幸若舞「敦盛」「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか。」を舞い、熱田神宮で必勝祈願、2千5百の兵で出陣。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
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*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、稲葉山城、斎藤龍興、攻略までの7年。犬山城攻略、尾張統一】
桶狭間の戦いがあった永禄三年(1560年)。5月19日に今川義元の首を取った織田信長は、その約2週間後の6月3日、勢いに乗じて美濃へ攻め込み。しかし、斎藤家臣団の丸茂兵庫頭や長井衛安(長井甲斐守)たちの軍勢に織田軍は敗れ、柴田勝家が殿(しんがり)を務めながら帰国。美濃斎藤氏の当主は斎藤義龍。義龍は天文二十三年(1554年)、父の斎藤道三から家督を継承。
永禄三年(1560年)6月の美濃侵入で敗れた織田信長は、8月23日に再び侵攻。史料価値の低い『総見記』
父・斎藤道三を死へ追い込んだ弘治二年(1556年)長良川の戦い。道三が義龍の采配を見て「さすがは道三の子」と言った、永禄四年(1561年)5月11日、斎藤義龍が33歳の若さで急死。死因不明。
1563年 小牧山城移転。永禄六年(1563年)、織田信長は清洲城の北、約15kmの位置に小牧山城を築き、本拠地を移転。
【1564年 犬山城の攻略】織田信清の守る犬山城は、木曽川を背後にした難攻不落の城。
織田軍は丹羽長秀が、支城の黒田城と小口城に調略を仕掛け、和田定利と中島豊後守の協力を得ることに成功。永禄七年(1564年)8月、犬山城を落とし、尾張を統一。
美濃では斎藤龍興の統治に大きな綻びが見え始め、1564年2月に本拠地の稲葉山城が竹中半兵衛に乗っ取られる。六人衆の一人であった安藤守就も、竹中半兵衛に加担したことで龍興から離脱。
【1565年、犬山城対岸の鵜沼城(うぬまじょう)と、そのすぐ北にある猿啄城(さるばみじょう)攻略】『信長公記』による。。まず両城を見下ろす伊木山に付城を築いて、鵜沼城下を焼き払うと、そこで初めて秀吉が大沢氏を調略。続いて猿啄城は丹羽長秀が水源を断ち、河尻秀隆も攻め寄せると、耐えきれなくなった多治見修理亮は城を放棄。
【1566年 墨俣一夜城】永禄九年(1566年)9月、豊臣秀吉が「墨俣一夜城」を成功させた。『絵本太閤記』の創作。柴田勝家や佐久間信盛らを貶め、秀吉を持ち上げる。
【1567年 稲葉山城の戦い】永禄十年(1567年)8月、美濃三人衆から信長へ内応。
おそらく豊臣秀吉や丹羽長秀あたりが常に働きかけていたのでしょう。直後の出世状況からすると、やはり秀吉の弁舌や交渉能力が突出。美濃三人衆から話の申し入れがあると、人質を受け取る段取りも無視して、いきなり稲葉山城下へと軍勢を繰り出した。周囲を焼き払い包囲網を構築。重臣である美濃三人衆が織田方に寝返った、斎藤龍興は飛騨川から長島へ逃げ落ちました。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの勝利から、美濃を制する永禄九年(1567年)まで。7年。織田信長が一貫して用いた基本戦略は「調略と機動力」。斎藤方の武将を口説きつつ、兵を繰り出して戦い、雌雄を決するような大戦には発展しない。
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シェイクスピア『ベニスの商人』「金・銀・鉛の3つの箱選び」の原型は何か。パリスの審判、3人の女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女。(叙事詩『キュプリア』)
【『ヴェニスの商人』、美しき相続人、ポーシャ】ヴェニスの若者バサーニオは、親友の商人アントーニオに、ベルモントの富豪の娘ポーシャに求愛しに行く資金援助を求める。全財産を投資中のアントーニオは、高利貸しシャイロックから借金する。ポーシャは亡き父の遺言書により「金・銀・鉛の3つの箱から正しい箱を選ぶ」男を選ばねばならない。モロッコ大公は金の箱を選び、アラゴン大公は銀の箱を選び、バサーニオは鉛の箱を選ぶ。
絶世の美女、孫子と美女百八十人、孔子、ヴェニスの商人、シンデレラ、地中海奇譚・・・『美と復讐の精神史』第2巻
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【女神の争い】三女神は最も美しい装いを凝らしてトロイの王子パリスの前に立った。女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女、三美神はそれぞれ与える約束をした。パリスの審判(『キュプリア』)
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
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【親は敵、兄弟は第一の敵】
織田信長、信勝を清洲城にて討つ。武田信玄と父、信虎追放。【伊達政宗毒殺未遂事件】政宗の母・義姫、小次郎を後継に画策。
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斎藤道三の孫、龍興と連動【信長の弟、信勝、謀反】弘治2年稲生の戦い、弘治3年2度目の謀反、清洲城で柴田勝家らに討取られる。
【信長の妹、お市の方。浅井三姉妹、茶々、江、初】1573長政滅亡1582お市の方と柴田勝家、再婚、1583賤ケ岳の戦い、北庄城、秀吉により陥落、自害【茶々、秀吉と結婚】秀頼を産み、大阪城、豊臣政権を支配【秀頼の父は誰か】大野治長、治長の母、茶々の乳母【徳川家康、二条城で秀頼と会見】秀頼は朝青竜のような巨漢、賢明。猿のような小男でない【家康、秀頼滅亡を決意】1598年8月秀吉死去。1600年9月15日関ケ原の戦い
【オシリスとイシス、セト】オシリスは弟セトに殺され王権を奪われた。イシスとセトの妻は、オシリスの遺体を集め、オシリスは冥界の王として復活した。
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
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ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
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ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
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織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
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参考文献
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
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「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
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花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
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【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
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『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日
















































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