2021年9月22日 (水)

ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第253回

金木犀の香り漂い、銀杏の実が降り積もる森、トイプードルを散歩させる婦人が彷徨する森、初秋の森を歩いて、美術館に行く。
【ヘレーネは何故ゴッホの絵画を収集したのか】ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、ゴッホの藝術に、精神性、魂の叫びを見出し、共感した。神学校に入り牧師になろうとしたが挫折したゴッホ、ヘレーネはキリスト教に馴染めず、ゴッホの魂の真実に響きあい共鳴、ゴッホ作品、油彩画90点、素描・版画180点、計270点を収集した。ゴッホ作品最大の州主家である。
【破天荒な無頼放浪派】ゴッホは、破天荒な無頼放浪派であり、官僚事務官のベラスケス、職人型フェルメールとは雲泥の差がある。
【不幸な人生】
ゴッホは、人間関係を構築できない、孤立を極めた。家族と社会との軋轢に苦悩した。
フィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、フロート・ズンデルト村に生まれた。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男。1869年(16歳)美術商グーピル商会に就職するが解雇。1876年(23歳)新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子に衝撃を受ける。1878年(25歳)ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。79年、半年間の期限付き、伝道師になるが解任。1885年(32歳)3月、父が脳卒中で急死。父子は最後まで理解し合えず。
27歳、画家になる決意をするが作品は売れず、弟テオだけが彼を援助した。売れた絵は生涯1枚だけ。ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかる。アルルにて耳切り事件、オーベール・シュル・オワーズにて拳銃自殺、2日後37歳で死す。油絵約850点を残す。4か月後、弟テオ、死す。宮澤賢治がゴッホ『糸杉』を愛好した『春と修羅』。ゴッホは、人間関係を構築できず苦悩した。
【画家生活10年】ゴッホは、10年間で、2000枚のデッサン、850枚の絵画を描いた。ゴッホが描かなかった絵画がある、それは何故か。
【ゴッホの謎】何故、ゴッホは、画廊勤務、伝道師を辞めたのか。何故、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかり、アルルにて耳切り事件、拳銃自殺したのか。
【藝術家、思想家と運命との戦い】思想と藝術を生みだすのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、魔術である。敵との闘争における武器である。思想家は人生の戦いにどう挑み、逆襲するのか。美のイデアのための戦いである。思想と藝術は悩める人の魂を癒す音楽である。醜悪な敵との正義の戦い。思想は悲しみと苦しみから生まれる。
【レオナルドが描いて、ゴッホが描かなかったテーマ】ゴッホが描かなかったテーマは何か。レオナルド、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ミケランジェロ、ブロンズィーノ、巨匠はヴィーナスを描いた。ルノワールは、こればかり描いた。
【印象派画家たち、絶望的人生】印象派の画家は、ほとんどゴッホのように絶望的人生を生きた。画家として成功した富豪画家がいる。
【魂の叫び】美しい心は美しい言葉となる。心は言葉になり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。運命に歯向かい、逆境と戦う、美麗な王妃は、残虐王に幽閉され、美を探求する王子は、残虐な王に虐待される。
【運命との戦い、美の女神】藝術家、思想家は、運命と戦う。邪知暴虐と戦い、この世の闇の彼方に美を求める。虚無の神殿にて、美の女神へ供物を捧げる。美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい夕暮れ。美しい魂に、美の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホの人と藝術】
ゴッホ、画家活動10年、27歳から37歳、1880年から1890年まで。
【ゴッホ、ハーグ派、灰色派】ハーグ時代、ハーグ派、灰色派、第二のレンブラント、ヨゼフ・イスラエルス「貧しい人々の暮らし」、バルビゾン派、ミレイ「種をまく人」(1850)を尊敬、影響を受ける。ゴッホの師、アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」。ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885。
【パリ】1886年、パリに行く。パリ以後、「自画像」を40枚描く。「パリの屋根」1886。印象派の父、カミーユ・ピサロに会う。浮世絵の国日本に憧れアルルへ旅立つ。
【ゴッホ、アルルへ】1888(35歳)、ゴッホ、35歳でアルルに移住する。10月、「黄色い家」でのゴーガンとの共同生活が始まる。1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。ゴッホ「麦畑」アルル1888。「種をまく人」(1888)3枚(クレラー・ミュラー、ファン・ゴッホ美術館、「日没を背に種をまく人」ビュールレ・コレクション)。「ひまわり」(1888)7枚。描く。「ローヌ川の星月夜」1888。「アルルの跳ね橋」1988。
【ゴッホ、サン・レミ時代】独自の境地に到達する、ゴッホ「糸杉」サン・レミ1889年6月(メトロポリタン美術館)。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。
【オーベール時代】ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。ゴッホ「星月夜」オーベール・シュル・オワーズ。
【ゴッホ、最後の境地】ゴッホ「糸杉」サン・レミ1889。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。オーベール・シュル・オワーズ時代、ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。「糸杉と星のある道」1890、ゴッホ「星月夜」オーベール・シュル・オワーズ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
「種をまく人」(1888)クレラー・ミュラー美術館
「糸杉と星のある道」≪夜のプロヴァンスの田舎道≫オーベール・シュル・オワーズ1890年5月12-15日頃、クレラー・ミュラー美術館
「黄色い家」(1888)ファン・ゴッホ美術館
「ジャガイモを食べる人々」版画1885クレラー・ミュラー美術館
「悲しむ老人」『永遠の門にて』1890クレラー・ミュラー美術館
ジョルジュ・スーラ「ポール・アン・ベッソンの日曜日」1888クレラー・ミュラー美術館
ルドン「キュクロープス」1914。クレラー・ミュラー美術館。象徴派、花と目の画家。謎の人生。謎のドムシー伯爵と交流。ルドンは、なぜ50歳で色彩画を描き始めたのか。
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参考文献
ゴッホ、上野の森美術館・・・ハーグ派、灰色派から印象派、糸杉への道
https://bit.ly/3hySZ7S
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」東京都美術館
http://bit.ly/2zluV3g
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
ルノワール『イレーヌ』・・・非情な運命が襲いかかる、波瀾に立ち向かう
https://bit.ly/2ZlgdIp
印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで・・・枯葉舞う秋の夕暮れ

https://bit.ly/2Mwg63Z
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館2010
https://bit.ly/3Cf9rCk
「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」東京国立近代美術館2005年3月23日~5月22日
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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六道輪廻と観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館・・・純粋な美しい魂
https://bit.ly/2C0ZL2f
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大久保正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
https://bit.ly/2uUs3pu
藝術と運命との戦い・・・ジョルジュ・スーラ
https://bit.ly/3EyiuQL
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
https://bit.ly/2vikIlL
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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の芸術に魅了され、その世界最大の個人収集家となったヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)。ヘレーネは、画家がまだ評価の途上にあった1908年からおよそ20年で、鉄鉱業と海運業で財をなした夫アントンとともに90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集しました。ファン・ゴッホの芸術に深い精神性を見出したヘレーネは、その感動を多くの人々と分かち合うべく、生涯にわたり美術館の設立に情熱を注ぎました。
本展では、クレラー=ミュラー美術館からファン・ゴッホの絵画28点と素描・版画20点を展示します。また、ミレー、ルノワール、スーラ、ルドン、モンドリアンらの絵画20点もあわせて展示し、ファン・ゴッホ作品を軸に近代絵画の展開をたどる、ヘレーネの類まれなコレクションをご紹介します。
さらに、ファン・ゴッホ美術館から《黄色い家(通り)》を含む4点を展示し、20世紀初頭からファン・ゴッホの人気と評価が飛躍的に高まっていく背景にも注目します。
1. ヘレーネのファン・ゴッホ・コレクション
ヘレーネのコレクションから、糸杉の傑作《夜のプロヴァンスの田舎道》や《種まく人》をはじめ、選りすぐりのファン・ゴッホの絵画・素描・版画、計48点をご紹介します。
2. ファン・ゴッホの画業を辿る
ヘレーネは早くから美術館の設立を考えたため、質の高い作品を選び、初期から晩年までの画業が辿れるよう体系的に収集しました。本展でも画業の初期の素描から最晩年の絵画までをお楽しみいただけます。
3. 《黄色い家(通り)》
ヘレーネのコレクションに加え、ファン・ゴッホの没後、弟テオ、妻ヨー、そしてその息子フィンセント・ウィレムへと引き継がれたファン・ゴッホ家のコレクションから、《黄色い家(通り)》を含む4点の絵画も特別に出品されます。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html
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ゴッホ展――響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
東京都美術館、2021年9/18~12/12
福岡市美術館、2021年12月23日(木)から2022年2月13日(日)まで
名古屋市美術館、2022年2月23日(水)から4月10日(日)まで

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2021年8月24日 (火)

古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義は、なぜ失われたのか

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第252回

【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。
古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか。古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
【古代の偉大な思想家、エンペドクレス】古代の哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス出身。ピタゴラス学派に学びパルメニデスの教えを受けた。自由精神を重んじ、権力に屈しなかった。金冠を頭に戴き、紫色の衣に金のベルトを巻いて、デルポイの花冠を携えて諸都市を巡り歩いた。紀元前430年死す。
エンペドクレスは、パルメニデスの存在論とヘラクレイトスの生成消滅論を融合した。万物の四つの根(リゾーマタ)、4つの元素、火、水、空気、土、4つの根の愛と憎による離合集散から宇宙は生成消滅する。愛の伸長期、消滅期、憎の伸長期、消滅期によって生成消滅する。宇宙円環と魂の円環が調和する。詩篇「自然について」と「カタルモイ」を書いた。地上に堕落したダイモーンが、神々の住むアイテールに帰還するドラマである。
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【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【アグリジェント、神殿の谷】コンコルディア神殿が聳える。最も完璧な神殿。古代ギリシアの詩人ピンダロスが「人の造りし最も美しき都市」と謳った都市。神殿の谷は、稜線に20の神殿が聳える。丘に神殿遺跡がそこここに残る古代都市遺産群を廻る、広大な地。憧れの古代都市。哲学者エンペドクレスが、生まれた地。
アクラガスは、ギリシア人の植民都市、前 580年頃ゲラの市民によって建設され、前6~5世紀僭主ファラリスやテロンのもとに繁栄した、アクロポリスの丘の上のアルカイック期神殿群の遺跡はこの時期に属し、180年栄えた。紀元前406年、カルタゴに滅ぼされた。カルタゴ軍が、シケリア西部のカルタゴ殖民都市に対する攻撃の報復として、【アクラガス包囲】ドーリア人都市であるアクラガス(アグリジェント)を包囲した。
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【時間論】3つの世界観の時間論。時間には、回帰的時間と終末観的時間と進化的時間がある。(渡辺慧『時』第3章、時間の起源と機能)(回帰的時間は、エンペドクレス、ニーチェ『ツァラトゥストラ』。終末観的時間はキリスト教。進化的時間は、ベルクソン『創造的進化』)。あなたはどの世界観を選ぶのか。
*ベルクソン1974、初刊1948年。*エンペドクレスの宇宙円環(Cosmic Cycle)、ヘラクレイトスの回帰的宇宙、ニーチェの永劫回帰(Ewig Wiederkehren)、ピュタゴラスの輪廻転生。

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【トロイ戦争】『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね、しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た。ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
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【哲人王、国家の姿】魂の徳を探求しなければならない。知恵、勇気、節制、正義。魂の3部分の調和。魂の徳を備える人間。知恵を探求する者、善のイデアを観るもののみが王にならねばならない。『国家』
【古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか】古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
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★参考文献
鈴木幹也『エンペドクレス研究』1985
フリードリヒ・ニーチェ『プラトン対話編研究序説』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海・・・『戦う知識人の精神史』 
https://bit.ly/3mlXeXR
「旅する哲学者 美への旅」第69回 空海の旅 旅する思想家
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
大久保正雄『地中海紀行』第44回哲学者の魂、ソクラテスの死2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://bit.ly/386Vbyl
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://bit.ly/3j2A3jc
大久保正雄『地中海紀行』第25回
旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅
https://t.co/1QDmeBNsBY
大久保正雄『地中海紀行』第24回
旅する哲学者、エーゲ海の瞑想 ヘラクレイトスの言葉
https://t.co/T1Ec9npIoJ
――
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
https://bit.ly/2U9rO6s
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、転識得智、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義は、なぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW
――
★★
神殿の谷、コンコルディア神殿
Dolce&Gabbana Alta Moda, Valley of the Temples, July 2019
https://www.youtube.com/watch?v=FW0DSGxs8WA

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2021年8月18日 (水)

聖徳太子と法隆寺・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第251回

仏陀入滅から1000年、6世紀、仏教は日本に到達した。仏像彫刻、寺院は、建設されたが、仏陀の思想と学問、生きかたは、この国において学ばれたのか。
仏陀入滅から1000年
522年、来朝した梁の司馬達等(止利仏師の祖父)が仏教伝来。百済の聖明王(聖王)は中国南朝梁の武帝から冊封され仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うために、欽明天皇に公伝。
【仏教1000年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀頃)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)、北魏の孝文帝、皇帝菩薩と称された梁の武帝、北魏様式南梁様式(6世紀)、隋帝国(581~618)、飛鳥(7世紀)、唐帝国(618-907)、玄奘三蔵(7世紀)、敦煌莫高窟、白鳳美術(7世紀)、天平美術(8世紀)、不空(705-774)、恵果(746-805)、空海(774-835)、密教美術(9世紀)
【仏教公伝】7世紀、聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【密教への旅】『華厳経』4世紀頃中央アジアで成立、漢訳は東晋の仏駄跋陀羅訳の60巻本、唐の実叉難陀訳の80巻本、唐の般若訳の40巻本の3種。7世紀『大日経』『金剛頂経』『理趣経』(不空が763年から771年にかけて訳した訳本)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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殺戮の飛鳥、厩戸皇子の謎、法隆寺の謎
蘇我馬子は物部守屋一族を滅亡させ、崇峻天皇暗殺、推古天皇を即位、厩戸皇子を摂政とした。蘇我馬子は厩戸皇子とともに『天皇記』『国記』を編纂。蘇我馬子の画いたシナリオによって生きた厩戸皇子。中大兄皇子と中臣鎌足を動かした皇極天皇と軽皇子、姉弟。中大兄皇子と中臣鎌足の使嗾によって蘇我入鹿により滅亡させられた山背大兄王一族。蘇我入鹿により炎上した斑鳩宮。天智天皇時代に炎上した斑鳩寺。天武天皇の后、持統天皇によって再建された法隆寺。聖武天皇、光明子、阿倍内親王によって建築された夢殿。
【厩戸皇子の謎】王位継承権をもつ王家。49歳で死去。死因は諸説紛々。聖徳太子は、物部守屋一族襲撃に参加し、推古1年、四天王寺創建。物部氏一族を四天王寺の奴婢とした。聖徳太子の子、山背大兄王一族は、中大兄皇子と中臣鎌足に使嗾された蘇我入鹿によって襲撃され滅亡。斑鳩宮炎上、斑鳩寺にて自刃。
【法隆寺の謎】厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺は炎上、飛鳥時代の伽藍は一つも残存せず。夢殿は、天平時代の伽藍。聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王が関与。法隆寺、西院伽藍は、世界最古の木造建築と言われるが、持統天皇時代に建立、正確な建築年代不明。鞍作登利様式の飛鳥時代彫刻はどこにあったか謎である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【四天王寺創建、推古天皇、1年】【四天王、仏法を守護する王】四天王を支配するのはインドラ。須彌山の中腹にある四王天の主で、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天または毘沙門天のそれぞれを主宰する王の総称。八部衆を支配して帝釈天に仕え、仏法と仏法に帰依する人々を守護する。
【法隆寺、東院伽藍】上宮王院といい、八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿【山背大兄王一族滅亡643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮】跡に【739年(天平11)僧行信により造営】され、北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。西院伽藍の東方に隣接する。
【夢殿、夢違観音】法隆寺の大宝蔵殿に安置されている聖観音菩薩立像。国宝。銅製鍍金で像高 87.3cm。頭部の三面宝冠と台座は別鋳で本体は一鋳になり,内部は空洞。像名の「夢違」は,江戸時代に書かれた『古今一陽集』に、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来し、一般に親しまれている。白鳳時代の代表作の一つ。なお台座は江戸時代の後補。
【金堂、薬師如来】推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
【阿弥陀三尊像、橘夫人念持仏と伝える】光明子の母、橘三千代=県犬養三千代は阿弥陀如来を信仰。唐代のより完成した様式への接近を窺わせる。飛鳥初期ではない。白鳳時代。
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
当館と法隆寺ではこれを記念して、特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」を開催します。 2004年3月2日(火)~4月11日(日)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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美術史の謎
1,飛鳥美術

【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
――
【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
――
2,白鳳美術
【白鳳時代】奈良時代にこの時代を白鳳・朱雀と呼んだのに基づく。白鳳は白雉(650年-654年)、朱雀は朱鳥(686年)という年号の美称。壬申の乱(672年)を境に2期に区分できる。後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてのインドの影響も現れる。「薬師寺金堂の薬師三尊像、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩」の豊満な彫刻、焼失した「法隆寺壁画」「夢違い観音」「阿弥陀三尊像」「山田寺仏頭」。
飛鳥時代と天平時代とにはさまれる、大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都まで。前期には飛鳥時代の様式も残しているが、中国北斉・北周の影響が見られ、後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてインド(アジャンタ)の影響がある。
――
3,天平美術
【天平美術】不空羂索観音像、日光菩薩、月光菩薩、執金剛神像、釈迦十大弟子像、八部衆像734年、阿修羅像(734年)、鳥毛立女屏風 樹下美人図。
【東大寺】毘盧遮那仏、平重衡による南都焼討(再興は重源、陳和卿)、松永・三好の兵火(再興は公慶)で二度焼失。天平時代のオリジナル部分が残っているのは、台座の三千蓮華像世界。
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参考文献
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
――
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
――
「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

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2021年8月12日 (木)

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第250回

法隆寺と厩戸皇子は、謎に満ちている。厩戸皇子は、何を理想とし、何を苦悩し、何を成し遂げたのか。
【法隆寺の謎】斑鳩宮と斑鳩寺は、なぜ焼失したのか。斑鳩寺は、なぜ、法隆寺として再建されたのか。斑鳩宮は、なぜ、夢殿として再建されたのか。
厩戸皇子の子、山背大兄王一族は、なぜ襲撃され、斑鳩寺で自刃し一族滅亡したのか。山背大兄王を襲撃した真犯人はだれか。
根本的な謎が蘇る。厩戸皇子は49歳で死ぬ。前年、生母、穴穂部間人皇女が死す。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人死す。疫病といわれるが、死因は何か。
厩戸皇子は、いつから、聖徳太子、となったのか。斑鳩寺の焼失後、釈迦三尊像、救世観音、薬師如来坐像、鞍作登利様式の仏像は、どこに保存されたのか。
――
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1,
厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。
飛鳥時代は、知性のない殺戮の時代。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡【厩戸皇子】厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。「和を以て貴しとなす、厚く三宝を敬え仏法僧」十七条憲法、法華義疏。推古天皇元年(593)四天王寺創建。【丁未の乱】蘇我馬子の物部守屋一族滅亡、祝勝の寺。斑鳩寺創建。
【蘇我馬子の権力闘争と厩戸皇子=聖徳太子は一体化】王位継承問題、相続問題。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡

2,
【斑鳩宮、斑鳩寺の謎】なぜ、消失したのか。
厩戸皇子(聖徳太子)が建てた、斑鳩宮(601)、斑鳩寺(607)は、なぜ、僅か42-63年で消失したのか。皇極時代、天智時代、炎上した。

【法隆寺の謎】2度、炎上。皇極時代、天智時代、
【斑鳩寺】厩戸皇子、推古天皇15年(607年)、斑鳩寺創建。推古天皇30年(622年)、厩戸皇子、49歳で死去。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、聖徳太子の子山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩寺にて自刃。襲撃の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画。【乙巳の変】中大兄と中臣、蘇我入鹿、殺害。山背大兄王襲撃と一体のクーデタ。
【斑鳩宮】『日本書紀』によれば、聖徳太子=厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、炎上。
夢殿、天平11年、行信によって再建。
――
【中大兄皇子と中臣鎌足によって粛清、殺された人々】蘇我入鹿。山背大兄王自刃。【天武天皇によって粛清、殺された人々】中大兄皇子、皇極天皇の子。皇極天皇は、女帝であり、その子は王位継承できない。
――
3,
【法隆寺の謎。なぜ、再建されたのか】
【斑鳩寺と斑鳩宮、炎上の原因】1,斑鳩宮炎上、山背大兄王自刃一族滅亡(643年)の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画、皇極天皇の子が、天智・天武。2,斑鳩寺、炎上は、天智時代(670)。
【斑鳩寺】厩戸皇子、607(推古15)年、斑鳩寺を創建。605年、推古天皇、太子に「丈六仏像 銅像と塑像」作らせる詔。606年、銅像を飛鳥寺に納める。621(推古29)聖徳太子、薨去。622(推古30)推古天皇、「金堂釈迦三尊像」完成。若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』

【法隆寺、再建したのはだれか】
【法隆寺】法隆寺金堂、天智9年(670)の火災後に建立された、現存の西院伽藍、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成。

【斑鳩宮、再建したのはだれか】
【斑鳩宮】厩戸皇子、601年(推古9)斑鳩宮を創建。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。斑鳩宮、炎上。
【救世観音像】『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙)に奏聞し、天平十一年(739) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂(夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
――
4,
【厩戸皇子、聖徳太子の謎】厩戸皇子は、いつから、聖徳太子と呼ばれたのか。聖徳太子の意味は何か。斑鳩寺、607年、創建。いつから、法隆寺と呼ばれたのか。釈迦三尊像光背銘、法華義疏。「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」(623年)
――
【厩戸皇子『十七条憲法』】推古天皇12年(604年)厩戸皇子(聖徳太子)31歳の時、作った。
「以和爲貴。無忤爲宗」。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、聖徳太子49歳で死亡、山背大兄王自刃。殺人と疫病の飛鳥時代、以和爲貴(和をもって貴しと爲し)とは、ありえない夢。
以和為貴。無忤為宗。
第一条、「和をもって貴しと爲し、忤(さから)うること無きを宗と爲せ」
二に曰く、篤く三寶を敬へ、三寶とは佛と法と僧となり
日本の名著I「日本書紀」』責任編集・井上光貞。
――
5、聖徳太子と蘇我馬子
【蘇我馬子】穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇を暗殺。女帝推古天皇を擁立、聖徳太子を摂政とする。聖徳太子は、49歳で死ぬ。推古女帝は、推古36年、統治74歳。蘇我馬子は、73歳で天寿を全うする。

【蘇我馬子、飛鳥寺】武略と弁才を有し、三宝を恭敬した。法興寺(飛鳥寺)の造営に着手。推古1 (593) 年に塔に仏舎利が奉安。本尊は606年(推古天皇14)止利仏師作、丈六の金銅釈迦如来像。桃原墓に埋葬、明日香村石舞台古墳に比定される。子は蝦夷。孫、入鹿。
――
★★★★★
仏教美術史の謎 飛鳥、白鳳、天平
【仏教美術史】飛鳥(北魏、南梁様式)、白鳳、天平、弘仁貞観、平安後期、鎌倉時代。
推古天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王、孝謙女帝、嵯峨天皇。仏教美術は、古代王家の文化として展開。日本美術史で、最も美しい仏教彫刻は何か。
1、
【法隆寺、仏像の謎】斑鳩寺の仏像、飛鳥時代の仏像は、斑鳩寺炎上とともに保管する場所を失った。どこに所蔵されていたのか。
【飛鳥美術、北魏様式、南梁様式】飛鳥美術は、北魏様式、南梁様式。法隆寺、鞍作止利は、北魏様式。板耳、杏仁形の目の表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座、鰭のような裳裾、男性的な容姿。623年、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像。南梁様式は、中宮寺、広隆寺、半跏思惟像。
――
2.
【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
――
【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
――
【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
――
【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
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★参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
――
「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

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2021年7月25日 (日)

聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第249回

灼熱の夏、深緑の森を歩いて、博物館に行く。蝉時雨に古の都を思い出す。
斑鳩宮、斑鳩寺、飛鳥、白鳳、法隆寺の謎の暗闇に、幻惑される。法隆寺の暗闇には何があるのか。
法隆寺の暗闇の空間は、推古、天智、天武、持統、聖武、光明子、阿倍内親王の世界につながる、王位継承争い。法隆寺の謎は、深い闇である。
【厩戸皇子、何を夢み何に苦悩したのか】
厩戸皇子はなぜ「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言ったのか。厩戸皇子は、何を理想とし何に苦悩したのか。「法華義疏」を見ると微細な文字で書かれ、訂正と消字と貼り紙が施されている。神経質な性格が感じられる。606年に皇子が推古天皇に講義した草稿であるとされる。「花あれば必ず実あり。善あれば必ず成仏することを表せんと欲す」「法華義疏」
【血に塗れた飛鳥時代、厩戸皇子】
587年、馬子と厩戸皇子は、守屋を襲撃、物部氏一族滅亡。622年、厩戸王子、49歳で死す。生母、穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が死去、三人が死ぬ。死因は疫病か暗殺か。643年、入鹿、斑鳩宮を襲撃、聖徳太子の子、山背大兄王自刃、一族滅亡。計画したのは皇極と軽皇子。645年、中大兄皇子と中臣鎌足、入鹿を襲う、蘇我氏一族滅亡【乙巳の変】。649年、右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、斬首。658年、有間皇子、絞首刑。中大兄皇子と鎌足が関与。

【天智系と天武系の死闘】672年、大海人皇子、大友皇子を襲撃、大友皇子、自刃【壬申の乱】。672年(天武1年)天武天皇、飛鳥板葺宮で即位。686 年(朱鳥2)、器量才幹が抜群な大津皇子、謀反自害。689年、草壁皇子急逝。690年、持統、即位。持統は天武を神格化。
【謎の生涯、聖徳太子、厩戸皇子】754年誕生。585年、12歳の時、父、用明天皇、即位。587年、14歳の時、父、用明天皇、崩御。蘇我馬子、物部守屋を襲撃する、厩戸皇子、蘇我軍に加わり、守屋を殺害。592年19歳の時、崇峻天皇、馬子に暗殺される。593年20歳の時、推古天皇、即位。皇太子、摂政となる。四天王寺、建立。601年、斑鳩宮、造営。607年、小野妹子、第2回遣隋使として派遣。法隆寺を創建。620年馬子とともに『天皇記』『国記』編纂。622年、聖徳太子、斑鳩宮で死す。49歳。
【蘇我馬子、物部守屋を襲撃、物部氏一族滅亡】仏教の受容をめぐって蘇我馬子と物部守屋の戦いが起き、聖徳太子ら加わり、襲撃して物部氏を滅ぼす。

【丁未の乱】587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされた『四天王寺御手印縁起』。
【法隆寺木造四天王立像】日本書紀によれば、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに加わるに際し、聖徳太子が「勝利した暁には四天王寺を建てる」と誓いを立て、593年、戦勝に感謝して建立したとされる。広目天、増長天、持国天、多聞天の順。法隆寺金堂所蔵。
【仏教公伝】聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【王陵の谷、厩戸皇子、聖徳太子、霊墓】聖徳太子は、三経義疏を著。法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立した。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まる。
厩戸皇子の心の声、魂の言葉は僅かである。

「世間虚仮、唯仏是真」(せけんはこけなるも、ただほとけのみこれまことなり) 『天寿国繍帳』、「諸悪莫作、諸善奉行」(もろもろのあしきことをばなせそ。もろもろのよきわざをおこなへ) 『舒明即位前紀』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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斑鳩寺、斑鳩宮、法隆寺、西院伽藍、東院伽藍、夢殿
【仏教公伝】『日本書紀』(720年成立)で、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記される。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされる。
【三経義疏】『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存している。梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文である。
【斑鳩寺、法隆寺】厩戸皇子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)、同年、小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣される。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい転換期。その名が意味する「仏法興隆」を推し進める中心地であった。
【法隆寺最初の伽藍、若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』】再建された現在の西院伽藍。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築、創建以来変化なく伝えられた内陣は、奇跡の空間。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界がある。
【東院伽藍】聖徳太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)、その跡地に建立されたのが東院伽藍、行信が創建した上宮王院。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたって太子の遺品類も集められた。
【山背大兄王一族滅亡、斑鳩宮消失】皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があった。
夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点であった。聖徳太子の遺徳を称える聖霊会、10年に一度行われる大会式等、東院伽藍にまつわる華やかな法要がある。
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇、盧舎那大仏の造立を企図。天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖徳太子信仰の変遷
【平安時代後期12世紀、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰】太子も中心的な信仰の対象となった。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」保安2年(1121)。
【鎌倉時代13世紀、孝養像】角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿が作られる。太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。
【金銅阿弥陀三尊像、光明皇后の母、橘夫人念持仏厨子】法隆寺蔵の厨子、7-8世紀。なかに橘夫人(橘三千代)の念持仏であった金銅阿弥陀三尊像を安置する。厨子、像ともに奈良時代の作。屋蓋の形式は法隆寺金堂内部の天蓋に似、龕身四方の扉と須弥座に描かれた絵は法隆寺金堂壁画の手法に近い。透彫の光背,流麗な浮彫で菩薩を表した後屏(こうへい)、三尊をささえる床に施した精緻な蓮池。
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聖徳太子の謎、だれが聖徳太子と呼んだのか
【厩戸王子、聖徳太子、死の謎】推古30(622)年、厩戸王子、49歳で死す。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。疫病説。暗殺あり。馬子が関与か。
【王陵の谷、古代の道、飛鳥と難波宮を結ぶ、竹内街道、推古天皇陵、聖徳太子の墓】推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道」が置かれた『日本書紀』。推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清という使者を連れてくる。難波津から飛鳥へ。斑鳩寺(法隆寺)は、厩戸皇子。飛鳥寺(法興寺は、蘇我馬子が創建。聖徳太子の墓、南河内郡太子町、叡福寺にある。
【中大兄と中臣鎌足、蘇我氏を滅ぼす。645年、乙巳の変】天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取すること。田村圓澄『仏教伝来と古代日本』。その後、王権神授説(『金光明経』)で天皇支持を明確にした仏教、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教。第45代聖武が大仏造営。
【物欲、名誉欲、地位欲、腐敗した魂に蝕まれた国】持ち物を捨てれば捨てるほど、あなたの魂の表面から所有欲という曇りが消え、その魂は真実の輝きを取り戻す。『ガンディー 魂の言葉』)【動物は食欲と性欲と生存欲だけである。本能で動く。物欲があるのは人間だけである。池田清彦】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★★★展示作品の一部
「法華義疏」飛鳥時代、7世紀。天平19年(747)法隆寺伽藍縁起に、上宮聖徳法王の著とされている。
重要文化財「菩薩立像」飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵、釈迦三尊像の脇侍と同型
国宝「天寿国繡帳」飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と書かれている。正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出している。聖徳太子が亡くなった後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繡によって表されており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品。
国宝 薬師如来坐像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
金堂東の間の本尊。口もとに微笑みを浮かべた神秘的な顔立ち、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。
国宝「阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)」厨子。光明子の母、橘夫人、橘三千代(県犬養三千代)、天平5年(732)に没した。阿弥陀浄土信仰をもっており、光明皇后が母の供養のため法隆寺金堂に奉納した。白鳳時代、7-8世紀。法隆寺蔵
国宝「四天王像」広目天、多聞天、飛鳥時代、7世紀
国宝 行信僧都坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵
夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。
重要文化財 聖徳太子(孝養像)鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵【後期展示:8月11日(水)~9月5日(日)】
角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。
国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子、平安時代・保安2年(1121)、奈良・法隆寺蔵
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参考文献
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
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奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追究し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えることで、後世に続くこの国の文化的な基盤を築き上げました。聖徳太子を敬う人々の心は、その没後に信仰として発展し、今日もなお日本人の間に連綿と受け継がれています。
令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。
本展覧会は1400年という遙かなる時をこえて、今を生きる私たちが聖徳太子に心を寄せることでその理想に思いを馳せ、歩むべき未来について考える絶好の機会となることでしょう。聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)

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2021年7月15日 (木)

大江戸の華・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜

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Ooedonohana-2021
Ooedonohana-onnanorimono-2021
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第248回
老獪な策士、徳川家康、薬草を集め長寿を求めた。家康は、織田信長、明智光秀、細川藤孝、豊臣秀吉、戦国武将と競争、詐欺手法を駆使、生き残り戦略、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を破り、1603年征夷大将軍に任命される。72歳で死す。1867年15代将軍、徳川慶喜まで、江戸幕府は260年間。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)で石田三成を破る。1614年二条城にて70歳の家康は19歳の秀頼と会見、豊臣滅亡を思い立つ。豊臣秀頼を、大阪冬の陣(1614年10月1日)で大阪城外堀内堀を埋め、夏の陣(1615年5月5-7日) 豊臣秀頼軍を破り、豊臣家滅亡、大阪城炎上。1615年、家康72歳で死す。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし】急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。徳川家康の遺訓
心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。
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王家への婚礼行列、
皇女、和宮、将軍家への婚礼行列
慶喜に、白羽の矢を立てられた和宮は、当初強くこれを拒んだが、兄・孝明天皇の強い意向によってついに将軍徳川家茂への降嫁を承諾した。文久元年(1861年)10月20日、16歳の花嫁・内親王和宮の行列が京の都を出発。江戸に向かう和宮様の豪華で50㎞とてつもない長さの花嫁行列。享年32。明治10(1877)。
【マリー・アントワネット、フランス王家への婚礼行列、ドナウ河、泣きながら嫁ぐ】14歳でフランスへ嫁いだアントワネット、婚礼の旅、ドナウ河を航行、宿泊したドナウ川のヴァッハウ渓谷ほとりに聳えるメルク修道院にて観劇。国境の街ストラスブールで、花嫁引き渡しの奇妙な儀式、フランスの衣装に着替え、1770年5月16日ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で執り行われたフランス王太子とオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚。ウィーンの母マリア・テレジアは、遊び呆ける娘のアントワネットを厳しく叱り続けていた。のびのび育った故郷ウィーンの宮殿とは大違い、起床から就寝まで衆目にさらされ、夫婦のベッドインも貴族に見られるという奇習。敷地内の小さな離宮プチトリアノンを自分好みに作り替える。莫大な国費を使って、最高の職人による家具を揃え、当時最先端の動く壁まで。この浪費を知ったウィーンの母マリア・テレジアは手紙で厳しく娘を叱り「あなたはこの上ない不幸に陥る」と予言。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランス王家への政略結婚】
メディチ家出身のカトリーヌとフランス王族との結婚は不釣り合いと見られた。反対意見もあったが、フランソワ1世はイタリア対策を重視してこれを押し切った。1533年10月28日、フランス王の第二子、アンリ2世と結婚。2人は共に14歳。カトリーヌは莫大な持参金と千人の従者を従え、イタリアから嫁いできた。夫の寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエに悩まされた。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランソワ1世、波乱の人生】
1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占された。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【徳川慶喜、名君か暗君か、緻密な戦略】幕府第15代将軍の徳川慶喜、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜。第二次長州征伐で、幕府は長州藩に敗北、家茂は病死第15代将軍職を引き受けた慶喜は、最大の後ろ盾だった孝明天皇を亡くすが、4カ国の公使を相手に外交手腕を見せて開国へと舵を切る。
【徳川慶喜、名君か暗君か、大政奉還、緻密な戦略】慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説した、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日、14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。その翌日の15日に受理される。薩摩長州に先手を打つ。
【偽勅】慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した10月14日に、薩摩藩の大久保利通と長州藩の広沢兵助らは、公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)から、徳川慶喜追討の詔書を授る。これは岩倉具視の策略、朝議も経ていなければ、天皇も認めていない偽勅、それを承知のうえで、薩摩と長州は受け取った。
【薩摩藩の小松帯刀】慶喜は「小松はこの間の消息に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし」と、内戦を避けたいと考えた薩摩藩の小松帯刀から、密かにリークがあった。
【王政復古】慶応3年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して、「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデタが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止し、新政府の発足を高らかに宣言。
【徳川幕府崩壊】徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)で、激突。将軍慶喜、離脱。戊辰戦争(1868年―1869年)へ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
色々威し丸胴具足、徳川家康が用意、秀忠がイギリス王ジョージ1世に贈った。
 イギリス王立武具博物館、ロンドン塔ホワイトタワーDiplomatic Gift
徳川慶喜、白羅紗葵紋付陣羽織、江戸時代末期
徳川慶喜、黒塗り銀立湧紗葵紋付散し陣笠、江戸時代末期、江戸東京博物館所蔵
「楽宮さざのみや 下向絵巻」(部分)青木正忠/画 文化元年(1804)
梨子地葵紋付散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗り物、元禄11年1898、江戸東京博物館所蔵
 徳川家が関わる乗物には源氏物語が描かれ、それ以外は花鳥画。
銀小札変わり袖白糸威し丸胴具足、江戸時代、江戸東京博物館所蔵
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参考文献
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
https://bit.ly/3xCUAQ9
特別展「江戸の街道をゆく~将軍と姫君の旅路~」
2019年04月27日(土)~06月16日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
千代田の大奥 御遊山」楊洲周延/画 明治27~29年(1894~1896) 東京都江戸東京博物館蔵. 江戸時代、幕府によって整備され、多くの往来で活気にあふれていた街道。なかでも、将軍や姫君たちの行列は目を見張る華やかさ

徳川将軍家の婚礼 - 江戸東京博物館
2017年01月02日(月)~02月19日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
徳川将軍家の婚礼は、姫君が嫁ぎ先へ豪華な婚礼道具や衣裳を携え、行列を整えて入輿しました。将軍家の正室(御台所)は、3代家光以降、宮家や五摂家から迎えるのが慣例で、京都から江戸に行列を組み婚礼道具を携え、化粧道具は毎日の身嗜みのほか、女性の通過儀礼などに用いられ、大切な役割を果たしました。

大政奉還は緻密な戦略だった!倒幕に動く薩長が手を焼いた「徳川慶喜」
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20210620-00434971-toyo-column2021/06/20
徳川慶喜は二条城で重臣たちに大政奉還を告げた(写真:近現代PL/アフロ). 「名君」か「暗 ... 慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還 について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩
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「大江戸の華―武家の儀礼と商家の祭―」江戸東京博物館、7月10日~9月20日
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/#anc01

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2021年7月 7日 (水)

三菱の至宝展・・・幻の曜変天目

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第247回

初夏の午前、三菱一号館美術館に行く。三菱150年。岩崎弥太郎、弥之助、久弥、小弥太、4代のコレクションの展示。岩崎弥太郎はどうして成功したのか。岩崎弥太郎は汽船3隻で財閥の基礎を築いた。
曜変天目をみると、茶の湯を愛好した織田信長を思い出す。
【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-12世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の茶会、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

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展示作品の一部
国宝《曜変天目(「稲葉天目」)》建窯、南宋時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵
国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》のうち「関屋図」、俵屋宗達、江戸時代・1631(寛永8)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝《風雨山水図》伝馬遠、南宋時代(13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
重要文化財《龍虎図屏風》のうち「虎図」、橋本雅邦、1895(明治28)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『イエズス会士書簡集(アントワネット旧蔵書)』18世紀、(公財)東洋文庫蔵
重要文化財《太刀 銘 髙綱 (附 朱塗鞘打刀拵)》古備前高綱、鎌倉時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
大名物《唐物茄子茶入 付藻茄子》南宋~元時代(13~14世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『八千頌般若経』17~19世紀、(公財)東洋文庫蔵
国宝《倭漢朗詠抄 太田切》平安時代(11世紀)、(公財)静嘉堂蔵【会期中場面替えあり】
国宝『古文尚書』初唐時代(7世紀)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝『春秋経伝集解』平安時代(12世紀頃)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
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参考文献
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
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土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた岩崎弥太郎が、苦心惨憺の末、知人を誘って海運業を営む九十九商会――現在の三菱を興したのは、明治3年(1870)のことであった。今年令和2年(2020)は、それから数えて150周年の節目に当たっている。これを記念する特別展が、この「三菱の至宝展」にほかならない。
三菱ゆかりの静嘉堂文庫と東洋文庫、三菱経済研究所、三菱一号館美術館、さらに三菱金曜会や広報委員会が力を合わせ、その優れたコレクションの全貌を堪能していただけるよう智恵を絞った。三菱が文化的に果してきた貢献――現代の言葉でいえばフィランソロフィーをも感じ取っていただければ望外の喜びである。
三菱一号館美術館は、来日して我が国近代建築の基礎を築いたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計建設した、三菱一号館をそのままに復元してなったものである。またコンドルは、弥之助の深川邸洋館、高輪邸、久弥の茅町本邸、小弥太が弥之助3回忌に際して建てた世田谷区岡本の廟なども手がけている。
その後久弥が駒込に建てた東洋文庫、小弥太が岡本に造った静嘉堂文庫は、コンドルにも学んだ桜井小太郎が完成させたものである。このように三菱・岩崎家が愛して止まなかったコンドルが没してから、今年は100周年の節目にも当たっている。
饒舌館長 http://jozetsukancho.blogspot.com/
http://jozetsukancho.blogspot.com/2021/07/blog-post_03.html
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三菱創業150周年記念 三菱の至宝展、三菱一号館美術館、6月30日(木)-9月12日(日)

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2021年6月28日 (月)

隈研吾展・・・迷宮建築への旅、雲の上のホテル

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第246回

文明は興廃する。都市は滅亡し、建築は廃墟となり、詩人の言葉は残り、哲学者の観念の塔が残る。
私は14歳の時、パルテノン神殿の知性の美に出会った。アルハンブラ宮殿、クレタ島のクノッソス宮殿、ヴェネツィア、サンマルコ寺院、ハギアソフィア寺院へと旅した。パルテノン神殿の建築家フェイディアスは、何を志向するのか。建築家皇帝ハドリアヌスのパンテオンは何を志向するのか。アルハンブラ宮殿は、地上の楽園を目指すのか。クフ王のピラミッドは、王墓なのか。
超高層建築への疑いから迷宮的建築を志向した建築家は何を考えているのか。
パルテノン神殿には、ギリシア人の知性と誇りがある。
【魂のことば 孔雀のプライド】孔雀は、人前でその美しい尾羽根を隠す。これは、孔雀の矜持と呼ばれる。孔雀のような動物でもそうなのだから、わたしたちは人間として、一層の慎みと矜持を持つべきである。『善悪の彼岸』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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隈研吾のキャリアの転回点となった梼原町、雲の上のホテル1994年、雲の上のレストラン、雲の上の図書館2018年。
建築は、モニュメント的建築と洞窟的建築とに分類される。「超高層のモニュメント的建築に対する懐疑から「孔」としての建築への関心が芽生え始める。」隈研吾。バーナード・チュミ「ピラミッド的迷宮」。マンフレッド・タフーリ「球と迷宮」の二項対立として建築史を観る。秩序を指向する建築的方法論が「球」を生み、無秩序や偶然を指向する方法論が「迷宮」を生むとタフーリは整理した。
隈研吾展「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」孔、粒子、やわらかい、斜め、時間。
1990年代のバブル崩壊で仕事がなかった隈研吾は、知り合いから声をかけられ、古い木造の芝居小屋を保存する運動にかかわる。高知県の山間部にある森林の町、梼原(ゆすはら)だった。以降、隈は地方の仕事を多く手がけるようになり、木を用いた作品が増えていく。そして梼原町で1994年竣工の「雲の上のホテル」をはじめに、町役場や図書館など6件の建築を設計した。『隈研吾 はじまりの物語』青幻社2021
隈研吾「ネコに学び、ハコを出よう」。建築家は、猫の行動に何を学ぶのか。
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作品の一部
高輪ゲートウェイ駅、2020年
雲の上のホテル、梼原町、1994年
雲の上のレストラン、梼原町、1994年
雲の上の図書館、2018年
隈研吾が高知県梼原町で設計した建築「雲の上の図書館 / YURURIゆすはら」2018年 コピーライトKawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office
瀧本幹也「梼原のインスタレーションのためのプラン」2020年 コピーライトMikiya Takimoto
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シェイクスピア「ロミオとジュリエット」「猫王どの、九つあるというおぬしの命がたった一つだけ所望したいが」(Mer.Good King of Cats, nothing but one of your nine lives)
【エジプト九柱神(エネアド)】アトゥム(天地創造の神)、シュウ(大気の神)、テフネト(湿気の神)、ゲブ(大地の神)、ヌト(天空の神)、オシリス(生産の神)、イシス(豊穣の神)、セト(砂漠と異邦の神)、ネフティス(夜の神)
1930年に著された「猫と魔術と神話事典」(柏書房)では、「紀元前450年頃にエジプトを旅したヘロドトスは、当時のエジプトにおいてオシリスとイシスの娘がバステトであるとみなす通念があった」としています。「バステト」とは猫の姿をした女神で、エジプトにおける猫崇拝の中心的存在でした。ここで九柱神とバステトとの間に接点が生まれます。バステトと九柱神、すなわち数字の「9」との間に接点が生まれたということは、神の化身としてとらえられていた猫と「9」との間にも接点が生まれたということでもあります。以後数千年に渡って受け継がれる、猫と「9」との切っても切れない縁は、このような流れで生まれたのだと推測されます。
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参考文献
『隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則』公式カタログ
宮脇檀「建築家の眼・好奇心への旅」、世界文化社、1991
宮脇檀「最後の昼餐」、新潮社、1997
大久保正雄「地中海紀行、旅する哲学者 美への旅」
アクロポリスの光と影 パルテノン神殿
https://t.co/nmDmRi4sGN
パルテノン神殿 彫刻家フェイディアス アクロポリスのコレー
アクロポリスのコレー 時を超えて蘇る少女
https://t.co/H9JyoTOReE
梵寿綱、生命の賛歌 輝き溢れる芸術建築
https://bit.ly/3A5Ko46
『隈研吾 はじまりの物語』青幻社2021
隈研吾展・・・迷宮建築への旅、雲の上のホテル
https://bit.ly/35STPGx
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隈研吾展、東京国立近代美術館、6月18日(金)~9月26日(日)
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/kumakengo/?twclid=11408878817754566661

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2021年6月22日 (火)

「国宝 聖林寺十一面観音」・・・十一面観音、疫病退散の祈り

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第245回

六月の青天、ゆりの木の緑陰に、微風吹く日、東京国立博物館、に行く。
十一面観音は、怒りと争いの修羅を救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、美しい精神を救う。
大神神社、大神寺の十一面観音は、東京国立博物館の研究員によれば、奈良時代8世紀、東大寺仏師によって制作された。奈良時代、十一面観音が流行した。十一面観音は、疫病退散の祈りを込めた秘仏である。大神寺の十一面観音は、東大寺二月堂、秘仏十一面観音と関係があると考えられる。東大寺、修二会は、十一面観音に疫病退散の祈りをささげる火と水の行法である。
【東大寺、修二会、韃靼の行法】752年大仏開眼の年に天下泰安・疫病退散を願って始まって 以来、1270年一度も途絶えず続けられてきた。不退行法。二月堂、修二会、【練行衆、11人、和上、大導師、堂司、咒師、総衆之一、南座衆之一、北座衆之二、南座衆之二、中灯之一、権処世界。処世界】。しっちへん、走り。752年始まる。厨子の周りを周る。敦煌、莫高窟、韃靼の行法が淵源である。
【二月堂、秘仏、十一面観音】【天平の疫病、藤原四子の死】735年(天平7年)から738年(天平10年)。聖武天皇、光明子は、天平の疫病退散のため、東大寺を建立した。
永遠の 果てしない野に 夢みる 睡蓮よ 現在に めざめるな 宝石の限りない 眠りのように(西脇順三郎 宝石の眠り「宝石の眠り」)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖林寺十一面観音は、薬師寺聖観音の姿形に相似する。薬師寺聖観音は、日光菩薩、月光菩薩、薬師如来と薬師三尊像の一群である。
【藤原京、薬師寺】奈良の西の京にある薬師寺の前身、本薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して藤原京に建立した薬師寺である。この後、持統天皇として 即位した鸕野讚良皇后が夫の意志を継ぎ建立を続け、持統11年(697)開眼仏会、そして着工からおよそ16年の月日を要して建立。【平城京、薬師寺】養老2年(718)平城京の西ノ京で薬師寺は建立を開始された。
【六道輪廻、衆生の運命】すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六道の世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人。衆生を救う六体の観世音菩薩。密教では、地獄に聖観音、餓鬼に千手観音、畜生に馬頭観音、修羅に十一面観音、人間に准胝または不空羂索観音、天人を如意輪観音が救う。六観音の思想
【六観音菩薩】聖観音菩薩は、地獄道を救う。千手観音菩薩、飢えと渇きの餓鬼道を救う。馬頭観音菩薩、動物の弱肉強食の畜生道を救う。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
【『日本書紀』崇神天皇5年条】〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。
次の年、崇神は天神地祇に祈ったが民の離反は止まらない。その後、夢やお告げの通り、太田田根子を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。
■十一面観音
十一面観音は、その深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩である。観音菩薩の変化身の一つ。
十一面観音(ekadaśamukha)の容姿は、通例、頭頂に仏面、頭上の正面に菩薩面(3面)、左側に瞋怒面(3面)、右側に狗牙上出面(3面)、背面に大笑面(1面)をもつ。右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている。(玄奘訳『十一面神咒心経』に基づく)。
■『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』によれば、
10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。病気にかからない、一切の怨敵から害を受けない、毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病にならない、一切の凶器によって害を受けない、不慮の事故で死なない。
【三界、無色界、色界、欲界】織田信長は、欲界第六天魔王と自称した。
【欲界、第六天。他化自在天。六道の天道(天上界)の最下部である、六欲天の第六天。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Pāpīyas)の住処。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という。ただし、その一尽夜は人間の1600年に相当するという。天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【十一面観音菩薩立像、7世紀】大化改新で名を馳せた中臣(藤原)鎌足の長男・定恵(次男は不比等)が唐の留学から帰国した時に持ち帰った。【藤原氏長子出家の謎】中臣真人、定恵、飛鳥時代の学僧。653年(白雉4年)5月、遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、玄奘の弟子の神泰法師に師事した。(皇極天皇2年(643年)- 天智天皇4年12月23日666年2月2日)。唐時代、玄奘三蔵や王玄索が天竺から持ち帰ったことが契機でインド風の仏像が流行した。東京国立博物館
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展示作品の一部
国宝聖林寺十一面観音、奈良時代、8世紀、木心乾漆造、高さ209㎝
造仏師は、国中公麻呂、金光明寺のちの東大寺の造仏長官として大仏の造立を指揮した。大仏ばかりでなく天平19年1月には不空羂索観音像(東大寺三月堂)。宝亀5(774)年10月3日条の卒伝『続日本紀』。小林剛「国中連公麻呂」(『日本彫刻作家研究』)田中嗣人「造東大寺司造仏所と国中連公麻呂」(『日本古代仏師の研究』。
日光菩薩、正暦寺、平安時代、10~11世紀
月光菩薩、正暦寺、平安時代、10~11世紀
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参考文献
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
法華寺「十一面観音」の美・・・純粋な魂に舞い降りる
https://bit.ly/2NKS5IP
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
図録「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」2021
「国宝 聖林寺十一面観音」・・・十一面観音、疫病退散の祈りを込めた秘仏
https://bit.ly/3d1h6Kh
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特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」
『国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵』
本館 特別5室 :2021年6月22日(火) ~ 2021年9月12日(日)
仏教伝来以前の古い日本では、神は山、滝、岩や樹木等に宿ると信じられ、本殿などの建築や、神の像はつくらず、自然のままの依り代を拝んでいました。その形が現在まで続いているのが三輪山を御神体とする大神神社です。その後、国家的に仏教を興隆した奈良時代には神仏関係の接近が見られ、神に密接にかかわる寺がつくられました。三輪山にも大神寺(鎌倉時代以降は大御輪寺)が造られ、仏像が安置されました。幕末、新政府により神仏分離令が発せられると、廃仏毀釈の危機にさらされますが、大御輪寺の仏像は、同寺の住職や周辺の人々の手によって、近傍の寺院に移され、今日に至ります。
本展では、かつて大神寺にあった国宝 十一面観音菩薩立像(聖林寺蔵)、国宝 地蔵菩薩立像(法隆寺蔵)などの仏像と、仏教伝来以前の日本の自然信仰を示す三輪山禁足地の出土品などを展示します。国宝 十一面観音菩薩立像が奈良県から出るのは初めてのことです。その比類ない美しさをこの機会にぜひご覧ください。
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三輪山信仰
日本人は古来自然に畏敬の念を抱き、神が宿る依り代として、山や滝、岩、樹木などを信仰しました。三輪山はその代表的な例で、大神神社には神をまつる本殿はなく、三輪山を御神体として礼拝します。
『古事記』の神話に、大物主大神が大国主神に、国造りに協力するから「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」(私を、大和を囲む青い垣根のように連なる山々の東の山にまつりなさい)と望み、三輪山にまつられたと語られています。三輪山には人々が入ることができない禁足地があり、そこから古代の祭祀を物語る子持勾玉や、造酒に用いる器具の小さな土製模型が出土しており、古くからの信仰の存在を確認できます。
大神神社の由緒には、三輪山の頂上の磐座(神の宿所)に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるとあります。三輪山を御神体とする大神神社拝殿とその奥の禁足地の間には結界として鳥居と瑞垣が設けられています。その鳥居は、一列に3つ組み合わせた独特の形式で「三ツ鳥居」といい、中央には扉が付けられています。拝殿がはじめてつくられたのは鎌倉時代のことで、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川家綱が再建したものです。国宝 聖林寺十一面観音菩薩立像をかつて安置していた大御輪寺は、大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮)となっています。
「国宝聖林寺十一面観音」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2013
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「国宝聖林寺十一面観音」東京国立博物館6月22日(火)~9月12日
2021年6月22日(火)~9月12日(日)、東京国立博物館 本館特別5室
2022年2月5日(土)~3月27日(日)、奈良国立博物館 東新館

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2021年6月 3日 (木)

生きものと共生する、神々、仏陀、人間・・・守護精霊は降臨する

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第244回

美しい海が見える森。美しい人と歩く、黄昏の丘、黄昏の神殿、黄昏の森。犬がどこかで吠えている。人が近づいたのか。主を呼んでいるのだろう。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より

【学問僧と愛犬】昼寝をしていると、愛犬、プードル、鼻で嗅ぎながらやって来た「帰ってきたよ」。私「戦国時代になった。敵を滅ぼしてほしい。生涯、学問を続けるために邪魔な敵がいる」と言うと愛犬「解った。滅亡させてくる」とお手をした。
【学問僧と愛犬】春の宵、昼寝をしていると、愛犬、プードル、やってきた「帰ってきたよ」。お手をした。「その後、戦国時代になった。学問の邪魔者がいる。敵を滅ぼして欲しい」というと、愛犬「解った。滅ぼしてくる」と出撃した。天人の敵を滅ぼすため帰還した。愛犬、守護精霊となって帰還。天人の守護霊、如意輪観音のように。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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エジプト神話の神々。山犬姿の神、アヌビス、冥界の案内神、墓地の神。ハヤブサ姿のハトホル、天空の神。ライオン姿のプタハ、創造の女神。牝牛の姿、ハトホル女神、愛と美、豊饒の女神。頭上に聖蛇のつく日輪を戴くハヤブサ姿のラー、太陽神。雌猫姿の女神、バステト。三日月姿、コンス神。
【冥界王オシリス神】オシリスは、弟セトに殺されバラバラにされるが、妻イシスの呪力によって復活を果たす。息子ホルスがセトに勝利し、地上の王として君臨する。
冥界王オシリスと母なる女神イシスから生まれたホルスはファラオとなる。
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【狩りの女神ダイアナと犬、フォンテーヌブロー派1550、ルーヴル美術館】
ギリシア・ローマ神話に取材した寓意画は、フォンテーヌブロー派の画家たちが好んで描いた主題である。狩の道具を手にして猟犬を連れた月と狩の女神ディアナが、森のはずれを歩いている。モデルはフランス国王アンリ2世の寵姫、ディアヌ・ド・ポワティエで、彼女は、しばしばフォンテーヌブロー派の神話画のモデルを務めている。
ディアナ、ローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神。ユーピテルとラートーナの娘で、アポローンの妹とする説がある。新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。
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仏教と動物たち
白象に乗るインドラ、7頭の獅子に坐す大日如来、白象に乗る普賢菩薩、動物に乗る虚空蔵菩薩、仏涅槃図に集まる動物たち。
【白象に乗るインドラ、東寺講堂】梵語名シャクローデーバーナーム・インドラ、 音訳で釈迦提婆因陀羅と呼ばれる。「シャクロー」の音訳「釈」と、インドラの意訳「帝王」から 帝釈天と呼ばれる。 古代神話の戦いの神インドラが元となり、 甲冑をまとい象に乗り金剛杵(ヴァジュラ)をとって毒龍と戦い、阿修羅に勝利し仏門に帰依させた英雄。一面三目二臂で金剛杵を持ち、白象に乗って半跏踏み下げの姿勢をとっている。(平安時代承和6年 839年)。
平安時代、承和6年(839年)に完成しましたが、頭部はすべて後補
【七頭の獅子に坐す大日如来】大日如来の台座に獅子を表す根拠。「中心毘瑠遮那如来。頭載五智宝冠、坐七獅子座上結跏趺坐、結界法印」(善無畏訳「尊勝仏頂修瑜伽法儀軌」巻上)。運慶は、建久8年(1197)に東寺の講堂の仏像の大規模な修復を行った。運慶が、密教の仏像の原点、東寺講堂の大日如来を意識していたことは間違いない。その姿にならってこの像と台座を作った。
――
北斎と霊獣、宇宙の源泉、鳳凰、麒麟、富士、波濤
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
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【愛染明王真言】「唵、偉大なる愛染明王よ。決して破壊されない最高の仏智を備えた金剛薩埵よ。金剛薩埵と同一の、金剛鉤菩薩、金剛索菩薩、金剛鎖菩薩、金剛鈴菩薩よ。我々を仏智に導いて下さい。」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
著者:大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
https://bit.ly/34KTzZo
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「鳥獣戯画のすべて」・・・謎の絵巻、怪僧・明恵
https://bit.ly/32XqQ2H
高山寺「鳥獣戯画」・・・快僧、明恵の夢、40年間『夢記』
https://bit.ly/3xCNL1o
「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
https://bit.ly/2HAZJ5y 
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
https://bit.ly/3sfpb35
『ライラの冒険 黄金の羅針盤』・・・守護精霊をもつ者、運命の羅針盤はどこに
https://bit.ly/3pe25K3
生きものと共生する、神々、仏陀、人間・・・守護精霊は降臨する
https://bit.ly/34JOIb2

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