2018年11月21日 (水)

織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・『戦う知識人の精神史』

Giuliano_de_medici_michelangeloSeikadou大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第163回
復讐する偉大な王。偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長。
【復讐する織田信長】血をもって書かれた精神史。織田信長は、織田信行の謀反を清州城天主北櫓次の間にて報復。病気の信長を襲う弟を返り討ち。弘治3年、信長24歳。「稲生の戦い」弘治2年8月24日、信長700人、織田信行勢1700人に襲いかかる。信長の所領を横領する兄弟。光輝の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、将軍家、天皇、寺院、貴族。血をもって書かれた精神史。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、【織田信長と茶会、天下布武】
永禄10(1567)年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山上に茶室を作る。銀閣寺「漱蘚亭」にならった。*
永禄11(1568)年、10月2日、堺に矢銭を課した織田信長に抗戦しようとする町衆を今井宗久らが説得。この日、今井宗久は、織田信長に、松島茶壺、紹鴎茄子を献上。
1569年、織田信長、丹羽長秀、松井友閑らに命じて、洛中洛外の茶器の名物狩り。
1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会を催す。茶頭は、今井宗久。この年、比叡山焼き討ち。
天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺で茶会。
1574年(天正二)年、1月1日、髑髏盃で宴。信長、飲酒せず。2月3日、岐阜城内にて茶会を催す。3月28日、蘭奢待を賜る。信長41歳。
1574年(天正二)年、4月3日、織田信長、相国寺にて茶会を催す。松井友閑、千利休、今井宗久、津田宗及らが集い、織田信長は方丈で点前を披露した。(『津田宗及茶湯日記』)。蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
*千利休は51歳の1573年、1574年(52歳)、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。
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2、【信長、物欲に執着せず】
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。
【蘭奢待を下賜】1574年(天正二)年、3月28日、蘭奢待を賜る。4月3日、蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
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3、【運命の本能寺、天下の三肩衝】
織田信長は、肩衝茶入「天下の三肩衝」(さんかたつき)を集めるため、本能寺にて、茶会を催す。2つは織田信長が持っていた。*
*「天下の三肩衝」といわれる「楢柴」「初花」「新田」。
博多豪商の島井宗室が「楢柴」をもっていた。
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4、【武田氏、滅亡】1582年(天正十年)3月11日、武田勝頼、自害。
【信長、上洛】1582年(天正十年)5月29日、信長、上洛。
【信長5軍団】信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいない。信長は70人の供の者だけであった。
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5、【織田信長 最期の茶会 本能寺の変】
【織田信長 最期の茶会】1582年(天正十年)6月1日、本能寺にて信長が茶会を催す。
利休60歳。信長48歳。1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催される。この夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。
【織田信長 本能寺の変】天正十(1582)年6月2日、払暁。明智光秀軍1万3000人、本能寺を襲撃。信長勢70人。信長、弓矢をとって自ら戦うが「是非もない」、自刃。女たちを逃がす。光秀謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。反信長包囲網。アンシャンレジームの反撃。怨恨はあり得ない。小和田哲男、谷口克広。小和田哲男『集中講義 織田信長』P.166
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★【織田信長】参考文献
小和田哲男『集中講義 織田信長』新潮社
小和田哲男『戦国合戦事典』PHP 文庫
小和田哲男『名城と合戦の日本史』新潮社
小和田哲男監修『芸術・美術・建築からわかる日本史』
小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
谷口克弘『織田信長合戦全録』中公新書
泉秀樹『戦国なるほど人物事典』PHP文庫2003
泉秀樹『織田信長と戦国武将天下取りの極意』講談社+α文庫 2007
泉秀樹『戦国武将伝 織田信長』PHP2004
『図解 戦国史』成美堂出版
堺屋太一他『信長 天下一統の前に悪などなし』プレジデント社2007
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
加来 耕三『戦国美女は幸せだったか』 筑摩書房
外川敦『戦国史』
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和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
岩沢愿彦、奥野高広『信長公記』 (角川ソフィア文庫―名著コレクション) 1984
現代語訳『信長公記』(全) (ちくま学芸文庫) 2017
現代語訳『信長公記』 (新人物文庫) 角川
ルイス・フロイス『日本史』12巻、中公文庫
小和田哲男『合戦図屏風で読み解く 戦国合戦の謎』青春新書
本郷和人『戦国武将の素顔』宝島社新書
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★大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2FkeiJX
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID

Giuliano de' Medici, Michelangelo.1526
曜変天目茶碗、静嘉堂文庫美術館

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2018年11月12日 (月)

織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』

Himeji_cherry_blossom_0Velazquezthe_surrender_of_breda_163大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第162回
血をもって書かれた精神史。織田信長は、織田信行の謀反を清州城天主北櫓にて報復する。病気の信長を襲う弟を返り討ち。弘治3年、信長24歳。光輝の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、寺院、貴族、将軍。血をもって書かれた精神史。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天下一の仕事を成し遂げる。
【勝者が敗者を裁く。勝者によって歴史は書き換えられる】「皇帝ネロは暴君ではない。スエトニウス『ローマ皇帝伝』タキトゥス『年代記』プルタルコス『英雄伝』」「織田信長、比叡山延暦寺、根本中堂、焼き討ちは無かった」「織田信長、天下布武は、武力征服を意味しない」 だまされる大衆は教養の欠片もない。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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1、【天下布武】世界の旧勢力を敵にする。すべての権力に立ち向かう。
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定。
【織田信長、天下布武】1567 (永禄10) 年、信長、34歳。岐阜城にて、天下布武印を用いる。沢彦宗恩の意見による。「既存の階級社会の否定」を意味する。 武は「七徳の武」「武の七つの徳を備えた者が天下を治めるにふさわしい」『春秋左氏伝』
【織田信長、天下布武、知的で革命的】既存の階級社会、価値観を否定。ニヒリズム。知的で革命的。妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えによる。天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
小和田哲男『集中講義 織田信長』
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2、織田信長、8つの戦い
【織田信長、8つの戦争】1560桶狭間(今川義元)、1567稲葉山城の戦い(斉藤龍興)、1570姉川の戦い(浅井・朝倉)[1571比叡山焼討、元亀4=天正元(1573)義昭追放、室町幕府滅亡]、1573三方が原の戦い(武田信玄)、武田信玄死す。1574 伊勢長島一向一揆征伐(一向宗)、1575長篠の戦((武田勝頼)、(1570-1580)石山戦争(石山本願寺)、1582本能寺の変、天正10年6月2日。
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3、信長包囲網 信長は11年間、包囲網と戦う
【信長包囲網】戦国時代末期より安土桃山時代にかけて発生した反織田信長連合。
【織田信長の戦い、信長包囲網】信長包囲網(1570-1580)。第1次包囲網、浅井朝倉、比叡山。岐阜城にて髑髏盃の宴。1570-1573 第2次包囲網、足利義昭、挙兵。室町幕府滅亡。1573 第3次包囲網、石山戦争(1570-1580)本願寺光佐(顕如)と和睦1580
元亀元年(1570年)4月、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗。元亀2年(1571年)織田信長と足利義昭の対立。織田信長と足利義昭の対立。武田信玄の死と包囲網瓦解。1573年5月13日。
1576天正4年、毛利氏、上杉氏の本格介入と松永久秀の謀叛。
1580天正8年石山本願寺との戦い。石山戦争(1570-1580)
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4、信長包囲網と正親町天皇 包囲網の窮地を天皇が解決
【信長包囲網第1次】元亀元年、生涯最大の窮地、志賀の陣、正親町天皇の綸旨による勅命講和。
【信長包囲網第2次】天正元年足利義昭との戦い。天皇による勅命講和。1573 (天正元年) 室町幕府滅亡1575年 (天正3年)
天正2年(1574年)た「蘭奢待切り取り」勅許。
【信長包囲網第3次】天正8年石山本願寺との戦い。天皇による勅命講和。1580(天正8)年。
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5、延暦寺、根本中堂、焼討は無い
【比叡山焼討事件の真相】6代将軍、足利義教が行った比叡山攻撃とその後の根本中堂自焼。1435年、延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し斬首する。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼き討ち。元亀二(1571年)9月12日、織田信長が比叡山焼き討ち。浅井・朝倉攻めが目的である。
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6、穴太衆、野面積み、天下一の石垣
織田信長「比叡山の焼き討ち」。信長は焼き討ち後、再興の目を徹底的に潰すため、臣下の丹羽長秀に焼け残った石垣などの打ちこわしを命じる。しかし、不落の石垣。
【織田信長、安土城、穴太衆】延暦寺伽藍の石垣は、頑丈すぎてなかなか壊すことができない。それを丹羽長秀が信長に進言すると、信長は後世に城の歴史を変えた名城、安土城の築城に「穴太衆」を召し抱えた。天正4(1576)年、安土城、天主閣完成。野面積である。但馬竹田城、姫路城、伊賀上野城、大阪城、名古屋城、江戸城の石垣も穴太衆の手になる。
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★参考文献
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
「真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者のことである」ナポレオン。
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」国立新美術館・・・絶対権力者が手に入れられない秘宝
https://bit.ly/2Jc9WBY
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【死生学】どんなに教養があって立派な人でも、人の痛みがわからない人は存在する価値がない。生きる価値がない。魂が醜い。存在の根源である心が腐っているからである。「魂のことば」『旅する哲学者 美への旅』

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2018年10月31日 (水)

「ムンク展 共鳴する魂の叫び」・・・波瀾の画家、月光が輝く海と女

Munch2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第161回
金木犀の香る森を歩いて、美術館に行く。薄羽蜉蝣の飛ぶ丘、銀杏並木を歩き、グリーグ『ペールギュント』ソルベーグの歌が胸に浮かぶ。放浪の旅から帰国後、ムンクが愛したオースゴールストラントの海、月光の輝く海と女たち。
「私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた」ムンク
30歳の時の作品、エドヴァルド・ムンク『叫び』。怖れおののいて耳を塞いでいる姿。血のように赤く染まったフィヨルドの夕暮れ、赤い空、暗い背景、遠近法の構図。「自然を貫く果てしない叫び」。この主人公が叫びを発しているのではない。『叫び』、4枚の絵画がある。(1893テンペラ、クレヨン、1893クレヨン、1895パステル、1910テンペラ)
*大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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【エドヴァルド・ムンク、波瀾の生涯、愛と絶望と放浪の果て帰国、2万8千点、80歳で死す】30歳の作品『叫び』(1893)で世界に名をとどろかせたムンク。26歳から46歳まで、外国を放浪。1892年29歳の時「ムンク事件」、批評家の攻撃でベルリンの個展が1週間で打ち切り。1902年39歳の時、結婚を迫る恋人トゥラ・ラーセンを拒否、破局、銃爆発事件で指を負傷。1909年46歳の時、クリスチャニアに帰国。1927年、64歳、ベルリンとオスロで回顧展。1940年77歳。全作品、2万8千点の作品をオスロ市に遺贈。1944年、80歳で死去。
【波瀾の生涯】エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。1863年、5歳の時、母死す、1877年、姉ソフィエ、結核で死す。17歳、画学校、入学。1889年、26歳、パリ留学。父、脳卒中で死去。46歳で帰国、『地獄の自画像』(1909)。
1916年、エーケリーの丘の家ヘ移り住んだ後、多数の召使兼モデル志願の若い女たちがムンクの家を訪れた。
『すすり泣く裸婦』(1913-14)に描かれた女、女召使兼モデル、16歳のインゲボルク・カウリン、ムンク50歳と恋に陥る。インゲボルグに惹かれ合うが彼女には婚約者がいた。
「文学、音楽、藝術は生血によって制作される。藝術は生きた人間の血なのだ。作品は、魂と意志をもつ結晶であり、子供である」エドヴァルド・ムンク
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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エドヴァルド・ムンク『叫び』「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」ムンク『日記』
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展示作品の一部
エドヴァルド・ムンク《叫び》テンペラ・油彩画(1910年?)オスロ市立ムンク美術館
ムンク「絶望」1892-94 キャンバスに油彩 92×67cm ティール・ギャラリー蔵
ムンク《マドンナ》1895年 リトグラフ
ムンク《病める子Ⅰ》1896年 リトグラフ 43.2×57.1cm
ムンク《自画像》1882年 油彩、紙(厚紙
ムンク《夏の夜、人魚》1893年、オスロ市立ムンク美術館蔵
ムンク《星月夜》1922-24年 オスロ市立ムンク美術館蔵
ムンク『地獄の自画像』(1909)
ムンク『すすり泣く裸婦』(1913-14)
ムンク『緑色の服を着たインゲボルク』(1912)
ムンク『森の吸血鬼』(1916-18)
ムンク《生命のダンス》(1925)
ムンク《自画像、時計とベッドの間》(1940-43)
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参考文献
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・カミーユの愛と死
https://bit.ly/2ncZAIR
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
https://bit.ly/2vikIlL
「ムンク展 共鳴する魂の叫び」図録2018
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「ムンク展」(国立西洋美術館 2007年10月6日(土)—2008年1月6日(日)
「ムンク展 画家とモデルたち Edward Munch and his Models」(伊勢丹美術館1992)
「ムンク展 愛と死 The Frieze of Life」(出光美術館1993)
「ムンク展 EDWARD MUNCH」(世田谷美術館1997)
「ムンク展 生の不安―愛と死」(東京国立近代美術館1981)
「冬の国―ムンクとノルウェー絵画」(国立西洋美術館1993)
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世界で最もよく知られる名画の一つ《叫び》を描いた西洋近代絵画の巨匠、エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。画家の故郷、ノルウェーの首都にあるオスロ市立ムンク美術館が誇る世界最大のコレクションを中心に、約60点の油彩画に版画などを加えた約100点により構成される大回顧展です。
複数描かれた《叫び》のうち、ムンク美術館が所蔵するテンペラ・油彩画の《叫び》は今回が待望の初来日となります。愛や絶望、嫉妬、孤独など人間の内面が強烈なまでに表現された代表作の数々から、ノルウェーの自然を描いた美しい風景画、明るい色に彩られた晩年の作品に至るまで、約60年にわたるムンクの画業を振り返ります。
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「ムンク展 共鳴する魂の叫び」東京都美術館、10月27日-2019年1月20日
https://www.tobikan.jp/

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2018年10月25日 (木)

ルーベンス展―バロックの誕生・・・宮廷画家、バロックの荘厳華麗

Rubens_2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第160回
金木犀の香る森を歩いて、美術館に行く。ハプスブルグ帝国の都市を旅した青春の日々を思い出す。ウィーン美術史美術館、プラド美術館、ドレスデン古典絵画館、ルーベンスの部屋。ルーベンスは、ハプスブルク家の宮廷画家、荘厳華麗な三連祭壇画と神話画。イタリア・ルネサンスに影響を受けた教養人。
ルーベンスの絵画は、ルノワールのような豊満な裸体を想起する。53歳の時、2番目の16歳の妻、エレーヌの肉体美である。
――
【ルーベンス、22歳で画家、62歳で死す。1400点の作品】
ルーベンス(1577-1640)、アントウェルペンに生まれる。古典的知識を持つ人文主義者、美術品収集家、七ヶ国語を駆使して、外交官として活躍。ハプスブルク家の宮廷画家。
スペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世から騎士爵位を受ける。対抗宗教改革の主導者の一人。
ルーベンスの父ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の二度目の妃アンナの法律顧問、愛人となり1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移す。アンナの愛人であることが発覚して投獄されたヤン。後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれた。1587年、父、死す。アントウェルペンでカトリックに改宗。
1、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)  1577-1598
1590年、生活に困窮した母マリアは、13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出す。アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへ入会、見習いとして修業する。1598年に修業を終え、画家として出発する。
2、イタリア時代(1600年-1608年)
23歳でイタリアに行き、8年間滞在する。ヴェネツィアに行く。マントバ公の宮廷画家になる。古代彫刻の理想美を絵画化する*。「ラオコーン」「ベルヴェデーレのトルソ」「かがむアプロディーテとエロス」に心酔する。ヴェネツィアで、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェネツィア派の画家に深い影響を受ける。ローマで、カラバッジョの影響を受ける。
1603年、マントバ公の使者として、フェリペ3世への贈物を携えてスペイン訪問。
3、アントウェルペン時代(1609年-1621年)
アントウェルペンに帰り、工房を開く。1611年、三連祭壇画「キリスト降架」「キリスト昇架」(1611-14)アントウェルペン聖母大聖堂を制作。
4、『マリー・ド・メディシスの生涯』制作、外交官として活躍(1621年-1630年)
1621年、フランス王太后マリー・ド・メディシス、パリのリュクサンブール宮殿の装飾に、自身の生涯と前フランス王1610年に死去した夫アンリ4世の生涯とを記念する連作絵画2組の制作をルーベンスに依頼。
24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』1625年、ルーヴル美術館蔵。
三連祭壇画『聖母被昇天』(1625-1626)アントウェルペン聖母大聖堂
【外交官、ルーベンス】1628年、イサベラ大公妃の使者として、マドリードに行き、フェリペ4世の宮廷画家となる、ベラスケスにティツィアーノの偉大さを吹き込む。
1629年、フェリペ4世の使者として、ルーベンス、スペインからイギリスに行き、チャールズ1世と和平交渉する。
1630年、スペインとイギリス、和平交渉、成功。
5、晩年(1630年-1640年)16歳のエレーヌと再婚
最初の妻イザベラが死去した4年後、1630年、53歳のたルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚。エレーヌをモデルとした肉感的な女性像を描く。
痛風を患っていたルーベンス、心不全で1640年5月30日に死去。
『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃、ウィーン美術史美術館、『三美神』(1635年頃、プラド美術館)、『パリスの審判』(1639年頃、プラド美術館)
【ルーベンスとベラスケス】
1628年-1629年、宮廷画家。外交官ルーベンス、マドリッド訪問。美術愛好家フェリペ4世により、宮廷内にアトリエを与えられる。ベラスケス、ルーベンスに教えを受ける。ベラスケス、1628年ルーベンスに「ヴェネツィア派ティツィアーノ」の偉大さを教えられる。1629年、1回目のイタリア旅行に行く。1647年、2回目のイタリア旅行(1647-1651年)。
ルーベンス(1577-1640)、アントウェルペンで工房を営み、2階から弟子たちの作業を指揮する。1400点の作品を世に残す。
ルネサンスの巨匠とバロックの巨匠たち
【ティツィアーノ】1528年以降、ティツィアーノ(1488-1576)、40代。ハプスブルグ家、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷伯爵、となる。黄金拍車の騎士の号を受ける。フェリペ2世の肖像画を描く。
1550年、ティツィアーノ、アウグスブルグでフェリペ2世に会う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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【バロック】カラヴァッジオの光と闇、ベラスケスの宮廷画、ルーベンスの華美、レンブラントの闇、ラ・トゥールの蝋燭、フェルメールの静謐な空間。
暗闇の中に差し込む一条の光。蝋燭の光に照らされた顔。16世紀から17世紀、光と闇を描いたバロックの画家たち。徹底した写実主義で劇的な光の効果を描いたカラヴァッジオ、暗闇の中にともる光で宗教画を描いたラ・トゥール、深い闇と静謐な光を描いたレンブラント。カラヴァッジョは17世紀の画家に深い影響を与えた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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展示作品の一部
ルーベンス「聖アンデレの殉教」1638-39油彩カンヴァス306cm×216cm マドリード、カルロス・デ・アンベレス財団
ペーテル・パウル・ルーベンス「法悦のマグダラのマリア」(1625-28)リール美術館
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニと工房「聖テレサの頭部」(17世紀半ば)
ペーテル・パウル・ルーベンス《マルスとレア・シルウィア》 ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション
ペーテル・パウル・ルーベンス《パエトンの墜落》 ワシントン、ナショナル・ギャラリー
ペーテル・パウル・ルーベンス《エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち》 ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション
ペーテル・パウル・ルーベンス《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》 ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション
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参考文献 
バロック カラヴァッジョ、光と闇の巨匠たち
https://t.co/3Ny54JCgH1
カラバッジョ展、国立西洋美術館・・・光と闇の藝術
https://bit.ly/2NJNcyQ
「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」国立西洋美術館・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0
「ティツィアーノとヴェネツィア派展」東京都美術館
https://t.co/jijpFTn66k
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール: 光と闇の世界、国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/2005_192.html
『ルーベンス展―バロックの誕生』図録2018
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ペーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)は、バロックと呼ばれる壮麗華美な美術様式が栄えた17 世紀ヨーロッパを代表する画家です。彼は大工房を構え時代に先駆ける作品を量産し、同時代以降の画家たちに大きな影響を与えました。さらにその能力は画業にとどまらず、ヨーロッパ各地の宮廷に派遣されて外交交渉をも行いました。
本展覧会はこのルーベンスを、イタリアとのかかわりに焦点を当てて紹介します。イタリアは古代美術やルネサンス美術が栄えた地であり、バロック美術の中心もローマでした。フランドルのアントウェルペンで育ったルーベンスは、幼いころから古代文化に親しみ、イタリアに憧れを抱きます。そして1600年から断続的に8年間この地で生活し、そこに残る作品を研究することで、自らの芸術を大きく発展させたのです。本展はルーベンスの作品を、古代彫刻や16世紀のイタリアの芸術家の作品、そしてイタリア・バロックの芸術家たちの作品とともに展示し、ルーベンスがイタリアから何を学んだのかをお見せするとともに、彼とイタリア・バロック美術との関係を明らかにします。近年では最大規模のルーベンス展です。国立西洋美術館
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018rubens.html
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★ ルーベンス展―バロックの誕生、国立西洋美術館
2018年10月16日(火)~2019年1月20日(日)

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2018年10月14日 (日)

フェルメール展・・・光の魔術師、オランダの黄金時代の光と影

Vermeer2018_1Vermeer_wine_glass大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第159回
初秋の森を歩いて美術館に行く。光の魔術師、フェルメール、淡い光の空間は何を意味するのか。
【フェルメール】ヨハネス・フェルメール(1632‐1675)。フェルメールは、バロックの画家だが、カラバッジョの激情は存在しない。フェルメールは、光の魔術師と呼ばれるが、印象派の光とは異なる。フェルメールの空間構成、色彩設計、画中画の寓意は何を意味するのか。
16世紀スペインの黄金時代から、17世紀オランダの黄金時代へ。王家の宮廷から、富裕層の商人の家へ。フェルメールは、菱川師宣(1618-1694)の同時代人である。
『牛乳を注ぐ女』(1658年)、風俗画に転向した初期作品。台所の召使いが、牛乳をテーブル上の陶器の容器に注ぎ入れている。左の窓から日光が射し込んでいる。リンネルのキャップ、青いエプロン。床に四角い足温器。窓から差し込む柔らかい光。フェルメールは、光の画家とよばれる。
『ワイングラス』(1661-1662年)。ステンドグラスから差し込む淡い光。男にワインを勧められワインを飲む女。椅子の上にリュート。テーブルの上に楽譜。ロマンスの匂い。誘惑を戒める寓意か。
『取り持ち女』(1656年)。娼婦の家を舞台に、女の肩に手をかけ、金貨を渡す男の客。その背後で見守る取り持ち女。
アムステルダム国立美術館は『牛乳を注ぐ女』を「疑問の余地なく当美術館でもっとも魅力的な作品の一つ」とするが、どこが魅力なのか。フェルメールの空間、差し込む柔らかい光。意味のない世界。
【バロック】カラヴァッジョから始まる。カラヴァッジオの光と闇、ベラスケスの宮廷画、ルーベンスの華美な神話画、レンブラントの闇、ラ・トゥールの蝋燭、フェルメールの静謐な空間。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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『牛乳を注ぐ女』(1658年) アムステルダム国立美術館
ヨハネス・フェルメール『ワイングラス』(1661-1662年頃)ベルリン国立美術館
ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの女」1662-1665年頃ベルリン国立美術館
ヨハネス・フェルメール「手紙を書く婦人と召使い」1670-1671年頃アイルランド・ナショナル・ギャラリー
「赤い帽子の娘」1665-1666年頃ワシントン・ナショナル・ギャラリー
『取り持ち女』(1656年)ドレスデン国立絵画館
「手紙を書く女」1665年頃ワシントン・ナショナル・ギャラリー
「リュートを調弦する女」1662-1663年頃メトロポリタン美術館
「マルタとマリアの家のキリスト」1556年 スコットランド・ナショナル・ギャラリー
「赤い帽子の娘」は12月20日まで展示。「取り持ち女」は2019年1月9日より公開。
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光と影の画家、フェルメール 21歳で画家、43歳で死す。
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)、1632年デルフトに生まれる。1636年チューリップバブルが弾ける。1648年ウエストファリア条約、ミュンスターの和約*でオランダ独立。1647-53年、6年間、画家修業をする。1652年、父レイニール死去、宿屋と画商を受け継ぐ。21歳で画家として出発する。1654年英蘭戦争で敗戦。物語画から風俗画へと転換する。『取り持ち女』(1656年)『牛乳を注ぐ女』(1656-58年)。写実と創作を融合する風俗画を確立。『デルフト眺望』(1660)『絵画藝術』(1666-67)。物語を秘めた緻密な光と陰影の絵画に到達する。『手紙を書く女と召使い』(1672)。ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンがパトロンで21点以上を所蔵した。
1672年フランス侵攻。画家活動期間は22年間、32-35点の作品を残す。描いたのは50点と推定される。11-12人の子を残して1675年、43歳で死す。
――
カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius)、フェルメールの師
カレル・ファブリティウス(1622年2月27日‐1654年10月12日)、レンブラント・ファン・レインの弟子。 アムステルダムのレンブラントの工房で絵を学んだ。1650年代初頭にデルフトへ移り、フェルメールと同時に、1652年にデルフトの画家ギルドに加入。 デルフト爆発事件で、1654年10月12日、デルフトで没、32歳。
今日に残る彼の作品は10点余り。『楽器商のいるデルフトの眺望』 1652年 「帽子と胴鎧をつけた男(自画像)」1654年
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オランダの黄金時代 17世紀 宗教戦争と独立戦争
ネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)、フェリペ2世に対する反乱からウエストファリア条約まで。アウクスブルクの和議によりスペインから独立。
1602年、オランダ東インド会社設立。世界初の多国籍企業、最初の証券取引場であるアムステルダム証券取引所を設立した株式を財源とした。
【ウエストファリア条約】1648年10月24日調印の三十年戦争(1618-48)終結条約。1645年からドイツのウェストファーレンで開かれた講和会議で、フランス、スウェーデンは領土拡大、神聖ローマ帝国議会への参加権を獲得して国際的立場を強化、逆にハプスブルク家は勢力後退。ドイツ諸侯は完全な領土主権を認められ、神聖ローマ帝国内の分立主義が決定的となった。アウクスブルクの宗教和議の原則がカルバン派にも拡大、オランダとスイスの独立が正式に認められる。
【三十年戦争】ドイツを舞台として1618‐48年の30年間、ヨーロッパ諸国を巻きこんだ、宗教戦争の最後にして最大のもの。ボヘミアで勃発、旧教側にスペイン、新教側にデンマーク・スウェーデン・フランスが加担し国際戦争に発展。ドイツは荒廃し、ウェストファリア条約で終結。
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【フェルメール 手紙】意中の人からの手紙を読む女、禁じられた恋の匂い。手紙を描いたフェルメール作品は6点ある。『窓辺で手紙を読む女』(1659年)が始まり『婦人と召使』(1668年)、『恋文』(1670)、『手紙を書く女と召使い』(1672)が到達点である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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展示作品の一部
ヨハネス・フェルメール「マルタとマリアの家のキリスト」「ワイングラス」「牛乳を注ぐ女」1658「リュートを調弦する女」「手紙を書く女」「真珠の首飾りの女」「赤い帽子の娘」「手紙を書く婦人と召使い」1672「取り持ち女」1656「恋文」1669-1670年頃
17世紀のオランダ絵画
ハブリエル・メツー「手紙を読む女」1664〜1666年頃 アイルランド・ナショナル・ギャラリー
ハブリエル・メツー「手紙を書く男」
ピーテル・デ・ホーホ「人の居る裏庭」1663〜1665年頃 アムステルダム国立美術館
ヘラルト・ダウ「本を読む老女」1631〜32年頃 アムステルダム国立美術館
ヤン・ステーン「家族の情景」
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★参考文献
フェルメールからのラブレター展・・・禁じられた恋の匂い
https://bit.ly/2ogjOlc
「フェルメール展-光の天才画家とデルフトの巨匠たち-」東京都美術館(2)・・・光と陰の室内空間
https://bit.ly/2BUKL7Q
ヴィルヘルム・ハンマースホイ、静かなる詩情、国立西洋美術館・・・陽光、あるいは陽光に舞う塵
https://bit.ly/2MN8f3R
ベルリン国立美術館展、フェルメール「真珠の首飾りの少女」・・・物欲と虚栄に溺れる女
https://bit.ly/2N0hSv3
小林頼子「フェルメールの魔法」
小林頼子『フェルメール 作品と生涯』
『フェルメール展 図録』2018
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日本美術展史上、最大の「フェルメール展」を開催。「光の魔術師」とも称されるフェルメールの、わずか35点とされる希少な現存作品のうち、国内過去最多の8点を展示。
オランダ絵画黄金時代の巨匠ヨハネス・フェルメール(1632-1675)。
国内外で不動の人気を誇り、寡作でも知られ現存作はわずか35点とも言われています。
今回はそのうち8点を展示。日本美術展史上最大のフェルメール展を開催いたします。
日本初公開を含むフェルメールの作品のほか、ハブリエル・メツー、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーンらの傑作を含む約50点を通して、17世紀オランダ絵画の広がりと独創性をご紹介します。
――
★「フェルメール展」上野の森美術館、10月5日-2019年2月3日
http://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=857636
大阪市立美術館、2019年2月16日(土)-5月12日(日)
大阪市立美術館は、フェルメールは6作品。「恋文」が出展される。

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2018年10月 7日 (日)

「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」・・・純粋な美しい魂に舞い降りる

Kaikeijoukei2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第158回
金木犀の香る森を歩いて、博物館に行く。夕暮れの森、夕暮れの諧調、夕暮れの寺院、観音菩薩は純粋な美しい魂に舞い降りる。
六観音菩薩の思想、六道輪廻の思想が、800年前の仏像に顕現されていて、感銘を受ける。
観音菩薩の光背の透かし彫りが生みだす美しい影。

【六観音菩薩】聖観音菩薩は、地獄道の者を救う。千手観音菩薩、飢えと渇きの餓鬼道の者を救う。馬頭観音菩薩、動物の弱肉強食の畜生道の者を救う。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
この世は、競争社会である。弱肉強食の畜生、怒りと争いの修羅。強奪と詐欺と殺戮と裏切りの悪鬼に満ち充ちている。神通力をもつ天人を救うのは、如意輪観音である。
競争社会のフランスを逃れて、ポルトガルに移住するフランス人。金権社会のイギリスを逃れて、イタリアに移住するイギリス人。織田信長は、階級社会の日本を嫌悪、天下布武、既存の階級社会、価値観を拒否して、戦いと茶会を展開した。天道を追求した織田信長。
【信長の弟信行、病いの織田信長を殺しにやってくる】信行、弘治3 (1557)年11月2日、二度目の謀反を企て、清洲城へ信長の見舞いにくる。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって返り討ち。復讐する信長24歳。
【織田信長、天下布武、茶会】織田信長は、1567(永禄10年) 天下布武から、戦いと茶会を展開する。1568(永禄11年)9月26日、信長、入京。1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会。
*大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
――
【六観音菩薩】聖観音菩薩、千手観音菩薩、馬頭観音菩薩、十一面観音菩薩、准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、如意輪観音菩薩
六観音菩薩は、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音。*六観音菩薩は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道。六道から生きものを救う。(天台智顗『摩訶止観』)
衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(境涯)、六趣、六界。
【六道輪廻】天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、
【死生学】【六道輪廻】責め苦の地獄道、飢えと渇きの餓鬼道、弱肉強食の畜生道、争い殺し合う修羅道、四苦八苦の人間道、天人は神通力が使えるが苦に悩む天道。六道輪廻から生きものを救う観音菩薩。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
――
天台僧の義空(1172~1241)は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという『法華経』の教えにもとづいて、1220(承久2年)大報恩寺を創建した。快慶作の十大弟子立像と、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像は、法華経の世界を表現する。
運慶一門の慶派仏師、定慶作の六観音菩薩像が伝来する。貞応三年(1224)に、定慶が造ったと准胝観音の像内墨書銘にある。運慶の長男である湛慶より十歳ほど若い定慶は、運慶の弟子。
――
展示作品の一部
運慶の晩年の弟子、定慶が41歳の時に制作した「六観音菩薩像」。大報恩寺の秘仏本尊、快慶の弟子、行快作「釈迦如来坐像」、快慶作「十大弟子立像」、運慶の弟子、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作「六観音菩薩像」。
行快作「釈迦如来坐像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
快慶作「十大弟子立像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
阿難陀(あなんだ)、羅睺羅(らごら)、優婆離(うぱり)、阿那律(あなりつ)、迦旋延(かせんえん)、富楼那(ふるな)、須菩提(すぼだい)、大迦葉(だいかしょう)、目犍連(もくけんれん)、舎利弗(しゃりほつ)
肥後定慶作「六観音菩薩像」、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音 鎌倉時代・貞応3年(1224)京都・大報恩寺蔵
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★参考文献
法華寺「十一面観音」の美・・・純粋な魂に舞い降りる
https://bit.ly/2NKS5IP
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
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京都市上京区に所在する大報恩寺は、鎌倉時代初期に開創された古刹です。釈迦如来坐像をご本尊とし、千本釈迦堂の通称で親しまれています。本展では、大報恩寺の秘仏本尊で、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像、快慶作の十大弟子立像、運慶の弟子で、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作の六観音菩薩像など、大報恩寺に伝わる鎌倉彫刻の名品の数々を展示いたします。
――
特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」、東京国立博物館
2018年10月2日(火) ~12月9日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1914

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2018年9月25日 (火)

「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」・・・醍醐寺三宝院、織田信長のために祈祷する

Daigoji2018_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第157回
醍醐寺の黄衣の12人の僧侶が、法螺貝を吹いて来て「薬師如来、日光菩薩、月光菩薩」の前で、法要、読経した。サントリー美術館が寺院のようである。醍醐寺の枝垂れ桜を思い出す。桜満開の京都、仁和寺に滞在して花盛りの密教寺院、禅宗寺院をめぐり歩いた日々。醍醐寺三宝院、桃源郷の庭園。如意輪観音は如意宝珠を手にもつ密教変化観音である。如意宝珠は生きものの願いをかなえる。
密教僧は、開運招福、学問成就、健康長寿、怨敵調伏、大願成就、を祈る。高貴な精神は、聖なる目的を達成するために、敵を滅ぼさねばならない。真言密教の真言と秘法は、苦悩する人のために、祈祷、救済する。
空海は、大同元年(806年)10月、唐から帰国し真言密教の経典、秘法を日本に伝えた。だが中国においては、密教は滅びた。醍醐寺は、戦国時代、織田信長のために祈祷した。
*大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
――
【醍醐寺三宝院 天正元(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信。「天下布武」印がある。
【織田信長 天正元年】三方が原の戦い、信長と家康は信玄を迎え撃つが敗退。だが、信長包囲網に参加すべく上洛する武田信玄、死す(1573)。信長包囲網、瓦解。
【醍醐の花見】1598年(慶長3)3月15日,京都の醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が花見の宴を催した。この年8月に秀吉が61歳で病死した。
高貴な精神は、聖なる目的を達成するために、敵を滅ぼさねばならない。悪と戦い生き残らねばならない。遍在する悪と戦う、知的で革命的な精神は、知恵と愛が根源である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
――
★展示作品の一部
国宝「薬師如来坐像」醍醐寺、平安時代10世紀
国宝「虚空蔵菩薩立像」醍醐寺、平安時代10世紀
「如意輪観音坐像」醍醐寺、平安時代10世紀
「織田信長黒印状」醍醐寺、安土桃山、16世紀、天正元(1573)年か。(醍醐寺文書聖教558函36号)醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状。「天下布武」の印が捺されている。三宝院から戦陣の信長に「祈祷の巻数」が送られ、それに対する返書。密教の祈祷を修法した「祈祷の巻数」は護符である。信長が出した礼状である。筆跡は、信長の祐筆を長年務めた武井夕庵のものと思われる。天正三年以降、祐筆は楠長諳に移行する。醍醐寺には、この他「織田信長朱印状」醍醐寺、安土桃山、1572年(醍醐寺文書聖教24函102号)がある。参考文献*『京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-』図録
空海筆「大日経開題」9世紀。
「金天目・天目台」桃山時代・16世紀、醍醐寺第80代座主の義演が秀吉の病気平癒を祈願した褒美として与えられた品。
快慶「不動明王坐像」1203年
「醍醐花見短冊」安土桃山、慶長三年1598年
足利尊氏筆「理趣経」南北朝1357年
――
★参考文献
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH

大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
『京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-』図録
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第1章 聖宝、醍醐寺を開く
平安時代の貞観16年(874)、天智天皇の流れをくむ聖宝は、東大寺において諸宗を学んだのち、醍醐味の水が湧き出る笠取山を見出し、草庵を結んで准胝・如意輪の両観音菩薩像を安置しました。醍醐寺の始まりです。
その後、醍醐寺は醍醐天皇をはじめ歴代天皇の帰依を受け、笠取山上に薬師堂や五大堂を加えて伽藍(「上醍醐」)を整えながら、その山裾にも伽藍(「下醍醐」)を展開し、開創から数十年のうちに大規模な寺観を備えていきました。
本章ではまず、聖宝の肖像や伝記、縁起をはじめ、醍醐天皇御願として聖宝により造り始められた上醍醐の薬師堂本尊の国宝《薬師如来坐像および両脇侍像》や、日本における如意輪観音像の代表作の一つである重要文化財《如意輪観音坐像》の名品によって、醍醐寺の草創期を概観します。
第2章 真言密教を学び、修する
加持祈禱や修法(儀式)などの実践を重視した醍醐寺は、その効験によって多くの天皇や貴族たちの心をとらえました。真言密教の二大流派のうち小野流の拠点となり、多くの僧が集まる根本道場と位置付けられた醍醐寺には、修法の本尊として欠くことのできない彫刻や絵画、修法に用いる仏具、修法の手順や記録などを記した文書や聖教などが蓄積されていきました。今に伝わる寺宝の数々は、千年以上もの間、醍醐寺が人々の願いに応えて修法を続けてきたことを示しています。
本章では、仏像と仏画の名品を中心に、それらが本尊とされた場である修法と合わせてご紹介します。加えて、仏像仏画の研究および設計図ともいえる白描図を展示することで、有機的につながる密教美術の世界観をご覧いただきます。
第3章 法脈を伝える―権力との結びつき―
修法が多く行われるようになると、各密教僧の間で異なる修法次第が生まれ、醍醐寺内でもいくつかの法流が形成されました。その中で中心となったのは、第十四代座主の勝覚が創建した醍醐寺三宝院を拠点とする三宝院流です。同院の院主は醍醐寺座主を兼ねることも多く、足利尊氏の政権における賢俊や、足利義満以下三代の将軍に仕えた満済など、彼らが座主として時の為政者から帰依を受けることで、寺は繁栄を遂げてきました。
本章では、法脈を形成した祖師像や、師から弟子へ伝えられる諸尊の修法について編集した記録などによって、法脈の相承を紹介するとともに、天皇や時の為政者の文書・書跡によって、醍醐寺の繁栄の歴史をひもといていきます。
第4章 義演、醍醐寺を再びおこす
16世紀末に第八十代座主となった義演(1558~1626)は、豊臣秀吉などからの保護を受け、戦乱により荒廃した伽藍の復興整備を進めました。秀吉最晩年の慶長3年(1598)春に催された「醍醐の花見」は、安土桃山時代の華麗な文化を象徴的に表すできごととして広く知られます。また義演は、醍醐寺伝来の厖大な古文書・聖教の書写整理を行いました。『義演准后日記』には、近世初期の変革期の京都において、義演と醍醐寺が重要な役割を果たしていたことが克明に記されています。
本章では、秀吉による醍醐の花見に関連する作例から、慶長年間に移築、造営された三宝院障壁画の金銀に彩られた襖絵、俵屋宗達をはじめとする諸流派の絵師が描いた絵画など、当時の醍醐寺の繁栄を伝える華やかな美術をご紹介します。サントリー美術館
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_4/
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★「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」
サントリー美術館、2018年9月19日(水)~11月11日(日)
九州国立博物館 2019年1月29日(火)~3月24日(日)

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2018年9月13日 (木)

織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』

Velzquez__prncipe_baltasar_carlos_mCranach_salome_1530_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第156回
血をもって書かれた精神史。織田信長は、弟信行の反逆を予知して、巧緻な罠に陥し入れ、清州城天主にて復讐する。冒険の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。
織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、寺院、貴族、将軍。血をもって書かれた精神史。
虐め、差別、嫉妬が渦巻く血の階級社会。無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい、階級社会。反逆、裏切り、詐欺、陰謀、不正、魍魎が跳梁跋扈する階級社会。血をもって書かれた精神史。
無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい、階級社会。武塔の神が、蘇民将来を救うように、守護精霊は美しい者を救う。*
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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1、織田信長の復讐、親は敵、兄弟は最大の敵
【織田信長の復讐、親は敵、兄弟は最大の敵】弟、織田信行を返り討ち。弘治3年(1557年)、信行*は岩倉城の織田信安に通じるなどして二度目の謀反を企て、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行った。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって暗殺された。あるいは、信長を謀殺しようとして返り討ちに遭い、信長の目の前で自刃した。
*武蔵守信成

【織田信長の復讐】弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、織田信行は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵した。8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。

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2、織田信長、卓越した情報力
【織田信長、桶狭間】信長は、梁田政綱の情報により、今川本陣が田楽狭間に入ったことを知る。今川義元は、田楽狭間にて鷲津砦、丸根砦の勝利を祝って宴会。酒に酔っている今川本陣。そこを信長は襲撃した。永禄3年5月19日1560年6月12日。信長27歳。

【織田信長、桶狭間】なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか。桶狭間の合戦の謎。永禄3年5月19日(1560年6月12日)
小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中。小兵力が勝つ軍事学の要点。

【織田信長、卓越した情報力と分析力】情報力で、敵の謀を討つ。
弟織田信行の謀反を返り討ち。信長24歳。桶狭間の戦い、二万五千の今川義元を迎え撃つ、織田勢四千。信長27歳。
長篠の戦い、武田勝頼の騎馬隊を千挺の鉄砲と馬防柵で撃つ。信長42歳。
天正6年、第2次木津川合戦、戦国最強の毛利水軍を6隻の鉄甲船で粉砕。信長46歳。

【織田信長 武功より情報力】2千の寡兵で2万5千の大軍を討つ。永禄3(1560)年5月19日「義元は2万5千の兵のうち2万を、沓掛城から鳴海城へ向かわせた。5千を率いて大高城へ向かい、義元直近にはわずか3百の旗本しかいなかった。」梁田正綱の情報

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3、織田信長 青春の日 26歳-40歳
【織田信長 青春の日 26歳-40歳】1560年(永禄3年)26歳 桶狭間の戦い。4千の兵で5万の今川軍を破り、大将の今川義元を討ち取る。1561年(永禄4年)27歳 美濃国主である斎藤義龍(よしたつ)が没、子の龍興(たつおき)が跡を継ぐ、美濃攻略を本格化。
【織田信長 延暦寺焼討、38歳】朝倉・浅井両家に加担した延暦寺を攻める。1572年(元亀3年)39歳 武田信玄が三方ヶ原にて、織田・徳川連合軍を破るが、駒場(こまんば)にて病死。1573年(天正元年)40歳 室町幕府を滅ぼす。反乱を起こした将軍・足利義昭を京から追放。

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*【死生学 武塔の神】武塔の神が、嫁を探しに旅をしてきた。泊まる宿を求めた。巨旦は意地悪く「うちは貧しいから泊められない」と嘘をついて断った。蘇民は貧しいながら世話をした。金持ちでうそつきで意地悪の弟、巨旦。貧しい兄、蘇民。武塔の神は、美しい者を救う。蘇民将来の伝説。『備後国風土記』守護精霊は、美しい者を救う。
【死生学 血をもって書け】いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを。『ツァラトゥストラ』  第1部第7章 読むことと書くことについて
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★参考文献
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-e107.html
若き織田信長、親は敵、兄弟は最大の敵・・・復讐する精神
https://bit.ly/2lbezTP
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★Diego Velázquez, El príncipe Baltasar Carlos, a caballo Hacia 1635
★「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」フェリペ4世の長男で王位継承者であったカルロス王太子の肖像画。バルタサール・カルロス(1629-46)はフェリペ4世の長男として生まれ、広大なスペイン帝国の王位後継者として国中の期待を一身に背負って育てられたが、16歳で早逝した。
★ルーカス・クラナッハ『ヨハネの首をもつサロメ』Lucas Cranach,Salome 1530

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2018年9月 5日 (水)

織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・『戦う知識人の精神史』

Velazquezthe_surrender_of_breda_1_5Boston2012大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第155回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天下一の仕事を成し遂げる。
【死生学 復讐劇】復讐劇の傑作、『オレステス』、『ハムレット』、『モンテ・クリスト伯』、ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「毒のある木」、『スウィーニー・トッド』。復讐する人は、絶望に立ち向かう。絶望を超えて、美の理念を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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1、織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定。
【織田信長、天下布武、知的で革命的】既存の階級社会、価値観を否定。ニヒリズム。知的で革命的。妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えによる。天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
小和田哲男『集中講義 織田信長』

【織田信長、尾張の大うつけ】既存の階級社会、価値観を否定。子供の時から、尾張の大うつけ。奇妙な服をまとい、自由にふるまう。
妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えにより、天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
織田信長、知的で革命的。「信長、食を節し、飲酒せず」ルイス・フロイス『日本史』

【織田信長、権威主義を拒否】「酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。」ルイス・フロイス『日本史』
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2、第六天魔王 織田信長
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」

【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。
★『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』

【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。

幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。
化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。
下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。
なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、
生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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3、織田信長と茶の湯、織田信長、物欲に執着せず。
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。

【織田信長と安土城】天正四(1576)年、1月、丹羽長秀に命じて安土に築城開始。2月23日、安土に移る。

【織田信長と茶会 本能寺の変】天正十(1582)年、六月一日。織田信長は、本能寺で、茶会を開き、天下三肩衝を披露する予定だった。島井宗室が「楢柴肩衝」を信長に献上すべく訪れたのが本能寺の変の前日、その後宗室は博多に逃げ帰った。(『仙茶集』)これにより天下三肩衝を手に入れる夢は幻と消える。
その後、九州征伐後に秋月種実から「楢柴肩衝」が献上されたことで、秀吉の手元に天下三肩衝が揃うこととなった。

【織田信長、酒を飲まず】一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、茶の湯を愛好】「酒を飲まず食を節し、自邸においてきわめて清潔、宗教・迷信を信じず、偶像を見下し、茶器・良馬・刀剣・鷹狩を愛した。」ルイス・フロイス『日本史』

★安土城
【織田信長、安土城、狩野永徳】5層7階、地下1階の天主閣。この世から消滅した狩野派絵画、安土城天主閣。6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。
天正十年6月2日、本能寺の変の後、炎上する。『安土日記』『信長公記』「狩野派決定版」

第六天魔王、織田信長は、下天の酒食に溺れる者を俯瞰する。天下布武。信長34歳。
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★参考文献
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
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★狩野永徳『檜図』1590、曽我蕭白『雲竜図』(1763)
★『ブレダの開城』Velasquez,Surrender of Breda,1635
1625年、オランダの要塞都市ブレダを陥落させたとき、オランダ軍総督ナッサウがスペイン軍司令官スピノラに城門の鍵を渡す場面。

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2018年8月12日 (日)

権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚

David_napoleon_crossing_the_alps__2大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第154回
権力に抗して、知と戦略によって、思想家は戦う。理念を追求して戦う思想家は、天の仕事を成し遂げる。戦略家は、権力者の意志を乗り越えて、理念を追求する。『戦う知識人の精神史』。戦略の天才は、書物の中に何を学んだのか。【ナポレオン1769-1821】ナポレオンは、孫武『孫子』プルタルコス『英雄伝』を愛読した。ナポレオンは『孫子』虚実篇から「無勢で多勢に勝つ方法」を学んだ。兵力集中による敵の各個撃破の戦術を実行した。織田信長、桶狭間の戦術である。
百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。『謀攻篇』
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇「敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。このことほど優れた資質を要求される能力はない。」マキャベリ「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
史上最高の指揮官、テミストクレス、アレクサンドロス大王の戦いが、プルタルコス『英雄伝』に刻まれている。
怨念の歴史家、司馬遷は、『史記』の中に、思想家の運命との戦いを書いた。『孔子世家』『孫子呉起列伝』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保 正雄『旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
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司馬遷『孫子呉起列伝』より
1、春秋時代(紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年まで)
春秋の五覇、下剋上の時代
1、戦わずして勝つ。『孫子』「謀攻篇」
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】呉王、闔閭「先生の著作十三篇はすべて読んだが、宮中の婦人で少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか」孫武はこれを了承した。孫武は宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし、武器を持たせて整列させ、王の寵姫二人を各隊の隊長に任命した。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】太鼓の合図で左右を向くように命令して「右」と太鼓を打つと、女性たちは笑った。孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」、命令を何度も繰り返した後に「左」と太鼓を打つと、また女性たちは笑った。孫武は「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の二人を斬首しようとした。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】壇上で見ていた闔閭は驚き「将軍の腕は既によくわかった。余はその二人がいないと飯もうまくないので、斬るのはやめてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる」と闔閭の寵姫を二人とも斬った。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】孫武は「兵は既に整った。降りてきて見ていただきたい。水火の中へもゆくだろう」と言った。闔閭は甚だ不興で「将軍はそろそろ帰られるがよい、余はそこに行きたくはない」。孫武は「王は言を好まれても、実践はできない」と答えた。しかし以後、闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じた。
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2、戦国時代(紀元前771-221年)
【戦国の世を渡り歩く戦略家、呉起】魏の文侯のまわりに集まった逸材、呉起(BC381没)。衛の出身の呉起は、魯に仕えて軍功をあげるが排斥されて、魏の文侯に身を寄せる。文侯は快く受け入れ、魏の将軍として秦と戦い、五城(五つの城市)を陥落させ大活躍するが、
【戦国の世を渡り歩く戦略家、呉起(BC381没)】文侯の死後、武侯も呉起を重用するが、武侯の宰相・公叔に嫌われ、身の危険を感じ、南の大国、楚に向かう。楚の掉王は宰相に任命する。富国強兵策で楚は繁栄するが、掉王の死後、王族、重臣がクーデタを起す。魯、魏、楚、三つの国を渡り歩く。司馬遷『孫子呉起列伝』
【『孫子』孫臏の復讐】同学の徒、囲魏救趙の計、馬陵の戦い、龐涓の反撃、増兵減竈の計「龐涓この樹の下にて死す」孫子の兵法が用いられた代表的な戦い。孫臏を軍師とした斉軍が、龐涓を将軍とする魏軍に勝利した。
【『孫子』孫臏の復讐 紀元前341年馬陵の戦い】孫臏と龐涓 若い頃、孫臏と龐涓は、共に同じ学問の師の下で兵法を学んだ。孫臏の方が常に勝っていたので、自分の資質が及ばない事を悟らされた龐涓は、孫臏と友誼を結びながらも、その裏で激しい嫉妬心を燃やした。
【『孫子』孫臏の復讐】師から皆伝を受けた後の孫臏は斉に仕え、龐涓は魏に仕えて一足先に将軍へと出世。龐涓は、自分より優秀な孫臏が強敵になることを恐れ罠を仕掛けて魏に呼び寄せ、罪に陥れて両足切断の刑に処し、入墨を施して軟禁。幸い孫臏は魏を訪れた斉の使者と出会い、ひそかに帰国する。
【『孫子』孫臏の復讐】帰国後、孫臏は斉の威王に抜群の戦略的才能を評価され軍師となる。孫臏は龐涓の率いる魏軍を翻弄し、紀元前341年馬陵の戦いで魏軍を殲滅、龐涓を死に至らしめる。発端は、魏趙の連合軍が韓を攻撃したことにある。追いつめられた韓から救援要請を受けた斉は、将軍田忌と軍師孫臏に軍勢を率いさせ、韓ではなく魏に向かわせた。龐涓の率いる魏軍はただちに本国に帰り、斉軍を追跡する。
【『孫子』孫臏の復讐】孫臏は「減竈(げんそう)の計」を用い、自軍から逃亡者が出たように装い、この計略にかかり、龐涓はの魏軍は歩兵を棄て少数精鋭の騎兵を率いて追撃する。
【『孫子』孫臏の復讐】すべてを見透した孫臏は、龐涓の工程を緻密に計算して、馬陵の要害に伏兵を配置して、大樹の幹を削って「龐涓この樹の下にて死す」と記し到着を待つ龐涓がその夜、大樹の下に到着しその文字を見た瞬間、斉の伏兵がいっせいに弓を放ち、魏の軍隊は大混乱に陥る。龐涓は「ついに竪子の名を成さしむ」と言い放ち自刎した。孫臏の凄絶な復讐である。井波律子『故事成句でたどる中国史』
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3、諸子百家
【諸子百家】戦国時代(紀元前771‐221年)。斉の威王、宣王、襄王(BC4C)は、学問を愛好し学者を招き、臨淄の都城の稷門に参集した文学の士に豪華な学者村を作り、仕官を条件とせず自由に討議をさせる。この稷下の学士には、孫臏、騶衍、孟子や荀子の徒が名を連ねる。
【諸子百家 孟子】孟子(紀元前372‐289)は、斉の宣王の時代、臨淄の都城の稷門に住む。孔子の孫の思子の弟子から学んだ。鄒の出身で、梁、斉、宋を遊歴した。主君を求めて王道論と四端説を唱えたが意を得ず、鄒に帰国した。
【諸子百家 孟子(紀元前372‐289)】易姓革命説。天は己に成り代わって王に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王に天が見切りをつけた時、革命が起きる。天命を革める。
君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲ることが禅譲、武力によって追放されることが放伐。
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4、三国時代(紀元220-316年)
【竹林の七賢 悪意と偽善に満ちた権力への憤り】243 -253年、魏(三国時代)の時代末期、司馬炎政府の権力に阿ることを嫌悪し、竹林にて清談し交遊した七人の賢人。当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、嵆康は鍾会の讒言によって陥れられ死刑に処せられた。悪意と偽善に満ちた社会に対する憤りである。阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記され、後世の人々から敬愛される。阮籍、王戎、山濤、向秀、嵆康、劉伶、阮咸。
【竹林の七賢 悪意と偽善に満ちた権力への憤り】三国時代、魏(220年-265年)の末期、河南省北東部、竹林に集まって清談を行った7人の賢人。阮籍、王戎、山濤、向秀、嵆康、劉伶、阮咸。世俗を避け、竹林で琴と酒を楽しみ、清談にふけった。老荘の虚無を尊び、儒教の礼節を斥けた。権力の横暴からの逃避と儒教の経学・訓詁、偽善的汚濁への反発。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】王戎は人物眼に優れた人。呉の家臣だった石偉を推薦し、鄧艾の孫の鄧千秋を召した。蜀漢征伐に赴く鍾会が策を聞いてきた時「道家の言葉に『為して恃まず』(老子)とある。勝つのはたやすいが、それを保持するのが難しい」、鍾会の運命を的中させたと評価された。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】琅邪の王氏。王導、王羲之(303-361)、王献之を生む一族。王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり、道教一派「天師道」を信奉し、59歳で死す。
――
参考文献
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
「『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅」
http://odyssey2000.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-b4d2.html
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-e107.html
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」・・・絶対権力者が手に入れられない秘宝
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-86b1.html
井波律子『奇人と異才の中国史』
井波律子『故事成句でたどる中国史』
井波律子『中国の隠者』
加地伸行『中国の古典 論語』2004、白川靜『孔子伝』中央公論社、加地伸行『論語全訳注』講談社学術文庫。
浅野裕一『「孫子」を読む』1993
宮崎市定『史記を語る』
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「ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。」魅死魔幽鬼夫「苧菟と瑪耶」
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★ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」
Jacque Louis David - Napoleon crossing the Alps 1801

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