「カナレットとヴェネツィアの輝き」18世紀ヴェドゥータの巨匠・・・美はしきもの見し人は
(Karl August von Platen-Hallermünde,1796-1835)
ロマン主義の詩人アウグスト・フォン・プラーテン(1796-1835)、生まれはハイネと同世代、死はゲーテと同時代、イタリアに魅了され、1824年28歳でイタリア周遊の旅に出、同地に定住しシチリアで39歳で亡くなる。『ヴェネツィアのソネット』『詩集』(川村二郎訳、世界名詩集大成6巻ドイツ1、平凡社)
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第379回
【ルイーズ・ブルジョワ 《蜘蛛》1997年】1932年、ソルボンヌを退学。ルイーズは芸術部門の最高学府エコール・デ・ボザールに入学する。父ルイは仕送りを打ち切った。なぜなら家業を継いだ際に役に立つ能力への投資だったからだ。家を出て、ルーブル美術館で働き始める。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】母はタペストリー修復工房を経営する。彼女にとって蜘蛛は、親でもあり、「親友」でもあり実母を象徴。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。彼女の自画像でもある「蜘蛛」。【毒親、父ルイの呪縛を解く】藝術は悪魔祓いエクソシズム。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ルイーズ・ブルジョワ(1911年パリ生まれ、2010年ニューヨークにて没)20歳1932年、母が死ぬ。エコール・デ・ボザールに入学。1938年、美術史家ロバート・コールドウォーターと結婚、ニューヨークへ移住。1982年ニューヨーク近代美術館で大規模個展。1993年ベネチア・ビエンナーレ・アメリカ代表。
20世紀を代表する最も重要なアーティストの一人。彼女は70年にわたるキャリアの中で、インスタレーション、彫刻、ドローイング、 絵画など、さまざまなメディアを用いながら、男性と女性、受動と能動、具象と抽象、意識と無意識といった二項対立に潜む緊張関係を探求。
ブルジョワは一生を通じて、見捨てられることへの恐怖に苦しみ。第一章で紹介する作品群は、この恐れが、母親との別れにまで遡ることを示唆している。ブルジョワは両義的かつ複雑性に満ちた「母性」というテーマのもと《自然研究》をはじめとする作品を制作する中で、母と子の関係こそが、将来のあらゆる関係の雛形になるという確信に至った。
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【毒親との戦い、父ルイ】父ルイは美貌の持ち主で、常にエレガントで見栄えよく着飾る人だ。しかし、見た目の良い経営者のナルシシストならではの闇があった。仕切りたがり屋でいじめっ子。常に他人をコントロールし、リーダーとして家族を操作することに喜びを感じていた彼は、毎日一家全員(当時、母方の兄弟やルイーズの従兄たちも一緒に暮らしていた)が食卓に揃わないと気が済まず、勝手に食卓でしゃべろうものなら無言でソーサーを投げつけることもしょっちゅう。食事のあとは、ひとりずつ歌や詩を強制的に披露させるなどやりたい放題だった。あるとき、父は食卓でオレンジの皮をナイフで人の顔や乳房や脚の形に器用にに切り抜いていき、人型の展開図にして見せた。その人型は両脚の間に丁度オレンジの芯が位置するようになっていた。それがルイーズだとふざけた。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】ブルジョワ芸術を代表するモチーフ。彼女にとって蜘蛛は、ブルジョワにとって親でもあり、「親友」でもあった実母を象徴している。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。本展では、いわば彼女の自画像ともいえる 「蜘蛛」をモチーフとした様々な作品が登場する。
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★展示作品の一部
ルイーズ・ブルジョワ《ママン》1999/2002年 ブロンズ、ステンレス、大理石 9.27× 8.91 ×10.23 m 所蔵:森ビル株式会社(東京)
ルイーズ・ブルジョワ《かまえる蜘蛛》2003年 パティナ、ブロンズ、ステンレス鋼 270.5×835.7×627.4 cm 撮影:Ron Amstutz The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
おわりに
本展の副題「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」はハンカチに刺繍で言葉を綴った晩年の作品からの引用です。自らを逆境を生き抜いた「サバイバー」だと考えていたルイーズ・ブルジョワ。生きることへの強い意志を表現するその作品群からは、戦争や自然災害、病気など、人類が直面するときに「地獄」のような苦しみを克服するためのヒントが得られるかもしれません。
ルイーズ・ブルジョワ《無題(地獄から帰ってきたところ)》1996年 刺繍、ハンカチ 49.5×45.7 cm 撮影:Christopher Burke The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)
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★参考文献
森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful”、図録 プレスリリース
父に“いらない子”と呼ばれたルイーズ・ブルジョワ【短期連載:アート界の毒親たち】
「女なんていらない」。父に呪われ虐げられた天才彫刻家がたどり着いた救いの境地。https:/
「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い
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ハーバードの研究で「明確な目標と具体的な計画を設定して紙に書き残している人ほど、目標設定していない人に比べて10年後の収入が10倍になっていた」という結果があるけど、大谷翔平選手が高校時代に使った目標達成シートがまさにそれでしかない。
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★森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful”
Mori Art Museum, 森美術館、2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第378回
孤高の画家【燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、田中一村】10代にして南画(水墨画)に才能を発揮「神童」。17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。東山魁夷と同期。40代以降、日展、院展、へ出展するが、落選。1958年50歳で奄美大島移住。18年、30点の傑作。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1969。1977,69歳で死す。1984年、再発見される。
【田中一村(1908-1977)】17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。1977年9月11日76歳で死す。
【不屈の画家、田中一村】一村は30歳の時、千葉へ移住。40代以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返す。入選した唯一の作品《白い花》青龍社展1947年39歳。「秋晴」落選、川端龍子に抗議。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。1958年50歳で12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976を描き、69歳で死す。日曜美術館「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」1984年2月16日、放送された。
第3章「己の道 奄美へ」50歳の時、奄美に移り住み、紬工場で染色工として働き製作費が貯まると絵に専念し、これまでの不断の努力と一途な研鑽が花開く。《不喰芋と蘇鐵》19739以前と《アダンの海辺》1969について一村はこう手紙に記した。「この絵は百万円でも売れません。これは私の命を削って描いた絵です。この絵は閻魔大王の土産ですから」
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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田中一村(1908-1977) 17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1969
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【田中一村の同時代人】高島野十郎、斉藤真一、東山魁夷、杉山寧
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業、恩賜の銀時計拝受を辞退。水産学を究めることを嘱望されたが辞退。独学で念願の絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫く。透徹した精神性でひたすら写実を追求、隠者のような孤高の人生を送った。貧困と孤独を極め、85歳で死す。生前はほぼ無名、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916
【斉藤真一】1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者。72歳で死す。
【杉山寧】杉山 寧(1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。84歳で死す。
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参考文献
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。
特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
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「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅
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田中一村(1902-1977)は、生涯にわたって個展などのかたちで作品を発表することなく、画壇の活躍に絶望、絵を描き続けた日本画家。明治41年(1908年)栃木に生まれ、50代の時に奄美大島へと移住した一村は、亜熱帯の花鳥や風土を題材に、澄んだ光に満ちた独特の絵画を数多く残した。
特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、過去最大規模となる一村の回顧展。奄美で描いた代表作《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》を筆頭に、神童と称された幼少期の絵画から、未完の大作、そして近年発見された初公開作品まで、250件超の作品を通して一村の全貌を紹介する。
第1章 東京時代:若き南画家として
一村の東京時代。栃木に生まれ、5歳の時に東京に移った一村は、彫刻師の父から絵画を学び、幼くして卓越した画才を示した。南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で、東京美術学校(東京藝術大学)日本画科に入学するが、2か月後にで退学。「家事都合」。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。一村は、当時人気を集めていた近代中国の文人画家による吉祥的画題の書画に倣い、若き南画家として身を立てた。
その後、弟と両親を立て続けに亡くした20代の一村は、転居を繰り返し、自らの方向性を模索。この時期一村は空白期とされていた。それまでの南画的な作風から離れ、《椿図屏風》等、力作を生みだすなど、新境地へと歩みを進めた。数え8歳の《菊図》、南画家時代の《蘭竹図/富貴図衝立》、画風転換期に手がけられた《椿図屏風》がある。
第2章 千葉時代:長い模索期
一村の千葉時代。20代で相次いで家族を失った一村は、昭和13年(1938年)、30歳の時、親戚を頼って千葉に移った。周囲との繋がりや支えを得た一村は、身近な小景画や仏画、季節の掛物など、目にみえる相手に向けて丁寧に作品を手がける。
20年にわたる千葉時代の一村は、屋敷の障壁画一式を任されるような大きな仕事を受け、その過程で花鳥画に新境地を見出し、九州・四国・紀南を巡る旅ののち、開放感に溢れた色紙絵を描いた。
一村は40代半ば以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返した。公募展に入選した唯一の作品《白い花》、《千葉寺 春》千葉の風景画、千葉時代という長い模索期に手がけられた作品は無数にある。
第3章 奄美時代:豊かな自然を題材に
一村の晩年、奄美時代を紹介。昭和33年(1958年)、50歳の一村は、単身で奄美大島に移った。一度は千葉に帰るものの、覚悟を決めて再び奄美に戻り、紡工場で染色工として働きつつ、奄美の自然を主題とした作品を制作。最晩年には工場を辞めて制作に注力し、《アダンの海辺》をはじめとする主要な作品を数多く描いたとされる。本展では、《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》、《奄美の海に蘇鐵とアダン》など、奄美時代の作品の数々を展示する。
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展示作品の一部
田中一村 《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973年)以前 絹本着色 個人蔵
2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《アダンの海辺》 昭和44年(1969年) 絹本着色 個人蔵
田中一村「初夏の海に赤翡翠」1962、昭和37年、田中一村記念美術館蔵
田中一村 《奄美の海に蘇鐵とアダン》 昭和36年(1961年)1月 紙本墨画着色 田中一村記念美術館蔵
2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《椿図屏風》 昭和6年(1931年) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵
2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《白い花》 昭和22年(1947年)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵
田中一村 《ずしの花》 昭和30年(1955年) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵
2024 Hiroshi Niiyama
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特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)~12月1日(日)
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