2024年5月21日 (火)

「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」・・・大日如来、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第368回
空海(774~835)
774(宝亀5)年、佐伯真魚、讃岐の多度郡多度津に生まれる。778年、15歳、上京し叔父阿刀の大足に学ぶ。791年、18歳、大学寮に入学。797(延暦16)年、24歳『聾瞽指帰』を書く。804年、東大寺にて得度。遣唐使船に乗り入唐。805(延暦24)年、33歳、青龍寺恵果に胎蔵界、金剛界の伝法灌頂を受ける。恵果、死去。806年、33歳、留学僧を途中切り上げ、帰国。809年、36歳、高雄山寺にて滞在。812(弘仁3)年、39歳、胎蔵界、金剛界の結縁灌頂を最澄に授ける。816(弘仁7)年、43歳、嵯峨天皇から高野山を賜り金剛峰寺を建立。824年、51歳、東寺造営の長官。834年、61歳、御七日の修法を淳和天皇に修法。835(承和2)年、62歳、高野山金剛峰寺にて入定。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【五智如来】大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来(無量寿如来)、不空成就如来。
大日如来が宇宙の根本原理であり、至高の存在である。大日如来の【5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)】を象徴する五智如来。大日如来の知恵、法界体性智は、自性清浄なる大日如来の絶対智、他の四智を統合する智恵である
【大日如来の知恵は五智如来に現れる。五智】
大日如来は、法界体性智を持つ。自性清浄心と呼ばれる第9識(阿摩羅識)。宝生如来は、平等性智【諸法の平等を具現する智】を持つ。阿閦如来は、大円鏡智【鏡の如く法界の万象を顕現する智】を持つ。無量寿如来は、妙観察智【諸法を正しく見極め、追求する智】を持つ。不空成就如来は、成所作智【自他のなすべきことを成就せしめる智】を持つ。
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【5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)】第9識(阿摩羅識)、第8識阿頼耶識、第7識末那識、第6識意識、成所作智=前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)
法界体性智は、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。
*法界体性智=自性清浄心と呼ばれる第9識(阿摩羅識)
阿閦如来は、大円鏡智【鏡の如く法界の万象を顕現する智】を持っている。
*大円鏡智=阿頼耶識 第8識
宝生如来は、平等性智【諸法の平等を具現する智】を持っている。
*平等性智=末那識 第7識
無量寿如来は、妙観察智【諸法を正しく見極め、追求する智】を持っている。
*妙観察智=意識 第6識
不空成就如来は、成所作智【自他のなすべきことを成就せしめる智】を持っている。
*成所作智=前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
無着『摂大乗論』
世親『唯識三十頌』
松長有慶『密教経典、理趣経』1984
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金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」・・・大日如来、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f6ef9c.html
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展示作品の一部
国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)のうち胎蔵界、平安時代(9世紀)、京都・神護寺
現存最古にして、空海の在世時に制作された現存唯一の両界曼荼羅。高雄山神護寺に伝わったことから高雄曼荼羅と呼ばれる。令和4年(2022)に修理が完了し、金銀泥で描かれる諸尊の輝きがよみがえった。
国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)のうち金剛界平安時代(9世紀)京都・神護寺
後期展示(5/14~6/9)
現存最古にして、空海の在世時に制作された現存唯一の両界曼荼羅。高雄山神護寺に伝わったことから高雄曼荼羅と呼ばれる。令和4年(2022)に修理が完了し、金銀泥で描かれる諸尊の輝きがよみがえった。
国宝「五智如来坐像」平安時代(9世紀)京都・安祥寺
五智如来は大日如来を中心に阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の各如来を四方に配置し、それぞれ5つの智の徳をつかさどる。空海の孫弟子である恵運が嘉祥元年(848)に開いた安祥寺に伝わった。量感豊かな体つきが分身のようによく似ている。寺院の創建から遠くない時期に造られたとみられ、5体すべてがそろう最も古い五智如来像である。安祥寺の木造五智如来坐像は851年から854年ごろの寺の創建時に造られ、5つの像が揃って伝わる最古の五智如来像。令和元年、重要文化財から国宝に格上げ指定された。
安置されていた多宝塔は明治39年に焼失したが、すでに京都国立博物館(京都市東山区)に寄託されており、難を逃れた。ただ約120年間もの間、寺には存在しない状態が続いている。
一級文物「文殊菩薩坐像」中国・唐(8世紀)中国・西安碑林博物館
長安にあった安国寺の跡で発見された。文殊菩薩とされるが、服装や持物は胎蔵旧図様の金剛波羅蜜菩薩に近い。遺跡からはこの像とともに複数の密教像が見つかっており、長安での密教の興隆を物語る。
国宝「諸尊仏龕」中国・唐(7~8世紀)和歌山・金剛峯寺
空海が身辺に置いたと伝えられることから枕本尊と称される三面開きの仏龕。折りたたむとストゥーパ(仏塔)形になる。インド風な面貌で唐代の作と見られるが、古い時代のものを模した可能性がある。空海が師の惠果から受け継いだ品という。
重要文化財「弘法大師行状絵詞 巻第三(部分)南北朝時代 康応元年(1389)京都・教王護国寺(東寺)
空海生誕600年にあたり制作された全十二巻の絵巻。先行する空海伝絵巻諸本の内容をふまえ、東寺にまつわる独自の内容も加えた集大成というべき対策である。巻第三は苦難の航海から師となる恵果との出会いを色鮮やかに描く。
国宝「錫杖頭」中国・唐(9世紀)香川・善通寺
空海の請来品と伝える錫杖の頭部。錫杖は本来山野を歩く際に持つ杖だが、法会で振り鳴らす梵音具としても用いられた。本品は両面に阿弥陀三尊と二天を鋳表した装飾性の高い名品。尊像表現は極めて精緻で、同時期の金銅仏を思わせる。
国宝「金銅密教法具」中国・唐(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
真言宗最大の法会、後七日御修法に用いる法具。悪を砕き仏を喜ばせるという五鈷杵と五鈷鈴が金剛盤に乗るかたちをとる。空海が唐から請来した品であり、『弘法大師請来目録』にその存在が記される真言密教の至宝。
国宝「両界曼荼羅(西院曼荼羅〈伝真言院曼荼羅〉)のうち金剛界、平安時代(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
彩色の両界曼荼羅として現存最古の絵画である。宮中真言院の御七日御修法所用として伝わり、長く空海の御影堂である東寺西院に置かれた。鮮やかな色彩、秀逸な描写で表されたエキゾチックな諸尊の姿が目をひく。
国宝「両界曼荼羅(西院曼荼羅〈伝真言院曼荼羅〉)のうち胎蔵界、平安時代(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
彩色の両界曼荼羅として現存最古の絵画である。宮中真言院の御七日御修法所用として伝わり、長く空海の御影堂である東寺西院に置かれた。鮮やかな色彩、秀逸な描写で表されたエキゾチックな諸尊の姿が目をひく。
国宝「聾瞽指帰」下巻、平安時代(8~9世紀)和歌山・金剛峯寺
儒教・道教・仏教の教えを架空の人物に語らせることで比較し、仏教が最も優れていることを述べる空海の著作で、出家前24歳の時に書かれた。様々な学問を学んだ上で、空海が仏教を選んだことがわかる。
国宝「灌頂歴名(部分)平安時代 弘仁3~4年(812~813)京都・神護寺
高雄山寺(神護寺)において弘仁3年(812)から翌年にかけ行われた、金剛界・胎蔵界の結縁灌頂を受けた人々の名簿で、空海がその手で書いた。この灌頂は最澄の依頼がきっかけで行われたもので、筆頭に最澄の名が見える。
国宝「金剛般若経開題残巻」部分)平安時代(9世紀)奈良国立博物館
あらゆる執着を断つ知恵を解く説法『金剛般若経』の題名を解説し、密教の立場からその奥旨を示した空海の著作。軽妙な草書で執筆された自筆本の一部で、行間の書き込みなどによる訂正のあとが、推敲の様子を伝えている。
国宝「伝船中湧現観音像」平安時代(12世紀)和歌山・龍光院
空海が唐から帰る際、船に観音が現れて荒波を鎮めたといい、本図はその観音を描くと伝わる。しかし、特異な姿は実際には密教の秘法で行者を守護する別の尊格のもの。空海信仰が高まり、珍しい絵画が空海伝と結びつけられたようだ。
重要文化財、快慶「孔雀明王坐像」鎌倉時代 正治2年(1200)ごろ、和歌山・金剛峯寺
孔雀明王は毒蛇を食う孔雀を尊格化した明王で、一切の災いを除くとされる。本像は後鳥羽上皇の祈願所となった高野山孔雀堂の本尊。端正な顔だちや四臂の巧みな配置、整理された衣のひだに快慶の特色が見て取れる。
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空海の生誕1250年を記念して、奈良国立博物館の総力を挙げた展覧会を開催します。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん。」(『性霊集』巻第八) 
(この世の全ての物が消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は人々が救われることを願い続ける)
衆生救済を願った空海が人々を救うためにたどり着いたのは密教でした。空海は中国・唐にわたり、師匠の恵けい果かから密教のすべてを受け継いだと言われます。
本展では、密教がシルクロードを経由し東アジア諸地域、そして日本に至った伝来の軌跡をたどることにより、空海が日本にもたらした密教の全貌を解き明かします。また、多数の仏像や仏画により、空海が「目で見てわかる」ことを強調した密教の「マンダラ空間」を再現するとともに、各地で守り伝えられてきたゆかりの至宝を一堂に展示し、空海と真言密教の魅力を紹介します。
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奈良国立博物館(館長:井上 洋一)は、弘法大師・空海の生誕1250年を記念し、総力を挙げて生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」を開催いたします。本展は、空海(774~835)が日本にもたらした密教の全貌を解き明かすとともに、密教の「マンダラ空間」を展示室に展開し、国宝・重要文化財を含む様々な作品により、空海と真言密教の魅力を紹介します。
本展では、平安時代、淳和天皇の発願のもと空海が制作を指導した現存最古の曼荼羅で、神護寺(京都市右京区)が所蔵する国宝《両界曼荼羅(高雄曼荼羅)》を、修理後初めて公開します。「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の2幅からなり、いずれも約4メートル四方の大きさを誇ります。 第1章 密教とは――空海の描いた世界
第2章 密教の源流――陸と海のシルクロード
第3章 空海入唐と恵果との出会い――胎蔵界と金剛界の融合
第4章 空海の帰国 神護寺と東寺 密教流布と護国
第5章 金剛峯寺と弘法大師信仰
▼主な展示作品
■国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅) 2幅 京都・神護寺
■国宝 両界曼荼羅(西院曼荼羅<伝真言院曼荼羅>) 2幅
京都・教王護国寺(東寺)
■重文 両界曼荼羅(血曼荼羅) 2幅 和歌山・金剛峯寺
■国宝 五智如来坐像 5軀 京都・安祥寺
■重文 大日如来坐像(西塔安置) 1軀 和歌山・金剛峯寺
■国宝 諸尊仏龕 1基 和歌山・金剛峯寺
■国宝 金銅密教法具 1具 京都・教王護国寺(東寺)
■国宝 錫杖頭 1柄 香川・善通寺
■国宝 聾瞽指帰 下巻 1巻 和歌山・金剛峯寺
■国宝 灌頂歴名 1巻 京都・神護寺
■国宝 金剛般若経開題 1巻 奈良国立博物館
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「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」奈良国立博物館、4月13日~6月9日


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2024年5月 9日 (木)

どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第367回
大紫躑躅、八重桜咲く。桜吹雪舞う、海より深い母の恩、母の愛犬、トイプードル、守護精霊となって帰ってきた。学問僧を守るために。
ウィリアム・モース(1838-1925)は「人力車に乗っている間に、車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けているかに気が付いた。」小山周子、江戸東京博物館学芸員は江戸の人々と動物の風景についてモースのエピソードによって説明する。
歌川広重は60歳の時「名所江戸百景」安政4年(1857)を描き、猫、鷹、鶴、亀、狐、馬、鯉のぼりをクローズアップしている。
西洋の旅行会社のポスターの手法である。広重は35歳の時、北斎『富嶽三十六景』に出会い、火消同心を辞し、絵師に専心する。
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【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】師が優れているか否かが最も重要【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている世界観、基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は稀である】卓越性には2種類ある『ニコマコス倫理学』
人生の目的は、魂を磨くことにあり。地位と金銭を得るにあらず。人もし全世界を得るとも、その霊魂を失えば何の益あらん。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。能く天の命に聴いて行うべし、神人合一、梵我一如の境地に到達すべし。誠実によりて得たる信用は最大の財産なり。成功本位の立身出世主義に従うべからず。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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人生の目的は、品性を完成するにあり。地位と金銭を得るに非ず。人もし全世界を得るとも、その霊魂を失えば何の益あらん。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。能く天の命に聴いて行うべし、自ら己の運命を作らんと欲すべからず。誠実によりて得たる信用は最大の財産なり。成功本位の米国主義に倣うべからず、誠実本位の日本主義に徹すべし。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。内村鑑三「軽井沢星野温泉二代目旅館社長に贈った商売10箇条」
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歌川 広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員で断られ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。文政4年(1821年)、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。天保3年 (1832)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心する。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。翌天保4年 (1833年)から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。『名所江戸百景』(1856 - 1859)、竪大判で120枚揃物。
【葛飾北斎、冨嶽三十六景】冨嶽三十六景、1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判錦絵、版元は西村屋与八(永寿堂)。最初に36図が完成し、後に10図が追加出版。苦節50年、72歳『冨嶽三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)。富嶽百景
【歌川広重】火消同心。天保3年 (1832)35歳絵師に専心。35歳で北斎『富嶽三十六景』に出会い、『東海道五拾三次』天保5~7(1834~36)年を描く。20年後晩年60歳で「名所江戸百景」安政4年(1857)を描く。『不二三十六景』(1852)「富士見百図」「富士三十六景」(1859)、竪大判で37枚揃物。最後まで富士を描き続ける。61歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
歌川広重《名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣》1857(安政4)年、東京都江戸東京博物館
歌川広重《名所江戸百景 深川洲崎十万坪》1857(安政4)年、東京都江戸東京博物館
月岡芳年《風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗》1888(明治21)年、東京都江戸東京博物館
歌川豊国《しか茶屋》1792-93(寛政4-5)年頃、東京都江戸東京博物館[5/26まで展示]
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参考文献
「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f7b3b4.html

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本展は、2022年にパリ日本文化会館(フランス)で好評を博した「いきもの:江戸東京 動物たちとの暮らし」展を拡充した凱旋帰国展です。画巻、錦絵、装飾品、郷土玩具などに登場する動物たちの多様な姿をお楽しみください。
1603(慶長8)年、江戸に幕府が置かれ、街並みが整備されていきます。街では人々がネコや犬を可愛がり、時にゾウの見世物が話題となり、ウズラの声を競う会が催され、ウサギの飼育ブームが起きました。また、人々は郊外に出かけて野生の鳥の姿や虫の音に季節を感じたものでした。いまはむかし、一大都市となった江戸や東京における、動物と人々との関係を探ります。
1877(明治10)年に来日した米国の動物学者、エドワード・S.モースは、日本人が動物に対して親切に接することに驚きました。動物の名に「さん」づけをして親しみを込めて呼び、人力車の車夫は道に居座る犬やネコを避けて走っていると記しています。
洗練されたデザイン/素朴なかたち
壮大な狩猟の記録画、広重や国芳ら人気浮世絵師による錦絵など、多くの絵に動物たちは登場しています。さらに、動物たちのイメージはデザインモチーフへと昇華し、温かみのある郷土玩具や、精巧な工芸品にも用いられるようになりました。巨大都市における動物は、共生するだけでなく、さまざまに表現されて人々の生活を彩ったのです。
江戸東京博物館から選りすぐりの作品が大集結!
大規模改修工事のために休館中の江戸東京博物館。その収蔵品は61万点にも及びます。本展では膨大な収蔵品のなかから、浮世絵、工芸品、染織などをテーマ毎に展示し、江戸・東京において人々が動物をどのようにとらえ、表現していたのかを俯瞰します。最新の調査研究と初公開作品を含む充実した作品群をご紹介します。
東京会場だけの特別展示:東京の鉄道馬車
1882(明治15)年から1903(明治36)年まで、東京の大通りではレールの上を馬車が走っていました。「東京馬車鉄道」は、最盛期には300両の車両と2000頭の馬を擁していたといい、都市の交通を鉄道馬車も支えていたことがうかがえます。鉄道馬車の開業を知らせる華やかな錦絵3枚続、名所絵、玩具絵など、当時の版画を展示します。
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動物百景、東京ステーションギャラリー、2024年4月27日(土)〜2024年6月23日(日)

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2024年5月 5日 (日)

デ・キリコ、形而上絵画の謎・・・形而上絵画と古典絵画を往還する

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第366回
美術探訪、美への旅、デ・キリコ、形而上絵画の謎            
デ・キリコ「形而上絵画」1910は、ピカソ、サルバドール・ダリ『記憶の固執』1931、ポール・デルヴォー『眠れるヴィーナス』19044に影響を与えた。
20世紀を代表する巨匠の一人、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。彼の約70年にわたる画業をたどる回顧展「デ・キリコ展」が、東京都美術館で2024年4月27日〜8月29日、開催されている。
――
彼が1910年頃から描き始めた「形而上絵画」は、幻想的な風景や静物によって非日常的な世界を表現する絵画。サルバドール・ダリや、ピカソ、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー、シュールレアリスムの画家をはじめ、多くの芸術家や国際的な芸術運動に衝撃を与えた。本展では、デ・キリコの画業を「イタリア広場」「形而上的室内」「マヌカン」などのテーマに分けて紹介する。初期から描き続けた自画像や肖像画から、デ・キリコの代名詞ともいえる「形而上絵画」、西洋絵画の伝統に回帰した作品、そして晩年の新展開である「新形而上絵画」まで、世界各地から集まった80点以上の作品が展示される。1910年代の「形而上絵画」は世界中に散らばっている、一挙に見られるのは貴重な機会である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【形而上絵画の謎、2010】2010年、デ・キリコは、フィレンツェに移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受け「ある秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」4点、絵画を描く。日常空間と古代建築が同時存在。画面の左右で、遠近法の焦点が分裂している。長い影。人間が描かれていないか、微小。彫刻、マネキンなどの特異な静物。画面内の時計が示している時刻と長い影が矛盾する。地平線に汽車が走る、煙はまっすぐ上に向かう。なぜ、遠近法の焦点は分裂するのか、影と時計は矛盾するのか。なぜ地平線に汽車が走るのか。
【デ・キリコ、パリへ】1911年、パリへ移住。1912年「ある秋の午後の謎」3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。列柱の並ぶ古典的な建築、古代ギリシア風の彫刻、煙を吐いて走る機関車などを配した風景画は当時の流行とは全く異質で、理解されなかった。
1913年その数か月後、描き上げた30点の絵画の展覧会を開催。企画した詩人・評論家のギョーム・アポリネールに見出され「形而上絵画」と呼ばれる。親交を結び、ピカソに紹介され交際した。初めて絵の買い手が現れる。
アンドレ・ブルトンは、ジョルジュ・デ・キリコの「形而上絵画」の影響を受け、ジークムント・フロイトの深層意識、無意識領域に目を向ける。「今まで人間が作ってきた制約を離れて、思考の裏側にある無意識の世界を表現しよう。理性による支配を受けず、美学や道徳的先入観を無視して記述される思考」と評価された。アンドレ・ブルトンは、1924年「シュールレアリスム宣言―溶ける魚」を発表。
【神秘と憂鬱】「通りの神秘と憂鬱」「イタリア広場」(1914年)を描く。1915年、第一次世界大戦。「ダダ」の創始者であるトリスタン・ツァラやイタリア未来派のカイロ・カッラと知り合う。ツァラは翌年ジュネーヴに逃れ、ダダの活動を始めた。一方、デ・キリコは戦争がはじまると弟とともにイタリア軍に従軍しフェラーラに駐屯した。ストレスで神経衰弱となり、入院した。『出発の苦悩』(1917)、列車、そして高い塔、デ・キリコが頻繁に人間、特に彼の父親への象徴的な参照として利用したモチーフ。2005年父の死後、デ・キリコはアテネを去った。ギリシア、彼が育ち、旅行を始めた場所、これは最終的に彼を彼に齎した。両親のネイティブイタリア、そこで彼は広いルネサンス広場とアーケードのある建物に魅了された。
【古典への回帰、シュールレアリストたちと決別】ブルトンは、古典に回帰したキリコを非難した。デ・キリコは、自分のスタイルを貫き、1926年にブルトンをはじめとするシュールレアリストたちと決別。その後、ネオバロック絵画を経て1960年以降は形而上絵画へと回帰。若い頃の作品を自己模倣する。
【幸せな形而上画家】1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。1944年、66歳、ローマへ移住。ローマ、スペイン広場付近に移住。ここで妻であるイザベラ・ファーと晩年の30年を過ごす。1978年、90歳の誕生日を祝う。11月20日心臓発作のため没した。
【形而上絵画、哲学的な世界】デ・キリコは、1907年、ミュンヘンに移住、ミュンヘンの美術アカデミーに入学した。ニーチェ、ショーペンハウエルの哲学に影響を受け、永劫回帰の思想に傾倒。2010年サンタ・クローチェ広場で霊感を受け至高体験に啓示を受けた世界である。「イタリア広場」シリーズはデ・キリコの原体験が源泉であり、柱廊のある建築、長い影、歪んだ遠近法、地平を走る汽車、影のような人物によって、ノスタルジア、不安、空虚、憂愁、謎の空間を生み出す。「肖像画・肖像」は、デ・キリコがその初期から取り組んできた、過去の巨匠たちの作品との対話のテーマである。
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展示作品の一部
予言者 1914-15 ニューヨーク近代美術館蔵(James Thrall Soby Bequest) © Digital image, The Museum of Modern Art, New York / Scala, Firenze © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
赤い塔のあるイタリア広場 1934 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館蔵(L.F.コレクションより長期貸与) © Archivio Fotografico e Mediateca Mart © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
風景の中で赤い布を敷いて水浴する女 1945 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
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開館情報 デ・キリコ展、東京都美術館
2024年4月27日(土)〜8月29日(木)、9:30 〜 17:30 金曜日は20:00まで開館
休館日 月曜日 5月7日、7月9日~16日は休室  4月29日、5月6日、7月8日、8月12日は開室 土曜・日曜・祝日及び8月20日以降は日時指定予約制
入場料 一般 2200円、大学生・専門学校生 1300円、65歳以上 1500円、高校生以下・障がい者手帳提示と付き添い1名 無料
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。上智大学大学院、北海道大学大学院博士後期課程修了。
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参考文献
大久保正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
クロード・モネ『日傘の女』・・・藝術家と運命の女、カミーユの愛と死
藝術と運命との戦い、藝術家と運命の女 印象派、ジョルジュ・スーラ
ミラクル エッシャー展、奇想版画家の謎を解く8つの鍵・・・迷宮の旅人
「ヌード NUDE-英国テート・コレクションより」横浜美術館・・・愛と美の象徴、思想表現の自由の戦い
デ・キリコ、形而上絵画の謎・・・形而上絵画と古典絵画を往還する
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-bf7c56.html
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【ジョルジョ・デ・キリコの生涯と藝術1888-1978】
【ジョルジョ・デ・キリコ1888-1900】デ・キリコは、1888年イタリア人の両親の子、ギリシア、テッサロニキの都市ヴォロスで生まれ、家族とともに様々な街を転々とした。父エヴァリスト・デ・キリコは、イスタンブール生まれギリシアを起源に持つ富裕層イタリア人。鉄道建設を担当する鉄道技師として多くの事業を実現。母ジェンマは、ギリシアとトルコの混血のイタリア人、イズミールで生まれた。1900年、アテネの理工科学校に通う。この頃最初の静物画を描く。
【デ・キリコ、1905-1913】1905年、父死去。1906年、家族とともに、ギリシアを離れミュンヘンに移住する。1907年、ミュンヘンの美術アカデミーに入学。この頃、ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。1909年、ミラノに移住。1910年、フィレンツェに移住。弟はパリへ移住、1910年、最初の形而上絵画を手がける。1911年、パリへ移住。1912年、3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。1913年、パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。詩人で評論家のギョーム・アポリネールに注目され、「形而上絵画」と呼ばれる。後に親交をむすぶ。初めて絵の買い手が現れる。2024年シュールレアリスム宣言。2026年シュールレアリストと決別。
【ジョルジョ・デ・キリコ「ある秋の午後の謎」1910】1905年、父死去。1910年フィレンツェ移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受けて描いた「ある秋の午後の謎」を1912年のサロン・ドートンヌに出品、賞賛を受け、1913その数か月後、描き上げた30点の絵画の展覧会を開催。企画した詩人・批評家のギョーム・ド・アポリネールによって「形而上絵画」と呼ばれ、デ・キリコの名声は高まる。
【ジョルジョ・デ・キリコ、形而上絵画の謎2010】2010年、フィレンツェに移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受けて「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」4点絵画を描く。日常空間と古代建築。画面の左右で、遠近法の焦点が分裂している。長い影。人間が描かれていないか、微小である。彫刻、または、マネキンなどの特異な静物。画面内の時計が示している時刻と長い影が矛盾する。地平線に汽車が走る、煙はまっすぐ上に向かう。
【形而上絵画と古典絵画の間を往還するデ・キリコ】
【デ・キリコ、結婚、ローマ、スペイン広場】1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。1947年、60歳の時にスペイン広場の家にアトリエを構え、ここで妻であるイザベラ・ファーと晩年の30年を過ごす。デ・キリコはその後、古典的な作風に転じたが、晩年には幻想的な作風に回帰した。
スケジュールP27
反乱史P204

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2024年4月26日 (金)

孫崎享講演会「国際政治 ウクライナ戦争・ガザ・台湾問題」5月26日、上智大学1号館402教室、ソフィア文化芸術ネットワーク

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孫崎享講演会「国際政治 ウクライナ戦争・ガザ・台湾問題」5月26日、上智大学1号館402教室。午後14時~16時。外務省元国際情報局長、駐イラン大使。参加費1000円。問い合わせ、上智大学ソフィア会、TEL. 03-3238-3041
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【ウクライナ戦争】ウクライナは米国武器供与で戦う。武器が来なくなり壊滅。何が起こる。兵士の死、戦場へ徴兵を27歳から25に引き下げ。国土荒廃、国土奪取(支援無償から借款。穀倉地帯が喪失)。米国は主敵ロシアを弱体化【軍需産業は最高利益】この構図が日中。4月12日岸田首相訪米で日米軍事統合の促進、自衛隊の米軍隷属化。自衛隊、指揮系統を一体化、米国の部隊として行動。2022安倍晋三暗殺事件の真相は何か。バイデン政権、CIA関与。
【ガザ・ジェノサイド】ガザ戦争:ハマス攻撃当初、米国世論はイスラエル支援。しかしイスラエルの攻撃が一般市民の大量殺害で米国世論変化。3月イスラエルのガザでの軍事行動への評価で民主党系は支持18%、不支持75%。ウォーレン上院議員はイスラエルの行動をジェノサイド(大量虐殺)と表現。
孫崎享『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、上智大学、ソフィア文化芸術ネットワーク、2022
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戦争の根源【イギリスの三枚舌外交】1916年「サイクス・ピコ協定」三国協商を結んでいたイギリス・フランス・ロシアの三国は戦後オスマン帝国を分割する秘密協定、【オスマン帝国は多宗教共存】オスマン帝国滅亡、1917年11月【バルフォア宣言】イギリスは戦後パレスチナにユダヤ人国家を建設するとユダヤ人に宣言、1948年パレスチナに【イスラエル建国】パレスチナ人は難民となる。パレスチナ問題の源はイギリスの三枚舌外交にある。
1915年7月「フセイン・マクマホン協定(書簡)」この約束に基づいて、アラブの反乱を指導したのが有名な「アラビアのロレンス」。フセインは1916年にヒジャーズ王国を建国1918年にはフセインの子ファイサルがシリアの独立を宣言。2023年10月7日イスラム組織ハマスがガザからイスラエルを攻撃。戦争の根源はキリスト教。
【キリスト教、終末観、最後の審判、ハルマゲドン】最後の審判 とは、ゾロアスター教およびアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰である。特にキリスト教においては「怒りの日」と同義に扱われる。
【ポツダム宣言、原爆投下、7月25日】1945年(昭和20年)7月、アメリカのハリー・トルーマン大統領は、ドイツ・ポツダムでイギリス、ソ連の首脳との会談の会期中に原爆実験の成功を知った。7月25日、アメリカは日本への原爆投下命令を発し、翌26日、アメリカ・イギリス・中国の3カ国は日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表。ポツダム宣言には、日本が降伏するために重要と考えられていた天皇制存続の保証が記されず、また、原爆の存在や使用を暗示する言葉なかった。日本はポツダム宣言を受諾せず。 
http://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=DocumentView&document_id=17&lang=jpn
【30年戦争】三十年戦争の発端となったのは、1618年の ベーメン反乱 。カトリック信仰の強制に反発するベーメンの新教徒が起こした反乱。1648年に結ばれた ウェストファリア条約 をもって終結。条約の規定に伴い 神聖ローマ帝国は解体 【ジョン・ロック 著 『寛容についての手紙』1689】迫害、拷問、殺戮が、宗教の名によって横行した17世紀ヨーロッパ。信仰を異にする人びとへの「寛容」はなぜ護られるべきなのか? 本書は,この難問に対するロックの到達点。政治と宗教の役割を峻別し、人々の現世の利益を守るのは為政者の任務だが,魂の救済については宗教に委ねられる。後世に多大な影響を与えた「政教分離」の原典。
【キリスト教の戦争】異教弾圧、異教徒殺戮の起源【テオドシウス帝、異教弾圧、392年】【皇帝ユスティニアヌス1世】529年、ユスティニアヌス1世(483-565)、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令【十字軍戦争】第1回十字軍(1096~99年)。第4回十字軍(1202~04年)は,コンスタンティノープルを陥れてラテン帝国を建国。最後にルイ9世(聖王)が企てた第7回(1248~54年)と第8回(1270年)遠征、エジプトを攻撃。
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
★★★★★★★
【質疑応答】島薗進先生に、死生学、比較宗教学の観点を踏まえて、質疑応答しました。内容を記録します。島薗進「死生学 ファンタジーと魂の物語」2019年5月26日、上智大学6号館203教室にて。
1、宮澤賢治『雁の童子』、『インドラの網』、2、天正、織田信長、改元の目的、3、密教真言、藝術と魔術、5、学問の不可欠な要素。
島薗進×大久保正雄『死生学 ファンタジーと魂の物語』
島薗進×大久保正雄『死生学 宗教の名著』
【質疑応答】宗教学者、島薗進先生に死生学について質疑応答しました。2017.5. 28、上智大学にて。
1、宗教とは何か、2、宗教が生まれる原因は何か、3、世界観の選択、4、藝術家と宗教、5、天から降りてきた魂、6、 織田信長と天の思想、7.秘密曼陀羅十住心論、8、父殺しのテーマ、9、人の痛みを知ること、10、理念の崩壊は『純粋理性批判』から始まった。
島薗進×大久保正雄『死生学 ファンタジーと宗教』
島薗進×大久保正雄『死生学 人の心の痛み』
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
中野晃一講演会『強者の支配か自由な共存か』【質疑応答】解答篇、上智大学、ソフィア文化芸術ネットワーク
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-1a73db.html
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第365回
孫崎享講演会「国際政治 ウクライナ戦争・ガザ・台湾問題」5月26日、上智大学1号館402教室
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/04/post-498020.html

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2024年4月17日 (水)

「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第364回
【浄土教】平安時代、空也、源信は、念仏、西方極楽に往生、来迎、を説き、浄土教を広め、鎌倉時代、法然は、称名念仏・専修念仏、他力、総本山知恩院、浄土宗の開祖。鎌倉仏教の第一歩。親鸞は、阿弥陀仏の慈悲に報恩感謝の念仏、絶対他力、自然法爾、悪人正機、浄土真宗を開宗。室町時代、蓮如は、浄土真宗本願寺派第八世、山科の石山本願寺を建て、本願寺教団を組織化。
法然(法然房源空、1133~1212)。観想の念仏に対して称名念仏を唱え、南無阿弥陀仏と専修念仏すれば、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できる。末法の時代には、自力聖建門の教えは困難であり、他力易行の浄土門である。「極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と口で唱えれば疑いなく往生する」『一枚起請文』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【法然(法然房源空、1133~1212)】長承2(1133)年、美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使の漆間時国の子として生まれた。9歳の時に、父は預所の明石定明によって夜襲で殺された。幼名は勢至丸。叔父の観覚に従って剃髪。1147(久安3)年 15歳で比叡山に登り源光、皇円に師事。天台を学んだが、18歳1150年教学などに対する疑問を生じ、西塔黒谷の叡空のもとに隠棲、法然房源空と称した。以後20年間修学、叡空は,念仏は『観無量寿経』が説く観想の念仏に対して、法然は善導『観無量寿経疏』によって称名念仏に専修する悟りに達した。安元1(1175)年、43歳にして山を降り、東山の吉水に草庵を結び、老若貴賤を問わず教化した。1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し、建久9(1198)年関白九条兼実の依頼によって念仏の肝要を述べた『選択本願念仏集』。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され、至誠心(しじょうしん),深心(じんしん),回向発願心(えこうほつがんしん)の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく、阿弥陀仏によって救われるとした。1201年(建仁1)に親鸞も弟子となった。女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け、1207年讃岐に配流された。建暦1(1211)年許されて京に帰ったが翌、建暦2(1212) 年80歳の生涯を閉じた。門下に聖光、源智、証空、親鸞などを出し、日本浄土教の発展の基礎となった。
【『無量寿経』】浄土教の根拠は『仏説無量寿経』である。だが、ゴータマ・ブッダが説いたものではないことは言うまでもない。1世紀に仏典作者が創作した。『仏説無量寿経』。説法の舞台は王舎城(ラージャグリハ)耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、ある国の王が世自在王仏の説法を聞いて、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩となり、五劫という長い間思惟して、無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土に生まれたいと願い、この第十八願を「本願」、すべての人びとを信心と念仏によって救う本願こそ、浄土教の教えの根本。法蔵菩薩は願いを実現するために、兆載永劫果てしなく長い間修行を重ね、阿弥陀如来となった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
重要文化財「選択本願念仏集(廬山寺本)(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)鎌倉時代・12~13世紀 京都・廬山寺蔵
重要文化財「法然上人坐像」鎌倉時代・14世紀 奈良・當麻寺奥院蔵
国宝「法然上人絵伝、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎)、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝 「綴織當麻曼陀羅」 中国・唐または奈良時代・8世紀、奈良・當麻寺蔵 画像提供:奈良国立博物館
「仏涅槃群像」香川・法然寺、「さぬきの寝釈迦」を81体の菩薩や動物たちが囲む。
狩野一信「五百羅漢図」増上寺、江戸時代、19世紀
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参考文献
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
https://bit.ly/3B53Xvn
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/post-cf7488.html
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
https://bit.ly/3HFXOt8
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/04/post-ce2b9b.html
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第1章 法然とその時代
相次ぐ戦乱、頻発する天災や疫病、逃れられない貧困など、平安時代末期の人々は苦悩に満ちた「末法」の世に生きていました。この時代に生を享けた法然は、比叡山で天台僧としての修行を積みますが、43歳の承安5年(1175)、唐の善導の著作によって専修念仏の道を選びました。「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるという教えは幅広い階層の信者を得ます。しかし、既存の仏教界からは念仏を止めることが強く求められ、ついに法然は75歳のとき讃岐国(香川県)へ配流されるに至りました。やがて帰京し、80歳で往生を遂げます。本章では、浄土宗の歴史のはじまりである、祖師・法然の事績や思想をたどります。
――
2章 阿弥陀仏の世界
法然は、本尊である阿弥陀如来の名号をひたすらに称える称名念仏をなにより重んじました。貴賎による格差が生まれる造寺造仏などの善事をすることには否定的で、法然自身は阿弥陀の造像に積極的ではありませんでした。
しかし、それを必要とする門弟や帰依者らには認めました。彼らは阿弥陀の彫像や来迎する様を描いた絵画を拝し、日ごろ念仏を称え、あるいは臨終を迎える際の心の拠りどころとしたのです。多くの人々の願いが込められた阿弥陀の造形の数々は、困難の多い時代、庶民にまで広がった浄土宗の信仰の高まりを今に伝えています。
3章 法然の弟子たちと法脈
法然のもとには彼を慕う門弟が集い、浄土宗が開かれました。法然没後、彼らは称名念仏の教えを広めようと、それぞれ精力的に活動をおこないます。九州(鎮西)を拠点に教えを広めていった聖光の一派である鎮西派は、その弟子良忠が鎌倉を拠点として宗勢を拡大しました。また、証空を祖とする一派である西山派は、京都を拠点に活動を展開し、『観無量寿経』を図示した當麻曼陀羅を見出しその流布に大きな業績を残しました。
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平安時代末期、繰り返される内乱や災害・疫病の頻発によって世は乱れ、人々は疲弊していました。比叡山で学び、中国唐代の阿弥陀仏信仰者である善導(ぜんどう、613~681)の教えに接した法然(法然房源空、ほうねんぼうげんくう、1133~1212)は、承安5年(1175)、阿弥陀仏の名号を称えることによって誰もが等しく阿弥陀仏に救われ、極楽浄土に往生することを説き、浄土宗を開きました。その教えは貴族から庶民に至るまで多くの人々に支持され、現代に至るまで連綿と受け継がれています。
本展は、令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依(きえ)によって大きく発展を遂げるまでの、浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝、重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものです。困難な時代に分け隔てなく万人の救済を目指した法然と門弟たちの生き方や、大切に守り伝えられてきた文化財にふれていただく貴重な機会です。
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「法然と極楽浄土」東京国立博物館、2024年4月16日(火)~6月9日(日)
京都国立博物館 平成知新館
会期:2024年10月8日(火)〜12月1日(日)
住所:京都府京都市東山区栄屋町527
九州国立博物館
会期:2025年10月7日(火)〜11月30日(日)
住所:福岡県太宰府市石坂4-7-2

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2024年4月 6日 (土)

時間旅行・・・因果の時空的制約を超えて、青ぞらいつぱいの無色な孔雀「春と修羅」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第363回
桜咲く道を歩いて、東京都写真美術館に行く。「春と修羅」から始まる時空の旅である。人生の岐路を選択することは、自然界の因果の時空の制約を超えて、運命を超えることである。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質】師が優れているか否かが最も重要【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図、基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は極めて稀である】
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子に放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の諸行無常と慈悲を教える。空海は大学寮明経科を退学、官僚の立身出世の道を辞す。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「春と修羅」(正午の管楽よりもしげく琥珀のかけらがそそぐとき)、いかりのにがさまた青さ、四月の気層のひかりの底を、唾つばきし、はぎしりゆききする、おれはひとりの修羅なのだ、(風景はなみだにゆすれ)、砕ける雲の眼路めぢをかぎり、れいろうの天の海には、聖玻璃せいはりの風が行き交ひ、ZYPRESSEN 春のいちれつ「春と修羅」『心象スケッチ 春と修羅』
【因果の時空的制約のもとにありながら、青ぞらいつぱいの無色な孔雀】
「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です、(あらゆる透明な幽霊の複合体)、風景やみんなといつしよに、せはしくせはしく明滅しながら、いかにもたしかにともりつづける、因果交流電燈の、ひとつの青い照明です、(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」1924(大正13)年『心象スケッチ 春と修羅』序より
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展示作品の一部
黒岩保美《D51 488 山手貨物線(恵比寿)》1953年 ゼラチン・シルバー・プリント 東京都写真美術館蔵
桑原甲子雄《(地下鉄入口)》1930-39年 ゼラチン・シルバー・プリント 東京都写真美術館蔵
杉浦非水《帝都復興と東京地下鉄道》1929年頃 リトグラフ、オフセット・ポスター 国立工芸館蔵
《サッポロビール・リボンシトロン ポスター》1927年頃 画像協力:サッポロビール株式会社
大束元《夜空の構成 数寄屋橋にて》1958年 ゼラチン・シルバー・プリント 東京都写真美術館蔵
ロベール・ドアノー、パリ市庁舎前のキス、1950東京都写真美術館蔵
島田洋助、釜石駅の列車、1950東京都写真美術館蔵
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参考文献
【親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
図録「時間旅行 千二百箇月の過去とかんずる方角から」東京都写真美術館2024
時間旅行・・・因果の時空的制約を超えて、青ぞらいつぱいの無色な孔雀「春と修羅」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/04/post-8d831a.html
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時間旅行 千二百箇月の過去とかんずる方角から
本展は「時間旅行」をテーマとする東京都写真美術館のコレクション展。人が様々な時代を自由に旅する「時間旅行」という発想は昔からよく知られたSF的なファンタジーだが、想像の世界や芸術の領域では、人は誰でも時間と空間の常識を飛び越えることが可能なのではないでしょうか。
詩人で童話作家の宮沢賢治が1924(大正13)年に刊行した『心象スケッチ 春と修羅』序文では、宇宙的なスケールの時間感覚の中で「わたくし」の心象、言葉で記録された風景、そして森羅万象とがひとつに重なりあったような「第四次延長」という世界が描かれます。その世界観は当時の最先端の科学や思想から影響を受けた宮沢賢治の想像力が生み出したものです。しかし百年前の詩人の言葉とそれを生み出した想像力には、現代という分断の時代を生きる私たちの心にも響く何かがきっとあるはずです。
本展は百年前である1924年を出発点として、「1924年–大正13年」「昭和モダン街」「かつて、ここで」「20世紀の旅」「時空の旅」の5つのセクションに分け、37,000点*を超える当館収蔵の写真・映像作品、資料を中心にご紹介します。「時間旅行」をテーマとする本展で鑑賞者は、それぞれの時代、それぞれの場所で紡ぎ出される物語と出会うことができるでしょう。また、本展は宮沢賢治による『春と修羅』序文の言葉をひとつの手掛かりとして、戦前、戦後そして現代を想像力によってつなぐ旅でもあります。写真と映像による時空を超えた旅を、どうぞお楽しみください。
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TOPコレクション、 東京都写真美術館、2024年4月4日(木)〜7月7日(日) 

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2024年3月28日 (木)

ジョニー・デップ『ツーリスト』2010、『ナインスゲート』1999・・・迷宮の旅人

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第361回
【理念を探求する精神】ソクラテス「魂ができる限り善きものになるように配慮しなければならない。」(『ソクラテスの弁明』29d-e) 「ただ生きるのではなく、善く生きること、美しく生きること、正しく生きること」プラトン『クリトン』「魂が魂自体になる。存在が存在自体になる。」プラトン『パイドン』63 e 8-69e5「存在をめぐる神々と巨人族との戦い」イデアリストと物質主義の戦い。プラトン『ソフィステス』(245E~249D)
【カネと地位で買えない価値】富とは、お金で買えないものをどのくらい持っているかである。お金で家は買えるけれど家庭は買えない。お金で学校は買えるけれど学問は買えない。知性は買えない。お金で地位は買えるけれど人格は買えない。魂の美は買えない。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質】師が優れているか否かが最も重要【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図、基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は極めて稀である】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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『ツーリスト』2010、『ナインスゲート』1999・・・迷宮の旅人
【「ツーリスト」ジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリー】アメリカ人旅行者フランク・トゥーペロ(ジョニー・デップ)は、パリからベネチアへ向かう列車の中で、謎めいた美女エリーズ・クリフトン・ワード(アンジェリーナ・ジョリー)と出会う。彼女に誘われるまま、ベネチアの超一流ホテル【ダニエリ】にチェックインし、夢のようにゴージャスでロマンチックな時を過ごすフランク。しかし、一夜明けると悪夢のように恐ろしい運命が待っていた。エリーズは富豪の犯罪者の恋人、富豪の巨額預金のカギを握る。彼女は警察の潜入捜査官。数学教師フランクは、エリーズの恋人で誰にも顔を知られていない大物犯罪者と同一視され、捜査当局と巨大ギャングの双方から追われるはめになったのだ。光と影が怪しく揺らめく水の都ベネチア。周到に張り巡らされた迷路のような罠から、フランクとエリーズはいかにして脱するのか? 華麗でセクシーな極上ミステリーが今、幕を上げる!Sonypictures.jp、2010

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【『ナインスゲート』(The Ninth Gate )1999、ロマン・ポランスキー(Roman Polanski、1933年8月18日 - )監督、ジョニー・デップ主演、音楽・ヴォイチェフ・キラール、原作アルトゥーロ・ペレス=レベルテ
の小説『呪いのデュマ倶楽部』集英社】
稀覯本の鑑定家であり、書物探偵であるディーン・コルソ(ジョニー・デップ)は、相手の無知に付けこんで安く買い取る古書蒐集家。ある日コルソは、バルカン出版のオーナー、膨大な蔵書のコレクターである富豪ボリス・バルカンから、自分が所有する悪魔の祈祷書「闇の王国への九つの扉」について、世界に同じものが3冊存在しているが、どれが本物なのか調査をしてほしいと依頼される。本は美術品であり、絵画や骨董品の資産価値がある。入念に調べると、本に挿入されている版画の違いに気づく。緑の瞳を持つ謎の女(エマニュエル・セニエ=ロマン・ポランスキー監督夫人)が付きまとい、コルソを悪魔の書へ導く。祈祷書には扉の版画があり、9枚集めるが、持ち主は次々と謎の死を遂げ、探索は難航する。トレドの古城へたどり着くコルソの運命を握る者は誰か。
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『ライラの冒険 黄金の羅針盤』・・・守護精霊をもつ者、運命の羅針盤はどこに
https://bit.ly/2PY42s7
『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』・・・胸には復讐、目には狂気
、そして手には剃刀を
https://bit.ly/2NaDHrS
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【親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
【利益重視の女はどんなにきれいでも嫁にしてはいけない。カマキリの雌は交尾後、雄を食べる。ハリガネムシとなって寄生する】アル中の向上心のない男と結婚する女はクズ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は万病の元。ガン、脳梗塞、痴呆症の原因は飲酒癖。
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
https://bit.ly/3oBk8NX 
【富は、苦労してかいた汗からではなく、深い思考から生まれる】人生に最も重要なのは俯瞰と設計。人生の方向性を考えること。設計図を持たない人、人生を飛躍させるためには、些細な事に時間を浪費してはいけない【壮大な計画を考えよ。人生の究極目的は魂を磨くことである】
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm 
ジョニー・デップ『ツーリスト』2010、『ナインスゲート』1999・・・迷宮の旅人
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-935421.html

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2024年3月 3日 (日)

マティス 自由なフォルム・・・《豪奢、静寂、逸楽》、旅路の果て


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第360回
一瞬の出会い、運命は変わる。岐路を導く人は、師である。藝術家、ミューズ、母の恩。魔術師の旅、旅路の果て。よき師と出会い、美しい人と出会い、幸運の女神に会い、美しい卓越性を成し遂げよう。
【《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 優雅な生活】
マティスは「精神安定剤のような、肉体の疲れを癒す、良い肘掛け椅子のような存在」を芸術の理想としていた。戦争で息子を徴兵され、大病を患い、人生には辛い事もあった。それでも画中に苦しみを持ち込まず、調和に満ちた作品を創作し続けた。
自分が感じた深い感動に対する繊細な感覚、芸術を探求する精神。マティスは20世紀初頭の絵画運動であるフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動した後、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と形の探求に捧げた。
マティスの理想の境地は、南フランスの《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活であり、50年間《豪奢、静寂、逸楽》であり続けることは幸せである。
*Luxe, Calme, et Voluptéボードレールの『悪の華』の詩「L'Invitation au voyage」旅へのいざない
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【一瞬の出会い、運命は一瞬で変わる】よき師と出会い、美しい人と出会い、運命の女神に会い、不滅の魂で、美しい卓越性を成し遂げよう。
世界には君以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、問うてはならない。ひたすら進め。
There is only way no one can walk besides you in the world. A field's reaching where or, you aren't supposed to care. Advance earnestly.
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図】【先生が持つ基礎認知力、持っている体系】知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は極めて稀である】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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アンリ・マティス(1869~1954) 色彩の魔術師 84歳で死す。
20世紀美術を代表する画家の一人、アンリ・マティス(1869~1954)、フォーヴィスム(野獣派)で有名だが、生涯、色彩と線への旅をつづけ、84歳で死す。
裕福な家庭に生まれ、法律家の道を歩んでいたマティス。画家を志したのは21歳のとき、病気で療養中だった彼に母親が絵具箱を贈ったことがきっかけである。法律の学位を得て代訴人の仕事をしていたマティスは、23歳でギュスターヴ・モローの弟子となる。
美術学校や画家のもとで教えを受け、ルーヴル美術館で古典作品の模写をし技術を磨いていったマティスは、次第に自分自身の表現を探求する1898年、アメリー・パレイルと結婚。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した。
【ポール・シニャック(Paul Signac)との出会い、コリウール1905、36歳】
ポール・シニャック『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』1899に影響を受け、筆触分割の技法を用いる。D'Eugène Delacroix au Néo-impressionisme
1905年、家族とともに、海辺の町、コリウールで夏を過ごす。《日傘を持つ婦人》1905年、を描く。《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 1904年、35歳。《豪奢、静寂、逸楽》は、ポール・シニャック(1863-1935)の招きで南仏に赴いたマティスがパリで仕上げた実験的作品、新印象派の筆触分割(絵具を混ぜず直接筆で)に実験的に取り組んだマティス転換期の重要作品。色彩と線描の衝突というテーマをそのまま残す作品となる。
【「フォーヴィスム(野獣派)」】
荒々しい筆遣いと鮮やかな色彩が特徴的な作品が1905年サロン・ドートンヌに出品されると、批評家ルイ・ヴォークセルによって展示室は「野獣の檻」と呼ばれ、「フォーヴィスム(野獣派)」の画家と呼ばれるようになる。美術界に確かな地位を築きつつ、マティスはさらなる進化を続ける。本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館
フォーヴィスム(野獣派)「豪奢1(Luxe)」1907年
【窓、部屋の中と外の世界とをつなぐ】
生涯にわたり室内のアトリエを創作の場としたマティスにとって、窓は部屋の中と外の世界とをつなぐ重要なモティーフ。金魚もマティスが繰り返し描いたモティーフで、《金魚鉢のある室内》1914年、で窓際に置かれた金魚鉢が内と外の世界を映り、小宇宙のような空間を生み出す。生前には公開されなかった《コリウールのフランス窓》。黒く塗りつぶされた部分は当初、外の眺めが描かれていた。第一次世界大戦勃発直後に描かれた。
【第一次世界大戦が終わりニースへ、南仏の光 1917-1930】
拠点を移したマティスは、南仏の光の中で精力的な創作活動を展開。多数描かれた「オダリスク」もこの時期に取り組んだ、《赤いキュロットのオダリスク》1921年はその皮切りとなった作品。旅先のモロッコで仕入れた布に、手作りのアクセサリーや衣装。マティスの装飾へのこだわり。マティスが色と同じく大事にした、線の表現。デッサンは「自分の中に芽生えた創作の気持ちを観る人の心にダイレクトに伝えることができる方法」。
1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と呼ばれる。
【マティス60代、リディア・ディクトルスカヤ1935】
《夢》1935以降モデルとして彼のミューズとなったリディア・ディクトルスカヤ。その後マティスが亡くなるまでの20年間、リディアはそばで彼を支え続ける。
《座るバラ色の裸婦》は少なくとも13回描き直されていて、リディアの顔がだんだん抽象的に、そして最終的には線姿。マティスは鑑賞者の想像力をつぶすすべての制限から作品を解放した。
多くの芸術家が国外へ逃げる中、齢70近かったマティスは国を離れることを断念。同時 期に十二指腸癌を患い大手術を受ける。その後、空爆を避けニースからヴァンスに移ったマティスが最後の油絵連作として取り組んだ「ヴァンス室内画」シリーズ。《黄色と青の室内》はその第1作。奥行のない不思議な画面構成なのに、調和した空間。シリーズ最終作《赤の大きな室内》1948。直角で隣り合うふたつの壁、その角を表す黒線はベンチの背までで切れている。
【切り紙絵、色彩と線描1947】
一日の大半をベッドで過ごすようになりカンヴァスに向かうことが難しくなったマティスは、絵筆をはさみに持ち替え、切り紙絵を創作するようになる。色彩と線描(ドローイング)の対立をどう超えるか。色彩と線描(ドローイング)という造形作業が同時にできる切り紙絵は、マティスにとって到達点ともいえる表現方法。
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」)》1947年
【ヴァンス・ロザリオ礼拝堂1951】
最後はマティス最晩年の作品、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂。建物の設計、装飾、什器、祭服や典礼用品に至るまでを手がけた総合芸術作品、マティスの集大成。マティスはこれを「運命によって選ばれた仕事」として、光、色、線が一堂に会する静謐な空間を創りあげた。
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参考文献
『マティス 自由なフォルム』図録、読売新聞社、2024
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
マティス 自由なフォルム・・・《豪奢、静寂、逸楽》、旅路の果て
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-34a6f3.html
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展示作品の一部
アンリ・マティス《日傘を持つ婦人》1905年
アンリ・マティス《森の中のニンフ(木々の緑)》1935-1943年
油彩/カンヴァス、245.5 × 195.5 cm、オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《森の中のニンフ(木々の緑)》1935-1943年
油彩/カンヴァス、245.5 × 195.5 cm、オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《ブルー・ヌード IV》1952年、切り紙絵、103 × 74 cm
オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《花と果実》1952-1953年
切り紙絵、410 × 870 cm、ニース市マティス美術館蔵
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
ヴァンスに建つロザリオ礼拝堂
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
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アンリ・マティス《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 1904年、オルセー美術館
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20世紀最大の巨匠アンリ・マティス(1869-1954)。自然に忠実な色彩から解放された大胆な表現が特徴のフォーヴィスムの中心人物としてパリで頭角を現します。後半生の大半を過ごすこととなるニースではアトリエで様々なモデルやオブジェを精力的に描く一方で、マティスは色が塗られた紙をハサミで切り取り、それを紙に貼り付ける技法「切り紙絵」に取り組みます。
本展はフランスのニース市マティス美術館の所蔵作品を中心に、切り紙絵に焦点を当てながら、絵画、彫刻、版画、テキスタイル等の作品や資料、約150点を紹介するものです。なかでも同館が所蔵する切り紙絵の代表的作例である《ブルー・ヌードⅣ》が出品されるほか、大作《花と果実》は本展のためにフランスでの修復を経て日本初公開される必見の作品です。
本展ではさらに、マティスが最晩年にその建設に取り組んだ、芸術家人生の集大成ともい えるヴァンスのロザリオ礼拝堂にも着目し、建築から室内装飾、祭服に至るまで、マティスの至高の芸術を紹介いたします。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2024/matisse2024/index.html
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マティス 自由なフォルム、国立新美術館
2024年2月14日(水) ~ 2024年5月27日(月)

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2024年2月29日 (木)

大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第359回
地位、名声、財産に溺れる者に嵯峨天皇の遺詔を捧げよう。
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて動乱を超えて、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのか。狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面に、蓮の四季が描かれている。
織田有楽斎(1547-1621)織田信長の一族、織田信雄、徳姫、お市の方、浅井三姉妹、茶々、江、初と共に生き残る。運命に翻弄された織田信長の一族、信長の子、信雄、徳姫、長益。信長の弟、茶の湯三昧74歳で死す。
織田有楽斎(1547-1621)、織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟、十一男として生まれた。織田長益は、天文16年(1547)に織田信秀の十一男として生まれ、幼名を源吾(源吾郎)といい、信長の13歳下の弟。武将として活躍。
【建仁寺の塔頭、「正伝院、如庵」】晩年、京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興、隠棲。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られている。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えている。
本能寺の変、天正10年(1582)、織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所において、籠る長益の主君・織田信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず、長益は御所を脱出したことから、京の人々には「逃げた(男)」と揶揄された。さらにその後、【信雄(信長の次男)】に仕え、徳川家康と豊臣秀吉の講和を調整するなど存在感を示した、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆に加わり。【1600年関ヶ原の戦い】東軍として参戦し、戦後も豊臣家に仕えたが、【大坂冬の陣1614年】大坂城に入り淀殿の叔父として淀殿・秀頼母子を補佐したが、徳川方へ配慮、冬の陣においては豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得。【大坂夏の陣1615年】前には家康の許可を得て主君から離れた。【1616年、徳川家康死す】1621年、有楽斎、死す。
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嵯峨天皇、遺詔 嵯峨天皇は遺詔(亡くなる前の詔勅、遺言)に次のように懐(こころ)を述べている。
余昔し不徳を以て久しく帝位を忝(かたじけな)うす。夙夜兢兢として黎庶(れいしょ:人民)を済(すく)はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。豈(あ)に但(ただ)に愚憃微身(ぐとうびしん:愚かでつたない者、自卑の辞)の有(ゆう:持ち物)のみならんや。故に万機の務(つとめ)を以て、賢明に委(ゆだ)ぬ。
一林の風、素(もと)より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊(たんぱく)ならんと思欲(しよく)す。「続日後本紀」承和九年条
【嵯峨天皇、遺詔】徳のない身でありながら長く帝王として天下を預かる間、民に良くあれと願って一心に努めてきた。しかし天下とは有徳の聖人が大切に扱うべき宝である。愚憃微身、拙い身が長くその位置に就き所有するものではない。するべき務めを果たして次代の優れた人物にこれを委ねた。静かな林に風を感じて佇むこと、それがもともと心の愛する好みの暮らしである。地位も権威もいらない、山の麓や水のほとりを散歩し、のんびり何事も為さず、琴を弾き書を読んで遊び、気ままに暮らしたいと思っていた。「続日後本紀」承和九年条
「続日後本紀」承和九年
太上天皇崩于嵯峨院。春秋五十七。遺詔曰、余昔以不徳。久恭帝位。夙夜兢兢、思済黎庶。然天下者聖人之大宝也。豈但愚憃微身之有哉。故以万機之務。委於賢明。一林之風、素心所愛。思欲無位無号詣山水而逍遥、無事無為翫琴書以澹泊。
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【天狗になる人、地位、名声、財産に溺れる者】自惚れる忖度教授、忖度官僚【名声に溺れる芸術家】あまり賢くない人は、自分が理解できない事については何でもけなす。ラ・ロシュフーコー『箴言集』【金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい】(マタイ19章16-26節)【階級社会に溺れる人】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
織田有楽斎像 狩野山楽筆 古㵎慈稽賛、一幅 元和8年(1622)、正伝永源院
蓮鷺図襖(部分) 狩野山楽 十六面、江戸時代 17世紀、正伝永源院
松平陸奥守書状 織田有楽斎宛、一幅 江戸時代 17世紀、正伝永源院
重要美術品 大井戸茶碗 有楽井戸、一口 朝鮮王朝時代 16世紀、東京国立博物館 
青磁輪花茶碗 銘鎹、馬蝗絆 南宋時代 12世紀
平重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨した。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。
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参考文献
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-f37048.html
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織田有楽斎(1547-1621)
天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺において織田信長が自刃すると、彼の命運も激変する。本能寺の変の時、長益は織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けた。親王を逃走させると信忠は自害したが、長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられる。仕えている主君が自害し長益は難を逃れたことから、風聞書などのいくつかには、長益に“逃げた男”というレッテルを貼り、悪し様に評するものもあり。
戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代、長益は有能な大名としての地歩を固めていきますが、夏の陣を前に京都・二条へ移り、また建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とします。もともと長益は利休も一目を置く茶人であり、法躰となり有楽斎と号した後も茶の湯に執心し、高僧や、古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と結びながら茶会を開いていきます。これらの活動を示す書状はいまも正伝永源院に多く残り、茶人としての姿をよく示しています。
正伝院を終の住処とする頃にはすでに当時の茶の湯に重要な役割を果たすようになっていました。正伝院に茶室「如庵」を造営し、茶の湯三昧の日々を送った有楽斎が生前に集めた茶道具は、没後、孫の織田三五郎(長好)が引き継ぎます。その後、これらは織田三五郎の遺言によって形見分けされ、残りは正伝院に寄進。今は、行方不明が多い。
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四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
サントリー美術館、2024年1月31日(水)~3月24日(日)

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2024年2月26日 (月)

印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第358回

アルノ河の水辺の樹々に夢をみる、枯れ木に夕日が射すと希望を予感する、荒野にアーモンドの花が咲くと春を感じ、林檎の花が咲くと蘇りを感じ、子供を抱く母親に新生を見る。印象派の画家は陽光に輝く世界を表現した。クロード・モネ(1840-1926) 『印象・日の出』(1872)から印象派は始まる。印象派は、リアリズムの一派である。20世紀、海を超えて、メアリー・カサット、チャイルド・ハッサム、ジョゼフ・グリーンウッド、トマス・コールに影響を及ぼした。トマス・コール『アルノの眺望』に、フィレンツェのみずみずしい樹木と川の調和が描かれている。モネは、絶望をどう超えたのか。
【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1890年代後半からは300点の〈睡蓮〉に取り組む。
1899年からロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描く。【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】1908年頃から、視覚障害に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【世紀末の旅人】リアリズムからアンチリアリズムへ【アンチリアリズム、象徴派、ラファエロ前派、幻想派、フォービスム、形而上絵画、シュルレアリスム】
【20世紀、アンチリアリズムの世紀】19世紀ヨーロッパ文学はリアリズムを追求したが、20世紀はアンチリアリズムの世紀。18世紀小説、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』に夏目漱石は、深い影響を受けた。これを実験したのが『草枕』(1906)。
【ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』】アンチリアリズムの実験をした夏目漱石『草枕』。(*未完の小説。全9巻1759年の末から1767年)。この18世紀小説に、20世紀文学、アンチリアリズム文学は深い影響を受けた。アンドレ・ジイド、カフカ、ジェイムズ・ジョイズ『フィネガンズ・ヴェイク』、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト。他方、日本の明治文学は、1900年以降、やっとリアリズム文学に辿りつく。花袋『布団』藤村『破戒』。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー《ヴィル = ダヴレーの牧歌的な場所ー池畔の釣り人》 (1865-70) ウスター美術館蔵
メアリー・カサット《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーヴル(母と子)》(1902-03) ウスター美術館蔵
トマス・コール 《アルノ川の眺望、フィレンツェ近郊》(1837) ウスター美術館蔵
ウィンスロー・ホーマー《冬の海岸》(1892) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《税関吏の小屋・荒れた海》(1882) 日本テレビ放送網株式会社蔵
チャイルド・ハッサム《花摘み、フランス式庭園にて》(1888) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《睡蓮》(1908)ウスター美術館蔵
チャイルド・ハッサム《シルフズ・ロック、アップルドア島》(1907)、チャイルド・ハッサム《コロンバス大通り、雨の日》(1885)ウスター美術館蔵
ジョゼフ・H・グリーンウッド《リンゴ園》(1903) ウスター美術館蔵
エドマンド・チャールズ・ターベル《ヴェネツィアン・ブラインド》(1898) ウスター美術館蔵
ポール・シニャック《ゴルフ・ジュアン》(1896) ウスター美術館蔵
デウィット・パーシャル《ハーミット・クリーク・キャニオン》(1910-16)ウスター美術館蔵
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参考文献
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
佐伯祐三 自画像としての風景・・・世紀末の旅人
https://bit.ly/3wx4tQw
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html

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印象派 モネからアメリカへ 海を超えて花開いた印象派 ウスター美術館所蔵
第1回印象派展から150周年を迎える2024年、印象派がヨーロッパやアメリカへもたらした衝撃と影響をたどる展覧会を開催します。19世紀後半、大都市パリには国外からも多くの画家が集いました。パリで印象派に触れ、学んだ画家たちは、新しい絵画の表現手法を自国へ持ち帰ります。本展は、西洋美術の伝統を覆した印象派の革新性とその広がり、とりわけアメリカ各地で展開した印象派の諸相に注目します。
アメリカ・ボストン近郊に位置するウスター美術館は、1898年の開館当初から印象派の作品を積極的に収集してきました。このたび、ほとんどが初来日となる同館の印象派コレクションを中心に、日本でもよく知られるモネ、ルノワールなどフランスの印象派にくわえ、ドイツや北欧の作家、国際的に活動したサージェント、さらにはアメリカの印象派を代表するハッサムらの作品が一堂に会します。これまで日本で紹介される機会の少なかった、知られざるアメリカ印象派の魅力に触れていただく貴重な機会となります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_worcester.html
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印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵
東京都美術館、1月27日~4月7日
福島県の郡山市立美術館(4月20日~6月23日)、東京・八王子市の東京冨士美術館(7月6日~9月29日)、大阪市のあべのハルカス美術館(10月12日~2025年1月5日)

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