2026年4月19日 (日)

「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」・・・象徴主義の神秘と謎、隠者の森

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第428回

大紫躑躅咲く、風薫る、虹始現れる、午後、東京ステーションギャラリーに行く。冨田章館長の報道内覧会、説明会を聞く。スイス新ビール美術館館長が来ている。
カール・ヴァルザー(1877 - 1943)は、「美術史の中で見過ごされてきた、作品の価値は、その名が知られているかとは関係がない」冨田章・東京ステーションギャラリー館長。グスタフ・クリムト、ビアズリーらの象徴主義、世紀末の画家の仄暗さと、色彩に魅了される。カール・ヴァルザーはスイスのビールで生まれた、1903年にベルリン分離派に加わり、主導した。1908年半年ほど日本に滞在し、制作をしていた。
カール・ヴァルザー《婦人の肖像》1902年、読書する婦人、背後にある森の中に羊が6頭遊んでいる、婦人は室内で大きな帽子を被っている。何かが変である。《隠者》1907年、隠者は庭に座って中世の写本を読んでいる。隠者の背後の木に白い花が咲いている家があり、森があり、地平線の彼方に雲が湧いている。《森》1902-1903年、夕暮れの断崖の上に森がある。《テラスからの眺め》1900年頃、《人形の乳母車と少女》1905年以前、樹々の上に不思議な少女がいる。グスタフ・クリムト、ビアズリーらの象徴主義、世紀末の仄暗さ。偉大な絵画は極大にしても極小にしても価値がある。不朽の名画。象徴主義の神秘と謎を讃える。
森の隠者は、藝術家、思想家であり、詩人であり、著作家である。家と森を持ち、地平線の彼方に空を眺める。
虹始見、幸運の扉が開く、幸運の女神、美の女神が現れる。美の使徒、天道の使者、純粋な魂、美しい魂と美しい肉体を持つ者を如意輪観音が救う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
カール・ヴァルザー《テラスからの眺め》1900年頃 個人蔵
カール・ヴァルザー《婦人の肖像》1902年 ゴットフリート・ケラー財団(新ビール美術館寄託)
カール・ヴァルザー《森》1902-1903年、新ビール美術館
カール・ヴァルザー《人形の乳母車と少女》1905年以前、新ビール美術館
カール・ヴァルザー《テラスからの眺め》1900年頃 個人蔵
カール・ヴァルザー《夜の散歩》1905年、個人蔵
カール・ヴァルザー《隠者》hermit 1907年、チューリヒ美術館(H. E. マイエンフィッシュ博士コレクション、1946年収集)
カール・ヴァルザー《ゲルハルト・ハウプトマン作『グリゼルダ』舞台美術のための下絵:第1幕 第2場、ガレリア》1909年、ゴットフリート・ケラー財団(新ビール美術館寄託)
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カール・ヴァルザー(1877 - 1943) 略歴
スイスのベルン近郊の町ビール(ビエンヌ)に生まれる。1899年にベルリンに移住。1903年にベルリン分離派に加わり、審査員も務める。舞台美術家としても人気を集め、主にベルリンで舞台装置や衣装をデザインし、その仕事は生涯で28件に及んだ。挿絵画家・装幀家として出版界でも活躍し、室内装飾も手がけた。恋人がいたが失恋、その女性は自殺。その年、1908年に小説家ベルンハルト・ケラーマンとともに日本を旅行し、ケラーマンによる旅行記に挿絵を描いた。1925年に活動拠点をチューリヒに移してからは、主に壁画や室内装飾で評価を高めた。一歳下の弟ローベルト・ヴァルザー(1878 – 1956)は著名な文筆家。
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参考文献
「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」・・・象徴主義の神秘と謎、隠者の森
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-3ba202.html
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
https://bit.ly/2ZM5pyR
クリムト『ベートーベン・フリーズ』・・・理念を目ざす藝術家の戦い。黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う
https://bit.ly/2J1azBI
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
https://bit.ly/2QbsUwT
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
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「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」プレスリリース
全作品 日本初公開!
20世紀前半のスイスで活躍した異才カール・ヴァルザー(1877–1943)は、ベルン近郊のビールに生まれました。1歳下の弟ローベルトは作家になり、のちにその著作にカールが挿絵を描いています。20代でベルリンに出たヴァルザーは、革新的な表現を目指したベルリン分離派に加わり、象徴主義的な絵画作品をいくつも残しています。そこはかとない昏(くら)さと精妙な色彩をあわせもつその作品群は、謎めいた神秘性を湛え、見る者を惹きつけてやみません。
カール・ヴァルザーの生涯で特筆すべきことは、彼が日本を訪れて制作をしていたことでしょう。1908年にドイツの小説家ベルンハルト・ケラーマンとともに来日したヴァルザーは、東京や宮津(京都府)などに滞在して、熱心に日本の風景や風俗を描きました。これらの作品は当時の様子を伝える貴重な資料であると同時に、美術的にも非常に優れた見応えのあるものばかりです。その多くは水彩で描かれていますが、これまでほとんど公開されてこなかったために、驚くほど鮮やかで美しい色彩を残しています。本展は、これらの仕事に加えて、挿絵や舞台美術、壁画でも活躍したヴァルザーの全貌を伝える画期的な試みです。全作品約150点が日本初公開となります。
謎めいた神秘性を湛える、初期の象徴主義的作品群
知られざる画家
カール・ヴァルザーの名を知る人は、美術業界においても決して多くはありません。母国スイスでは、近年その再評価が始まっていますが、知名度のかなり低い画家と言っていいでしょう。東京ステーションギャラリーでは、これまでも美術史の中で見過ごされてきたアーティストの展覧会を数多く開催してきました。*1) 作品の価値や魅力は、その名が知られているかどうかとは関係がありません。最初に彼の作品を見たとき、わたしたちはその鮮烈さにすっかり魅了されました。そして多くの人とこの感動を分かち合いたいと思ったのです。会場に足を運んでいただければ、その魅力を理解いただけるはずです。
初期ベルリン時代
1877年に、スイスのベルン近郊にあるビールで生まれたカール・ヴァルザーは、シュトラスブルク*2) の美術工芸学校で学んだあと、1899年からベルリンを中心に活動しました。1902年に、マックス・リーバーマンが会長を務めるベルリン分離派*3) の展覧会に初出品し、翌年には会員になります。本の装幀や挿絵、舞台美術、壁画などの仕事をする一方で、この時期には象徴主義的な絵画にも取り組みました。鮮烈でありながら、世紀末の残照とでも言うべき昏(くら)さをともなう、寓意や含意を感じさせる神秘的な作品群は、観る者を強く惹きつける力をもっています。
日本の風景と風俗、芸妓や歌舞伎を描いた美しい水彩画
120年前の日本が鮮やかに甦る
日本滞在
1908年、ヴァルザーはドイツの出版社に依頼されて、小説家のケラーマン*4) とともに日本を訪れます。ケラーマンが書く日本紀行のための挿絵を描くのが目的でした。*5) 4月から約半年に及ぶ滞在期間中にふたりは日本各地を巡りますが、大いに気に入って長逗留したのが宮津(京都府)です。ヴァルザーはこの街で、芸妓や舞妓、歌舞伎役者や市井の人々の姿を、生き生きとした筆致と美しい水彩で描きとめています。これらの作品は、京都の風景や祭を描いた重厚な油彩画とともに、120年前の日本の姿を鮮やかに甦らせます。
領域を超えた多彩な仕事
挿絵と舞台
ヴァルザーは生涯を通じて、挿絵や舞台美術、室内装飾や壁画の仕事で生計を立てていました。ドイツとスイスにはいくつもの壁画が現存していますし、舞台美術の分野ではシェイクスピアはじめ多くの作品でセットやコスチュームのデザインを担当しました。コスチュームのデザイン画は、まるでファッション画のような華やかさをまとっています。また、装幀や挿絵でも、ひとつ下の弟で詩人として名を馳せたローベルト*6) の本をはじめ、少なくない仕事を残しました。多くはエッチングによるものですが、その巧みな線描表現も本展の見どころのひとつです。
*1 「大野麥風展」(2013年)、「幻の画家 不染鉄展」(2017年)、「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜」展(2021年)、「宮脇綾子の芸術」展(2025年)など
*2 現在のストラスブール(フランス)、当時はドイツ領だった
*3 アカデミックな伝統から離脱して、新しい造形芸術を志向した分離派は、最初ミュンヘンで創設され(1892年)、ウィーン(1897年)、ベルリン(1898年)へと波及した
*4 ベルンハルト・ケラーマン(1879-1951)、ドイツの作家。資本主義を批判した『トンネル』(邦訳は国書刊行会から出版)が有名
*5 『さっさよやっさ』(カッシーラー書店、1911年)
*6 ローベルト・ヴァルザー(1878-1956)、邦訳に『日々はひとつの響き ヴァルザー=クレー詩画集』(平凡社、2018年)などがある
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202604_karl.html
https://www.artpr.jp/tsg/karlwalser26
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スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏(くら)き残照
2026年4月18日(土)~2026年6月21日(日)
会場 東京ステーションギャラリー
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「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」、東京ステーションギャラリー、4月18日(土)~6月21日(日)

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2026年4月15日 (水)

チュルリョーニス展 内なる星図・・・生のすべては、芸術という永遠にして無限、そして全能なる祭壇の上で燃え尽きる。

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第427回
虹始見(にじはじめてあらわる)、七十二候の第十五候の季節(略本暦による呼び名)。清明の末候となり、「雨の後に虹が出始める」中国(宣言暦)七十二候。虹始見、幸運の扉が開く、幸運の女神、美の女神が現れる。美の使徒、天道の使者、純粋な魂、美しい魂と美しい肉体を持つ者を如意輪観音が救う。
「僕たちの生のすべては、芸術という永遠にして無限、そして全能なる祭壇の上で燃え尽きる」チュルリョーニス
大国の影として属する人質国家、陽炎のように儚く、陽炎のように燃え尽きる。
チュルリョーニス《第五ソナタ(海のソナタ):フィナーレ》1908年は、葛飾北斎「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏、天保1–4年頃(1830–33年頃) の影響を受けた。

ロシア帝国の支配下にあったリトアニアは、18世紀から20世紀、属国に甘んじ、国民を人質に、利権階級が私利私欲を貪る。
紀元前15世紀、エジプト新王国、トトメス3世、ミタンニ王国と戦い、ヌビアのクシュ王国を保護することにより金(防衛費)を獲得。永禄12年(1569)、織田信長、豊臣秀吉を派遣、堺の会合衆に矢銭2千貫(防衛費)、要求。
ペルシア帝国と戦い、帝国の奴隷になることを拒んだアテナイ、「ギリシア人は奴隷とならない」アイスキュロス『ペルサイ』。
テーバイの人質フィリッポス2世は、アテナイが哲学者が理念を教えていたのを知り、アリストテレスをアレクサンドロスの師に迎える。【アレクサンドロス大王、東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)】マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、【グラニコス川の戦い(紀元前334年)】にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかり。【紀元前333年、イッソスの戦い】ペルシアの王ダレイオス3世と対峙。ダレイオス3世は10万の大軍を率いて対抗、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めた。ダレイオスは逃亡。ティルスやガザなどが反抗し、この地域を征服、エジプトに進出。エジプトではペルシア支配に対する不満が高まり、無血でエジプトを征服。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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オリバー・ストーン、日本はかつて持っていた主権を持っていない。帝国の衛星国家(Hostile State)、人質を取られた国である。主権の欠如: 日本は、かつて持っていたような真の主権を持っておらず、米国の「同盟国」ではなく、実質的に「衛星国」または「人質を取られた国」であると指摘。
オリバー・ストーン監督は、日本がおかれた状況の最大の理解者。
「偉大で素晴らしい文化を持つ日本には、ひとつだけ問題がある。日本は自らの国家主権を持たない国、アメリカの従属国、いわば人質なのです」(News23 2017年1月19日)
http://dailymotion.com/video/x58y7zi
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/snowden-movie-interview_b_14787326.html
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リトアニアを代表する芸術家、ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875-1911)。祖国リトアニアにおける生誕150周年の祝賀ムードを引き継いで開催される本展は、日本では34年ぶりの回顧展。国立M. K. チュルリョーニス美術館が所蔵する主要な絵画やグラフィック作品、約80点を紹介します。人間の精神世界や宇宙の神秘を描いた幻想的な作品の数々のうち、謎に包まれた最大の代表作《レックス(王)》が日本で初公開。また、音楽形式を取り入れた連作や、自身の手になる楽譜、展示室に流れる旋律をとおして、優れた作曲家でもあった画家の個性と感性を体感していただきます。2000年以降、オルセー美術館(パリ)をはじめヨーロッパ各地で展覧会が開催されるなど再評価の機運が高まるチュルリョーニスの世界をぜひご堪能ください。
Mikalojus Konstantinas Čiurlionis
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス
絵画と音楽というふたつの領域で類まれな才能を示し、35歳の若さで亡くなるまでのわずか6年ほどの画業で、300点以上もの作品を手がけました。世紀末のアール・ヌーヴォーや象徴主義、ジャポニスムといった国際的な芸術動向に呼応しつつも、作曲家ならではの感性と、当時ロシア帝国の支配下にあったリトアニア固有のアイデンティティに根差した作品群は、唯一無二の個性を放っています。
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【担当学芸員の解説、朝倉南】報道内覧会
日本では34年ぶりの大回顧展となる本展は、祖国リトアニアにおけるチュルリョーニス生誕150周年(2025年)の祝賀ムードを引き継いで開催される。現存する作品の大部分を所蔵する国立M.K.チュルリョーニス美術館(カウナス、リトアニア)の全面協力のもと、厳選された約80点の絵画やグラフィック作品が来日した。謎に包まれた代表作《レックス(王)》をはじめ、日本初公開の作品が複数含まれる。担当学芸員は朝倉南(国立西洋美術館研究員)。
朝倉南(国立西洋美術館研究員)
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展示はテーマごとに区切った全3章とプロローグ、エピローグから構成されており、短くも濃密な画業の軌跡をたどることができる。プロローグではまず、画業の出発点を紹介する。
オルガン奏者の父を持ち、幼い頃から音楽の才能を示したチュルリョーニスは、18歳のときに作曲を学ぶためポーランドのワルシャワ音楽院に入学。さらにドイツのライプツィヒの音楽院で学んだのち、1902年頃から絵画の道を本格的に志すようになる。絵画制作に集中的に取り組んだのは1903年頃~1909年の6年ほどのことだ。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 森の囁き 1904
作家は、1904年の春に新たに開校したワルシャワ美術学校に入学した。初期作品の大部分は失われており、ここで展示されている《森の囁き》(1904)は数少ない現存する作品のひとつ。暗い森の中で立ち並ぶ木々の上に、かすんだ人の手が浮かび上がる。木立と竪琴の弦、森のざわめきと竪琴の音色を重ね合わせたこの作品には、絵画と音楽、視覚的なものと聴覚的なものの融合というテーマがすでに見てとれる。

第1章「自然のリズム」
生命の本質、自然の動的な移ろいを描く
第1章「自然のリズム」では、チュルリョーニスが描いた自然の表現を紹介している。
ワルシャワを拠点にしながらも、祖国リトアニアの豊かな自然はチュルリョーニスにとって創造の源であり続けた。1905年のコーカサス地方への旅で壮大な山々に触れたことも、自然の力への眼をさらに開かせた。雪に覆われた山がひとつの塊のようにダイナミックに描かれた《山》(1906)は、その旅で得た印象をもとに制作された作品だ。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 山 1906
本章ではエッチングの作品も展示。左から、《庭(噴水)》(1905/06)、《雪に埋もれた小屋(冬)》(1905)
ただし、ここに並ぶ作品群は、いわゆる写実的な風景画とは異なっている。チュルリョーニスの絵画作品に地誌的な風景表現はほとんど存在せず、作家が関心を抱いたのは、自然の「動的な移ろい」だったという。担当学芸員の朝倉は、「自然の内部に流れるリズムや生命の循環そのものを、抽象的、時には擬人的にとらえて、そこに叙情性や象徴性を与えている」と説明する。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 春 1907
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 夏 1907
雪解けの大地、芽吹く若葉など、春の自然を題材とした作品群や、連作《冬》(1907)は、そうした自然のリズムへの関心が結実したもの。
8点から成る《冬》では、生命の象徴である樹木が様々なかたちで変奏され、雪が降りしきる情景から生と死の対比、燭台のように描かれた樹木を経て、雪片が幾何学的な星や矩形となった抽象的な風景へと変化していく。同時代の作家が冬の静謐でメランコリックな側面に着目したのに対し、チュルリョーニスは自然の内なる力を可視化したという。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《冬》(1907)の展示
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 冬VIII[8点の連作より] 1908
また《閃光》(1906)では、光の群れの移ろいとともに「門」のモチーフが登場する。現実と幻想、此岸と彼岸を隔てながら結びつける通過点の象徴として、門はチュルリョーニスの絵画に繰り返し現れる。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《閃光》(1906)の展示

「交響する絵画」
音楽の構造を絵画の構造に取り入れた《フーガ》《ソナタ》
「交響する絵画」は、チュルリョーニスを近代美術史における独創的な作家に位置付ける特徴である「絵画と音楽の融合」に焦点を当てる。作家がこのテーマに集中的に取り組んだのは1907年から09年にかけて。当時は同時代の多くの芸術家が絵画と音楽の融合に取り組んだが、チュルリョーニスの最大の特徴は、音楽の構造を絵画の構造に取り入れようとしたこと。ここで紹介される作品は、フーガ、ソナタといった音楽用語を作品タイトルに冠している。
《プレリュード》《フーガ》(1908)の2連画では、未完の《プレリュード》が導入となり、水面に映るモミの木の変奏が描かれた《フーガ》へとつながる。フーガは複数の声部で主旋律が展開される多声音楽の一形式だが、水平に分割された画面に描かれたモミの木の層は複数の声部に該当し、多声の共鳴を想起させる構図になっているという。離れて見てみると、線を成す木のシルエットが、音符の連なった楽譜のようにも感じられる。

ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス、二連画《プレリュード、フーガ》(1908)
いっぽうのソナタは3、4つの複数の楽章から構成される音楽形式。チュルリョーニスはソナタ形式を取り入れた作品を7点制作しており、本展ではうち3点《第3ソナタ(蛇のソナタ)》《第5ソナタ(海のソナタ)》《第6ソナタ(星のソナタ)》(いずれも1908)を展示している。

薄い緑のモノトーンで統一された連作《蛇のソナタ》は、「アレグロ」「アンダンテ」「スケルツォ」「フィナーレ」の4楽章から成る。蛇はリトアニアの神話や民間信仰で神聖視される存在であり、家に豊穣をもたらすとして人々のあいだでも大切に飼われていたという。蛇の体が蛇行、水平、垂直とかたちを変え、フィナーレに向けて楽章は場面を展開させていく。

ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《第3ソナタ(蛇のソナタ》(1908)、左から「アレグロ」「アンダンテ」「スケルツォ」「フィナーレ」
《海のソナタ》は「アレグロ」「アンダンテ」「フィナーレ」の3点から構成。輝く泡の粒がリズムを作り出す「アレグロ」から、涙のように泡の粒が落ち、下から大きな手が伸びる神話的な「アンダンテ」へと移り、「フィナーレ」では葛飾北斎の《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》を参照したとされる、大きな波で劇的に締めくくる。なお《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》は、隣の展示室で同時開催されている「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」展で見ることができる。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《第5ソナタ(海のソナタ》(1908)、左から「アレグロ」「アンダンテ」「フィナーレ」
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《第6ソナタ(星のソナタ》(1908)、左から「アレグロ」「アンダンテ」
本章ではチュルリョーニス作曲の交響詩「海」が展示室に流れ、「絵画と音楽の融合」をより立体的に感じられる。

民族の記憶と精神世界の旅
第3章「リトアニアに捧げるファンタジー」は、チュルリョーニスの作品において重要な要素であったリトアリアの民族性がテーマ。
ロシア帝国支配下で民族解放運動が高まる1900年代のリトアニアで、チュルリョーニスは「リトアニア美術展」を組織した最初のメンバーになるなど、この運動に積極的に関わった。彼は祖国に息づく民話や民謡、民芸などの民衆文化の再評価こそがリトアニア固有の芸術様式の構築に不可欠であると考え、しばしばそれを作品の着想源とした。
たとえば《リトアニアの墓地》(1909)に描かれた十字架はその象徴だ。リトアニアでは、自然崇拝を現す記念柱や祈りの場が古くから存在し、その伝統とキリスト教の象徴が融合して民間信仰となった。ロシア帝国支配下では十字架制作が伝統的な民族アイデンティティの象徴として弾圧の対象にもなったが、それゆえに民族独立の象徴的なイメージとしても広がった。本作では、緑の背景にリズミカルに浮かび上がる十字架のシルエットと上空の北斗七星が、民族的な記憶と結びついた精神的な風景を表している。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス リトアニアの墓地 1909
また深い緑で故郷近くの谷間を描いた3連作《ライガルダス》は、完成されたチュルリョーニスの絵画作品としては唯一の地誌的な風景画だが、この地に古来から伝わる民間伝承に関係しているという。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 三連画《ライガルダス》(1907)
本章では、「リトアニア美術展」のカタログ表紙や、活動家で作家の妻ソフィヤ・キマンタイテと共著したエッセイ集のための表紙デザイン、頭文字のヴィネット(本文を飾る装飾図案)など、チュルリョーニスが手がけたグラフィック作品の数々も見どころだ。リトアニアの自然や伝統、文化と結びついた装飾的なモチーフが緻密に描かれている。
ソフィヤ・キマンタイテ=チュルリョーニエネ著『リトアニアにて』(1910年出版)のための表紙デザイン(1909)
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 頭文字のヴィネット 1908
オペラ「ユラーテ」の舞台背景のための下絵 1908
チュルリョーニスはこの時代、神智学や天文学といった国際的な思想潮流にも関心を寄せており、人間の精神世界や宇宙の神秘をめぐる幻想的な作品を多数制作した。1907年以降は童話や民間伝承の語りの構造を主題とした「おとぎ話」をタイトルに含む独自の形式を確立し、魔法の世界や王、王女、騎士、旅、道といった典型的なモチーフを取り入れた物語性のある作品を手がけた。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス おとぎ話(城のおとぎ話) 1909
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス おとぎ話(王たちのおとぎ話) 1909
オレンジの明るい色彩と、見下ろすような視点で描かれた階段状の祭壇が目を引く《祭壇》(1909)は、祭壇の壁面に8つの場面が描かれ、下から上へ物語が展開していく。下の段に小さく描かれた騎士の旅が、人間の精神の旅を表していると見られている。展覧会のメインヴィジュアルに採用されたこの作品は日本初公開。実際に見てみると想像よりも小型の作品で、だからこそ細部に込められた象徴性の密度に引き込まれる。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 祭壇 1909

火・水・大地・大気を描く、最大の野心作《レックス(王)》
展覧会を締めくくるのは、こちらも日本初展示となる《レックス(王)》だ。大きなキャンバス作品を展覧会に出品すべく制作された本作は、チュルリョーニス作品のなかで唯一1mを超える最大の絵画作品にして、「最大の野心作」(朝倉研究員の説明)。
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス レックス(王) 1909
「王」は初期から一貫して取り組んだ主題のひとつだ。ここでも象徴的なモチーフが無数に描かれているが、最下部の水面から、炎をあげる祭壇、木々が立ち並ぶ地平線、天に浮かぶ太陽と月へと、画面は多層的な構造を重ねていく。火・水・大地・大気という四大元素が揃い、世界の構成要素がひとつの画面に凝縮されている。その中心に透明に浮かび上がる「王」の姿が、各層を貫くようにそびえ立っている。
本作は、ロシア芸術界の重鎮アレクサンドル・ベヌアの絶賛を受けたが、チュルリョーニス自身はそれを知ることはなく、過酷な制作活動や伴わない名声に傷つき心身を病んでいった。そして1911年4月10日、35歳でその生涯を閉じた。

チュルリョーニス展会場
音楽と絵画の融合を探究し、リトアニアのアイデンティティと精神的な象徴性に満ちた唯一無二の作品群を残したチュルリョーニス。生涯で手がけた作品数が300点超であることを考えると、そのうち約80点が一堂に会する本展は貴重である。
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展示作品の一部
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス《リトアニアの墓地》1909年、テンペラ/厚紙、国立M. K. チュルリョーニス美術館(カウナス)所蔵
《ライガルダスⅠ[三連画「ライガルダス」より]》、《ライガルダスⅡ[三連画「ライガルダス」より]》、《ライガルダスⅢ[三連画「ライガルダス」より]》 いずれもミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 1907年
《フーガ[二連画「プレリュード、フーガ」より]》1908年
《ライガルダスⅠ[三連画「ライガルダス」より]》、《ライガルダスⅡ[三連画「ライガルダス」より]》、《ライガルダスⅢ[三連画「ライガルダス」より]》 いずれもミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス 1907
《レックス(王)》1909年、テンペラ/カンヴァス、国立M. K. チュルリョーニス美術館(カウナス)所蔵
《「第6ソナタ、星のソナタ、アレグロ」1908年》
《第五ソナタ(海のソナタ):フィナーレ》1908年
《森の囁き》1904年
おとぎ話(王たちのおとぎ話)》1909年
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参考文献
チュルリョーニス展 内なる星図・・・生のすべては、芸術という永遠にして無限、そして全能なる祭壇の上で燃え尽きる。
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-9f1e4f.html
「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」国立西洋美術館・・・神奈川沖浪裏、凱風快晴、赤富士、青富士、山下白雨
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-4d1d99.html
仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王

http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-388540.html
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
エジプト新王国、紀元前16世紀~紀元前11世紀
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-041.html
――
★★★★★
チュルリョーニス展 内なる星図
2026年3月28日[土]-6月14日[日]
国立西洋美術館 [東京・上野公園] 企画展示室B2F

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2026年4月 9日 (木)

アポロン神殿の糸杉が庭にある家 完全自由設計の家

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シェーンブルン宮殿、マリア・テレジア・イエロー、Schoenbrunn Schloss、MariaTeresiaYellow
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デルフォイ、アポロン神殿の糸杉。ソクラテスが37歳の時神託を受けたアポロン神殿。

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紀元前447年に建設が始まり 438年完工【パルテノン神殿とエレクテイオン神殿の建設】アテナイのアクロポリスに立つ女神アテナの神殿。ペリクレスがデロス同盟の軍資金を賃金として下層市民に還流した公共事業。10m超の列柱が切妻屋根を支える前者はドーリア式、「少女の玄関」女人柱で知られる後者はイオニア式。
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自由学園、明日館、ロフティティンバーウィンドウ
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手塚治虫IL 1969-70
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木下工務店、ドーマーのある家
アポロン神殿の糸杉が庭にある家 完全自由設計の家

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第426回
1、
庭にギリシア、アポロン神殿で採集した種子から育てたイタリア糸杉(ItalianCypress)、樹高15メートル×3本あります。
【「蘇り」と「不死」の象徴】糸杉は一年中緑を保つ常緑樹、その真っ直ぐに天へ伸びる姿から、死から再生への橋渡し、永遠の命(不死)のシンボルとされてきました。
レオナルド・ダヴィンチ『受胎告知』(1472年?1475年)、木に話しかけると願いがかなう。ウィリアム・ブレイク「毒のある木」ウィリアム・ブレイク、寿学文章訳『有心の歌、無心の歌』角川文庫。美青年キパリッソス、オウィディウス『変身物語』。ソロモンは、レバノン杉の材でソロモン神殿の屋根や祭壇を造った『聖書』『列王記』6章。
★★★★★
辻邦夫は、小学生の時、本に囲まれて暮らしたいと書いた。54歳の時、自宅書斎で実現し、72歳で没した。書斎にデルフィのアポロン神殿の石を置いていた。『雲の上の永遠の太陽』2026学習院ミュージアム。
私は、高校時代、本に囲まれて暮らしたいと書いた。1995年、梶が谷に引っ越し、蔵書を移転した。女子学生が2人、本の整理に来た。この書架には収納できない。といった。50個の段ボール箱が積み上げられた。友人が本を見たいといった。チベット寺院、サキャ族の密教寺院の図書館のようにカオスであると気づき、家を建て替えると言った。1998-2000年ギリシア旅行、トルコ周遊、イタリア12都市の旅に行き、デルフォイのアポロン神殿の糸杉とペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉の種子を採集、庭で育てた。中欧、ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ハプスブルク家、世界遺産の旅、スペイン・ポルトガル漫遊記の旅に出た。17年前から美術館、取材活動を行い、美術書、哲学書、宗教書、美術展図録、膨大に積み重ね。
1977年ミサワホーム、パネル工法でアパート建築、バウハウス建築、築49年、これも建て替えの時期を迎えた。1977年ミサワホームは南極基地を建築。
庭のアポロン神殿のイタリア糸杉、樹高10メートル以上なので、根を5メートル以上、掘らねばならない。東の断崖に、蜜柑の木、無花果の木もあり。これから50年以上、この糸杉を守ることができるか。
★★★★★
参考文献
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国
https://bit.ly/2C7rE7K
クラーナハ展、500年後の誘惑・・・透明なヴェールの女、女の策略
https://bit.ly/38PptVl
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
アポロン神殿の糸杉が庭にある家 完全自由設計の家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-bd4d5a.html
★★★★★

ヨーロッパ文化への憧れ、地中海文化への憧れ、フランス文化はイタリア文化の模倣であり、ジャック・ルイ・ダヴィッドはローマに留学した。イタリア文化は古代ギリシア文化の模倣であり、ローマ皇帝ハドリアヌスはヴィラ・アドリアーナに地中海の旅の思い出を構築した。ハプスブルク帝国フェリペ4世の宮廷画家ベラスケスはルネサンスのティツィアーノに憧れた。ロシア皇帝はパリに憧れ、スウェーデンの画家はパリに憧れた。ニューヨークの自由の女神はアメリカ独立100年、パリから贈られた。アメリカ文化はパリに憧れた。
デルフォイ、アポロン神殿の糸杉。ソクラテスが37歳の時神託を受けたアポロン神殿。
ペルガモン、アスクレピオス神殿の聖域
ペルガモン博物館のゼウス神殿、ベルリン博物館、エジプト博物館
シェーンブルン宮殿、マリア・テレジア・イエロー
Schoenbrunn Schloss、MariaTeresiaYellow
明治大正時代、洋館に住んだ人々
★★★★★
美への旅、大久保正雄、『旅する哲学者』より
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/
大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
地中海のほとりにて
大久保正雄 旅する哲学者 地中海のほとり、美と知恵をめぐる旅。イタリア、ギリシア、スペイン、トルコ。知恵と美と藝術を愛する、心の旅路。http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/
地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
http://odyssey2000.cocolog-nifty.com/
★★★★★
デルフィ、アポロン神殿の糸杉 ソクラテスが神託を受けた。
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
大久保正雄『地中海紀行』第44回ソクラテスの死2P7
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-027_1.html#:~:text=%E5%89%8D%EF%BC%95%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%BE%8C%E5%8D%8A,%E3%82%82%E4%BE%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
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★★★★★

櫻の森の園に、大樹に寄り添う若い女。手塚治虫『IL』
ブラックジャック、断崖の上の洋館
手塚治虫、I.L 1969/08/10-1970/03/25
2、
W.M.ヴォーリズ設計事務所、大丸ヴィラ チューダー様式、1932年、設計・佐藤久勝 シメオン黙想の家、40歳没。
地中海の風を感じる家「南欧プロヴァンス・スタイル」の魅力
https://arch-p.com/column/7949/
プロヴァンス家具、李朝箪笥、岩谷堂箪笥、カリモク、コスガ、カシワ
アンティーク家具、ラフジェ工房
https://rafuju.jp/products/list.php?category_id=678
★★★★★
3、
大磯駅前、旧木下家別邸 大正元年1912木下建平氏が建てられた
現存する日本最古のツーバイフォー住宅「旧木下家別邸」
https://2x4shikoku.com/tips/kyu-kinoshita-bettei.html
切妻造の屋根にドーマー窓、正面にはベイウィンドウ(出窓)。内部には現在6つの洋室とサンルーム、それに近年になって増築された厨房やホールなどが設けられている。海が望めるサンルームのステンドグラスや、アカンサスという花の模様で装飾されたドアノブは、山口さんによれば竣工当時のものと考えられるという。また長い間に増改築を重ねてきたが、他の新しいステンドグラスや照明も大正ロマンの雰囲気に合わせたものが使われている。
https://shonan-journal.com/magazine/16541/
★★★★★
一、大和ハウス、都築店長から指摘あり。2月19日
1、【2×4建築の問題点】、木材の質、白アリ対策の薬剤、パネル工法の施工時の工務店のホチキス釘止め、接着剤、【スウェーデンハウスの特異性】2×4、2×6、2×10の木材【輸入住宅】輸入住宅はデザイン性・ヨーロッパ建築重視。問題点はどこにあるか。
2、【建築コスト】【各建築工法には一長一短あり】
3、ハウスメーカー業界の衰退
4、【ハウスメーカーの営業姿勢の違い】ヘーベルハウスが顧客から評判が悪い理由など、お教え頂き、考察致しました。
二、
2月20日、三越前・三井記念美術館、世田谷美術館、報道内覧会、取材、行きました。
世田谷区砧公園の周辺の住宅環境を見ると、隣家との距離が2メートル、4メートル。住宅密集地、顧客満足度はどうなっているのか。
梶が谷駅から銀座まで27分、三越前・三井記念美術館47分。用賀駅まで10分。
20年前、三菱商事の女性社員がアパートを見に来られました。
三、
ヘーベルハウス営業は、家賃、資金力、だけが眼中ある。
ミサワホーム営業マンは、売り飛ばすことを考えている。
積水ハウスは、顧客重視の姿勢がある。
色々、考察します。
★★★★★
3月17日 一条工務店たまプラーザ住宅展示場、藤田竜之介氏、佐藤凱風店長
1、3重窓の樹脂窓枠、アルミサッシ廃止、発砲断熱材、全館全室床暖房システム、ヨーロッパ建築スペイン瓦屋根外観、完全バリアフリー、坪単価68万円(基礎工事、擁壁工事含め)、2×4 ・2×6、等々、素晴らしいです。
2、スウェーデンハウスの木製3重窓は、日本の気候では湿度に弱い。北海道のスウェーデンハウスの丘は湿度が低い。スウェーデンハウスの木製3重窓は、毎年補修工事している。私は、北海道大学大学院博士後期課程修了なので、よく理解できる。
3、たまプラーザ住宅展示場への往復途中、246号線にスウェーデンハウスの実例が建っているのは、初めて気づいた。スウェーデンハウス真理教の一例。鉄筋マンションは「夏暑く、冬寒い」。エアコン不要の木製3重窓枠。
4、一条工務店の着工件数20000、ギネス記録5年連続1位。
この品質で、この価格、驚異的。
2×4、鉄骨住宅、輸入住宅、注文建築、輸入デザイン建築、集合賃貸住宅、競合犇めくハウスメーカー、tvk横浜展示場、杉並デザイン会社、各社のご助言、対策をうかがいました。
大久保正雄

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2026年4月 3日 (金)

「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」国立西洋美術館・・・神奈川沖浪裏、凱風快晴、赤富士、青富士、山下白雨

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第425回
葛飾北斎(1760-1849)は、最初期、勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)、勝川派を離れて浮世絵画派とは一線を画した作画活動を行った宗理期(36~44歳頃)、読本の挿絵に傾注した葛飾北斎期(46~50歳頃)、多彩な絵手本を手掛けた戴斗期(51~60歳頃)、錦絵の揃物を多く制作した為一期(61~74歳頃)、自由な発想と表現による肉筆画に専念した画狂老人卍期(75~90歳)、鳳凰図屛風、富士越龍図へと飛翔する。
【葛飾北斎、苦節五十年】北斎(1760年~1849年)は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
★葛飾北斎『冨嶽三十六景』天保1–4年頃(1830–33年頃)北斎為一
【葛飾北斎、苦難の旅立ち】北斎最初期、19歳で勝川春章に弟子入り、20歳で勝川春朗として絵師となる。勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)。弟弟子に追い出される。勝川派を離れて浮世絵画派と一線を画した作画活動、俵屋宗理となる(36~44歳頃)。
【葛飾北斎、苦難の人生】北斎、画狂老人卍期(75~90歳)。72歳で絵は売れても、実生活は貧困。孫が不良で神奈川浦賀に逃れる。店屋物をとり絵画制作に没頭。引越し93回、画号を30回変える。80歳の時、火事に遭う、大八車一台の絵画資料を失う。90歳まで絵画藝術を追求する。
――
己六才より物の形状を写の癖ありて
半百の此より数々画図を顕すといへども
七十年前描く所は実に取るに足ものなし
七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益ゝ進み九十才にて猶其奥意を極め
一百歳にして正に神妙ならん歟
百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願くは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし
画狂老人卍述
— 『富嶽百景』初編跋文⋆天保5年(1834年)初編
――
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026hokusai.html
本展は、2024年に井内コレクションより国立西洋美術館に寄託された、北斎の『冨嶽三十六景』(1830~33年頃)を初披露する展覧会です。北斎の代表作である本シリーズ全46図を一挙に公開します。さらに、特に高い人気を誇る「神奈川沖浪裏」と「凱風快晴」については、それぞれ異なる摺りがもう1点ずつ併せて紹介されます。「神奈川沖浪裏」は、現存する中でも類を見ないほど摺り・保存状態に優れた一枚が加わります。
また、“赤富士”として知られる「凱風快晴」は、極めて希少な藍摺版、通称“青富士”も特別に展示します。これら全48点を、モネをはじめとする西洋美術コレクションを誇る国立西洋美術館で堪能できるまたとない機会となります。
「凱風快晴」
「凱風快晴」(通称“青富士”)
本展の見どころ
井内コレクションの『冨嶽三十六景』の特徴は、全般に摺られた時期が早いことにあると言えます。浮世絵版画は摺りが数多く重ねられると、版木が摩滅したり、欠損したりしてしまうことがあります。本コレクションには、細い線がシャープであるものが多く含まれていますが、これは版木が摩滅していないフレッシュな状態で摺られたことを示しています。
また、浮世絵版画は、補強のためにしばしば背面に裏打ち紙を貼ることがありますが、本コレクションの多くは裏打ちが施されていません。そのため、背面からも絵具の色の鮮やかさが確認でき、摺師が力を込めたバレンの跡も残されています。本展では、いくつかの作品で表裏両面から見ることのできる展示方法が採用される予定です。
――
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主な展示作品の一部
「神奈川沖浪裏」
「凱風快晴」
「山下白雨」
「常州牛堀」
「五百らかん寺さゞゐどう」
「江都駿河町三井見世略図」
「東海道程ヶ谷」
「甲州三坂水面」
※掲載作品はすべて葛飾北斎『冨嶽三十六景』より、1830-33(天保1-4)年頃、横大判錦絵、国立西洋美術館(井内コレクションより寄託)
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参考文献
「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」国立西洋美術館・・・神奈川沖浪裏、凱風快晴、赤富士、青富士、山下白雨
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-4d1d99.html
「新・北斎展」・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
https://bit.ly/2HAZJ5y 
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
https://bit.ly/3sfpb35
【葛飾北斎、美人画、勝川春朗、宗理型美人、亀毛型美人】「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」・・・浮世絵師の偉大と退廃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-72fdeb.html
北斎とジャポニスム、国立西洋美術館・・・『富嶽三十六景』『北斎漫画』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-aea6.html
――
国立西洋美術館企画展「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」
メディア内覧会、監修者の十文字学園女子大学の樋口一貴教授が見どころを報道陣に詳しく解説した。
樋口一貴教授の解説
1. 葛飾北斎と「冨嶽三十六景」について
葛飾北斎は1760年に生まれ1849年に没するまで、90歳の長寿を全う。そのうち約70年間、没年まで画業を続けた浮世絵師。
長いキャリアの中で何度も画号を変え、版画・版本・肉筆画に取り組み、役者絵、美人画、風景画、花鳥画など様々な画題を描いた。「冨嶽三十六景」は、北斎が「為一いいつ」と名乗っていた70代前半頃の作品。
タイトルは「三十六景」、余りの人気に10図が追加され、全46図で完結。井内コレクションは、この全46図すべてを網羅している。
2. 井内コレクションの見どころ1:摺りの違いを比較できる
本展では、同じ図柄でも「摺りの違い」を楽しめるよう、贅沢な展示が行われている。手摺りの浮世絵は、摺り師の具合、絵の具の濃淡や摺った時期によって、同じ版木でも微妙に表情が異なります。
「神奈川沖浪裏」
「神奈川沖浪裏」:このシリーズで最も有名で「グレート・ウェーブ」の名で世界的に知られている「神奈川沖浪裏」を2枚展示(4月21日から追加で3枚目を展示)。
「凱風快晴」
「凱風快晴」:”赤富士”で知られる「凱風快晴」も2枚を展示。2枚目は山肌の赤い版を使わず青く仕上げた、世界的にも希少な”青富士”です。同じ輪郭線でありながら全く違った作品になっている。
3. 井内コレクションの見どころ2:驚異的な保存状態の良さ
井内コレクションは全体的に摺られた時期が早く、版木の摩滅が少ないため、北斎が意図したシャープな線が残っている。さらに、大変に薄い紙を使う浮世絵は補強のために裏に紙を貼る「裏打ち」をされていることが多いが、井内コレクションには裏打ちを1回もしていない、当時のままの薄い状態で残っている作品がいくつかある。
両面展示の試み: この裏打ちの無い紙の薄さを実感してもらえるよう、中央に3つの独立ケースで「神奈川沖浪裏」「甲州石班澤」「東海道品川御殿山ノ不二」の3点を両面展示している。
裏から見ることで、ベロ藍の浸透具合や、摺り師がバレンで強くこすった痕まで観察できます。これは江戸時代の人々が裏返したり、日に透かしたりして楽しんだ感覚を追体験する試み。
中央に3つの独立ケースが並び裏側からも見ることができる
4. 展示構成:署名の書体から紐解く出版順の6グループ
展示は A~Fの6つのコーナーで構成されています。これは北斎が版元へ下絵を渡した順番(出版順)を推定して分けたものです。
この時期の作品はベロ藍が多く使われたことがわる(Bコーナー)
「北斎改為一筆」といった署名の書体の変化に基づいてグループを分類している。なお、一番わかりやすいのは追加で作られた10図(Fコーナー)で、署名がベロ藍でなく「墨」で摺られているため、一目で判別可能。それ以外の36図は「ベロ藍」で摺られている。
5. 3枚目の極めて早い摺りの「神奈川沖浪裏」
開幕直前に井内コレクションに加わった、3枚目の「神奈川沖浪裏」が4月21日から追加展示される。この作品は、画題を囲む二重枠に欠損がなく、線が非常に鋭く、極めて早い摺り。
また多くの「神奈川沖浪裏」の摺りでは、船の荷物を覆う「菰こも(むしろ)」が墨が濃く輪郭線が塗りつぶされて見えなくなっているが、この追加の作品は薄い墨で摺られており、下の輪郭線がくっきりと見える。この仕様のものは非常に数が少なく、貴重な「神奈川沖浪裏」となる。
追加展示される場所はすでに用意されている。
※作品はすべて葛飾北斎『冨嶽三十六景』天保1–4年頃(1830–33年頃)井内コレクション(国立西洋美術館に寄託)
――
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北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより

会場:国立西洋美術館 企画展示室B3F(東京都台東区上野公園7番7号)
会期:2026年3月28日(土)~6月14日(日)※巡回予定無し
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026hokusai.html

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2026年3月22日 (日)

下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第424回

美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家【下村観山『小倉山』屏風】私は藤原定家をイメージする。藤原定家は74歳、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。
――
下村観山『小倉山』屏風は、秋の奥山に鹿が鳴く余情妖艶を感じる。古今集の歌を思い出す。「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『猿丸大夫集』、詠み人しらず『古今集』秋上215)。
観山は、狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、東西の画技を極めてこの絵を描いた。奥深い優美な世界を構築している。日本美術院100年展(東京国立博物館1998)で見たとき、この絵に感動した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

――
下村観山『小倉山』は、『小倉百人一首』に収められている藤原忠平の和歌をテーマに描いた。小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 「藤原忠平」(880〜949年元慶4年〜天暦3年)。小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになるまで散らずに待っていてくれないだろうか。26番歌 藤原忠平(貞信公)。この和歌は、「拾遺和歌集」に収録されている歌。拾遺和歌集の詞書には、宇多天皇が大堰川(おおいがわ:京都府)から小倉山(おぐらやま:京都市右京区)の紅葉を見て、「子の醍醐天皇にも見せてやりたい」と言ったのを聞いた藤原忠平が詠んだ歌だと書かれている。小倉山は紅葉の名所。小倉山にある山荘の襖を飾るために藤原定家が選んだ和歌100首が、小倉百人一首の名の由来。このエピソードは、平安時代に成立した歌物語「大和物語」、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも記された。
だが、私は藤原定家をイメージする。藤原定家は、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。嵯峨山荘、時雨亭とも呼ばれる。常寂光寺、二尊院、厭離庵は定家の山荘址と伝わっている。
下村観山(1873–1930)は、狩野芳崖、橋本雅邦の弟子、江戸末期の日本絵画の残滓である。横山大観、菱田春草に次ぐ第3の男とされる(板倉聖哲)。25歳の時「美校事件」で辞任した岡倉天心に殉じて、教授を辞任。文部省から派遣され、30歳から32歳(1903-05)の時、ロンドンに留学し、イタリア・ルネサンス美術に深く魅了された。(1914–1931 日本美術院再興。
*注 1898年、岡倉天心は九鬼隆一に抗議して帝国博物館美術部長・東京美術学校校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任する者、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名に及んだ。天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設した。天心36歳の時である。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、観山36歳の時の作品、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《弱法師(よろぼし)》(1915年、東京国立博物館)、夕日を拝み極楽浄土を願う「日想観(じっそうかん)」にふける盲目の俊徳丸の姿が、梅とともに描かれている。日想観は現在でも四天王寺で行われており、彼岸の中日である3月20日、夕日への観想が予定されている。
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美の使徒【藤原定家 1162年(応保2年)-1241年(仁治2年8月20日9月26日)】
父、藤原俊成は、寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。
養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、『堀河院題百首』を作っている。これに対して、父・俊成、母・美福門院加賀の他、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲ける、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙。
【九条家へ出仕】文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定。
【後鳥羽院政期】
建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭・西園寺公経や左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。
【後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化】正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化、【正治2年(1200年)院初度御百首】企画される。藤原季経ら六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動あり、定家は参加を許される。翌【建仁元年(1201年)千五百番歌合】定家は参加して詠進、後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受ける。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者。【元久元年(1204年)勅撰集『新古今和歌集』】名称として『新古今和歌集』を上申、歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集。歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録。
【建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官】兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対する猟官運動が奏功、建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たす、建保4年(1216年)正三位に昇叙され、承久2年(1220年)播磨権守を兼ねる。
【承久3年(1221年)承久の乱】承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返す、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。寛喜4年(1232年)正月に【71歳で権中納言】に任ぜられる。
【寛喜4年(1232年)6月定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂】の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)
74歳【小倉山荘の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫】嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいと要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。定家の好みの和歌を自由に選んだため、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)。
仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。
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展覧会概要 東京国立近代美術館
日本画家・下村観山は紀伊徳川家に代々仕えた能楽師の家に生まれ、橋本雅邦に学んだのち、東京美術学校に第一期生として入学しました。卒業後は同校で教鞭を執りましたが、校長の岡倉天心とともに辞職、日本美術院の設立に参加しました。
出品作品点数約150件、関東では13年ぶりの開催となる今回の回顧展では、狩野派、やまと絵の筆法を習得して若くから頭角を現した観山が、2年間のイギリス留学を通して世界をまたにかけた幅広い視野を身につけ、画壇を牽引する存在へと成長する軌跡を示します。そこからは、盟友の横山大観、菱田春草らとともに明治という新時代にふさわしい絵画を切り拓こうとした観山のひたむきな姿が浮かび上がってきます。
さらに、日本の古画や中国絵画の研究の成果、本人のルーツでもある能を主題とした絵画制作、時の政財界人とのサロンのようなネットワークにもスポットを当て、様々な角度から観山芸術の魅力に迫ります。これにより、明治から大正へと時代が移り変わる中で絵画のあり方に改めて向き合った観山が、自己表現のための芸術とはまた別の、作品を手に取る個人ひいては社会とともに生きる絵画を追い求めていったことが明らかになるでしょう。
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※会期中、一部の作品の展示替えを行います。
前期展示:3月17日(火)〜4月12日(日)
後期展示:①4月14日(火)〜5月10日(日)
下村観山(1873 – 1930)
見どころ
1. 誰もが圧倒される“超絶筆技”を味わう
狩野派、大和絵、琳派、中国絵画そして西洋絵画まで、東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、自由自在に筆を操った観山。今もなお、その繊細な筆技は他の追随を許さないほどです。
2. 観山芸術の意義を再検証−作品の意味を読み解き、成り立ちを探る―
よく見ると和洋折衷の不可思議な表現、ミステリアスなモチーフなど、観山の作品には気になる部分がたくさんあることが分かります。そこには技法の他に、その作品を描くことになった経緯(作品の成り立ち)も関係しています。これらをひとつひとつ解きほぐすことで作品の示す意図を明らかにし、それを通じて観山芸術の意義を再検証します。
3. 大英博物館蔵、英国留学時の観山作品が里帰り
新しい日本の絵画には色彩の研究が必要だと考え、日本画家初の文部省留学生としてイギリスへ留学した観山。現地で親交を深めた小説家で東洋美術研究家のアーサー・モリソンに贈った自作(大英博物館蔵)が里帰り!
作品からは、海外経験を通じ観山が考えた「日本画のあり方」をも感じていただけます。
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■主な展示作品
《春日野》(1900)観山が27歳で描いた。春日大社の神鹿を描いたと思われる本作には、当時大観・春草らと試みていた「朦朧体」が用いられる。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《木の間の秋》1907(明治40)年 東京国立近代美術館蔵(通期展示)
《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵 コピーライトThe Trustees of the British Museum(通期展示)
《魚籃観音》1928(昭和3)年 西中山 妙福寺蔵(通期展示)
《毘沙門天 弁財天》1911(明治44)年 徳島県立近代美術館蔵(後期展示①)
《獅子図屏風》1918(大正7)年 水野美術館蔵(後期展示①)
《大原御幸》(部分)1908(明治41)年 東京国立近代美術館(半期で巻替え)
《楓》1925(大正14)年 南湖神社蔵 画像提供:白河市歴史民俗資料館(前期展示)
https://www.momat.go.jp/exhibitions/567
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★参考文献
下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-91272f.html
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第91回新古今歌人P12-16
新古今歌人、悲恋の花、式子内親王、西行、美への旅
https://t.co/2TYuF5tpEw
下村観山展、横浜美術館・・・紅葉舞う奥山
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c0d6.html
「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f78257.html
新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅  - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/RxDxsJ0F0P
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
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下村観山展 図録 刊行日:2026年3月17日 発行:日本経済新聞社
目次
「伝統」の発見と行き先、絵画のあり方―観山芸術再考  中村麗子
観山さん、おかえり―生誕地、和歌山から紐解く画家への軌跡  宮本久宣
図版
第1部 画業をたどる――生涯と芸術
第1章 若き日の観山(1873–1902 誕生・上京〜修業時代〜日本美術院への参加)
第2章 西洋を識る(1903–1905 イギリス留学)
第3章 飛躍の時代(1906–1913 帰国〜日本美術院再興前夜)
第4章 画壇の牽引者として(1914–1931 日本美術院再興〜死没)
第2部 制作を紐解く――時代と社会
第1章 何をどう描いたか―不易流行
第2章 なぜこれを描いたか―日本近代と文化的アイデンティティ
第3章 作品の生きる場所、作品がつなぐもの
論考・資料
観山の古画理解―中国絵画を中心に  板倉聖哲
下村観山と能  小林健二
主要作品解説
年譜
文献目録
出品目録
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■下村観山展
会場:東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2026年3月17日(火)〜5月10日(日)

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2026年3月11日 (水)

織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・他家自在天、夢幻のごとくなり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第423回

織田信長、戦わずして勝つ、情報の蒐集、分析、比較、ストラテジー構築。
【桶狭間の戦い】から【本能寺の変】まで22年
永禄3年(1560)、5月1日、2万5千。駿河・遠江・三河の連合軍を率いた今川義元が尾張に侵攻。今川軍は桶狭間のうちの田楽狭間へ移動。梁田政綱の情報による。同日、信長はわずかな兵を率いて清洲を出発、進軍中に丸根砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約2000)、田楽狭間の今川本陣を急襲。見事に大将首をあげる。
5月19日、出陣の朝、信長は愛誦する幸若舞「敦盛」「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか。」を舞い、熱田神宮で必勝祈願、2千5百の兵で出陣。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、稲葉山城、斎藤龍興、攻略までの7年。犬山城攻略、尾張統一】
桶狭間の戦いがあった永禄三年(1560年)。5月19日に今川義元の首を取った織田信長は、その約2週間後の6月3日、勢いに乗じて美濃へ攻め込み。しかし、斎藤家臣団の丸茂兵庫頭や長井衛安(長井甲斐守)たちの軍勢に織田軍は敗れ、柴田勝家が殿(しんがり)を務めながら帰国。美濃斎藤氏の当主は斎藤義龍。義龍は天文二十三年(1554年)、父の斎藤道三から家督を継承。
永禄三年(1560年)6月の美濃侵入で敗れた織田信長は、8月23日に再び侵攻。史料価値の低い『総見記』
父・斎藤道三を死へ追い込んだ弘治二年(1556年)長良川の戦い。道三が義龍の采配を見て「さすがは道三の子」と言った、永禄四年(1561年)5月11日、斎藤義龍が33歳の若さで急死。死因不明。
1563年 小牧山城移転。永禄六年(1563年)、織田信長は清洲城の北、約15kmの位置に小牧山城を築き、本拠地を移転。
【1564年 犬山城の攻略】織田信清の守る犬山城は、木曽川を背後にした難攻不落の城。
織田軍は丹羽長秀が、支城の黒田城と小口城に調略を仕掛け、和田定利と中島豊後守の協力を得ることに成功。永禄七年(1564年)8月、犬山城を落とし、尾張を統一。
美濃では斎藤龍興の統治に大きな綻びが見え始め、1564年2月に本拠地の稲葉山城が竹中半兵衛に乗っ取られる。六人衆の一人であった安藤守就も、竹中半兵衛に加担したことで龍興から離脱。
【1565年、犬山城対岸の鵜沼城(うぬまじょう)と、そのすぐ北にある猿啄城(さるばみじょう)攻略】『信長公記』による。。まず両城を見下ろす伊木山に付城を築いて、鵜沼城下を焼き払うと、そこで初めて秀吉が大沢氏を調略。続いて猿啄城は丹羽長秀が水源を断ち、河尻秀隆も攻め寄せると、耐えきれなくなった多治見修理亮は城を放棄。
【1566年 墨俣一夜城】永禄九年(1566年)9月、豊臣秀吉が「墨俣一夜城」を成功させた。『絵本太閤記』の創作。柴田勝家や佐久間信盛らを貶め、秀吉を持ち上げる。
【1567年 稲葉山城の戦い】永禄十年(1567年)8月、美濃三人衆から信長へ内応。
おそらく豊臣秀吉や丹羽長秀あたりが常に働きかけていたのでしょう。直後の出世状況からすると、やはり秀吉の弁舌や交渉能力が突出。美濃三人衆から話の申し入れがあると、人質を受け取る段取りも無視して、いきなり稲葉山城下へと軍勢を繰り出した。周囲を焼き払い包囲網を構築。重臣である美濃三人衆が織田方に寝返った、斎藤龍興は飛騨川から長島へ逃げ落ちました。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの勝利から、美濃を制する永禄九年(1567年)まで。7年。織田信長が一貫して用いた基本戦略は「調略と機動力」。斎藤方の武将を口説きつつ、兵を繰り出して戦い、雌雄を決するような大戦には発展しない。
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シェイクスピア『ベニスの商人』「金・銀・鉛の3つの箱選び」の原型は何か。パリスの審判、3人の女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女。(叙事詩『キュプリア』)
【『ヴェニスの商人』、美しき相続人、ポーシャ】ヴェニスの若者バサーニオは、親友の商人アントーニオに、ベルモントの富豪の娘ポーシャに求愛しに行く資金援助を求める。全財産を投資中のアントーニオは、高利貸しシャイロックから借金する。ポーシャは亡き父の遺言書により「金・銀・鉛の3つの箱から正しい箱を選ぶ」男を選ばねばならない。モロッコ大公は金の箱を選び、アラゴン大公は銀の箱を選び、バサーニオは鉛の箱を選ぶ。
絶世の美女、孫子と美女百八十人、孔子、ヴェニスの商人、シンデレラ、地中海奇譚・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT
【女神の争い】三女神は最も美しい装いを凝らしてトロイの王子パリスの前に立った。女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女、三美神はそれぞれ与える約束をした。パリスの審判(『キュプリア』)
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
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【親は敵、兄弟は第一の敵】
織田信長、信勝を清洲城にて討つ。武田信玄と父、信虎追放。【伊達政宗毒殺未遂事件】政宗の母・義姫、小次郎を後継に画策。
【教育と文化を愛好する人】と【カネの亡者】の戦い。【カネの亡者】弟性格、教育と文化を無視。人を虐める性格。暴力的。カネの計算だけ。競争心が強い。モリエール『守銭奴』のようにカネの亡者。知ったかぶり、詐欺師、嘘つき「オレのせいではない。証拠はあるのか」思考力なし、マニュアル答弁「マニュアル奴隷」【母は22年間入院】病気の原因は虐め【ゾフィア・ドロテアとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世、ゾフィア・ドロテアの長男=フリードリヒ大王】
斎藤道三の孫、龍興と連動【信長の弟、信勝、謀反】弘治2年稲生の戦い、弘治3年2度目の謀反、清洲城で柴田勝家らに討取られる。
【信長の妹、お市の方。浅井三姉妹、茶々、江、初】1573長政滅亡1582お市の方と柴田勝家、再婚、1583賤ケ岳の戦い、北庄城、秀吉により陥落、自害【茶々、秀吉と結婚】秀頼を産み、大阪城、豊臣政権を支配【秀頼の父は誰か】大野治長、治長の母、茶々の乳母【徳川家康、二条城で秀頼と会見】秀頼は朝青竜のような巨漢、賢明。猿のような小男でない【家康、秀頼滅亡を決意】1598年8月秀吉死去。1600年9月15日関ケ原の戦い
【オシリスとイシス、セト】オシリスは弟セトに殺され王権を奪われた。イシスとセトの妻は、オシリスの遺体を集め、オシリスは冥界の王として復活した。
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
★★★★★
参考文献
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
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【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
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『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日

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2026年3月 5日 (木)

花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第422回

近藤弘明「清夜」(1970山種美術館)を見る。近藤弘明「黄泉の華園」。常寂光浄土に落葉敷きつめて(高浜虚子)を思い出す。
ーー
【常寂光土、地平線に太陽が沈む、花の葬列】
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。
どんな運命があなたを襲ったのか。この世の復讐、愛憎、敗北と曳航、果ての死。曲学阿世、虎の威を借る狐との戦い。親は敵、兄弟は第一の敵、カネの亡者と教育と藝術を愛する者の戦い、木を伐る者と木を育てる者の戦い、あなたを亡き者にするものとの戦い。
どんな運命が襲っても、命ある限り、善を成し遂げ、美を生み、生の証、学問の証、愛の証を残しているか。
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。王の死、美しい王妃の遺体、若き皇子の死。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
*近藤弘明「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
――
*近藤弘明(1924-2015)仏教的世界観に彩られた幻想的絵画。小田原にアトリエを構え、創作活動を行った。小田原市郷土文化館、平成28年度に受贈した作品のうち代表作。
1924年、東京下谷の飛不動正宝院という天台宗三井寺派の寺に生まれる。49年、東京美術学校日本画科を卒業。50年、創造美術第3回展に初入選。54年、新制作協会展で新作家賞受賞。以後、受賞を重ね同協会会員となる。65年、日本国際美術展でブリヂストン美術館賞受賞。71年、第1回山種美術館賞展で優秀賞受賞。74年、創画会の結成に参加。75年、第7回日本芸術大賞受賞「ひとつの神秘的空間を示す画業に対して」。77年、NHKの番組「美をさぐる」に出演。78年、国際交流基金によるヨーロッパ巡回の現代日本画展に加山又造、横山操らと出品。87年、創画会を退会、以降は個展を中心に作品を発表する。『画論 華と祈り』岩波書店2007より
――
嵯峨天皇の花の宴の詩を思い出す。『神泉苑花宴賦落花篇』
【神泉苑花宴賦落花篇】 嵯峨天皇「凌雲集」より
過半青春何所催    和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐    爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出    造化寧假丹青筆
紅英落處鶯亂鳴    紫蕚散時蝶群驚
借問濃香何獨飛    飛來滿坐堪襲衣
春園遙望佳人在    亂雜繁花相映輝
過半の青春 何の催ほす所ぞ 和風数(しばしば)重(しき)りて 百花 開く。
芳菲(ほうひ)歇盡(けつじん)するに駐むるに由し無し 爰(ここ)に文雄を唱(よば)ひて 賞宴に来たる。
見取す 花光 林表に出づることを、造化寧(なに)ぞ仮らん丹靑(たんせい)の筆。
紅英(こうえい)落つる処 鶯(うぐいす)乱れて鳴き、紫萼(しがく)散る時、蝶 群れて驚く。
借問す 濃香 いづこより独り飛ぶかと、飛び来たりて坐に満ち 衣に襲(つ)くことに堪へたり。
春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、
【嵯峨天皇の花の宴、神泉苑にて】花(桜)を賞翫しながら漢詩を作って遊ぶ典雅な催し、その始まりが嵯峨天皇の神泉苑の詩宴。神泉苑の詩宴は『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日の記事「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし文人に命じて詩を賦せしむ」
【大伴家持 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女】春の園の紅色に咲く桃の花、その下に輝いている道に佇む乙女よ。『万葉集』巻十九、4139 大伴家持、天平勝宝二(750)年三月一日(4月15日)の暮(ゆふべ)に、春の苑の桃李の花を眺矚めて作る二首
【春夜桃李園に宴するの序 李白】それ天地は萬物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり 而して浮生は夢の若し 歡を爲すこと幾何ぞ 古人燭を秉りて夜遊ぶ まことに以(ゆえ)
【ツタンカーメンの墓、壁右の裏に空間があり、ネフェルティティ王妃の墓がある】考古学者ニコラス・リーヴスの予想。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
近藤弘明「幻華」「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
https://komeikondo.setenv.net/
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美しく咲く花々は、古くから人々の心を魅了してきました。季節ごとに多彩な表情をみせる花は、四季を象徴するモティーフとして愛され、絵画の主題としても描き継がれています。この春、山種美術館では、花を描いた作品で館内を彩る華やかな展覧会を開催します。
本展では、朝日に輝く山桜を描いた横山大観《春朝》、雨上がりの陽光の中で咲く紫陽花をみずみずしく表した山口蓬春《梅雨晴》、色鮮やかな菊花が目を楽しませる酒井抱一《菊小禽図》、紅梅の咲く古木と白梅の咲く若木とが対照的な速水御舟《紅梅・白梅》など、春夏秋冬それぞれの季節を感じさせる花の名画が一堂に会します。また、田能村直入《百花》では四季の草花 100 種が植物図鑑のように忠実に描かれ、季節を越えた絢爛な世界が広がります。さらに、花と器をとり合わせた中川一政《薔薇》、桃の花咲く桃源郷を題材とした山本梅逸《桃花源図》など、花を描く際のさまざまなアプローチにも注目し、花の絵画の魅力をご紹介します。描かれた花により満開となった美術館で、百花繚乱の世界をどうぞご堪能ください。
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
本展のみどころ
1、
咲き誇る花の絵画で四季の美を堪能 !酒井抱一、横山大観、菱田春草、川端龍子、梅原龍三郎、速水御舟をはじめとした名だたる画家たちによる花の絵画を通じて、季節ごとに咲く多種多様な花々をお楽しみください。酒井抱一 《菊小禽図》 19 世紀[画像請求 No. ⑦]
横山大観 《春朝》 1939 年頃[画像請求 No. ③]
山口蓬春 《梅雨晴》 1966 年[画像請求 No. ⑥]
すべて山種美術館蔵
2.
花の表現に画家の個性が光ります!花の描き方は十人十色!淡い色彩でふっくらと花
びらを表した川端龍子《牡丹》、色鮮やかな四季の花々を画面いっぱいに描く荒木十畝《四季花鳥》など、個性豊かな花の名画をご紹介します。川端龍子《八ツ橋》、福田平八郎《花菖蒲》、速水御舟《椿ノ花》、杉山寧《朝顔図》、梅原龍三郎《薔薇と蜜柑》 ほか
3、
幻想的な花の世界にも注目!古くから花の美しさは人を魅了し、時に清らかさ、神聖さの象徴として扱われます。伝説に登場する花や、画家の思い描く空想上の花など、人々の心に宿る幻想的な花の作品を展示します。山本梅逸 《桃花源図》 1844-48 年頃山種美術館 [画像請求 No. ⑨]
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■展覧会名:【特別展】 花・flower・華 2026 -横山大観の桜・川端龍子の牡丹・速水御舟の梅-
■会 期:2026年2月28日(土)~5月10日(日) ■開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■主 催:山種美術館、朝日新聞社 ■協 賛:エレコム株式会社
■会 場:山種美術館(〒150-0012東京都渋谷区広尾3-12-36) ■問い合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル 電話受付時間:9:00-20:00)
■公 式 H P:https://www.yamatane-museum.jp/
※ 出品作品および展示期間は都合により変更される場合があります。
――
★★★★
【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
★★★★★
『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日

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2026年2月27日 (金)

「歌仙 在原業平と伊勢物語」・・・恋多き青年歌人、運命の平城天皇の第5皇子、在原業平の運命

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第421回

在原業平(825~ 880)は、平城天皇の第5皇子。平城天皇は、嵯峨天皇に譲位するが、平城上皇の乱を起こす。平城上皇による国家反逆罪である。運命の人、在原業平の冒険。
【平城上皇の乱】譲位した平城上皇が太政官人半ばを率いて平城旧京に遷り、寵妃・藤原薬子とその兄仲成に擁せられ朝政に干渉した。天皇は巨勢野足・藤原冬嗣を蔵人頭に補するなどによって対抗。弘仁元年(810)九月、上皇の平城遷都の命を機として坂上田村麻呂以下の兵を派遣、上皇方を制圧した。上皇は入道、薬子は自殺、仲成は射殺、皇太子高丘親王は廃され、阿保親王・藤原真夏らは左遷。高丘親王は空海によって僧となり天竺へと旅立つ。澁澤龍彦『高丘親王航海記』。
【平城上皇の乱810、弘仁・貞観の治、文化の華】弘仁・天長・承和の約三十年間、嵯峨天皇(上皇)の権威と指導のもとに太平が続き、空海・小野岑守・同篁・良岑安世らの人材が輩出。【平安時代600年の平和の基礎は嵯峨天皇により築かれた】

*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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■展示作品の一部
重要文化財 三十六歌仙図額 在原業平像  1面 岩佐又兵衛筆 江戸時代・寛永17年(1640) 仙波東照宮蔵 (埼玉県立歴史と民俗の博物館寄託)⋆
重要文化財 蔦の細道図屏風 深江芦舟筆 6曲1隻 江戸時代・18世紀
 東京国立博物館蔵(Image:TNM Image Archives)[展示期間:2/21 ~ 3/7]
伊勢物語図色紙 第82段1「渚の院の桜」 伝俵屋宗達筆 1幅 江戸時代・17世紀 個人蔵

【岩佐又兵衛(1578-1650)は、織田信長に謀反した戦国武将、有岡城主、荒木村重の末子】母方の姓を名乗り、数奇な運命をたどり絵師として活躍した。重要文化財「弄玉仙図」、桐木のもとで簫をふく弄玉は妖艶である。又兵衛の母の面影である。母、荒木村重の妻は、有岡城の戦い(天正7年1579年)で敗れ信長軍に処刑された。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」『信長公記』。

⋆岩佐又兵衛(1578-1650)「山中常盤物語絵巻」は、奥州へ下った牛若を訪ねて、都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、牛若がその仇を討つ物語、これには岩佐又兵衛の体験が滲んでいる。
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
https://bit.ly/3sfpb35
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歌仙在原業平と伊勢物語
1,歌仙在原業平
10世紀初頭に成立した最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の仮名序で、「ちかき世にその名きこえたる人」として六人の歌人すなわち六歌仙があげられていますが、業平はそのうちの一人です。その六人とは、在原業平、僧正遍照、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町。ここでは館蔵品で今回初公開の押絵おしえ六歌仙帖が展示されます。
2,伊勢物語の成立
『伊勢物語』は、業平の和歌による歌物語ですが、業平が生きた時代に最も近い『古今和歌集』には、伊勢物語の中でも重要な章段で登場する話が多くあります。ここでは当館で所蔵する『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺抄』などの古い和歌集で業平に関する部分が展示されます。
古今和歌集 上・下 2冊 烏丸光広筆 江戸時代・17世紀 三井記念美術館
3,伊勢物語の展開
近世以降、伊勢物語の受容層を増加させるきっかけとなったのが、いわゆる「嵯峨本」と呼ばれる豪華な版本の存在です。本展で展示される大東急記念文庫所蔵本は、雲母刷の表紙、色替わりの料紙を交えた、写本のような美しい作品です。
菱川師宣が絵を手掛けた『新版伊勢物語頭書抄』など、当代の人気絵師が関与した例や、版本の伊勢物語を文章・書風に至るまで忠実にパロディ化した『仁勢物語』(大東急記念文庫蔵)なども展示されます。
■展示室6 伊勢物語の名所
伊勢物語にゆかりのある名所や、伊勢物語にちなんだ名所が日本の各所にあります。ここでは江戸時代の大工頭中井家に伝わった絵図を関連の写真とともに展示します。このほか各地の名所を写真で紹介します。
展示室7 伊勢物語の意匠化と芸能化
1,留守模様とデザイン化
留守模様るすもようとは、登場人物を描かず、その物語を象徴するモチーフや、和歌や詩の一部の文字を散らして暗示する表現方法です。色絵竜田川図向付は、尾形乾山の作で紅葉と流水を大胆にデザインした色絵陶磁器です。伊勢物語からの発想とすれば、第106段「龍田川」の留守模様です。
――
プレスリリースより
https://www.mitsui-museum.jp/
平安時代前期に活躍した在原業平(825~ 880)は、天皇の孫で和歌に優れた貴公子として知られます。その「歌仙」として、また「恋多き歌人」としての人物像は、彼の和歌にくわえ、『伊勢物語』の主人公に仮託されることで拡散していきました。
2025年は、業平の生誕1200年にあたります。これにちなみ、現在でも人気が高い業平と『伊勢物語』を題材に生み出された絵画・工芸・茶道具等の作品を集め、そのイメージの広がりの豊かさと、造形の魅力を探ります。加えて、和歌の典拠の一つとされる『古今和歌集』や、近世における普及の一端を担った版本・絵入本などの典籍を通じて、『伊勢物語』の成立と普及の過程についても展示いたします。
⿎展示構成
展示構成は以下のように展示室ごとのテーマで展示いたします。
展示室1:ダイジェスト伊勢物語
展示室2:伊賀耳付花入 銘業平
展示室3:如庵 「能の業平」
 展示室4:絵画化された伊勢物語
 展示室5:歌仙在原業平と伊勢物語
  1,歌仙在原業平  2,伊勢物語の成立  3,伊勢物語の展開
 展示室6:伊勢物語の名所
 展示室7:伊勢物語の意匠化と芸能化
  1,留守模様とデザイン化  2,伊勢物語の芸能化
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■展示室1 ダイジェスト伊勢物語
全125段からなる伊勢物語の中から一般的にもよく知られた章段を15選び、各章段ごとに絵巻・色紙・かるた・合貝あわせがい・茶道具などで具象化された伊勢物語の世界が紹介されます。
重要文化財 三十六歌仙図額 在原業平像  1面 岩佐又兵衛筆 江戸時代・寛永17年(1640) 仙波東照宮蔵 (埼玉県立歴史と民俗の博物館寄託)
重要文化財 伊勢物語絵巻 第4段「西の対」部分 1巻 鎌倉時代・13 ~ 14世紀 和泉市久保惣記念美術館蔵[展示期間:2/21 ~ 3/15]
伊勢物語芥川・武蔵野の図扇面 1面 江戸時代・17世紀 和泉市久保惣記念美術館蔵
展示室2 伊賀耳付花入 銘業平
この花入は、『大正名器鑑』編纂の折に、関東にあった伊賀花入の名作5点が集められ「東あずま五人男」と呼ばれたうちの一つです。益田家から永坂町三井家八代三井高泰(号泰山)に伝わり、その後室町三井家十二代三井高大に譲られて、「業平」と銘が付けられました。
全体に変形(デフォルメ)が強く、無造作な耳が付き、自然釉が織りなす景色は、古伊賀花入の特徴で、千利休の弟子七哲の一人にあげられる古田織部(1544ー1615)の好みが反映されているとされます。利休的な規格を破った「破格の美」といわれ、利休亡きあとの茶の湯界をリードしました。
伊賀耳付花入 銘業平 1口 桃山時代・16 ~ 17世紀 三井記念美術館蔵
■展示室3 如庵 「能の業平」
如庵写しの茶室ケースでは、床に浮田一蕙うきたいっけい筆の武蔵野図を掛け、その前に重要文化財の能面中将(金剛頼勝作)を展示し、その傍らに能道具の冠り物(初冠ういこうぶり)と、折り畳んだ紫地業平菱模様長絹むらさきじなりひらびしもようちょうけんを展示します。
■展示室4 絵画化された伊勢物語
伊勢絵いせえ、すなわち伊勢物語を描いた絵の歴史は古く、かの『源氏物語』「絵合えあわせ」の帖にも登場することが知られています。ただし、それら平安時代のものは既に失われたとみられ、今日に伝存する作品はいずれも、鎌倉時代以降のものです。本章では中世の貴重な作品から、宗達そうたつに連なる尾形光琳おがたこうりんら、琳派の画家による美麗な伊勢絵に至るまで、様々な作品が紹介されます。
伊勢物語図色紙 第69段「君や来し」 1枚 南北朝~室町時代・ 14 ~ 15世紀  香雪美術館蔵 [展示期間:3/17 ~ 4/5]
重要文化財 蔦の細道図屏風 深江芦舟筆 6曲1隻 江戸時代・18世紀
 東京国立博物館蔵(Image:TNM Image Archives)[展示期間:2/21 ~ 3/7]
伊勢物語図色紙 第82段1「渚の院の桜」 伝俵屋宗達筆 1幅 江戸時代・17世紀 個人蔵
このほか、いわゆる「宗達色紙」の伊勢絵や、尾形光琳の「業平東下り図」 (五島美術館蔵) [展示期間:2/21~3/15]、また酒井抱一、鈴木其一、中村芳中といった宗達・光琳の画風に私淑した画家の作品などが展示されます。
■展示室5 
また、江戸時代における着物のデザイン集ともいえる雛形本ひながたぼんですが、当館には約80冊余りの雛形本があり、今回そのなかから伊勢物語に関するデザインのあるものが12冊初公開されます。
色絵竜田川図向付 5客 尾形乾山作 江戸時代・18世紀 大和文華館蔵
2,伊勢物語の芸能化
伊勢物語は芸能の世界でも採り上げられています。中将(鼻まがり)(図22)、小面こおもて(花の小面)、孫次郎まごじろう(ヲモカゲ)(図23)の名物面3面のほか、伊勢物語に関連する能装束、謡本、能絵かるたなど、能の世界での関係作品が展示されます。
――
参考文献
「歌仙 在原業平と伊勢物語」・・・恋多き青年歌人、運命の平城天皇の第5皇子、在原業平の運命
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/02/post-21a6c8.html
【城上皇の乱、810年】
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-075dfa.html
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
https://bit.ly/3sfpb35
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「開館20周年特別展 生誕1200年 歌仙 在原業平と伊勢物語」三井記念美術館、2月21日~4月5日

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2026年2月24日 (火)

トワイライト、新版画 ―小林清親から川瀬巴水まで・・・黄昏と闇の陰影、光線画、清親、井上安治、巴水、沈みゆく世界

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第420回

最後の浮世絵師の一人、小林清親、黄昏や闇の陰影を描く「光線画」で席巻した、小林清親(1847-1915)の情趣は井上安治(1864-1889、26歳で死す)「東京真画名所図」に受け継がれた。開化期の物質文明の物質主義を嫌い、黄昏時の闇、夜の闇を好み、沈みゆく世界を愛した。
明治末に浮世絵復興を目指した渡辺省三郎の新版画の風景版画、吉田博「東京拾二題」、伊藤深水「近江八景」、川瀬巴水「東京十二題」に引き継がれた。浮世絵と写真の影響関係もあり、ベアトと絵師の影響を検証する。伊藤深水は、鏑木清方に、美人画を描くよう導かれる。
ボストン美術館日本美術コレクション、スミソニアン国立アジア美術館、最も日本美術コレクションを所有するのはどこか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
プレスリリース
最後の浮世絵師のひとりと呼ばれる小林清親が1876(明治9)年に開始した『東京名所図』は、明治期の風景版画へ大きな変革をもたらした。黄昏どきの表情や闇にきらめく光の様相を描いた作品群は「光線画」と呼ばれ、深い陰影により江戸の情緒まで捉えている。このような視点は、失われゆく江戸の面影を惜しむ人々の感傷や、それらを記録しようとする写真の意欲とも重なっており、同時代の浮世絵師たちが文明開化により変貌していく都市を、鮮やかな色彩によって楽天的に捉えた開化絵とは一線を画するものであった。明治末期に浮世絵の復興を目指した新版画は、その技術ばかりでなく清親らが画面に留めようとした情趣を引き継いで、新しい日本の風景を発見していった。清親から吉田博・川瀬巴水らに至る風景版画の流れを、スミソニアン国立アジア美術館のミュラー・コレクションによって辿る。
https://mimt.jp/
https://mimt.jp/ex_sp/shin-hanga/
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■展示作品の一部
小林 清親《東京新大橋雨中図》明治9(1876)年 スミソニアン国立アジア美術館 National Museum of Asian Art, Smithsonian Institution, Robert O.Muller Collection
井上 安治《銀座商店夜景》明治15(1882)年 スミソニアン国立アジア美術館 
井上 安治《東京真画名所図 鹿鳴館》明治14-明治22(1881-1889)年 スミソニアン国立アジア美術館
川瀬 巴水《東京十二題 深川上の橋》大正9(1920)年 スミソニアン国立アジア美術館 版元:渡邊木版美術画舗
川瀬巴水《春之雪(京之清水)》1932年(昭和7) スミソニアン国立アジア美術館蔵
川瀬 巴水《東京十二題 五月雨ふる山王》大正8(1919)年 スミソニアン国立アジア美術館  版元:渡邊木版美術画舗
作者不詳《亀戸の藤》明治23(1890年)年頃 スミソニアン国立アジア美術館 
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参考文献
トワイライト、新版画 ―小林清親から川瀬巴水まで・・・黄昏と闇の陰影、光線画、清親、井上安治、巴水、沈みゆく世界
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/02/post-fd73a3.html
没後70年 吉田博展・・・月光の桜、光る海 2021
https://bit.ly/2L3sYAL
――
★★★★★
「トワイライト、新版画―小林清親から川瀬巴水まで」展、三菱一号館美術館
2026年2月19日(木)~5月24日(日) 
三菱一号館美術館、千代田区丸の内2-6-2
https://mimt.jp/
観覧料金 当日一般2,300円ほか 
休館日 月曜日(祝日・振休は開館)
※開館記念日の4月6日、トークフリーデー[2月23日、3月30日、4月27日]、5月18日は開館

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2026年2月21日 (土)

モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ・・・ル・アーヴルからの旅立ち

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第419回
クロード・モネ —、ル・アーヴルからの旅立ち、パリ、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、終焉の地。

クロード・モネ(1840–1926)は、86年の生涯にわたって旅を続けた。【セーヌ川の旅】ル・アーヴルからの旅立ち、パリ、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニーの庭へ。『アルジャントゥイユのレガッタ』1872。『睡蓮の池、緑のハーモニー』1899.ル・アーヴルで、風景画家ウジェーヌ・ヴ―ダンと出会い、海と空を描くことを学んだ。34歳で友人たちと「印象派展」と後に呼ばれる会を作った。モネ『印象、日の出』1872マルモッタン美術館。
【海辺の旅】エトルタ、『かささぎ』1868-69、ベリール島、『嵐、ベリールの海岸』1886。【ヨーロッパの旅】『オランダのチューリップ畑』1886、『ルーアン大聖堂、扉口とサン・ロマン塔、陽光』1893、『ウォータールー橋、ロンドン』1902『ロンドン国会議事堂』1904、『黄昏、ヴェネツィア』1908、モーパッサン「(モネは)画家というより狩人」。至る所へ旅して主題を探した。
クロード・モネ(1840–1926)86年の旅で求めたものは何か。亡き妻カミーユとジャンの失われた愛、絵画の革命家マネとの友情だろうか。【失われた愛】を求めて【ジヴェルニーの庭】に43年間、愛を注いだ。最悪の人カミーユ。
クロード・モネ『散歩、日傘をさす女』1875年。1875年、モネが34歳の時に描いた。描かれているのはモネの最初の妻カミーユとその長男ジャン。ジャンは当時5歳。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【ジヴェルニーの庭】1879年、カミーユ32歳で死す。1883年春、42歳のモネ、フランス北部ノルマンディー地方セーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。43歳から、1926年86歳で死ぬまで、43年間、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネの謎】【モネ1840-1926】1884年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。『種まく人』『アルルの跳ね橋』『夜のカフェテラス』『ひまわり』『収穫』『夕日を背に種まく人』1888アルル、『星月夜』『糸杉』サンレミ1889、『夜のプロヴァンスの糸杉と田舎道』『烏の群れ飛ぶ麦畑』オーヴェール=シュル=オワーズ1890。
【モネの謎 カミーユ】クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。1879年、カミーユは32歳で死去。モネ《死の床のカミーユ》1879年 オルセー美術館蔵。最悪の人カミーユ、その人柄を知ることができないのは何故か。
『クロード・モネ —風景への問いかけ』』図録、p122。『印象、日の出」1872、「散歩、日傘」1879、すべてカミーユの生きている時代である。
【マネとモネ】【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』、モネ「草上の昼食」1865-66、により、改題。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ジョルジョーネ「テンペスト」「草上の合奏」の影響がある。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年モデルのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
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プレスリリースより
印象派の巨匠クロード・モネ(1840–1926)は、自然光の移ろいに魅せられ、その美しさをカンヴァスにとどめようと生涯をかけて探求しました。
オルセー美術館がモネの没後100年という国際的な記念の年の幕開けを飾る展覧会と位置づける本展では、ル・アーヴル、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニーなど、モネの創作を語る上で重要な場所と時代から、その画業の発展を丹念にたどります。
また、同時代の絵画や写真、浮世絵、アール・ヌーヴォーの工芸作品などの表現との関わりから、モネの創作の背景や動機を読み解き、現代の映像作家アンジュ・レッチアによるモネへのオマージュとして制作された没入型の映像作品も展示します。様々なジャンルの視覚表現を交錯させることで、モネの創作活動に新たな光を当てる、全く新しいモネの展覧会です。
モネの作品41点を含む、オルセー美術館所蔵の約90点に、国内の美術館や個人所蔵作品を加えた合計約140点で、風景画家としてのモネの魅力に迫ります。
近代化が進み、風景が大きく変わる時代に生きたモネは、変わりゆく風景とどう向き合い、それをどう作品に表現したのでしょうか。自然環境が変動する今、モネのまなざしを通して「自然とどのように向き合うのか」という普遍的な問いを、現代を生きる私たちに投げかけます。
1. モネの画業を年代順に追い、風景画をどう革新したかに迫る
モネの画業を年代順に追い、風景画をどう革新したかに迫るクロード・モネはその生涯を通じてさまざまな場所を訪れ、さまざまな方法で制作を行っています。モネの画業を年代順に追い、晩年の「睡蓮」の連作へと繋がっていくテーマや技法を順を追って提示し、モネの風景画の革新性に迫ります。
2. 同時代の画家たちの絵画や写真、浮世絵、アール・ヌーヴォーの美術工芸など、様々なジャンルの視覚表現と交錯させる、前例のない全く新しいモネの展覧会
モネの風景画制作は、穏やかな情景や、時に雪、風、雨といった猛威を振るう自然に向き合い、それをありのままに画布に留めた、と説明されがちです。しかしモネの風景画は、実は画家のたゆまざる探求による幅広い視覚的・芸術的教養から育まれたものだったのです。自然との対時を起点としながらも、モネは過去の、あるいは同時代の画家たちの影響に留まらず、写真や浮世絵など新しい表現にも注目し、そうした変化の中で画家としての自分の立ち位置を明確にしたのです。
3. オルセー美術館が誇るモネ・コレクションから選りすぐりの作品が来日
オルセー美術館が所蔵するモネの絵画作品は73点。世界で最も重要かつ網羅的なコレクションのひとつです。これはモネの画家仲間ギュスターヴ・カイユボットをはじめ、多くの人たちの寄贈により形成されたもので、このコレクションを通じて、印象派を一人で要約しているかのようなモネの画業を辿ることができるのです。今回はその中から日本初公開作品を含む選りすぐりの41点が来日します。
https://www.artpr.jp/artizon/monet2026
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★展示作品の一部
クロード・モネ《戸外の人物習作-日傘を持つ右向きの女》1886年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée d’Orsay) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF
【日本初公開】クロード・モネ《トルーヴィル、ロシュ・ノワールのホテル》1870年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《かささぎ》1868-69年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《パリ、モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日》1878年、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《死の床のカミーユ》1879年 オルセー美術館蔵
クロード・モネ《アルジャントゥイユのレガッタ》1872年頃、オルセー美術館蔵
【日本初公開】クロード・モネ《昼食》1873年頃、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《サン=ラザール駅》 1877年、油彩・カンヴァス 、オルセー美術館蔵F
クロード・モネ《ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光》1904年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《ジヴェルニーのモネの庭》1900年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
【日本初公開】ピーター・ヘンリー・エマーソン《睡蓮の採取》1886年、プラチナ・プリント、ガラス乾板より、オルセー美術館蔵
クロード・モネ《ノルウェー型の舟で》1887年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵 
クロード・モネ《睡蓮の池》1907年、油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館蔵
クロード・モネ《睡蓮の池、緑のハーモニー》1899年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵
エミール・ガレ《静淵》1889-90年、多層吹きガラス、オルセー美術館蔵
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参考文献
モネ没後100年 「クロード・モネ —風景への問いかけ」・・・ル・アーヴルからの旅立ち
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/02/post-8cc859.html
『クロード・モネ —風景への問いかけ』』図録、アーティゾン美術館、2026。p122。
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」図録、国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち2023
https://bit.ly/3ZkZsX8
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
国立新美術館で「オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由―」国立新美術館、2014年7月9日(水)~10月20日(月)モネの『草上の昼食』が日本初公開! 「印象派の殿堂」オルセー美術館から珠玉の絵画84点が来日。
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★モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ、アーティゾン美術館
2026年2月7日[土] - 5月24日[日]
https://www.artizon.museum/exhibition/detail/47

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