2023年11月26日 (日)

金剛界、大日如来・・・東寺講堂、円城寺、光得寺、彼方へ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第351回
運慶は、大日如来の原形を求めて、東寺講堂から円城寺、彼方へと旅した。
運慶作、大日如来坐像、円城寺、光得寺、樺崎寺
円城寺《大日如来坐像》、運慶作、平安時代・安元2年(1176)、円成寺蔵
光得寺《大日如来坐像》、鑁阿寺の奥の院として機能した樺崎寺の由来を伝える『鑁阿寺樺崎縁起幷仏事次第』
樺崎寺《大日如来坐像》12世紀 真如苑真澄寺蔵 鎌倉時代 建久4(1193)年か 運慶作と推定される金剛界大日如来像。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【東寺、講堂、立体曼荼羅、21体】五智如来、大日、宝生、阿弥陀、不空成就、阿閦。五菩薩、金剛波羅密、金剛宝、金剛法、金剛業、金剛薩埵。五大明王、不動明王、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉。四天王、持国天、増長天、広目天、多聞天。二天、梵天、帝釈天。東寺講堂、承和6 (839)
立体曼荼羅【五智如来の化身、忿怒身、五大明王】不動明王(中央)、降三世明王(東)・軍荼利明王(南)・大威徳明王(西)・金剛夜叉明王(北)。忿怒の形相を表わす。金剛界五仏(大日、阿閦、宝生、無量寿、不空成就)の教令輪身、忿怒身。密教伝来9世紀、東寺講堂の承和6 (839)
【金剛界曼荼羅の基本となる成身会】金剛界五仏、十六大菩薩、四波羅蜜菩薩、内外の四供養菩薩、四摂菩薩の以上37尊より構成され、これを四大神と賢劫千仏と二十天が囲む。(智拳印)一仏のみで表す他は、中心となる成身会
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子に放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の諸行無常と慈悲を教える【空海の苦悩】空海が大学寮明経科退学、官僚の立身出世を辞めた理由。仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えであり、儒教は学問によって立身出世と子孫繁栄を成就する吉祥を祈願する教え。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【三身説trikāya】が、瑜伽行派の弥勒、無著、世親らの論師たちにより成立した。三身trikāyaとは(1)法身(dharma-kāya)、(2)報身(sambhoga-kāya) 、(3)応身(化身、nirmāṇa-kaya)の3種、あるいは(1)自性身(svabhāva-kāya) 、(2)受用身(sambhoga-kāya),(3)変化身(nirmāṇa-kāya)の3種をいう。これら三つは論師あるいは宗派によって微妙に解釈を異にする。
【理念を追求する精神】邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孟子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「運慶」 東京国立博物館・・・魂の深淵
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
帝釈天騎象像、七頭の獅子に坐る大日如来・・・守護精霊は降臨する
https://bit.ly/34JOIb2 
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
金剛界、大日如来・・・東寺講堂、円城寺、光得寺、彼方へ
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運慶作 3体の大日如来像がつなぐ、縁 山本勉
運慶は平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍し、躍動感あるリアルな肉体と質感の表現を極めた仏師として、日本でもっともよく知られる。現在、日本で確認される運慶作の(あるいはその可能性が高い)仏像は31体あり、うち1体が半蔵門ミュージアム所蔵の重要文化財《大日如来坐像》だ。
《大日如来坐像》12世紀 真如苑真澄寺蔵 鎌倉時代 建久4(1193)年か 運慶作と推定される金剛界大日如来像
《大日如来坐像》は実は2003年に存在が明らかとなり、当時、個人が所蔵していた像を初調査したのが山本勉氏である。「像の写真を初めて見たのが2003年7月です。所蔵者から送られてきた写真2枚には、普通の日本間の襖の前に像が置かれて写っていました。私がそれ以前に調べて運慶作だと発表した栃木県足利市・光得寺(こうとくじ)の《大日如来坐像》がありますが、襖のおかげでその倍ぐらいの大きさだと分かった。足利の像にそっくりなものが何であるんだ、とびっくりしたのです」
光得寺《大日如来坐像》は山本氏が調査し、1988年に作者を運慶として発表した厨子入りの高さ31.3cmの像。足利市のある学生からの問い合わせで調査を開始したものだった。それは同市鑁阿寺(ばんなじ)の奥の院として機能した樺崎寺(かばさきでら)の由来を伝える『鑁阿寺樺崎縁起幷仏事次第(ばんなじかばさきえんぎならびにぶつじしだい)』により足利義兼(あしかがよしかね / ?~1199)発願の像だと裏付けられたが、縁起には義兼発願のもうひとつの大日如来像の存在が記されていた。「縁起には樺崎の寺の下御堂(しものみどう)に三尺皆金色(さんじゃくかいこんじき)の金剛界大日如来坐像があり、厨子に建久四(1193)年の願文(がんもん)があると書いてありました。その時は、像の実在を知りません。それが15年経って私の前に現れたのです」
一般に木造坐像では本体を軽くするために中をくり抜くので、像の下から頭の中までを覗くことができる。一方、山本氏の前に現れた大日如来像は底が密閉されていた。「上げ底式内刳り(あげぞこしきうちぐり)」と呼ばれるこの造りは運慶が考案したもので、光得寺の大日如来像とも共通する。「作風や構造技法から建久四年のものと考えました。さらにⅩ線を撮ると、光得寺の像の前段階の特徴を示していた。私は学生時代に運慶が初めて制作した奈良・円成寺(えんじょうじ)の大日如来像を見て、運慶とその仏像について学ぼうと思いました。嘘のような話ですが、私は人生で2回、3回と運慶、その大日如来像との出会いがあったのです」
《大日如来坐像》と同じ「祈りの空間」に並ぶ《不動明王坐像》平安時代 12世紀 真如苑真澄寺蔵
半蔵門ミュージアム 《大日如来坐像》の意義と価値
山本氏は運慶の魅力を次のように語る。「運慶は写実的に人体を捉え、写実的に捉えたその人体を非常に美しいものに高めました。さらに写実的な人体が祈りの対象になるように制作しています。非常に優れた宗教芸術家としての力をもった仏師です」
例えば、山本氏が最初に惹かれた円成寺の大日如来像は座った状態で足の裏が見える。それは氏が日本一美しい足裏と称えるものだ。「人間が座ると当然、足の裏には肉付き、ふくらみがあって、指も裏が丸くふくらんでいます。運慶は人間の体の各部が動きによりどんな風に変化するのか、変化した身体の肉付き、各部分がどのような状態で一番美しく見えるかをとことん理解した彫刻家です。運慶の記憶は今風に言えば動画的な記憶でした。自分の頭の中で自由に人体を動かすことができ、一番美しい瞬間を切り取って再現できたのです」
地下展示室 常設展示「祈りの世界」
半蔵門ミュージアム蔵の《大日如来坐像》も写真を初めて見たとき、足裏が見えるカットがあったがゆえに驚いたそうだ。ぷっくりとしたその足裏も美しい。加えて、「円成寺の坐像では衣文線(えもんせん※)は足の形と平行に走るのですが、光得寺と当館の像だけは下から立ち上がった縦の衣文線です。これは絵画の表現では一般的であるものの、彫刻では採用されなかった。運慶はその衣文線を使い、膝の丸みを巧みに表現しています。衣の中の肉体を表現するために縦の衣文線を借用したのです。同時代のほかの仏師はその理由がわかっておらず、真似をしている物もほとんどありません」
※衣のひだが描く線
《大日如来坐像》が胸の前で左手の人差し指を立て、その指を右手で包み込む形は智拳印(ちけんいん)と呼ばれ、金剛界大日如来特有の印相だ。平安時代後期、仏像は立体ながらなるべく立体に見えないよう、腹の前で手を組む平面的なスタイルが流行った。運慶はそれを否定するように、この時期、手を上げる姿を選んでいるという。「運慶は胸の前に手を上げる人体をテーマにしていた可能性があります。手を上げることで、像周辺に広い空間が生まれますから」
360度ぐるりと鑑賞できる《大日如来坐像》。広がりある空間構成も体感したい
山本氏と不思議な縁で結ばれた三体の大日如来像。「同じ尊格で制作時期が異なる三体が運慶作であるとすると、彼の若い時代から30代、40代と造形の変化がよくわかります。また、幸い光得寺と当館の像は一度も解体修理を受けておらず、像の中身がすべて残っています。内刳りをし、底板を作って真ん中に塔を立て、その塔に結びつくように心月輪(しんがちりん)という仏像の魂を納める。上げ底式内刳りの目的はこの空間をつくるためだとX線写真からわかりました。この発見は貴重です。今、我々がX線で見ている映像が運慶の頭の中にはあったのでしょう。像は運慶にとどまらず、日本の仏像の歴史にとって非常に大きな内容を含んでいる造形なのです」
《大日如来坐像》 像内納入品原寸模型
協力:文化庁(ボアスコープ撮影)、東京国立博物館(X線断層撮影)
運慶は神奈川県浄楽寺の1189年の坐像で、初めて上げ底式内刳りの技法を採用。研究者の一部には古代の彫刻を真似て頑丈なつくりを施したという意見もあったが、山本氏の恩師で半蔵門ミュージアム初代館長、水野敬三郎氏は早い時期から納入品のためであると指摘していた。「科学的調査に基づき作成した像内納入品の原寸模型を2023年11月22日から公開いたします。ぜひともじっくりご覧になっていただきたいと思います」
半蔵門ミュージアム
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半蔵門ミュージアムは、2020年10月3日(土)から2021年2月28日(日)まで、特集展示『ガンダーラの仏像と仏伝浮彫』を開催いたします。本特集展示では、当館収蔵のガンダーラ美術の中から17点を、「仏像と舎利容器」、「仏伝浮彫」の2部構成のテーマで紹介。新収蔵の仏伝浮彫「誕生」、「四門出遊」、「愛馬別離」の3点を初公開いたします。
今回の特集展示『ガンダーラの仏像と仏伝浮彫』では、当館が常設展示しているガンダーラ美術8点に、初公開、新収蔵品などを加えた17点を紹介いたします。展示の前半部を「仏像と舎利容器」、後半部を「仏伝浮彫」のテーマで構成し、2~5世紀頃に作られた仏像、仏頭、舎利容器、仏伝浮彫をご覧いただきます。展示の前半部「仏像と舎利容器」では、様々な形で残されたガンダーラ美術を紹介します。
説法印(転法輪印)を結んで結跏趺坐する釈尊の姿が刻まれた「説法印仏坐像」(片岩、2~3世紀)や、釈尊の舎利(遺骨)の代替品を納め、信仰の対象とされていた「ストゥーパ型舎利容器」(片岩、2~3世紀)など、2~5世紀頃に作られた仏像や仏頭、舎利容器など7点を展示します。後半部の「仏伝浮彫」は、釈尊の前世から生誕、涅槃に至るまでの一代記を10点の仏伝浮彫(レリーフ)で辿る展示構成になっています。
【「仏伝浮彫」(片岩、2~3世紀)】釈尊前世の物語をあらわした「燃燈仏授記」(片岩、2~3世紀)、摩耶夫人の右脇腹から釈尊が生まれ「誕生」、出家を決意した「出城」(片岩、2~3世紀)、ブッダガヤの菩提樹のもとで魔王マーラの妨害に動じることなく悟る「降魔成道」(2~3世紀)、神々の求めに応じて、成道した釈尊がサールナート(鹿野園)で初めて説法を行った「初転法輪」(片岩、2~3世紀)、阿闍世王が跪いて合掌する王の帰依、釈尊入滅の姿が描かれた「王の帰依と涅槃」(片岩、2~3世紀)など、釈尊の生涯を仏伝浮彫でご紹介します。中でも新収蔵品の「誕生」(片岩、2~3世紀)、「四門出遊」(片岩、2~3世紀)、「愛馬別離」(片岩、2~3世紀)は初公開となります。
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常設展示 【ガンダーラの仏教美術】 - YouTube

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2023年11月23日 (木)

激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第350回
【徳川の階級社会、瓦解】天保の改革(1841天保12)、安政の大地震(1855安政2年)、開国(1858日米修好通商条約)、(1866)家茂没、徳川慶喜将軍となる【孝明天皇、毒殺】大政奉還(1867徳川慶喜1868鳥羽伏見の戦い)、江戸幕府瓦解、戊辰戦争(1868-69)、明治政府成立。嘉永6年(1853)の黒船来航以降、めまぐるしく時代は変化した。慶応4年(1868)江戸が東京と改称され、年号は明治に改元。廃仏毀釈。1869。
明治維新は、薩長テロリスト下級武士による権力の簒奪であり、正義はない。
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狩野一信(1816~63)は、伝統的な仏画の画題に洋風の陰影法を用いて、強烈な迫力をもつ極彩色の「五百羅漢図」(大本山増上寺)を制作。47歳で没。
歌川国芳(1797~1861)【歌川国芳、夢と冒険とロマンの世界】物語の夢と冒険とロマンの世界。江戸、神田の染物屋、柳屋吉右衛門の子として生まれる。幼少期から絵を学び、12歳の時に描いた絵が幕末の浮世絵界で隆盛を誇る歌川派の初代、歌川豊国の目にとまり15歳で歌川派に入門。武者絵を展開、夢と冒険とロマンの世界を構築。「源為朝弓勢之図」「水滸伝」。63歳で没。
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
《相馬の古内裏》。平将門の乱の後日談で、将門の遺児・滝夜叉姫(たきやしゃひめ)と、藤原道長に仕えた源頼信の家臣・大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)が対決するシーン。
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」 1851
血みどろ絵【歌川国芳の門下、血みどろ絵、歌川芳艶、歌川芳年、落合芳幾】
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【天狗になる人】地位に溺れる、カネに溺れる、一時的な名声に溺れる芸術家、権力の奴隷、カネの亡者【金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通るより難しい。マタイによる福音書19:23-30】【奢れる者久しからず】【自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。マタイによる福音書23章12節】
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【神の代理人、虎の威を借る狐、権威を装う詐欺師】教会の権威復活のために十字軍結成に心血を注いだ知識人法王ピオ2世。過激な改革を説き、民衆の熱狂的な支持を集めるサヴォナローラと対峙したアレッサンドロ6世。教会領再復のため、自ら軍隊を組織し陣頭に立ったジュリオ2世。芸術と豪奢を愛し、法王庁の資産を食いつぶしたメディチ家出身のレオーネ10世。ナチスのユダヤ人虐殺を黙認したローマ教皇ピウス12世。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
狩野一信「五百羅漢図 第二十一・二十二幅」、嘉永7~文久3年(1854~63)、大本山増上寺
狩野一信「五百羅漢図 第四十五・四十六幅、嘉永7~文久3年(1854~63)、大本山増上寺
河鍋暁斎「龍虎図屏風」2曲1隻、明治12-22,1879∸89
小林清親「隅田川夜」明治14、1881
服部雪斎「花鳥」1871、東京国立博物館、
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
《相馬の古内裏》。平将門の乱の後日談で、将門の遺児・滝夜叉姫(たきやしゃひめ)と、藤原道長に仕えた源頼信の家臣・大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)が対決するシーン。
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」 1851
歌川芳艶「両賊深山妖術競之図」、大判錦絵三枚続 万延元年(1860)、千葉市美術館
歌川芳艶「鳥獣合戦」版下絵、19世紀、奈良県立美術館
落合芳幾、仁木直則、本作は血みどろ絵の代表的なシリーズで、生々しい血のりのを表現するため、膠を用いて光沢を出したものも。本図は歌舞伎「伊達競阿国戯場」などに登場する極悪人・仁木直則を描いており、直則の刀や着物の血が鮮烈。
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-8f11b0.html
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第1章 幕末の江戸画壇
19世紀の江戸では、浮世絵をはじめ、狩野派や南蘋派、文人画など多彩な作品が生まれ、まさに百花繚乱の様相。
江戸時代に画壇の覇者として君臨していた狩野派では、単に伝統を墨守するだけではなく、やまと絵や浮世絵、琳派、西洋画法なども取り入れています。その門下からは従来の狩野派とは異なる独創的な作品を描く絵師も現れました。四条派や土佐派などを学んだ後に狩野派へ入門したとされる狩野一信(1816~63)は、伝統的な仏画の画題に洋風の陰影法を用いて、強烈な迫力をもつ極彩色の「五百羅漢図」(大本山増上寺)を制作しています。
また、多種多様な絵画を学び江戸画壇に大きな影響力をもった谷文晁(1763~1840)の一門からは、流派にとらわれず新たな表現へ挑戦した絵師が輩出されました。文晁一門の系譜は明治以降も続き、その表現は近代日本画へも受け継がれています。
19世紀の江戸において二大流派であった狩野派と文晁一門を中心に、数多くの絵師たちが腕を競った幕末の江戸画壇の一端を紹介。
第2章 幕末の洋風画
江戸時代中期には蘭学が盛んになり、司馬江漢(1747~1818)や亜欧堂田善(1748~1822)によって西洋画法を取り入れた洋風画が描かれています。江戸時代後半には、舶載の銅版画や洋書が多く流入し、陰影法や遠近法を用いた様々な洋風画が制作されました。
その後、幕末の江戸で活躍した洋風画家が安田雷洲(?~1859)です。はじめ葛飾北斎(1760~1849)に学んだ雷洲は、緻密な銅版画を得意とし、独特の洋風表現をもつ肉筆画を描きました。
第3章 幕末浮世絵の世界
役者絵や美人画が中心であった浮世絵は、19世紀になると新たなジャンルが発展します。葛飾北斎や歌川広重(1797~1858)の登場により名所絵や花鳥画が流行し、人気を博しました。幕末には武者絵で名をあげた歌川国芳(1797~1861)が、風刺のきいた戯画や、三枚続を活かした斬新な構図などで新機軸を打ち出しています。北斎、広重、国芳といった巨匠からは多くの弟子が輩出され、特に歌川派は幕末浮世絵界の一大勢力となりました。
また、ジャーナリスティックに同時代の世相を写し出す浮世絵は、黒船来航や横浜開港といった幕末の時事的な画題も取り上げています。横浜浮世絵と呼ばれる、開港した横浜の西洋風俗などを主題にした作品が、歌川派の絵師によって多数描かれました。
本章では、歌川国芳や歌川派の絵師たちに注目し、幕末の浮世絵の豊饒な世界を紹介します。
第4章 激動期の絵師
この社会的な転換を区切りとして、かつては明治元年以前と以後の美術を切り離して語ることが通例でしたが、近年では江戸と明治の連続性に重点を置くようになり、幕末明治期の絵師たちの再評価が進んでいます。
本章では、近代歴史画の祖・菊池容斎(1788~1878)や、血みどろ絵で知られる月岡芳年(1839~92)、あらゆる画題に挑み画鬼と称された河鍋暁斎(1831~89)、光線画で一世を風靡した小林清親(1847~1915)といった、江戸の地に生き、東京で活躍した絵師たちを取り上げ、江戸絵画の伝統を引き継ぎながら、新時代の感覚をあわせ持った作品を特集します。
また、文明開化の波が押し寄せ、近代日本の中心となった東京を描いた開化錦絵を展観します。
プレスリリースより
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激動の時代 幕末明治の絵師たち・・・狩野一信、歌川国芳、歌川芳艶、芳年、小林清規
サントリー美術館、2023年10月11日(水)~12月3日(日)

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2023年11月10日 (金)

「やまと絵−受け継がれる王朝の美−」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第349回
金木犀の香りがする森を歩いて、博物館に行く。やまと絵、平安時代12世紀から室町時代15世紀の壮大な歴史。
【やまと絵とは何か】やまと絵は、唐絵に対して12世紀平安時代に始まる。中国の風景を描く唐絵対して、日本の王朝の宮廷を描くやまと絵は、飛鳥、奈良時代には描かれなかった。雪舟『四季花鳥図屏風』(室町時代15世紀)は、日本人によって描かれた中国の風景画であり漢画と呼ばれる。4大絵巻、源氏物語絵巻は、貴族のみならず武家に愛好され展開した。源氏物語絵巻、華麗なる王朝の美は、なぜ貴族と武家を惹きつけたのか。紫式部と源氏物語の始まりに遡ってその源泉を探る。
――
王朝の美の闇にひそむ魔界【源氏物語絵巻、源氏物語作品群】400年にわたって展開した。源氏物語絵巻(平安時代12世紀、徳川美術館)、紫式部日記絵巻断簡(鎌倉殿時代13世紀、東京国立博物館)、源氏物語図扇面張交屏風(室町時代16世紀、浄土寺)。源氏物語絵巻のみならず、紫式部日記絵巻まで、作られ続いているのは驚異である。
「源氏物語図扇面貼交屏風」は、俵屋宗達「扇面貼交屏風」「扇面散し屏風」の先駆形である。扇は折れ目があり使用した形跡がある。
【光源氏の謎】光源氏のモデルは源融(嵯峨天皇の皇子)か藤原道長である。源融(822-895)は天皇の皇子だが、天皇になれなかった美貌の貴公子。源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。藤原道長(966-1028)は中宮彰子の父。紫式部の召人(愛人)。【予言の書『源氏物語』天下人の晩年の精神的没落】光源氏40歳で身分も地位も財産も高みに登りつめるが、個人的な運命は急降下。正妻女三の宮に裏切られ、愛妻紫の上に先立たれる。「高い身分に生まれながら、心の満たされぬ人生」「幻」巻。息子の夕霧に会えず引き籠る。
【紫式部の謎、源氏物語と紫式部と中宮彰子】1001年(長保3)夏に宣孝が死に、1001年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めた。05年(寛弘2)ごろ年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれる。〈紫〉は『源氏物語』の女主人公紫の上にちなみ、〈式部〉は父為時の官職式部丞による。
【六条河原院の謎、なぜ六条御息所は幽霊となるのか】源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。基経は源定省を宇多天皇として即位させる。怒った源融は宇治の棲霞観、六条河原院の別邸に隠棲。宇多上皇の河原院に源融の幽霊が出る『今昔物語集』巻27第二、世阿弥『融』【六条河原院】源融の嫡男・昇に相続され、昇により宇多上皇に献上され、仙洞御所となる。源氏物語の六条御息所、上村松園『焔』1918は『謡曲「葵の上」の六条御息所の幽霊を描いている。【光源氏の栄華と衰亡】光源氏の人生に仮託された源融と藤原道長の運命に王朝の階級制の閉鎖社会のピラミッド上昇の困難と個の苦悩と葛藤を、貴族と武家たちはどう見つめたのだろうか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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国宝「日月四季山水図屏風」金剛寺、室町時代15世紀】やまと絵で描かれた六曲一双(6扇の屏風が2つで1組)の屏風で、四季の山水と日月が描かれ、密教の灌頂の儀式に用いられた。右隻には春から夏への景色に金の太陽、左隻には秋から冬への景色に銀の月を配する。山並みはうねり、躍動感に満ちた絵画。天野山金剛寺
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国宝 神護寺三像。「伝源頼朝像」、「伝平重盛 像」「伝藤原光能」として伝わる鎌倉時代(13世紀)の肖像絵画は、等身大のスケールに圧倒。近寄ると漆黒の装束の黒い文様も見える。日本肖像画の最高峰。
伝源賴朝・平重盛・藤原光能像 (神護寺三像)3点共、作者は藤原隆信と伝わる。隆信は、歌人として有名な藤原定家の異父兄で、画業では似絵(にせえ)を得意とした。
空海は、唐に渡って密教を学び、帰国後は神護寺を本拠に真言密教を広めた。空海のあとの真済によって寺勢は隆盛し、壮大な伽藍が建てられたが、2度の火災で沈滞、荒廃した。
荒廃した神護寺を再建したのは、文覚上人。【文覚は神護寺再興を後白河法皇に強訴】したが、法皇の怒りを買い、伊豆に流罪。同じ伊豆の流人の境遇の頼朝と会見し、平家打倒に決起せよと説得。やがて流罪を解かれ、京に戻った文覚は法皇に神護寺復興を願って許された。平家を倒し幕府を立てた【頼朝の援助もあって、神護寺は復興した】
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国宝「平家納経 薬王菩薩本事品 第二十三」「平家納経 分別功徳品 第十七」「平家納経 平清盛願文」平安時代 長寛2年(1164)厳島神社蔵 
三大装飾経、国宝「平家納経」(平安時代1164年)「久能寺経」「慈光寺経」。
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展示作品の一部
「年中行事絵巻」模本は、展示されるのが1974年の絵巻展(東京国立博物館)以来。
源氏の名場面を四季に再編成して60面揃えた室町時代の「源氏物語図扇面貼交屛風」、国宝「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」など華やかな作品が続々と登場。
「山水屛風」京都国立博物館、「山水屛風」神護寺、国宝「蒔絵筝」春日大社、
国宝「地獄草紙」「餓鬼草紙」、「辟邪絵」「病草紙」重文「百鬼夜行絵巻」
「源氏物語図扇面貼交屛風」室町時代 16世紀 広島・浄土寺(展示期間:10/11~11/5)
国宝「蒔絵箏(本宮御料古神宝類のうち)」奈良・春日大社蔵(11/5まで展示)
神に捧げるために作られた楽器。王朝貴族の美意識が結実した工芸品。蒔絵(まきえ)で表わされた美しい山岳図。
国宝「源氏物語絵巻」12世紀、徳川美術館、「伴大納言絵巻」12世紀、出光美術館蔵)、国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代12~13世紀 高山寺、国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代12世紀 朝護孫子寺、国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻、鎌倉時代13世紀、重文「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀
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【手に入らない愛は、永遠に美しい】実らない恋は永遠に輝いている【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。『「論語」陽貨』【どんなに地位、名誉、職業が高くても、智慧と慈悲がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【千里の馬は常にあれども伯楽は常には非ず】
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術、16世紀から18世紀
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c300.html
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』新潮社
「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-1388ed.html
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日本絵巻史上最高傑作と言われる「四大絵巻」が揃い踏み(10/11~10月22日まで)。

四大絵巻「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」が30年ぶりに集結する。壮観。
神護寺三像「伝源頼朝像」(鎌倉時代13世紀)「伝平重盛像」「伝藤原光能像」、が集結する。横幅1m等身大の大作。仙洞院に「後白河法皇像」「平業房像」とともに5幅掛けられていた。10月24日(火)~11月5日(日)
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国宝53件、総件数270件、絢爛豪華な展覧会。
国宝53件、総件数270件のうち、7割超が国宝・重要文化財、絢爛豪華展な展覧会。
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国宝「源氏物語絵巻」徳川美術館、「伴大納言絵巻」(出光美術館蔵)は10月22日まで
国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代 12~13世紀 高山寺 展示期間:甲巻10/11~10/22 乙巻10/24~11/5 丙巻11/7~11/19 丁巻11/21~12/3
国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代 12世紀 朝護孫子寺 展示期間:飛倉巻10/11~11/5 延喜加持巻11/7~11/19 尼公巻11/21~12/3
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画像
国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻 鎌倉時代13世紀、東京国立博物館、
重要文化財「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀、東京国立博物館
国宝「日月四季山水図屏風」室町時代15世紀、金剛寺
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特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」東京国立博物館、2023年10月11日~12月3日

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2023年11月 4日 (土)

春陽会誕生100年 それぞれの闘い、岡鹿之助、長谷川潔、岸田劉生・・・孤高の藝術家、静謐な空間、時の旅人

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孤高の藝術家、岡鹿之助は何を探求したのか。海の町、古城、窓と花。静謐な空間、黄昏の色調を帯びた建築、郷愁を感じさせる世界。献花は、亡くなった人に捧げられた絵画である。失われた時の旅人。世界の果て、魂の宇宙に、美を実現することを、探求する精神。
長谷川潔の版画は、日夏耿之介『転身の頌』光風館書店大正6年、『黒衣聖母』、を飾った。耽美派詩人の世界、失われた世界への旅。
庭に樫の大樹が枝を広げ、竹林が笹の葉擦れの潮騒、金色の玉虫が庭に落下し、母の愛犬トイプードルが庭を散歩する。朝夕、愛犬が吠える。部屋の南隅にギリシア語『エウリピデス』のページが翻る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岡鹿之助(1889-1978)孤高の藝術家、静謐な空間 89歳で死す。
岡鹿之助、父、劇評家・岡鬼太郎。1919年、東京美術学校入学、岡田三郎助の指導を受け24年卒業、1924年、渡仏、渡仏後、藤田嗣治の指導を受ける。1926年6月から3か月、トレガステルに滞在する。同地で描いた《信号台》1926年、等4点が、1926年サロン・ドートンヌで入選。ブルターニュでの制作は、それまで学んだアカデミックな作風を変え、新しい作風の契機となる。海街で描き魚釣りする。1939年まで15年間パリ滞在【独自の顔料・技法を研究】ボナール・マルケらと交流。39年帰国。1940年、春陽会会員に推挙。1960年,フランスに3年滞在。1969,日本芸術院会員、1972、文化勲章。《段丘》1978年、絶筆、死去。
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長谷川潔(1891-1980)深遠な精神世界 89歳で死す。
長谷川潔(1891-1980)は、1911年,黒田清輝に素描を習い、1912年、本郷洋画研究で岡田三郎助、藤島武二に油絵を習った。岡田三郎助とバーナード・リーチに銅版画の手ほどきを受ける。1912年に版画の制作を始めた。長谷川潔は、1913年、日夏耿之介と西條八十が創刊した『聖杯』に版画を寄稿。日本を去る1918年まで文芸同人雑誌『仮面』の版画家として活動。渡仏して第二次世界大戦が始まるまで創作活動。長谷川は、南仏の風景や神話に登場するヴィーナスのような女性像、机上の静物などを描きながら、独自の表現を確立。《思想の生れる時》 1925年 ドライポイント、《仏訳『竹取物語』挿絵》 1934(1933)年 エングレーヴィング。メゾチント(マニエール・ノワール)という版画の古典技法を研究し、現代版画の技法としてよみがえらせる。【長谷川の転機】第二次世界大戦中、見慣れた一本の樹が不意に人間と同等に見えるようになり「自分の絵は変わった」。日常に潜む神秘を表現する。長谷川は50年代末から60年代末まで、細粒な点刻で下地をつくり、漆黒のなかからモティーフを浮かび上がらせる「メゾチント」による静物画を多数制作した。《コップに挿した枯れた野花》1950年 エングレーヴィング、《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》1969年 メゾチント。オブジェや草花、小鳥など、深遠な精神世界を探求。サロン・ドートンヌやフランス画家・版画家協会に所属してパリ画壇で高く評価され、1935年レジオンドヌール勲章受章、1966年フランス文化勲章受章、1967年勲三等瑞宝章受章を授与された。パリを拠点に活躍した銅版画家。89歳で死す。
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岸田劉生(1891-1929)内なる美、東洋の美 38歳で死す。
「内なる美」岸田劉生は写実を追求した芸術家であるが、写実を通して対象物がもつ「存在の神秘性」を引き出すことを狙って描かれている。「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは『神秘』である」(『劉生画集及芸術観』1920年)
岸田劉生は、対象物をリアルに再現するだけではなく自身の内面から呼び起こされた「内なる美」をその作品に投影している。
写実を極めた岸田劉生は、次第に東洋の美術に惹かれるようになっていきました。岸田劉生は東洋の美術が持つ独特の美を「卑近美」という言葉で表現しています。「東洋の美は、倫理的感銘が欠けているのではない。ただ、その露骨性を避けられているのである。匿くされているのである。東洋のものの渋さがそこにある。東洋のものは、一皮剝ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さ、そういうものがある。」(『純正美術』第2巻第3号、1922年)岸田劉生は、初期肉筆浮世絵や中国の古典絵画に魅力を感じ、東洋美術の独特の美を自らの作品に落とし込むことに成功した。
岸田劉生は1891(明治24)年、東京銀座に岸田家の第9子(4男)として生を受けた。岸田劉生は、楽善堂(らくぜんどう)という大きな薬屋を営んでいた父親の岸田吟香(きしだぎんこう)のもとで、裕福な家庭に育つ。1908年、白馬会洋画研究所に入り、1910、第4回文展入選。2012年、ヒュウザン会結成に参加【第2の誕生】1912(明治44)年、21歳のころに岸田劉生はゴッホやゴーギャンに代表されるポスト印象主義に出会った、「絵の中に自分の内面を表現する」「自分が描きたいように描く」という表現スタイルがあることに気が付き衝撃を受ける。【北方ルネサンス】草土社結成。1913(大正2)年、岸田劉生は結婚し、清貧のうちに代々木に居を移す。この頃、肖像画を描くことに熱中し「岸田の首狩り」「千人斬り」などとも呼ばれた。デューラーやファン・エイクを代表とする「北方ルネサンス」の絵画に出会い、その細密に描きこまれた写実的な作品に引き込まれる。1916(大正5)年の夏、岸田劉生は体調を崩して肺結核と診断を受け、翌年、転地療養を兼ねて神奈川県の鵠沼へ転居、6年半を過ごした。1921(大正10)年より、妻・蓁からのすすめで歌舞伎や文楽を観劇。【東洋美術への傾倒】1923(大正12)年、関東大震災によって家屋が半壊したため、劉生一家は京都へ引っ越し。京都で2年半ほど過ごしたのち、劉生一家は1926(大正15)年に神奈川県の鎌倉町に転居。その2週間後には長男の鶴之助が生まれた。1929(昭和4)年、岸田劉生は南満州鉄道会社の招待で大連に赴き。帰国後、慢性腎炎に胃潰瘍を併発、絶筆の『銀屏風』を描いた20日後に息を引き取った。
岸田劉生の娘麗子は、2018年、5歳から16歳までの間に何度も作品のモデルをつとめた。「麗子像」のなかでも人気があるのが、東洋美術に惹かれ始めた頃に描かれた『麗子微笑(青果持テル)』(1921年)東京国立博物館所蔵。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。《「論語」陽貨》【どんなに地位、名誉、職業が高くても、智慧と慈悲がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【最高権力者が最下愚の国】最上の知者は悪い境遇にあっても戦う。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
【千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず】一日に千里も走ることのできる名馬は常に存在するが、それを見いだす伯楽は常に存在しない。世の中に有能な人はたくさんいるが、その才能を見いだせる人物は少ない。いつの時代でも有能な人材はいるが、才能を見抜く名人はいない。韓愈『雑説』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
岸田劉生《麗子弾絃図》1923年、京都国立近代美術館
岡鹿之助《魚》1939年、横須賀美術館
岡鹿之助《窓》1949年、愛知県美術館
岡鹿之助《測候所》1951年、静岡県立美術館
岡鹿之助《山麓》1957年、京都国立近代美術館
岡鹿之助《段丘》1978年、個人蔵、群馬県立近代美術館寄託
岡鹿之助《群落》1962年、東京国立近代美術館
長谷川潔《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、碧南市藤井達吉現代美術館
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参考文献
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち
https://bit.ly/3ZkZsX8
「岡鹿之助展」ブリヂストン美術館・・・昼餐の対話、海と廃墟と古城
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_e8e2.html
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
長谷川潔 1891-1980展 ― 日常にひそむ神秘 - 町田市立国際版画美術館
https://www.artpr.jp/hanga-museum/hasegawa1891-1980
孤高の画家、岸田劉生の魅力とは。銀座、鈴木美術画廊
春陽会誕生100年 それぞれの闘い、岡鹿之助、長谷川潔、岸田劉生・・・孤高の藝術家、静謐な空間、時の旅人
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-4d7b04.html
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展覧会概要
春陽会は1923年に第1回展が開催された、現在も活発に活動を続ける美術団体です。民間最大の美術団体だった日本美術院の洋画部を脱退した画家たちで構成された創立会員を中心に、新進気鋭の画家たちが加わり新団体「春陽会」を結成しました。
彼らは同じ芸術主義をもつ画家たちの集団であろうとはせず、それぞれの画家たちの個性を尊重する「各人主義」が大事であると考えました。また、春陽会の展覧会には油彩だけではなく、版画、水墨画、さらには新聞挿絵の原画などが形式にとらわれずに出品されました。そして、春陽会では画家たちが互いの作品を批評しながら芸術のために研鑽を積み、次世代育成をも念頭に基盤を固めていったのです。
出品作品のなかに、自らの内面にある風土(土着)的なもの、日本的ないしは東洋的なものを表現しようとする傾向が早くからみられたことは、注目すべき点でしょう。
すでに知名度のある花形の画家たちにより組織され、帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として誕生した春陽会。本展は、その創立から1950年代までの葛藤に満ちた展開を100点以上の作品で辿ろうとするものです。
春陽会創立メンバー
創立会員:足立源一郎、梅原龍三郎、倉田白羊、小杉未醒(放菴)、長谷川昇、森田恒友、山本鼎  創立客員:石井鶴三、今関啓司、岸田劉生、木村荘八、椿貞雄、中川一政、山崎省三、萬鐵五郎
プレスリリース https://www.artpr.jp/tsg/shunyokai100
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春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ、東京ステーションギャラリー、9月16日(土)~11月12日

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2023年11月 1日 (水)

モネ 連作の情景・・・人生の光と影

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第347回
モネが生涯探求したものは何か。
【モネの謎】モネの師はだれか。ウジェーヌ・ブーダン、ピサロ、ルノワール、ジョルジョ・スーラか。モネは1875年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。モネは1900年以後、抽象的風景画を描くようになったのは何故か。モネが生涯探求したものは何か。
【連作】モネには連作シリーズがある。モネが探求したものは何か。〈積みわら〉〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉〈睡蓮〉
【モネ、生涯と作品】カミーユ32歳で死ぬ。モネは86歳で死ぬ。
1840年パリで生まれたモネは、5歳から18歳までフランス北西部のル・アーヴルで過ごす。17歳で風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会ったことが人生の転機となる。画家を志したモネは18歳でパリへ向かう。1865年、画家にとって唯一の登竜門であったサロンで、2点の海景画で初入選。1866年、後に妻となるカミーユをモデルにした《カミーユ(緑衣の女性)》と風景画が入選する。
【1866年、恋人カミーユ・ドンシューを描く。『カミーユ、緑衣の女』1866,サロンに出展、絶賛される。1867年、カミーユ、未婚のままモネとの間に長男を出産、1870年にようやく結婚。】
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは妻子とロンドンへと避難。翌年に休戦すると、オランダ滞在を経てパリに戻る。
【モネは、『印象、日の出』1872を描く】
1874年、モネと仲間たちはサロン落選の経験から新たなグループ展を構想、1874年春、パリで第1回印象派展を開催。
モネは、1870年代から80年代、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れた。「アトリエ舟」で自在に移動し、戸外で制作した。ノルマンディー地方の海岸を旅した。
【クロード・モネ『日傘を差す女、 カミーユとジャン・モネ』1875年。
1875年7月、カミーユは当時不治の病だった結核にかかり、
1879年、カミーユ(1847-79旧姓カミーユ・ドンシュー)は32歳の若さで死ぬ。モネ、39歳。以後、人物画を描くことはまれになった。モネはその後1892年にアリスと再婚。】
【1879年、ヴェトゥイユでカミーユ・モネは32歳の若さで夭折。1914年、モネとカミーユの子ジャンは46歳の若さで亡くなる。モネの血を引く正式な子孫は、カミーユとの間にできた長男ジャンと次男ミシェルの二人】
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1890年代後半からは300点の〈睡蓮〉に取り組む。
1899年からロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描く。
【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳。】
1908年頃から、視覚障害に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。1926年モネ86歳で死す。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《睡蓮の池》1918年頃 油彩、カンヴァス 131.0×197.0cm ハッソ・プラットナー・コレクション © Hasso Plattner Collection
《昼食》1868-69年 油彩、カンヴァス 231.5×151.5cm シュテーデル美術館 © Städel Museum, Frankfurt am Main
《ルーヴル河岸》1867年頃 油彩、カンヴァス 65.1×92.6cm デン・ハーグ美術館 © Kunstmuseum Den Haag – bequest Mr. and Mrs. G.L.F. Philips-van der Willigen, 1942
《ヴェトゥイユの教会》1880年 油彩、カンヴァス 50.5×61.0cm サウサンプトン市立美術館 © Southampton City Art Gallery
《モネのアトリエ舟》1874年 油彩、カンヴァス 50.2×65.5 cm クレラー=ミュラー美術館 © Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands, photo by Rik Klein Gotink
《ヴェンティミーリアの眺め》1884年 油彩、カンヴァス 65.1×91.7cm ケルヴィングローヴ美術館・博物館 © CSG CIC Glasgow Museums Collection. Presented by the Trustees of the Hamilton Bequest, 1943
《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》1883年 油彩、カンヴァス 65.4×81.3cm メトロポリタン美術館 Image copyright ©The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY. Bequest of William Church Osborn, 1951 (51.30.5)
《エトルタのラ・マンヌポルト》1886年 油彩、カンヴァス 81.3×65.4cm メトロポリタン美術館 Image copyright © The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY. Bequest of Lillie P. Bliss, 1931 (31.67.11)
《積みわら、雪の効果》1891年 油彩、カンヴァス 65.0×92.0cm スコットランド・ナショナル・ギャラリー ©National Galleries of Scotland. Bequest of Sir Alexander Maitland 1965
また、1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描いた。
《ウォータールー橋、曇り》1900年 油彩、カンヴァス65.0×100.0cm ヒュー・レイン・ギャラリー Collection & image © Hugh Lane Gallery, Dublin
《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》1904年 油彩、カンヴァス 65.7×101.6cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー © National Gallery of Art, Washington, Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon. 1983.1.27
《ウォータールー橋、ロンドン、日没》1904年 油彩、カンヴァス 65.5×92.7cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー © National Gallery of Art, Washington, Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon. 1983.1.28
《睡蓮》1897-98年頃 油彩、カンヴァス 66.0×104.1cm ロサンゼルス・カウンティ美術館 Los Angeles County Museum of Art, Mrs. Fred Hathaway Bixby Bequest, M.62.8.13 photo © Museum Associates/LACMA
《睡蓮の池》1918年頃 油彩、カンヴァス 131.0×197.0cm ハッソ・プラットナー・コレクション © Hasso Plattner Collection
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参考文献
藝術と運命との戦い、藝術家と運命の女 印象派編
http://bit.ly/2vfh8dP
モネと運命の女、カミーユ
モネは、『印象、日の出』1872を描き、印象派impressionismeの祖と曲解される。
1879年、ヴェトゥイユでカミーユ・モネは32歳の若さで夭折。妻カミーユの死後、富裕な人生を歩む。ジョルジュ・スーラを呪い殺した後、スーラの技法を用いて、画家として成功した。富裕になり贅沢な生活を送った。晩年、若死にしたスーラの呪縛で悩まされたが、富裕な後半生を生きた。グランド・ジャット島の日曜日の午後 (1884-86)(シカゴ美術館)アニエールの水浴 (1883-84)(ロンドン、ナショナルギャラリー)
ハーヨ・デュヒティング『ジョルジュ・スーラ-1859—1891 点に要約された絵画- 』タッシェン・ジャパン2000
パスカル・ボナフー『ゴッホ―燃え上がる色彩』知の再発見双書
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」・・・藝術家と運命の戦い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/cat22457171/index.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとり、クロード・モネ(1840-1926)は、自然の光と色彩に対する並外れた感覚を持ち、柔らかい色使いとあたたかい光の表現を得意とし、自然の息遣いが感じられる作品を数多く残しました。同じ場所やテーマに注目し、異なる天候、異なる時間、異なる季節を通して一瞬の表情や風の動き、時の移り変わりをカンヴァスに写し取った「連作」は、巨匠モネの画業から切り離して語ることはできません。移ろいゆく景色と、その全ての表情を描き留めようとしたモネの時と光に対する探究心が感じられる「連作」は、モネの画家としての芸術的精神を色濃く映し出していると言えるのかもしれません。
1874年に第1回印象派展が開催されてから150年の節目を迎えることを記念し、東京と大阪を会場に国内外のモネの代表作60点以上※が一堂に会す本展では、モネの代名詞として日本でも広く親しまれている〈積みわら〉〈睡蓮〉などをモティーフとした「連作」に焦点を当てながら、時間や光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。また、サロン(官展)を離れ、印象派の旗手として活動を始めるきっかけとなった、日本初公開となる人物画の大作《昼食》を中心に、「印象派以前」の作品もご紹介し、モネの革新的 な表現手法の一つである「連作」に至る過程を追います。展示作品のすべてがモネ作品となる、壮大なモネ芸術の世界をご堪能ください。
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Claude Monet(クロード・モネ)(1840-1926)
印象派を代表する画家。1840年11月14日、パリ9区に生まれる。家族の転居に伴い5歳頃からル・アーヴルで暮らす。18歳の頃、風景画家ウジェーヌ・ブーダンの助言により戸外で風景画を描き始め、パリに出て絵を学ぶようになる。1862年には画塾でルノワールら仲間と出会う。1865年、サロンに初入選し、尊敬するマネに「水のラファエロ」と呼ばれる。その後はサロン落選が続き、経済的に困窮する。普仏戦争を機に妻子を連れてイギリスとオランダに滞在。1874年、第1回印象派展を仲間とともに開催。国内外を旅して各地で風景画を精力的に描く。1883年よりセーヌ川流域のジヴェルニーに定住。1880年代後半から自宅付近の〈積みわら〉を「連作」として描き始め、この頃から旅先での制作も「連作」の兆しを見せる。1891年、デュラン=リュエル画廊で〈積みわら〉の 連作15点を公開。この個展が評判を呼び、フランスを代表する画家として国内外で名声を築く。1899年ロンドンに行く。連作はその後〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉、ロンドンやヴェネツィアの風景、〈睡蓮〉などのテーマに及ぶ。晩年の制作は〈睡蓮〉が大半となり、眼を患いながら最晩年まで描き続けた。1926年12月5日、ジヴェルニーの自宅で86歳にて死去。ライフワークだった〈睡蓮〉の大型装飾壁画はフランス国家に遺贈される。後半生の作品はカンディンスキーや抽象表現主義の画家たちに影響を与え、モネの再評価につながった。「モネはひとつの眼にすぎない。しかし何という眼なのだろう!」というセザンヌの言葉が有名。
プレスリリースより
https://www.artpr.jp/prs/monet2023
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モネ 連作の情景、上野の森美術館
2023年10月20日(金)~2024年1月28日(日)

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2023年10月26日 (木)

「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第346回
速水御舟、東山魁夷、奥村土牛、日本画家の名作には詩情がある。私が、東山魁夷「京洛四季」(新潮社)を購入したのは、1960年代末だった。今、京都には詩情があるだろうか。
ドラマや映画、アニメ、小説、漫画などにゆかりの地を、作者や作品への思い入れを込めながら訪れることを「聖地巡礼」という。「絵画」でいえば、「風景画」に描かれている景勝の地、「歴史画」に描かれている古戦場などが「聖地」になるのだろうか。日本画専門の美術館である山種美術館の今回の特別展は、「日本画」の「聖地」がテーマ。展示作品と、それにゆかりの土地の情報を並べ、美術館にいながら「聖地巡礼」の旅を辿る。
【速水御舟 『名樹散椿』1929】御舟が描いた五色八重散椿は、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉により寺に寄進されたという逸話の名木。花の首から落ちる椿を、武士たちは忌み嫌ったとされるが、この椿は、花弁がひとひらずつ散るため珍重された。御舟の描いた樹齢約400年の椿は残念ながら枯れて、その遺伝子を受け継いだ二世の木が椿寺地蔵院の玄関脇に植えられている。(山崎妙子館長) 速水御舟の《名樹散椿》は、京都・椿寺地蔵院の名木「五色八重散椿」をモチーフにした。写真の樹木に比べると御舟が純粋なその姿を造形し、花を強調して描いている。
【東山魁夷『京洛四季』1968】京都の四季を描いた連作「京洛四季」(《春静》《緑潤う》《秋彩》《年暮る》の4作)。連作「京洛四季」20数点は、作家・川端康成の「京都は今描いといていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいてください」という言葉をきっかけにして生まれた。
奥村土牛『鳴門』。鳴門海峡の渦潮を前に写生を繰り返した。「雄大で神秘的な渦潮を見ていると、描きたいという意欲が抑え難く湧き上がってきた」奥村土牛
【山口華楊『木精』1976】動物画家、山口華楊 によって描かれている、北野天満宮の境内にある欅の根、まるで精霊の触手のように生命力があふれている。根に一羽のミミズクが止まっている。山口華楊は戦前、自庭の小屋に雉や白鷺、ミミズク、鳶などの鳥類のほか、猿、兎、犬などを飼い、観察し、常日ごろから写生した。北野天満宮にある樹齢600年と伝わる大欅「東風」を描いた作品。豊臣秀吉がこの地に御土居(おどい=城壁)を築いた時代には、すでに現在と同じ場所にあった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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東山魁夷『年暮る』1968年 山種美術館蔵
東山魁夷『春静』1968(昭和 43)年 紙本・彩色 京都鷹峯
東山魁夷『秋彩』1986(昭和 61)年 紙本・彩色
奥山土牛 『鳴門』 1959年 山種美術館蔵
山口華楊『木精』 1976年 山種美術館蔵
速水御舟『名樹散椿』(重要文化財) 1929年 山種美術館蔵
奥田元宋『奥入瀬(秋)』1983(昭和58)年 紙本・彩色
米谷清和『暮れてゆく街』1985山種美術館
五色八重散椿第二世(写真:京都・椿寺地蔵院)
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参考文献
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」図録2023
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-3c178f.html

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「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」
会場:山種美術館(東京都渋谷区広尾3-12-36)
会期:2023年9月30日(土)~11月26日(日)
休館日:月曜休館、10月9日は開館、10日が休館
山種美術館(https://www.yamatane-museum.jp/

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2023年10月20日 (金)

イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル・・・ファッション・デザイナーは、なぜゲイなのか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第345回
あなたは存在そのものが優美だった、その生涯は引き裂かれたが。痛みを負った人に優しく囁きかけた。あなたは天に召され、星があなたの名を永遠に刻む。あなたは生き抜いたように思える、風の中の灯火のように。命の灯火はすでに燃え尽きたが、あなたの伝説は永遠に 『風の中の灯火』
イスタンブール・インターコンチネンタルに宿泊したら、部屋の窓からボスポラス海峡と行き交う船がみえた。部屋の内装、家具は、ジャンニ・ヴェルサーチのデザインだった。
【「ピエールは、私の人生の物語となった」】イヴ・サンローランの共同創業者、ピエール・ベルジェ。ベルジェがサンローランと出会ったのは、1958年、社交界の著名人であるマリー・ルイーズ・ブスケ主催の晩餐会。サンローランがクリスチャン・ディオールでの初のソロコレクションを発表した直後。「ピエールは、私の人生の物語となった」後に、サンローランは2人の間に感じた繋がりについて語っている。「特別な出会いだった。彼は、私の持っていないものを全て持っていた」 (Yves Saint Laurent: Style, 2008)。
「流行は移り変わるが、スタイルは永遠である。」「ファッションは女性を装飾するだけでなく、彼女たちの不安を取り払い、自信を与え、自己を受け入れることを可能にさせると、私はずっと信じてきた。」イヴ・サンローラン(1936-2008)
【ゲイ文化とファッション、大胆で勇敢な表現】有名ファッション・デザイナーは、なぜ、ゲイなのか。
ナオミ・キャンベルは、ゲイ文化とファッションは「切っても切れない」関係にあると考えている。「ゲイのコミュニティーはファッション業界に非常に大きな影響をもたらしたわ。マーク・ジェイコブスとかジャンニ・ヴェルサーチ、『ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana)』のドメニコ・ドルチェとステファノ・ガバーナ、アレキサンダー・マックイーンといったデザイナーなしには、この世界はこんなにも活気のあるものにはならなかったはずよ。ゲイ文化とファッションこの2つは大胆で勇敢な表現をすることによって共に栄えてきたのよ」シネマカフェ
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【ジャンニ・ヴェルサーチ】1997年7月マイアミの別荘で殺人事件、妹ドナテラ、ブランドを引き継ぐ。【殺人事件の謎】ゲイの連続殺人鬼クナナンに射殺された。屋台骨を失ったブランドは、一瞬にして沈没寸前。1978年から20年。「ヴェルサーチ」の運命は、これまでジャンニを裏から支えた妹。1946年12月2日 - 1997年7月15日)50歳。
【「モードの帝王」イヴ・サンローラン】クリスチャン・ディオールの急死をうけ、1958年にディオールのデザイナーとして鮮烈なデビューを飾る。「ピエールは、私の人生の物語となった」。1962年から自身のブランド「イヴ・サンローラン」を発表。それ以来、40年活躍、2002年引退、2008年71歳で死す。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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イヴ・サンローランは、1958年にディオールのデザイナーとしてデビューし、61年に「イヴ・サンローラン」オートクチュールメゾンを設立。2002年に引退するまでの軌跡をたどる。
イヴ・サンローランは、常識を打ち破る革新的なコレクションの数々を打ち出した。船乗りの作業着にインスピレーションを受けて作ったピーコート、狩猟の服装サファリ・ルック、男性の正装だったタキシード、さらにパンツスーツ、トレンチコートなどを女性向けのワードロープとして登場させた。グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒらの大女優から着想を得て、女性のエレガンスを光らせた。時代の空気を敏感にとりいれ、女性のライフスタイルや価値観を変えた。1966年、プレタポルテ(既製服)を手掛け世界を席巻。
モンドリアン・ルックに象徴されるようにアートとファッションを融合させた。モンドリアンはもちろんのこと、ピカソやマティス、ゴッホの作品と融合。ゴッホ「アイリス」は、4代続く老舗の刺繍工房「メゾン・ルサージュ」で制作された。
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【クリスチャン・ディオール】クリスチャン・ディオール(1905~1957)は25歳のころに母と弟が立て続けに他界、さらに1929年頃アメリカを皮切りに起こった世界恐慌で父モーリス・ディオールが破産。947年2月12日 クリスチャン・ディオールは初のオートクチュールコレクションを開催。カメール・スノーが「ニュールック」と呼ぶ。メゾン クリスチャン・ディオールは1947年2月のニュールック発表から1957年のわずか10年ほどで大企業へと成長。1957年10月 クリスチャン・ディオールは休暇先のイタリアのモンテカティーニ・テルメで1957年の10月23日にこの世を去る。イヴ・サンローランは、ヴォーグの編集長の目に留まり、ディオールを紹介される。
【クリスチャン・ディオール、6人の後継者】
1957年~1960年 イヴ・サンローラン(Yves Saint-Laurent)
1960年~1989年
1970年~1989年
マルク・ボアン(Marc Bohan)
1989年~1996年 ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)
1996年~2011年 ジョン・ガリアーノ(John Galliano)
2012年~2015年 ラフ・シモンズ(Raf Simons)
2016年~ マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)
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カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld、1933年9月10日 - 2019年2月19日)
ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)
ジョン・ガリアーノ(John Galliano)
ジョルジョ・アルマーニ(Giorgio Armani)
ジャンニ・ヴェルサーチ Gianni Versace
1978年ヴェルサーチを立ち上げた際、ジャンニはドナテラをアドバイザーに任命。その後、ドナテラはヴァイスプレジデントに就任し、80年代前半からデザインにも携わる。
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【ドナテラ・ヴェルサーチ】ジャンニがミラノを拠点にさまざまなブランドで経験を積んでいる間、ドナテラはフィレンツェ大学で言語学を専攻し、教員になることを目指していた。そして週末になるとミラノを訪れては、兄をアシスト。ドナテラはジャンニのミューズで、ヴェルサーチの香水「ブロンド」のインスピレーション源。ドナテラのミニマルなスタイルよりもバロック調のルックを好んだジャンニ。ブランドを成功に導いた人物として妹を高く評価していた。80年代に元夫ポール・ベックと結婚したドナテラには、娘アレグラと息子ダニエルの2人の子供がいる。【アレグラ】アレグラは18歳の時にヴェルサーチの株式を50%相続し、筆頭株主に。そしてダニエルもジャンニの死後、3700万ポンド(約56億9450万円)相当のアートコレクションを譲り受けた。
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【ココ・シャネル、帽子デザイナー】1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店。1920年代、ココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレス。1921年、シャネルNo5、発売。1926年、シャネル「リトル・ブラック・ドレス」。1971年88歳で死す。
【事業家、シャネル、マリー・ローランサン】事業家として成功。人の欲望を管理する。流行を作る。成功するファッション・デザイナー。成功の秘訣は何か。
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参考文献
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド
パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」
イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル・・・ファッション・デザイナーは、なぜゲイなのか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-2092fe.html
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イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル、Yves Saint Laurent, Across the Style
国立新美術館、2023年9月20日(水)~2023年12月11日(月)

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2023年10月17日 (火)

キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第344回

美の革命というが、美の根拠はどこにあるのか。抽象絵画の起源は、キュビスムとフォーヴィスムから始まる。と美術史家は言う。
キュビスム絵画で最も有名な作品は何か。キュビスムのピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907『マンドリンを持つ少女』1909-1910年、ジョルジュ・ブラック、ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899 オルセー美術館.から始まる。ピカソ『泣く女』1937,『アルジェの女』1955、はキュビスム以後の展開とされる。
【キュビスム1907-1914】
キュビスム(1)複数の視点から見た物の形を、一つの画面に表す(2)物の形を、立方体、球、円筒、円錐、など幾何学的な形にする。セザンヌ。
古典的技法を用いた「青の時代」などを経て、新しい表現を求めていたピカソは1907年に訪れたパリの民族誌博物館でアフリカやオセアニアの造形物と出合う。表現に衝撃を受け、描き上げたのがセザンヌの水浴図にもヒントを得た《アヴィニョンの娘たち》(1907、ニューヨーク近代美術館蔵)。
「自然を円筒形と球形、円錐形によって扱う」と言うセザンヌ。セザンヌの単純化された幾何学形を積みかさねる品群は、パリの批評家から「すべてをキューブ(立方体)に還元している」と批判され「キュビスム」の名称で呼ばれる。
ピカソによる《アヴィニョンの娘たち》の習作の女性像と、ジョルジュ・ブラック《大きな裸婦》(1907冬ー1908・6月)、マリー・ローランサン《アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)》(1909)。マリー・ローランサンが恋人の詩人ギヨーム・アポリネールとピカソらを描いた作品。アポリネールは、非難を浴びたキュビスムを「芸術の大革命」と呼んで擁護。
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「芸術家アトリエ『ラ・リュッシュ』」「東欧からきたパリの芸術家たち」
ブランクーシやモディリアーニが住んだモンパルナスの集合アトリエ『ラ・リュッシュ』(蜂の巣)は、キュビスムが浸透した場のひとつで、ロシア(現ベラルーシ)出身のマルク・シャガールも住人である。パリ移住後まもなく描いた《婚礼》は、幾何学形を取り入れた画面構成とドローネー風の鮮やかな色彩が目を引く。故郷のユダヤ系風物を追慕したシャガールは、キュビスムの影響も受け、現実と幻想が入り混じる独自の作風を成熟させる。
マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)ロシア出身のユダヤ系の画家で、存命中から現在に至るまで、世界中で高い人気と誇る。1887年、マルク・シャガールは帝政ロシアの一部であった現ベラルーシ共和国のヴィテブスクのユダヤ人街に生まれた。この地域はドイツ語、ヘブライ語、スラブ系言語の混合言語であるイディシュ語を話す人々によって形成された地域で独特の文化をを築いていた。そんな中で育ったシャガールはヴィテブスク特有の風土や文化の影響を受け、シャガールの精神形成に大きな役割を果たした。
1910年、シャガールはパリに到着する。パリのモンパルナスに住み着いた彼はモディリアーニやスーチン、パスキンなど後のエコール・ド・パリの巨匠たちと交流を結びサロン・ドートンヌやアンデパンダン展などに出品を続け次第にその評価を高めていった。97歳で死す。
【キュビスム以後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」】
キュビスムは、1914年の第一次世界大戦勃発とともに収束へ向かった。ブラックやレジェ、グレーズらは前線に送られ、銃後のピカソは写実的な「新古典主義の時代」へ移行した。
第一次大戦後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」。ふたりは、工業化社会を前提として秩序立った普遍的な「機械の美学」を唱え、キュビスムを乗り越えようとした。
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジョルジュ・ブラック《レスタックの道》(1908)、ブラック《レスタックのテラス》(1908夏)、ブラック《レスタックの高架橋》(1908初頭)
ジョルジュ・ブラック《ヴァイオリンのある静物》(1911・11月)、同《円卓》(1911秋)
フェルナン・レジェ《婚礼》 1911-1912年
油彩・カンヴァス/257 x 206 cm /ポンピドゥーセンター(1937年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
コピーライト Centre Pompidou, MNAM-CCI/Philippe Migeat/Dist. RMN-GP
コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》 1910年
ブロンズ/16 x 27.3 x 18.5 cm /ポンピドゥーセンター(1963年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
コピーライト Centre Pompidou, MNAM-CCI/Adam Rzepka/Dist. RMN-GP
アメデオ・モディリアーニ《女性の頭部》(1912)
マルク・シャガール《ロシアとロバとその他のものに》(1911)、同《婚礼》(1911-1912)
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参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
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20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。
西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性を開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。そして、装飾・デザインや建築、舞台美術を含む様々な分野で瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。
本展では、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品から、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023cubisme.html
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キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ、国立西洋美術館、10月3日(火)~2024年1月28日(日)

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2023年10月 6日 (金)

「永遠の都ローマ」2・・・フォロ・ロマーノ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第343回

古代ローマ、古代アテナイ、ルネサンスのフィレンツェ、コンスタンティノープル、もし自由に、古今東西の都市の学校を選ぶ、師匠を選ぶことができるならば、どの地、どの師を選ぶだろうか。詩人シラーが言論弾圧に苦しむ18・19世紀ウィーンを選ばないだろう。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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フォロ・ロマーノを歩くと、夕暮れの光の中に、古代ローマの英雄たち、アントニウス、クレオパトラ、ローマ皇帝、ボッティチェリ、レオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、憂いの藝術家、ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ、メディチ家の雄姿、いにしえの人の記憶が蘇る。
カピトリーノの丘、カンピドリオ広場、フォロ・ロマーノ、サトゥルヌス神殿、セプテイミウス・セベルスの凱旋門、コンスタンティヌス帝の凱旋門、コロッセオ、皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)、トラヤヌス帝の記念柱、パラティーノの丘、コンスタンティヌス帝の巨像、ここは、ローマ帝国の中心である。
【パンとサーカス《Panem et circenses》に溺れる民衆】食糧と娯楽。古代ローマ市民がこの二つを国家から与えられて満足、政治に無関心になった様を、詩人ユウェナリスが揶揄。現代では愚民政策の比喩。ローマ共和政が前3世紀ごろから中産市民が没落して無産市民(プロレタリア)となっても、市民であるので平民会の選挙権はもっていた。彼らは国や有力者に食料と娯楽を要求し、それらを提供してくれる政権や人物を支持した。食糧はエジプトから輸入された。

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【サトゥルヌス神殿】フォロ・ロマーノのカンピドリオ広場の一角に立つ8本のイオニア式円柱は、サトゥルヌス神殿跡。サトゥルヌスはローマ神話の農耕神で、ギリシア神話の巨人族の神クロノスと同一視される。土星の守護神です。かつてここに古代ローマの国家金庫、アエラリウム・サトゥルニがあった。古代ローマ暦およびユリウス暦の12月17日から12月23日、ここでサトゥルナリア祭が祝われていた。建設時期 紀元前501年、建設者 タルクィニウス・スペルブス。
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【ネロ、本当に暴君か】タキトゥス「年代記」「同時代史」「ゲルマニア」、スエトニウス、カッシウス・ディオ、著名な歴史家の記述によると必ずしも暴君ではない。暴君の人物像は、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、これが映画化され、悪役イメージが定着した。
【名君、皇帝ネロ】第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られる。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれた。ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった。
【ネロ】「皇帝が女神の神殿に足を運び、果てしなき黄金の輝きを発した」64年にポンペイを訪れたネロをたたえる詩編。ネロの2人目の妻ポッパイア・アビナはポンペイの出身で、ネロもしばしばこの街を訪れた。ネロの死から11年後の79年、後方にそびえる火山ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイは火山灰の下に埋もれた。
【ハドリアヌス帝、本当に名君か、恐怖政治、残虐にして寛容】
【マルクス=アウレリウス=アントニヌス】(在位161~180)軍人、政治家であるとともにストア派の哲学を学び自ら『自省録』を著す。哲学者としてもすぐれていたが、パルティアとの戦争に苦しみ、さらにゲルマン人の大規模な侵入が始まり苦戦が続く中、ウィンドボナ付近で病没。実子のコンモドゥスが帝位を継いだが悪政を行い、殺害される。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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五賢帝時代、ネルウァ(在位96~98)、トラヤヌス(在位98~117)、ハドリアヌス(在位117~138)、アントニヌス=ピウス(在位138~161)、マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)。帝位は、前帝の養子が元老院の承認を受けて継承された。
【ハドリアヌス帝、恐怖政治、残虐にして寛容】皇帝ドミティアヌスが暗殺されて【ネルヴァ】が皇帝になった。そしてそのネルヴァも即位後1年ほどで死す。次の皇帝はハドリアヌスの後見人である【皇帝トラヤヌス】25歳になったハドリアヌスはクルスス・ホノルム(名誉あるコース)と言われるクワエストル(会計検査官)に当選しその後はトラヤヌスに従ってダキア戦争に従軍、ここで十分に戦功を挙げプエラトル(法務官)に当選、ここで属州総督の就任資格を得るとパンノニアインフェリオール(遠パンノニア属州)総督の地位へと昇り詰める。この時31歳【ハドリアヌスの皇帝就任】にはトラヤヌスの皇后であるプロティナの意向が強く働いた。【トラヤヌス暗殺事件】トラヤヌスの死に目にあったのは4人。妻であるプロティナ、姪のマティディア(ハドリアヌスの妻の母)、近衛軍団長のアティアヌス(ハドリアヌスの後見人)、皇帝付きの医師。トラヤヌスの側近であった4人は殺害された。ハドリアヌスは近衛隊長であるアティアヌスが勝手にやったと弁明した。「ハドリアヌスは残虐にして寛容、厳格であるかと思えば愛想が良く、一貫していないことだけが一貫していた」と歴史家は語る。【暴君、ハドリアヌス】はユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。永遠の都エルサレムにはユダヤ教徒は立ち入り禁止にし、殺害されたユダヤ教徒は50万人。48歳のローマ皇帝ハドリアヌスが15歳ぐらいのギリシアの少年アンティノウスを愛した。アンティノウスがエジプトで溺死した時には人目をはばからず女性のように泣いたという。溺れた川のふもとにアンティノポリスという都市を作る。【ローマ法大全】ハドリアヌスはユスティニアヌスの600年ぐらい前にローマ法を大全化した。【パンテオン】ハドリアヌス帝の時代に再建された。建設したのはアウグストゥスの片腕であるアグリッパだが、現在の形に再建したのがハドリアヌス。【恐怖政治、ハドリアヌス】はティベリウスほどの恐怖政治はではないが、トラヤヌスの4人の腹心たちと後継者問題においては粛正を断行している。フスクスに死を強要した理由は不明である。アエリウスの代わりに後継者としての白羽の矢が立っていたのがマルクス・アンニウス・ヴェルスという16歳の少年だった。この少年が後の【マルクス・アウレリウス・アントニヌス】。ただ皇帝になるには若すぎたので、ハドリアヌスはアントニウスという50歳ぐらいの男を呼び、アンニウスを養子にすることを条件に自分の養子にすることを告げた。このアントニウスこそが5賢帝の4人目【アントニウス・ピウス】である。南川高志『ローマ五賢帝』1998、2014 講談社学術文庫p.222-224
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【たセプティミウス=セウェルス帝】コンモドゥスが192年に暗殺された後、2~3年の混乱の後に、軍事政権。146年生まれ(在位193~211)65歳で死す。
【暴君、カラカラ帝、享年29】ローマ帝国の五賢帝時代に続き、セウェルス朝を始めたセプティミウス=セウェルスの子で帝位を継承。在位211~217年。本名はマルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の最後の皇帝と同じ名前だが関係はない)で、父の遠征先の属州ガリアのリヨンで生まれた。いつも着用していたガリア風の長い上着のことをカラカラといったので、それが彼の呼び名になった。ローマ市民権を拡大したアントニヌス勅令の制定や公共浴場の建設等で知られる、歴代のローマ皇帝の中でも暴君の一人とされ、パルティア遠征中に部下の近衛兵に殺害された。新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』2000講談社選書メチエp.184
【近衛隊長マクリヌス】は現場に駆けつけ悲嘆の素振りを見せる。カラカラには世継ぎがいないので急ぎ次の皇帝を選出しなければならない、パルティアの大軍が迫っていた。マクリヌスは兵士の推戴を受けて即位した。1年後にはカラカラの遺児と称する【14歳の少年エラガバルス】を担いだ一派が挙兵して帝位を奪った。【皇帝エラガバルス】(204年~222年 (在位218年6月8日~222年3月11日)のもとで東方的な密儀宗教がローマに持ち込まれ、宮廷は淫乱な空気に満ちる。男性社会であるローマで女性を登用するなど、進歩主義的。アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』(1934年)。近衛兵は222年、皇帝を殺害、屍体をティベル川に投げ込み、その従兄弟【アレクサンデル・セウェルス】を担ぎ出した。このアレクサンデルも235年に軍隊によって殺害。
【軍人皇帝の時代、235年から284年まで50年、皇帝が70人輩出】財政危機、経済・政治危機
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【コンスタンティヌス大帝】4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の分裂、混乱を克服し専制君主政を確立し、313年にキリスト教を公認。330年コンスタンティノープルに遷都し、強大な帝国を再建したが、その死後、再び帝国は分裂。
【ユスティニアヌス帝、異教徒迫害】529年にアテネのアカデメイアがユスティニアヌスの命令によって国家の管理下に置かれた。このヘレニズム教育機関の事実上の閉鎖がおそらく最も有名な事件であろう。多神教は積極的に弾圧された。小アジアだけで7万人の多神教徒が改宗したとエフェソスのヨハネスは述べる。
【永遠の都ローマ、皇帝の死、藝術家の死】ユリウス・カエサル55歳、アウグストゥス帝51歳、ネロ帝31歳、ハドリアヌス帝62歳、コンスタンティヌス大帝60歳、ユスティニアヌス帝81歳、ミケランジェロ88歳。シクストゥス4世70歳。最高権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【コロッセオ、フラヴィウスの闘技場】ネロ帝の巨像(コロッスス)があった。ネロポリス。
【カピトリーノ美術館】「永遠の都」と呼ばれるローマ、世界でもっとも古い美術館の一つ、ローマ・カピトリーノ美術館。カピトリーノ美術館が建つカピトリーノの丘は、古代には最高神を祀る神殿が建設、現在はローマ市庁舎が位置する、ローマの歴史と文化の中心地である。【カピトリーノ美術館の歴史】1471年ルネサンス時代の教皇シクストゥス4世がローマ市民に4点の古代彫刻を寄贈したことに始まり、以後、古代遺物やヴァチカンに由来する彫刻、ローマの名家からもたらされた絵画などを収蔵してきた。
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参考文献
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
https://bit.ly/3xYWHQv
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
https://bit.ly/3Tcilcj
ポンペイ・・・埋もれたヘレニズム文化、「アレクサンドロス大王のモザイク」、豹を抱くディオニュソス
https://bit.ly/3orQacm
「永遠の都ローマ展」・・・カピトリーノのヴィーナス
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-29f875.html
「永遠の都ローマ」2・・・フォロ・ロマーノ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-450352.html
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永遠の都ローマ展、東京都美術館、9月16日(土)~ 12月10日(日)
福岡市美術館にも巡回予定、福岡市美術館 2024年1月5日(金)~ 3月10日(日)

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2023年9月30日 (土)

「永遠の都ローマ展」・・・カピトリーノのヴィーナス

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第342回
フォロ・ロマーノを歩くと、古代ローマの英雄たち、ローマ皇帝ネロ、エジプト王妃クレオパトラ、憂いの藝術家ミケランジェロ、メディチ家ヌムール公ジュリアーノの雄姿、いにしえの人の美しい記憶が蘇る。
カピトリーノの丘、カンピドリオ広場、フォロ・ロマーノ、サトゥルヌス神殿、セプテイミウス・セベルスの凱旋門、コンスタンティヌス帝の凱旋門、コロッセオ、皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)、トラヤヌス帝の記念柱、パラティーノの丘、コンスタンティヌス帝の巨像、ここは、ローマ帝国の中心である。
カピトリーノ美術館の歴史は、シクストゥス4世が1471年4つの彫刻を寄贈して始まるとされるが、シクストゥス4世はメディチ家を弾圧した陰謀教皇である。
【「カピトリーノのヴィーナス」AD2C】原作は、プラクシテレス「アフロディーテ」、プラクシテレスの息子、小ケフィソドトスの彫刻(BC4C-3C)である。ローマンコピー、ギリシア彫刻のローマ帝国時代の摸刻である。ローマ文化はコピー文化。オリジナルは皇帝像である。(Musei Capitolini)
【永遠の都ローマ、皇帝の死】ユリウス・カエサル(前100~前44年)55歳、アウグストゥス帝(前63~前14年)49歳、ネロ帝(紀元37~68)31歳、ハドリアヌス帝(76~138)62歳、コンスタンティヌス大帝(274?~337)63歳、ユスティニアヌス帝(483~565)81歳、ミケランジェロ(1475年3月6日~1564年2月18日)88歳。シクストゥス4世(1414~1484)70歳。最高権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【陰謀教皇、シクストゥス4世】【1478年のパッツィ家の陰謀】に加担してメディチ家の打倒をはかったが失敗。これは【ロレンツォ・デ・メディチとその兄弟を暗殺】してフィレンツェの支配者の地位にジロラモ・リアリオをつけようとした企てであった。計画の首謀者とされたピサ大司教はシニョリーア宮殿の壁に吊るされて殺された、教皇庁とフィレンツェは以後2年におよぶ戦争状態に突入。同時にシクストゥス4世はヴェネツィア共和国に対してフェラーラ公国を攻撃するようすすめる。別の親族にフェラーラを治めさせる意図があった。教皇の陰謀はイタリアの都市君主たちを怒らせ、同盟を結ばせる。教皇の示唆によって【1482年におこなわれたヴェネツィア軍のフェラーラ攻撃】に対して、ミラノのスフォルツァ家、フィレンツェのメディチ家、ナポリ王国のみならず本来教皇の同盟者であった人々までが同盟を組んでこれを阻止。
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【皇帝ネロ、彫刻コレクション】黄金宮殿にあった。この遺跡の中で発見された彫刻は、「ラオコーン」バティカン博物館に移されている。カピトリーニ美術館の「瀕死のガリア人」やローマ国立博物館(アルテンプス宮)の「妻を殺して自殺しようとするガリア人」の像などが有名。「美しい尻のヴィーナス」(Venus Kallipygos)BC1世紀。オリジナル作品は、紀元前300年頃にギリシアで作られたブロンズ像であった。16世紀に頭部が欠けた状態で、ローマ皇帝ネロに関連する遺跡から発掘された。彫像はイタリアの名門貴族ファルネーゼ家のコレクションに加えられた後、現在のナポリに移動された。
【パンとサーカス《Panem et circenses》に溺れる民衆】食糧と娯楽。古代ローマ市民がこの二つを国家から与えられて満足、政治に無関心になった様を、2世紀、詩人ユウェナリスが揶揄。現代では愚民政策の比喩。ローマ共和政が前3世紀ごろから中産市民が没落して無産市民(プロレタリア)となっても、市民であるので平民会の選挙権はもっていた。彼らは国や有力者に食料と娯楽を要求し、それらを提供してくれる政権や人物を支持した。食糧はエジプトから輸入された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《マイナスを表す浮彫の断片》 1世紀  カピトリーノ美術館蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico dei Musei Capitolini
カラヴァッジョ派、メロンを持つ
ドメニコ・ティントレット 《鞭打ち》 17世紀 カピトリーノ美術館蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico dei Musei Capitolini
《カピトリーノのヴィーナス》 2世紀 カピトリーノ美術館蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico dei Musei Capitolini
本展では、古代ローマ彫刻の傑作《カピトリーノのヴィーナス》が初来日し、東京会場限定で展示。同作は、古代ギリシア最大の彫刻家プラクシテレスの作品に基づく女神像であり、ルーヴル美術館の《ミロのヴィーナス》、ウフィツィ美術館の《メディチのヴィーナス》と並ぶ、古代ヴィーナス像の傑作として知られている。本展は、門外不出の彫刻を目にすることができる貴重な機会となる。
古代ローマ建国を伝える伝承・神話
《カピトリーノの牝狼(複製)》 ローマ市庁舎蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico dei Musei Capitolini
本展は、全5章から構成。まず第1章では、ローマを象徴する「カピトリーノの牝狼」を起点に、古代ローマの建国にまつわる伝承や神話に光をあてる。ローマ建国神話を代表するエピソードのひとつが、軍神マルスと巫女レア・シルウィアのあいだに生まれた双子、ロムルスとレムスを育てる牝狼の物語だ。本章では、《カピトリーノの牝狼(複製)》を展示するとともに、建国神話を表す古代彫刻やメダルなどから、その表現の伝統をたどってゆく。
《イシスとして表わされたプトレマイオス朝皇妃の頭部》
紀元前1世紀から紀元後1世紀 カピトリーノ美術館分館モンテマルティー二美術館蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico dei Musei Capitolini
古代ローマ帝国は、紀元前1世紀、ユリウス・カエサルとその遺志を継いだオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)によってその礎が築かれ、続く皇帝たちのもとで繁栄することになった。第2章では、古代ローマ帝国の栄光に焦点を合わせ、歴代ローマ皇帝や帝国ゆかりの女性たちの肖像などを紹介。また、帝国の栄華を象徴する《コンスタンティヌス帝の巨像》の一部を原寸大複製で展示する。
ローマ、芸術の霊感源として
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ 《トラヤヌス帝記念柱の正面全景》
1774-75年 ローマ美術館蔵
©Roma, Sovrintendenza Capitolina ai Beni Culturali / Archivio Fotografico del Museo di Roma
ディオニュソス、ハドリアヌス帝時代、カピトリーノ美術館
数多くの古代遺跡を擁するローマは、17世紀以降、グランドツアーの隆盛などを背景に、イタリア内外の芸術家に着想を与えてきた。第5章では、古代建築やその装飾といったローマ美術からインスピレーションを得て制作された作品に着目。古代記念碑「トラヤヌス帝記念柱」を題材とする版画や模型に加えて、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージやアントニオ・カノーヴァなどの名品も目にすることができる。
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参考文献
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
https://bit.ly/3Tcilcj

ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998初刊 2014講談社学術文庫p.82-83
南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』 (岩波新書) 2013
南川高志『ローマ皇帝とその時代 元首政期ローマ帝国政治史の研究』創文社
スエトニウス『ローマ皇帝伝』岩波書店
プルタルコス『英雄伝』岩波書店
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古代ローマ帝国の遺産・・・豹を抱くディオニュソス、帝国の黄昏
地中海 四千年のものがたり・・・藝術家たちの地中海への旅
ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり・・・ギリシア文化の輝き
ポンペイ・・・埋もれたヘレニズム文化、「アレクサンドロス大王のモザイク」、豹を抱くディオニュソス
「永遠の都ローマ展」・・・カピトリーノのヴィーナス
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-29f875.html

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特別展「永遠の都ローマ展」は、「永遠の都」と称されるローマの歴史と芸術を紹介する展覧会。世界でもっとも古い美術館のひとつ、ローマ・カピトリーノ美術館の所蔵品を中心とする作品とともに、2000年を超える歴史と文化をたどってゆく。
カピトリーノ美術館が建つカピトリーノの丘は、古代には最高神を祀る神殿が置かれ、現在はローマ市庁舎が位置するなど、ローマの歴史と文化の中心地であった。カピトリーノ美術館の歴史は、1471年 教皇シクストゥス4世がローマ市民に4点の古代彫刻を寄贈したことに始まり、以後、古代遺物やヴァチカンに由来する彫刻、ローマの名家からもたらされた絵画などを収蔵してきた。
2023年は、日本の明治政府が派遣した「岩倉使節団」がカピトリーノ美術館を訪ねて150年の節目にあたります。使節団の訪欧は、のちの日本の博物館施策に大きな影響を与えることになりました。この節目の年に、ローマの姉妹都市である東京、さらに福岡を会場として、同館のコレクションをまとめて日本で紹介する初めての機会となります。
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永遠の都ローマ展、東京都美術館、9月16日(土)~ 12月10日(日)
福岡市美術館にも巡回予定、福岡市美術館 2024年1月5日(金)~ 3月10日(日)

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