2026年10月 8日 (木)

「館蔵の茶碗100撰 ―国宝から手造茶碗まで―」・・・織田信長、千宗易、正親町天皇、秀吉、本能寺の変、吉野の花見、醍醐の花見

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第502回
「北方に佳人あり、比類なき絶世の美女なり、一目見れば城を傾け、二目見れば国を傾ける」
漢代の詩人李延年が詠んだ詩の一節。北方に美しい女性がいる、その美しさはこの世に類似しない、一度見れば城を傾け、再び見れば国を傾けるという内容を表現する。この詩は、李延年の妹である李夫人の美しさを称賛し、彼女の死を悼むもの。
織田信長の周囲には、絶世の美女が多い。天下一の美女、妹。お市。絶世の美女、信長最愛の人、生駒吉乃、信長の長女、五徳。五徳は、徳川信康、築山殿を滅ぼす。お市の娘、浅井三姉妹、茶々、豊臣家を滅ばす。
織田信長、本能寺の茶会(1582年6月1日)、天下三肩衝、足利義政、能阿弥と相阿弥『君台観左右帳記』、最高の茶器は何か。国を滅ぼすものは何か。

黒樂茶碗(銘俊寛)、千利休(1522~1591)の依頼により樂長次郎が焼いた樂茶碗。
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重要文化財 中興名物 玳皮盞(鸞天目) 南宋時代・12~13世紀 三井記念美術館蔵
重要文化財 粉引茶碗(三好粉引) 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館蔵
重要文化財 黒樂茶碗 樂長次郎作 銘俊寛 桃山時代・16世紀  三井記念美術館蔵
重要文化財 樂茶碗 樂道入作 銘鵺 江戸時代・17世紀 三井記念美術館蔵
重要文化財 黒樂茶碗 本阿弥光悦作 銘雨雲 江戸時代・17世紀 三井記念美術館蔵
国宝 志野茶碗 銘卯花墻 桃山時代・16~17世紀 三井記念美術館蔵
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【織田信長の藝術愛好、千宗易、曜変天目茶碗、狩野永徳、本因坊算砂、安土城天主。本能寺の茶会、【織田信長、謀反に次ぐ謀反、信長包囲網、正親町天皇による勅命講和4回。藝術に溺れる権力者、藝術に死す】曜変天目は、本能寺の変で、焼亡した。
豊臣秀吉、1594年4月中旬頃に吉野山へ入り、5日間にわたる大規模な花見の宴を催した。
醍醐の花見、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
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【戦国武将、親は敵、兄弟は第一の敵】【織田弾正家の死闘】織田信長、弟信勝による家督相続争い。【斎藤道三、蝮の子は蝮、濃姫】濃姫、信長に嫁いだのは3度目、15歳。1度目は、土岐家に嫁ぎ、毒殺、2度目も土岐家に嫁ぎ、逃亡。【伊達政宗、毒殺未遂事件】伊達政宗、母による毒殺未遂事件【武田信玄、父、信虎を追放】信虎は、賢い武田信玄を廃嫡、弟に相続【武田信玄と上杉謙信、川中島合戦10年殺し合い】【織田信長、妹、市、36歳で飛び降り自殺】【2大殺人鬼、「羽柴秀吉、三木城干し殺し」、「明智光秀、延暦寺焼き討ち」】【信長と生駒吉乃、3人の子、信忠、信雄、徳姫、】織田信長、最愛の人、絶世の美女【信長の長女、徳姫、徳川信康、築山殿の謀反を信長に告発】【浅井三姉妹、茶々、初、江】江、3度目の結婚、徳川秀忠、千姫、家光を生む【茶々、大野治長、秀吉への復讐、秀頼、大阪夏の陣、豊臣滅亡】【松平元康、摂関家・近衛先久から源氏の系図を買う、徳川家康】【正親町天皇、勅命講和の綸旨、織田信長、第1次から第2次包囲網】【正親町天皇、三職推任】【豊臣秀次、八幡山城】安土城を見下ろす山の上に築いた。安土城下の町を城下に移した。秀次、自刃【ルイス・フロイス『日本史』】『太田牛一『信長公記』』
【運命の扉を開く人】多くの人は運命に従って生きる。人は定められた道を歩く。迷うのが怖いからだ。だが、障害を克服して、自由意志を貫く人間もいる。命をかけて扉を開く人がいる。人は命がけで自由意志の尊さを知る。神々が真に望むのは、人類が自ら自分の運命を書く日が来ることだ。君には書ける。真に偉大なのは、輝く理念のために、運命に立ち向かい、扉を開く人である。大久保正雄10月2日
オンシュダシュダ、空海の師匠の師匠「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師(637年~735年)」が作った最強の真言。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「館蔵の茶碗100撰 ―国宝から手造茶碗まで―」・・・織田信長、千宗易、正親町天皇、秀吉、本能寺の変、吉野の花見、醍醐の花見
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/10/post-23844c.html
織田信長、浅井三姉妹、織田弾正忠の血を残す者・・・稲生原の戦い、本能寺の変、将軍秀忠の娘、千姫、家光
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-5a6670.html
羽柴秀吉、中国攻め、本能寺の変、小牧長久手の戦い、豊臣滅亡
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-f08527.html
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
参考文献「大徳寺 本朝無双之禅苑」・・・権力の禅院、「観音猿鶴図」牧谿筆、「琴棋書画図襖」狩野永徳筆、「曜変天目」建窯、龍光院蔵
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/10/post-bfdc09.html
「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点
https://toyokeizai.net/articles/-/397460?display=b
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三井記念美術館「館蔵の茶碗100撰 ―国宝から手造茶碗まで―」9月12日~11月23日(月・祝)
三井記念美術館プレスリリース 
https://www.mitsui-museum.jp/press/release/release_260912.pdf

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2026年10月 2日 (金)

「大徳寺 本朝無双之禅苑」・・・権力の禅院、「観音猿鶴図」牧谿筆、「琴棋書画図襖」狩野永徳筆、「曜変天目」建窯、龍光院蔵

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第502回
豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、後醍醐天皇、生き残りのための戦略、権力者を翻弄する寺院。【運命の扉を開く人】運命と自由意志との戦い。真に偉大なのは、輝く理念のために、運命に立ち向かい、扉を開く人である。
【織田信長の葬儀、大徳寺の羽柴秀吉】
【織田信長、天徳院殿 卒哭忌 拈香(ねんこう)、百日忌、卒哭忌、お市の方、妙心寺、天正10年9月11日】
大徳寺、天正10年(1582年)11月11日から17日、葬儀の警備は3万人、弟の秀長が取り仕切る中、池田輝政と羽柴秀勝(信長の四男)が信長の棺を持ち、秀吉が寄り添った。
【清須会議、織田信雄、織田信孝、三法師】【賤ヶ岳の戦い】1583(天正11)年、【小牧長久手の戦い、羽柴秀吉、織田信雄、徳川家康】【関ケ原の戦い】1600【大阪夏の陣、豊臣秀頼、豊臣滅亡】1615
京都・紫野に広がる大徳寺は、開山・宗峰妙超(大燈国師)の峻烈な禅風を今に伝える、洛北随一の巨刹です。1326年の開山以来、各時代を代表する名僧が輩出し、天皇や戦国武将、千利休をはじめとする茶人たちの信仰を集めながら発展してきました。なかでも、後醍醐天皇は大徳寺を「本朝無双の禅苑」と讃え、日本に二つとない禅苑としての光を放つことになります。
大徳寺開創700年の節目の年にあたる2026年、通常非公開の名宝が一堂に会する展覧会は実に41年ぶり、そして東京では初の機会となります。塔頭や大徳寺派寺院を含む大徳寺山内の寺宝を一挙公開し、その真髄に迫ります。
国宝、「観音猿鶴図」牧谿筆 中国 南宋時代・13世紀 大徳寺蔵
国宝、「琴棋書画図襖」(部分)狩野永徳筆 室町時代・16世紀、京都・聚光院蔵
国宝、「曜変天目」中国・建窯 南宋時代・12~13世紀、京都・龍光院蔵
国宝、「大井戸茶碗 喜左衛門井戸」韓国慶尚南道 朝鮮時代・16世紀、京都・孤篷庵蔵
「諸悪莫作、衆善奉行しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう」は仏教の基本を示す。「悪いことをせず、善いことをせよ」という単純な意味ですが、「三歳の子供でも知っているが、八十歳の老人でも実践は難しい」。
【運命の扉を開く人】多くの人は運命に従って生きる。人は定められた道を歩く。迷うのが怖いからだ。だが、障害を克服して、自由意志を貫く人間もいる。命をかけて扉を開く人がいる。人は命がけで自由意志の尊さを知る。神々が真に望むのは、人類が自ら自分の運命を書く日が来ることだ。君には書ける。真に偉大なのは、輝く理念のために、運命に立ち向かい、扉を開く人である。大久保正雄10月2日
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――★★★★★
序章、禅の広がり――心から心へ
重要文化財、「龍虎図」伝牧谿筆 中国 南宋時代・咸淳5年(1269)大徳寺蔵【後期展示】
国宝、「観音猿鶴図」牧谿筆 中国 南宋時代・13世紀 大徳寺蔵【前期展示】
狩野松栄は、狩野派を大成した父・元信と、天才と称された息子・永徳の間に挟まれ、目立たない存在。しかし、大徳寺に残された《仏涅槃図》は高さ6メートル超。
およそ90年ぶりに寺外で公開される大作。重要文化財「仏涅槃図」狩野松栄筆 室町時代・永禄6年(1563)
大徳寺蔵【前期展示】
京都の町を焼き尽くした応仁の乱。その戦火のなか、一休宗純は大切な寺宝「看読真詮榜」を袋にいれ、首にかけて避難したと伝わります。
今に残る一巻は、一休が命がけで守り抜いたものかもしれません。本展では、一休が実際に首にかけたといわれる袋と一緒にご紹介します。その他にも歴史エピソードをご紹介
https://daitokuji2026.exhn.jp/history/
国宝「看読真詮󠄀榜」宗峰妙超筆 南北朝時代・14世紀 京都・真珠庵蔵

第1章、大徳寺の開創
宗峰妙超は、花園上皇・後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦元年(1326)、紫野の地に大徳寺を開く。
複雑な政治状況のなか、大徳寺は南朝・北朝の両朝から支えられて発展し、「本朝無双の禅苑」と讃えられるに至る。
国宝、「宗峰妙超像」自賛 南北朝時代・建武元年(1334)大徳寺蔵【前期展示】
国宝、「後醍醐天皇宸翰置文」南北朝時代・元弘3年(1333)大徳寺蔵【後期展示】
第2章、大燈禅の継承
宗峰の法を嗣いだ徹翁義亨によって礎が築かれた後、大徳寺は林下としての道を歩んでいく。
そして15世紀、養叟宗頤と一休宗純の時代には堺の町衆にも新たな外護者を広げ、大きく進展することとなった。
重要文化財、「一休宗純像」(部分)自賛、宗辨禅人請 室町時代・15世紀 京都・酬恩庵蔵【前期展示】
書悪  重要文化財、「七仏通戒偈」一休宗純筆 室町時代・15世紀、京都・真珠庵蔵【前期展示】
「達磨図」墨谿筆、一休宗純賛 室町時代・寛正6年(1465)京都・真珠庵蔵 【後期展示】

第3章、戦国武将と塔頭
15世紀から16世紀にかけ、一休宗純を開祖とする真珠庵をはじめ、主要な塔頭が相次いで創建された。
寺勢拡大の背景には、堺衆や三好長慶、織田信長、豊臣秀吉といった戦国武将らによる帰依があった。
重要文化財、「仏涅槃図」狩野松栄筆 室町時代・永禄6年(1563)大徳寺蔵【前期展示】
「織田信長像」(部分)狩野永徳筆 安土桃山時代・天正12年(1584)大徳寺蔵【後期展示】
国宝、「大井戸茶碗 喜左衛門井戸」韓国慶尚南道 朝鮮時代・16世紀、京都・孤篷庵蔵【通期展示】

第4章、江戸時代の名僧
寛永6年(1629)、幕府の法度に抗議した沢庵宗彭、玉室宗珀らが処罰される「紫衣事件」が起こる。
しかし江月宗玩のとりなしにより危機を乗り越え、寛永13年(1636)、大燈国師300年遠忌が無事にとり行なわれた。
重要文化財、「油滴天目」中国北方 金時代・12~13世紀
京都・龍光院蔵【11/25(水)~12/6(日)展示】
国宝、「曜変天目」中国・建窯 南宋時代・12~13世紀、京都・龍光院蔵【前期展示】

第5章、禅宗美術の精華
国宝、「琴棋書画図襖」(部分)狩野永徳筆 室町時代・16世紀、京都・聚光院蔵【後期展示】
重要文化財、「百鬼夜行絵巻」(部分)伝土佐光信筆 室町時代・15世紀
京都・真珠庵蔵【半期で巻替え】
第6章、禅とともに――大徳寺三門の世界
千利休は、なぜ秀吉の怒りを買ったのか?
大徳寺・三門の楼上に置かれた、利休の木像。
秀吉は、「門をくぐる天下人を踏みつけるのか」と激怒したとも——。
通常非公開の三門「金毛閣」の楼上空間を、会場に再現。歴史が動いた舞台。
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参考文献
「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
https://bit.ly/3lDIoIq
「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
https://bit.ly/31DlCc0
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
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特別展「桃山―天下人の100年」東京国立博物館 平成館 特別展示室
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2043
2020年10月6日(火) ~ 2020年11月29日
参考文献2
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参考文献「大徳寺 本朝無双之禅苑」・・・権力の禅院、「観音猿鶴図」牧谿筆、「琴棋書画図襖」狩野永徳筆、「曜変天目」建窯、龍光院蔵
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/10/post-bfdc09.html
織田信長、浅井三姉妹、織田弾正忠の血を残す者・・・稲生原の戦い、本能寺の変、将軍秀忠の娘、千姫、家光
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-5a6670.html
羽柴秀吉、中国攻め、本能寺の変、小牧長久手の戦い、豊臣滅亡
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-f08527.html
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
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開創700年記念 特別展「大徳寺 本朝無双之禅苑」
平成館 特別展示室
2026年10月14日(水) ~ 2026年12月6日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2770
https://daitokuji2026.exhn.jp/

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2026年9月26日 (土)

ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・ルネサンスの理想はなぜ滅びたのか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第501回

レオナルド・ダ・ヴィンチは1482年、30歳の時に、ミラノ公国で実権を握っていたルドヴィコ・スフォルツァ(1452–1508年)に仕えるためにミラノに移り住み、1499年まで当地で活動した。
【白貂を抱く貴婦人、美しきフェロニエール】レオナルドは、女性の頭と体が同じ方向ではなく、反対を向くように描いている。レオナルドはこの作品の制作過程で、女性の頭と体がそれぞれ逆を向く動きが強まるように、後頭部、背中、首の輪郭を移動した。これにより、人物が今まさにこちらを向きかけているかのような動きの感覚が強まり、生命感がより高められ。
レオナルドは、体の動きと目の動きを通して心を描くこと目指した。北方ルネサンスの斜め横向きの姿勢と反対向きの目で、心の動きを描く。
『絵画論』(Trattato della pittura)手稿はレオナルドがミラノでルドヴィーコ・スフォルツァに仕えていた頃から書き始められ、後に彼の相続人となったフランチェスコ・メルツィによって取りまとめられた。この論文は、1632年にフランスで最初に出版された。
【『白貂を抱く貴婦人』Lady with an Ermine.1490】【レオナルド、ミラノ時代】3枚の肖像画、音楽家の肖像(1485)、白貂を抱く貴婦人(1490)、美しきフェロニエール(1496-97)、4分の3横向きの肖像画を描いた。『白貂を抱く貴婦人』レオナルドは、初めてチェチーリア・ガッレラーニに出会ったのは1484年。スフォルツェスコ城に滞在していたときのことで、当時まだ17歳の若く美しかったチェチーリアはルドヴィーコの愛妾で、楽器を演奏したり詩を書いたりする日々を送っていた。ルドヴィーコの宮廷詩人ベルナルド・ベリンチオーニ (en:Bernardo Bellincioni) は、チェチーリアが誰かに話しかけられ、聞き入っているかのようだと書いた。レオナルドは、人物の外見の特徴をとらえるだけでなく、その内面に潜む複雑な感情を描き出すという難問に挑み続けた。
【ルネサンス、メディチ家の理想はなぜ滅びたのか】
メディチ家とプラトン・アカデミー
15世紀に蘇った哲学はプラトン哲学である。1439年7月6日フィレンツェ公会議で、コジモ・デ・メディチはギリシア人哲学者プレトンの講義をきき、プラトン哲学の奥義に感銘をうけ、「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。コジモ・デ・メディチは、1462年マルシリオ・フィチーノにプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を依頼した。コジモは1464年に死ぬ。しかしフィチーノは1477年に完成した。ロレンツォ・デ・メディチ(1449—1492)は1492年死に、プラトン・アカデミーの思想家たちは、1498年までに次々と死ぬが、フィレンツェから始まったルネサンスはヨーロッパ文化史に深い影響を与えた。(cf.清水純一『ルネサンス 人と思想』、イヴァン・クルーラス『ロレンツォ豪華王 ルネサンスのフィレンツェ』) アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」である。(cf.アンドレ・シャステル『ルネサンス精神の深層−フィチーノと芸術−』)フィレンツェ・プラトン主義の愛と美の哲学はミケランジェロたちルネサンスの藝術家に影響を与えた。「魂の美は、肉体における美より美しい」「魂の眼は肉眼が老いる時やっと輝き始める」(プラトン『饗宴』) 池上英洋「レオナルド派<レダと白鳥>再考 主題と源泉、伝播経路」
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
【ルネサンス、なぜ滅びたのか】
1493年、ロレンツォ・デ・メディチ死す。サヴォナローラの記憶の焼却、メディチ家追放、プラトン・アカデミーの思想家殺害【イタリア戦争】ハプスブルク・ヴァロワ戦争、パッツイ家の陰謀、悪徳ローマ教皇の陰謀、シクストゥス7世、最も狡猾な陰謀教皇。ジョバンニ・カンパネルラ「太陽の都」等、キリスト教の折衷主義は非ルネサンス。プラトン哲学のイデア論の世界観とアリストテレス哲学の個体主義は対立する。
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【プラトン哲学のイデア論とアリストテレス哲学の個体・基体主義の戦い】
上智大学ソフィア会、代議員会で理工学部卒の方に「哲学から学んで得たことは何ですか。」と聞かれました。
「私は、哲学科、博士前期、北海道大学大学院博士課程後期課程で学びました。」
短大レベルの学校で、哲学、哲学史、美術史、など。教えてきました。西洋哲学史を20年以上、各地で教えてきました。
「試験の時、授業の感想を求めたところ、先生の言葉がソクラテス、プラトンの言葉を聞いているように聞こえます。」と言っていました。と答えました。

【プラトン哲学の論文】
短大レベルの学校で教えている時「女子学生たちが、あの先生(犯罪学・刑事訴訟法担当の女性教員、衣佐先生)分かってないよね。「大久保先生から哲学の論文頂いたんだけど困るわ「プラトン対話篇『饗宴』におけるエロースと美の奥義」と言ってた。全然分かってないよね。」と生徒たち。彼女は学習院大学卒、明治大学大学院卒、教授の娘だった。
上智大学哲学科卒の後輩女子アナウンサーに拙著論文「新古今和歌集の美学、断崖の美学」を送ったら、彼女は「美は命と引き換えに手に入れるものだ。というところに感動しました。」と手紙を送ってきた。彼女は学芸大附属高校卒だった。「高校生の時、古典の授業が好きだった。と書いていた。
サン・テグジュペリは、プラトン哲学のイデア主義の兆しがある。【サン・テグジュペリ『星の王子さま』「本質的なことは目に見えない」 L’essentiel est invisible】On peut en déduire, d’une part, que la proposition L’essentiel est invisible pour les yeux, qui représente une des idées centrales du …
就職指導を、10年間担当しました。「伊勢丹新宿本店、小田急百貨店新宿本店、三菱グループ東海カーボン役員室、藤田観光・小涌園、オンワード樫山インパクト21、東京都、警視庁婦人警察官、神奈川県警婦人警察官、大網白里町役場、等、」就職指導に定評があり、就職指導室から、私指定で指名があり、仕事を通して「人を幸せにする」と考えていた。小論文作成指導も担当。論文の構成、環境問題、格差社会、人口減少、等、論点、ディレンマ、等、指導しました。
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参考文献
ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・ルネサンスの理想はなぜ滅びたのか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-464f12.html

ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-d65f88.html
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-062e20.html
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
「レオナルド×ミケランジェロ展」三菱一号館美術館・・・レオナルド「レダと白鳥」
https://t.co/K67IitKt5r
レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年記念「夢の実現」展・・・レオナルドの夢、ルネサンスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-9c38e6.html
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ルーヴル美術館展、ルネサンス
国立新美術館 企画展示室1E(東京都港区六本木7-22-2)
2026年9月9日(水)〜12月13日(日)
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/louvre2026/
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オンシュダシュダ、弘法大師空海の師匠の師匠「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師(637年~735年)」が作った最強の真言。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」
ふるべ ふるべ ゆらゆらと ふるべ、石上神宮、物部の十種神宝【布留は振る】
大願成就、良縁成就、学芸成就、健康長寿、怨敵退散、事業繫栄、開運招福

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2026年9月23日 (水)

ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」

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ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第500回
ルネサンスは、レオコーンの像が、皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)遺跡から、発見されたことなど、古代ギリシア・ローマの藝術が見つかり、古代ギリシア・ローマの藝術に戻ろうとする藝術志向である。
それゆえ、古代ギリシア・ローマとキリスト教の折衷主義は、ルネサンスではない。ジョヴァアンニ・カンパネルラ『太陽の都』は、真の意味でルネサンスではない。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
ーー
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/louvre2026/
展覧会構成
Ⅰ. 旅
【展示作品の一部】ヴェネツィアの画家《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》1511年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
本展が対象とする15世紀から16世紀にかけてのルネサンス期は、ヨーロッパの人々が「旅」を通じて既知のものとは異なる世界を発見していった時代でした。商業、交易、外交、戦争、キリスト教の布教、名所旧跡巡り――旅の動機は様々でしたが、人と物の活発な往来は国や都市に経済発展と異文化交流をもたらし、ルネサンス文化を大きく開花させる動力となりました。
この時代の人文学の発展を先導したエラスムス、モンテーニュなど、人文主義者たちの多くは、好奇心の赴くままにヨーロッパ各地を巡り、異国の地で出会った風習や伝統についての思索を生き生きと書き綴っています。芸術家たちもまた、技量を磨くためにしばしば故郷を離れました。ヨーロッパ北部の芸術家たちは、アルプス山脈を越えてイタリアに赴き、古代遺跡や彫刻を素描するとともに、同時代のイタリア美術における均整のとれた身体描写や一点透視遠近法を用いた空間表現を学びました。

一方、イタリアの画家たちは、北方の画家たちの油彩技法や緻密な写実描写を取り入れていきます。また、王侯貴族や教皇といったパトロンからの招きに応じるため、あるいは戦禍を逃れるためなど様々な外的要因によっても、芸術家たちは国境を越えて移動するようになり、これが様式・技法の伝播を促しました。
国王や皇帝が広大な領土を治めるために頻繁に移動したことも、この時代の特徴です。たとえばフランスの国王は、家族と家臣を引き連れながら領内各地の城館を転々としていました。こうした宮廷の習慣は、壁にかけて冷気を遮ることができ、部屋の仕切りにも使えた実用的な装飾品であるタペストリーや、衣類などを収納する長持など、持ち運べる豪華な調度品の発展を後押ししました。また、君主たちが都市に入る時の祝典(入市式)の記念として、しばしば彼らや妃の横顔を彫ったメダルが制作されたことも、ルネサンスのメダル芸術の洗練を促した一因として特筆されます。
【展示作品の一部】アルブレヒト・デューラー《サイ》1515年(初版) パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Michel Urtado / distributed by AMF-DNPartcom
緻密な細部描写が際立つ木版画《サイ》はとてもリアルに見えますが、背中に本来存在しない角が生えていたり、皮膚が甲冑のようであったりと、実物からかけ離れた部分があります。実はデューラーは、サイを見たことは一度もありませんでした。彼は、1515年にポルトガル王のためにインドから輸送され、リスボン港に到着したサイについての記述とスケッチだけを頼りに、自身の想像力を駆使しながら迫真的なサイを創り出したのです。《サイ》はデューラーの死後にも7回重版されるほど、人気を博しました。その図像は、18世紀半ばに本物のサイの外見がヨーロッパで認知されるまでの間、博物学の書物の挿絵に繰り返し転用され、江戸時代の日本にも伝わっています。
【展示作品の一部】ヤン・ファン・スコーレル《32歳の男性の肖像》1521年 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
エル・グレコ《アントニオ・デ・コバルビアス・イ・レイバ(1524‒1602年)の肖像》1597 ‒1600年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF-DNPartcom
南ネーデルラント(?)《田園の合奏》16世紀第1四半期 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト Musée du Louvre, Dist. GrandPalaisRmn / Philippe Fuzeau / distributed by AMF-DNPartcom
II. 技法の革新と洗練3
III. 古代へのまなざし
【展示作品の一部】ジェルマン・ピロンの工房《シャルル9世の騎馬像》1570‒1574年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト Musée du Louvre, Dist. GrandPalaisRmn / Pierre Philibert / distributed by AMF-DNPartcom
ルネサンスにおける古代復興、すなわち古代ギリシア・ローマの文化を規範として再評価する動きは人文学の分野で始まり、次第に芸術にも広まりました。人文主義者たちは古代の重要文献の写本を研究し、それらに注釈をつけたものを出版しました。なかでも、視覚芸術の展開に大きな役割を果たした著作の一つが、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』です。ギリシア・ローマ神話の様々な物語を集めたこのラテン語の叙事詩は、ルネサンス期に様々な言語に翻訳され、各国で出版されました。芸術家たちは、こうした古代神話のテキストと、それらに添えられた版画挿絵も着想源にしながら、人間味あふれる古代の神々の物語場面を絵画や彫刻に表現しました。

古代の文献だけでなく、建築や彫刻も、ルネサンスの芸術家たちが手本として学ぶべき対象でした。彼らは古代遺跡が残るローマを訪れ、凱旋門などの建築に残るレリーフや、神々を表した大理石彫像を素描することによって、古代の図像や人体の造形表現を研究しました。イタリアに赴くことができない芸術家たちも、版画や石膏像などの複製を介して古代美術を参照していました。

15世紀後半になると遺跡の発掘が盛んになり、古代ブームがいっそう高まるなかで、各国の王侯貴族は、古代彫刻を縮小した複製品の収集を通して、自身のコレクションの価値を高めようと試みます。

これに伴い、ルネサンスの芸術家たちが復活させたのが、ブロンズ芸術でした。蝋で作った原型を用いるロストワックス鋳造法は古代にすでに確立されていましたが、中世の時代に古代のブロンズ像の多くが武器に流用するために溶かされてしまい、技法自体もすたれていたのです。ルネサンスの彫刻家たちはこの技法に再び習熟することによって、大規模な彫像から、小像、装飾板やメダルに至るまで、多種多様なブロンズ作品を世に送り出しました。
【展示作品の一部】サンドロ・ボッティチェリ《5人の天使に囲まれる聖母子》1470年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
この作品は、フィレンツェのルネサンスを代表する画家ボッティチェリが、自身の工房を構えて間もない20代半ばに制作したものと考えられています。膝に幼子イエスを抱きながら地面に座る聖母マリアは「謙遜の聖母」と呼ばれる形式で、15 世紀前半にイタリアからヨーロッパに広まりました。聖母は原罪の象徴であるザクロを左手に持ち、イエスに差し出しています。背景には、聖母の純潔を象徴する白いユリの花や、聖母に献じるための花冠を手にした5人の天使が描かれています。ボッティチェリは、聖母や天使たちの衣服の立体的なドレープを巧みに描写することで、その下にある身体のフォルムや手足の位置を明確に表現しました。これにより人物像には自然な立体感が生まれています。こうした描き方には、古代彫刻の学習の反映を見てとることができます。
【展示作品の一部】ルカス・クラーナハ(父)《三美神》1531年 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF-DNPartcom
ドイツ・ルネサンスを代表する巨匠ルカス・クラーナハ(父)は、ザクセン選帝侯によってドイツ北部のヴィッテンベルクの宮廷に招聘され、大工房を構えて活躍しました。ヨーロッパ北部では16世紀初めに人文主義が芽生え、ヴィッテンベルクの宮廷には古典古代に精通した学者や詩人たちが集っていました。こうした環境のなかで、クラーナハと彼の工房は神話画を数多く手がけており、その一つである本作にはギリシア神話の三美神が描かれています。
クラーナハは、古代の彫刻やレリーフにおける三美神の伝統的な形式を用いつつ、独創性を発揮しました。古代美術では通常後ろ姿で表されている中央の女神が、クラーナハの絵画では正面を向き、鑑賞者の方に視線を投げかけています。また、女性たちのなまめかしい裸身や、16世紀当時の流行を反映した帽子やネックレスは、古代の女神よりも現実の女性を想起させ、独特のエロティックな雰囲気を強めています。
IV. 肖像芸術の隆盛
【展示作品の一部】バロンチェッリの肖像の画家《ジャコモ・ディ・ジョヴァンニ・ダントニオ・ロイアーニの肖像(?)》1498‒1499年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Thierry Le Mage / distributed by AMF-DNPartcom
中世と同様にルネサンス期においても、キリスト教の信仰は人々の日常生活の拠り所でした。しかし、神が創造した世界のなかに、意志を有する人間の存在をどう位置づけるべきか、人文主義者たちが考察を深めるにつれて、身体的にも内面的にも固有の特性を備えた「個人」という概念が形作られていきます。ルネサンス期に伝記や回想録、旅行記といった著作が格段に増加した現象は、この時代の個人に対するまなざしの変容をよく物語っています。

こうした流れのなかで大きく花開いたのが、肖像芸術でした。外見の特徴から内面の性格まで、一人の人間の個性を絵画や彫刻として永遠に留める肖像は、当初は王侯貴族や高位聖職者など支配階級のための芸術ジャンルでしたが、時代が下るにつれて、知識人や富裕市民など中産階級の人々にも広まっていきます。男性、もしくはその妻と家族をともに描いた肖像画は、モデルの社会的功績を記念するために描かれることが多く、服装や持ち物、周りの環境などの描写を通じて職業や地位が示唆されました。一方、女性の肖像はしばしば、婚約者に送るため、あるいは結婚の記念として描かれました。また、当初は家族の一員として描かれていた子どもも、次第に単身で肖像に表されるようになります。

肖像画の形式に大きな革新が起こったことも、この時代の特徴です。北方、特にフランドルの画家たちは「四分の三正面観」、すなわち画面に対し人物を斜めに配する肖像形式を発展させました。当初、その背景は暗いグレーや黒のモノトーンで仕上げられていましたが、次第に風景が描かれ、空間の奥行きが表現されるようになります。この新たな形式は15世紀後半からイタリアに普及し、それまで一般的だった横顔の肖像形式に代わって、広く用いられるようになりました。

15世紀後半から16世紀にかけて、芸術家たちは、人物の容貌や身体的特徴の的確な描写を通じて、その内面に潜む心理や感情を表現することに、ますます重点を置くようになります。レオナルド・ダ・ヴィンチやティツィアーノなど、肖像芸術に卓越した芸術家たちは、モデルの姿勢や視線の向きなどを巧みに操作しながら、その似姿に命を吹き込みました。
【展示作品の一部】
バッチョ・バンディネッリに帰属《ミケランジェロの肖像》1522年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF-DNPartcom
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《フランソワ1世の肖像》1538年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Philippe Fuzeau / distributed by AMF-DNPartcom
ロンバルディアの画家《女性の肖像》、通称《美しきフェロニエール》1500 ‒1512年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Franck Raux / distributed by AMF-DNPartcom
ジャン・クリストフォロ・ロマーノ、本名ジャン・クリストフォロ・ガンティ《ベアトリーチェ・デステ》1490 ‒1491年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF-DNPartcom
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【徹底解剖】ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》
最後に、本展最大の注目作品であり、今回初来日となるレオナルド・ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》について、その作品の詳細をまとめました。展覧会前の予習にお役立て下さい。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《女性の肖像》、誤って付された別称《美しきフェロニエール》1490‒1497年頃 パリ、ルーヴル美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Michel Urtado

【制作時期と表現上の特徴】
レオナルド・ダ・ヴィンチは1482年、30歳の時に、ミラノ公国で実権を握っていたルドヴィコ・スフォルツァに仕えるためにミラノに移り住み、1499年まで当地で活動しました。今日《美しきフェロニエール》の通称で世界的に知られる《女性の肖像》は、ミラノ滞在の後半に描かれたものと推測されています。その様式や技法の特徴から、のちに描かれる《モナ・リザ》のいわば前身として位置づけられてきた傑作です。当時、北イタリアではまだ横顔の肖像形式が主流でしたが、レオナルドはフランドルの画家たちが発展させた四分の三正面観を取り入れました。女性の目元、鼻筋、頬からあごにかけての丸み、かすかな笑みを浮かべる口元などは、明るい部分から暗い部分へと自然に推移する繊細なグラデーションによって、柔らかく立体的に描かれています。彼女の頭は身体と同じ方を向くのではなく、ほんのわずかに身体と逆方向に回転しています。この微細なひねりによって、女性がふと顔をこちらに向け始めたかのような動きの感覚が生まれ、彼女の生命感を高めているのです。女性は私たちを見返しているようで、もっと右を見ているようでもあり、その謎めいたまなざしは、様々な感情をあわせもつ人間の複雑な心の動きを映し出しているかのように感じられます。

【「美しきフェロニエール」とは?通称の由来】
「美しきフェロニエール」はフランス国王フランソワ1世(在位1515–1547年)の愛妾で、王の死の要因になったと伝えられる人物です。しかし、彼女らしき人物が史料に現れるのは、1547年の王の死から半世紀以上も経た17世紀初めのことで、今日の歴史学では、後世に作り上げられた架空の人物と考えられています。フランス王家のコレクションのなかで、17-18世紀を通じて「美しきフェロニエール」と呼ばれていたのは、当時はレオナルドの作品とみなされていた横顔の女性肖像画(※本稿少し上に掲載したロンバルディアの画家《女性の肖像》)で、この四分の三正面観の女性肖像画ではありませんでした。その後、19世紀初頭に呼び名が混同されたことをきっかけに、次第にこの作品が「美しきフェロニエール」と通称されるようになりました。

【モデルは誰なのか?】
レオナルドの《美しきフェロニエール》に触れた最古の史料は、フォンテーヌブロー城のフランス王家所有の美術品について記した1642年の書物です(Pierre Dan, Le Trésor des merveilles de la Maison Royale de Fontainebleau, Paris, Sébastien Cramoisy, 1642[別ウィンドウ], p. 135)。そこではこの絵は、レオナルドによる「マントヴァの公爵夫人の肖像」と記されていました。以降の文献では「女性の肖像」と記述されることがほとんどでしたが、18世紀末に初めて、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛妾、ルクレツィア・クリヴェッリ(1464–1534年)をモデルとする見解が現れました。彼女はルドヴィコの妻ベアトリーチェ・デステの侍女で、ルドヴィコから見初められて愛妾となった女性です。レオナルドがルドヴィコのために「ルクレツィア」という名の女性の肖像を描いたことが、同時代のイタリアの詩人アントニオ・テバルデオ(1463–1537年)の詩にうたわれており、これがルクレツィア・クリヴェッリをモデルとみなす根拠の一つとなっています。

テバルデオは、肖像に描かれたルクレツィアの魂はミラノ公ルドヴィコだけのものだとうたっています。もし、《美しきフェロニエール》のモデルがルクレツィア・クリヴェッリであるなら、私たちを見返しているようで、そうではないようにも見える彼女のまなざしは、ルドヴィコただ一人に向けられているのかもしれません。前景に配された石の欄干も、ルドヴィコ以外の鑑賞者に、彼女には近寄りがたいと感じさせるための工夫だったのかもしれません。

ルドヴィコの一代前のミラノ公の妃イザベッラ・ダラゴーナ、あるいはベアトリーチェ・デステなど、他の女性もモデル候補に挙げられてきましたが、いずれも決定的な証拠はなく、現在、研究者の多くはルクレツィア・クリヴェッリを支持しています。

【ファッションの特徴】
レオナルドの《美しきフェロニエール》における女性の髪型や服装は、1490年代にミラノやマントヴァなど北イタリアで流行したものです。額の中央で分けた長い髪を後ろで一つにまとめる髪型、後頭部にかぶったボンネット、額から頭に巻いた細い飾り紐は、本展に出品されるミラノ公妃ベアトリーチェ・デステの彫刻(本展出品番号 cat. 52)や、マントヴァやミラノの貴婦人たちを表したメダルや絵画(本展出品番号 cat. 53、55)にも見られます。また、四角い形の襟ぐりと、胴衣にリボンで袖を結び付け、肩口の隙間から白いブラウスをのぞかせるスタイルも、同様に北イタリアの流行を反映しています。
額の中央に一粒の宝石をあしらった飾り紐は、15世紀末のイタリアでは「レンツァ」と呼ばれていましたが、次第にすたれました。しかし、レオナルドの絵画が19世紀初めに「美しきフェロニエール」と誤って呼ばれ、有名になるにつれて、このアクセサリーがフランスの女性たちの間で再び流行し、1830年代には「フェロニエール」と呼ばれるようになりました。
なお、額の中央に一粒の宝石をあしらった飾り紐は、15世紀末のイタリアでは「レンツァ」と呼ばれていましたが、次第にすたれました。しかし、レオナルドの作品が19世紀初めに「美しきフェロニエール」と誤って称され、有名になるにつれて、このアクセサリーがフランスの女性たちの間でリバイバルし、1830年代には「フェロニエール」と呼ばれるようになりました。
国立新美術館
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/louvre2026/
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参考文献
ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-d65f88.html
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-062e20.html
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
「レオナルド×ミケランジェロ展」三菱一号館美術館・・・レオナルド「レダと白鳥」
https://t.co/K67IitKt5r
レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年記念「夢の実現」展・・・レオナルドの夢、ルネサンスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-9c38e6.html
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ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
国立新美術館 企画展示室1E(東京都港区六本木7-22-2)
2026年9月9日(水)~12月13日(日)
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/louvre2026/

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2026年9月20日 (日)

織田信長、浅井三姉妹、織田弾正忠の血を残す者・・・稲生原の戦い、本能寺の変、将軍秀忠の娘、千姫、家光

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第449回

【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【織田信長、謀反に始まり、謀反に死す】織田信秀、死す【家督相続争い、信長の弟、信勝、2度目の謀反、弘治3年(1557)、清須城にて、信長の病気見舞いで返り打ち。柴田勝家が誘殺】斎藤道三、長良川の戦いで死す、義龍に呼応【本能寺の変、明智光秀謀反】天正10(1582年6月2日)【正親町天皇、三職推任】【羽柴秀吉と明智光秀、出世争い】
【織田信長の藝術愛好、千宗易、曜変天目茶碗、狩野永徳、本因坊算砂、安土城天主。本能寺の茶会、【織田信長、謀反に次ぐ謀反、信長包囲網、正親町天皇による勅命講和4回。藝術に溺れる権力者、藝術に死す】曜変天目は、本能寺の変で、焼亡した。
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【織田信長と生駒吉乃の子】信忠、二条城にて死す。次男・織田信雄(永禄元年(1558年)-寛永7年4月30日(1630年6月10日))72歳、長女・徳姫(永禄2年10月12日〈1559年11月11日〉- 寛永13年1月10日〈1636年2月16日〉))76歳
【織田信長の妹、お市】
天文16年[注釈 1](1547年)-天正11年4月24日(1583年6月14日)(37歳没)越前北ノ庄城、死因、飛び降り自殺。
【お市の遺児、浅井三姉妹、茶々、初、江】
茶々(淀殿)、(永禄12年(1569年)?近江国 小谷城-慶長20年5月8日(1615年6月4日)摂津国 大坂城)
茶々1615年、豊臣秀頼と大阪夏の陣にて死去。
三女・江、(天正元年(1573年)-近江国小谷(現滋賀県長浜市)-寛永3年9月15日(1626年11月3日)-武蔵国江戸 江戸城西の丸)。【3度結婚、徳川秀忠と結婚】子供:完子、千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和姫。3代将軍・家光。を生む。
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天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺で、信忠が二条新御所で、家臣の明智光秀によって討たれた。6月13日、信孝と秀吉が山崎の戦いで光秀を破って、信長の仇を討った。6月14日、安土城にいた明智秀満は敗報を聞くと城を出て坂本城へ向かった。その直後に安土城で出火があり、城は焼失した。『太閤記』では秀満が火を付けた犯人としているが、『兼見卿記』では火災は15日のことで、『耶蘇年報』でははっきりと「暗愚」を理由に信雄が火を放ったと書かれているため、信雄の仕業とする説が有力であるが、近在の一揆衆の仕業との説もあり、信雄がいかに狼狽したとしても安土城を焼く動機がないため断定は避けるべきと、谷口は書いている[70]。谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。
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参考文献
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参考文献
織田信長、浅井三姉妹、織田弾正忠の血を残す者・・・稲生原の戦い、本能寺の変、将軍秀忠の娘、千姫、家光
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-5a6670.html
羽柴秀吉、中国攻め、本能寺の変、小牧長久手の戦い、豊臣滅亡
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-f08527.html
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
https://bit.ly/3UYWOpe
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
https://bit.ly/3oBk8NX
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
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オンシュダシュダ、弘法大師空海の師匠の師匠「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師(637年〜735年)」が作った最強の真言。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」
ふるべ ふるべ ゆらゆらと ふるべ、石上神宮、物部の十種神宝【布留は振る】



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2026年9月14日 (月)

羽柴秀吉、中国攻め、本能寺の変、小牧長久手の戦い、豊臣滅亡

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第448回

「中国攻め」は、織田信長が本願寺との戦いをくり広げる中、中国地方を支配する毛利氏を征するため、信長が秀吉に命じた。毛利氏の播磨侵攻が進む中、1577(天正5)年播磨に入った秀吉は周囲の城を次々と陥落し、短期間のうちに播磨を制した。
【織田信長の藝術愛好、千宗易、曜変天目茶碗、狩野永徳、本因坊算砂、安土城天主。本能寺の茶会、【織田信長、謀反に次ぐ謀反、信長包囲網、正親町天皇による勅命講和4回。藝術に溺れる権力者、藝術に死す】
【三木城、干し殺し】三木合戦は、1578(天正6)年3月から1580(天正8)年1月にかけて、織田信長の命により、羽柴秀吉が三木城を攻略した戦いだ。悲惨な兵糧攻めにより、三木城内では餓死者が続出。1年10か月に及ぶ籠城の末、三木城主の別所長治は降伏し自刃した。
【本能寺の変】
天正10年6月2日(新暦1582年7月1日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。
【羽柴秀吉、中国大返し】
6月3日夜、信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。
秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を駆けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。
翌5日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、6月6日、中国街道を駆けぬけ、2日後には約70キロ東の姫路城に戻った。世に言う「秀吉の中国大返し」である。
季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、6月10日には早くも摂津の尼崎に到着した。
 中国大返しの前、秀吉は備中高松城(岡山市北区)を攻撃していたが、こちらも3ヵ月近い籠城戦となった。しかし、残念ながら、秀吉がどうやって兵糧を調達したのかは不明である。その後の中国大返しについても同様である。
三木城干し殺し
明智光秀、討伐、
 天正10年(1582)6月13日、羽柴秀吉軍に敗北した光秀は、勝竜寺城(京都府長岡京市)へ逃げ帰ったが、そこも羽柴方の軍勢に包囲されて脱出した。光秀は、居城がある近江国坂本城(滋賀県大津市)を目指して逃亡したが、その日のうちに討ち取られた。
『言経卿記』には、光秀が醍醐(京都市伏見区)の辺りに潜んでいると、郷人(郷民)が討ち取って、首を本能寺に献上したという。6月17日、光秀の家臣・斎藤利三は潜伏先の近江堅田(滋賀県大津市)で捕縛され、京都市中に乗り物で移動し、六条河原で斬られた。
【織田信長の葬儀、大徳寺の羽柴秀吉、】【織田信長、天徳院殿 卒哭忌 拈香(ねんこう)、百日忌、卒哭忌、お市の方、妙心寺、天正10年9月11日】大徳寺、天正10年(1582年)11月11日から17日、葬儀の警備は3万人、弟の秀長が取り仕切る中、池田輝政と羽柴秀勝(信長の四男)が信長の棺を持ち、秀吉が寄り添った。【清須会議、織田信雄、織田信孝、三法師】【賤ヶ岳の戦い】1583(天正11)年、【小牧長久手の戦い、羽柴秀吉、織田信雄、徳川家康】【関ケ原の戦い】1600【大阪夏の陣、豊臣秀頼、豊臣滅亡】1615
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参考文献
羽柴秀吉、中国攻め、本能寺の変、小牧長久手の戦い、豊臣滅亡
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/09/post-f08527.html
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
https://bit.ly/3UYWOpe
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
https://bit.ly/3oBk8NX

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阿弥陀寺 織田信長・信忠の墓所 戦国の美少年、森蘭丸たちも眠る
本能寺の変が起こった日、織田家と深い親交があった清玉上人は本能寺にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬した。本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓があります。本堂は非公開ですが、毎年6月2日(本能寺の変が発生した日)の信長公・信忠公を供養する法要(信長忌)の際、一般公開されている。

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2026年9月 1日 (火)

【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第447回
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
市は織田信長の妹として、1547(天文16)年ごろ生を受け、1583(天正11)年、北庄城にて自害。36歳で死す。江戸時代の書物では「天下一の美人」、現代では「戦国一の美女」と評判の美女。
 1567(永禄10)年、市は北近江の浅井長政と結婚(年代には諸説あり)。信長が長政と同盟を結び、その証としての政略結婚。しかし、政治的な結婚だったにもかかわらず、市と長政の仲は非常に良好だったといわれています。6年ほどの結婚生活のなかで、二人の間には浅井三姉妹として有名な茶々、初、江が産まれました。
【浅井長政、謀反】1570(元亀元)年、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は長く同盟を結んでいた朝倉の方につき、信長との同盟関係を反故に。3年後の【小谷城、落城】1573(天正元)年。長政の居城・小谷城は信長に攻められ落城。市と娘たちは織田家の家臣によって救出。市と3人の娘たちは信長のおじ・信次(弟の信包という説も)の庇護のもとで暮らした。信次が戦で亡くなると、信長の庇護下に入った。
最初の夫・長政が自害した際には娘たちと生き延びた一方、10年後、勝家が敗れると今度は夫と運命を共にした。
【本能寺の変】1582(天正10)年、山崎の戦、小栗栖にて明智光秀【信長の葬儀】【大徳寺、羽柴秀吉による】織田家の攻撃に備えて3万人、警備。【阿弥陀寺、清玉上人による】市、徳姫、浅井三姉妹・茶々・初・江。織田一族。
【清須会議】1582(天正10)年、本能寺の変が起き兄・信長が死亡したのち、清須会議。【3歳で織田家の後継となった三法師の後見の座を織田信雄と織田信孝が争い。】【市と勝家の結婚】清須会議の場で取り決められたのではないかと。柴田勝家が織田家の家臣・堀秀政へ宛てた書状で「羽柴秀吉と話し合った内容に変更はない、お市の方との縁組も予定通り」。
【賤ヶ岳の戦い】1583(天正11)年、織田家の家臣だった羽柴秀吉と柴田勝家が衝突した賤ヶ岳の戦い。この戦いで勝家は敗れ、自身の居城である北庄城に撤退すると、わずか数日後には秀吉の軍に包囲され。【柴田勝家とお市、自決】織田信孝、自決。
【お市、辞世の句】「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
(そうでなくとも夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね)
 死を象徴する鳥でもあるほととぎすを歌い、短い夏の夜に儚い人生を重ね、すでに死の覚悟を決めたことが伝わる辞世 柴田勝家と自害
「しばた殿御申すには、御いちさまに御ひめさまがた御同道にて御出なされ候えと、たって御申し候えども、御いちさま仰せには、あざい殿時分出させられさえ御くやしく候に、何とて御出あるべきや、しばた殿御一所との御事に而(以下略)」(黒田基樹『お市の方の生涯』より)
【茶々 信長が生きていたら"姪の茶々"は秀吉の側室にならなかった、32歳上の秀吉に嫁ぎ2児を産んだ46年の人生】長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市)から母お市の方と茶々・初・江の三姉妹は逃げ延びる。茶々の生年には諸説あり、永禄10年(1567)とするもの、永禄12年(1569)とするものなどがあり。【茶々、浅井長政滅亡、北庄城陥落、豊臣秀頼滅亡】彼女が鶴松や秀頼といった子を産んでから「大坂様」「西丸様」などの御殿名で呼称。
【浅井三姉妹、初、江。信長の長女、徳姫、次男・織田信雄】美女、生駒佳乃と信長の遺児、信忠、二条城にて自刃。信雄、徳姫。豊臣秀吉、秀頼時代、徳川家康時代、生き残る。
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参考文献
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
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織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
https://bit.ly/3UYWOpe
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
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オンシュダシュダ、弘法大師空海の師匠の師匠「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師(637年~735年)」が作った最強の真言。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」
ふるべ ふるべ ゆらゆらと ふるべ、石上神宮、物部の十種神宝【布留は振る】
大願成就、良縁成就、学芸成就、健康長寿、怨敵退散、事業繫栄
9月1日

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2026年8月29日 (土)

クリストファー・ノーラン監督「オデュッセイア」・・・叙事詩の謎、神々の企みは何か

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第446回

【トロイ戦争の原因は何か。ヘレンの略奪、パリスの審判、三女神の争い、神々の饗宴、ではない。神々の企みは何か】大久保正雄「旅する哲学者、美への旅」
【「オデュッセイア」】
「オデュッセイア」は、紀元前8世紀、吟遊詩人ホメロスが書いた、紀元前1200年のトロイ戦争の叙事詩「イリアス」の後日談。トロイの木馬の計略を発案したオデュッセウスのイタケーへの帰還。トロイからイタケーは近い。なぜ、10年かかったのか。魔女たち、怪物に襲われた。
【オデュッセウスの失敗】酒で酔わせたポリュペモスの唯一の目を潰し、オデュッセウスは最後に重大な失敗を犯す。彼は逃げる際、自分の本名を叫んでしまった。すると、ポリュペモスは父である海神ポセイドンへ復讐を願う。ポセイドンの報復が、10年漂流の原因の一つ。
【美しい魔女】仙女カリュプソ、永遠の命を与え、自分の島で永遠に暮らすよう望む。甘美な誘惑の魔女。カリュプソとオデュッセウスは7年間暮らす。キルケと1年暮らす。放浪していたのは2年間。魔女キルケ―、部下を豚に変えた。オデュッセウスは神ヘルメスから薬草を授かり、キルケの魔法は効かず、逆にオデュッセウスは剣を抜き、キルケを屈服させる。セイレーンは美女の鳥、美しい声で船を難破させる。美しい声の人魚に変形した。キルケの島から筏で脱出、10代のナウシカ、美しい姫に出会い、次に、女神アテナに出会う。【魔女、美女が次々、オデュッセウスたちを誘惑し悩ませる。】「オデュッセイア」の美女たちはラファエル前派によく描かれた。オデュッセウスの妻ペネロペは、10年間、機を織り、ほどいて、彼の帰りを待つ。ペネロペも。ラファエル前派によく描かれた。クリストファー・ノーランでは、アン・ハサウエイが演じる。
【魔女カリュプソの、永遠の命と甘美な生活よりも、ペネロペが待つイタケーを選ぶのは何故か】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、若い美しい姫ナウシカに出会い、オデュッセウスが回顧する。オデュッセウスだけ生き残り回想する。オデュッセウスの作り話かもしれない。トロイ戦争は【ヘレンの略奪】に始まる10年戦争であり、オデュッセウスの帰還は【カリュプソと7年間キルケと1年、8年間】。オデュッセウスの漂流は2年間。【女が人類を滅亡、女が人類を漂流】
 【ゼウスの掟】クリストファー・ノーランは、「異国人を大切すること」。【パレスチナ人イラン人絶滅】を批判。「オッペンハイマー」原爆作製者が後悔して罪悪感に苛まれる。「オデュッセイア」トロイを滅亡させた英雄の苦しみ。【ゼウスは異国人の守護神】神が異邦人の物乞いとして現れる。【よきサマリア人】【蘇民将来子孫也】スサノオノミコト(牛頭天王)が旅の途中、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)に宿を断られた際、貧しい兄の蘇民将来が手厚くもてなしました。喜んだ神様は蘇民将来に、「将来、疫病が流行ったときには『蘇民将来子孫也』と書いた札を掲げれば難を逃れられる」と約束した。
オデュッセウスの妻はペネロペ、美しいペネロペに多くの求婚者が現れる。老人の姿で帰還したオデュッセウスは12の斧の穴を弓矢で射貫く。ホメロスの「斧の穴」は何を意味するのか。青銅の斧が発刊されて決着した。
「イリアス」は、イリオン落城の物語。スパルタ王の王妃、ヘレンをトロイの王子、パリスが、誘拐し、トロイに連れ帰ったためトロイ戦争が起こった。ギリシアの総大将・アガメムノンは、ヘレンを奪還するためにギリシア連合軍を率いてトロイに向かった。トロイ戦争は、海辺に疫病が蔓延し、10年間膠着状態に陥り、一計を案じたのがオデュッセウスのトロイの木馬である。アガメムノンの弟はメネラオス、その妻ヘレンがパリスに略奪された。アガメムノンは、妻クリュタイムネストラと愛人によって殺害される(アイスキュロス「アガメムノン」)。
【プラトン『国家』のホメロス「叙事詩」、批判】嘘つきの英雄: 主人公オデュッセウスは「機知に富む(ずる賢い)」英雄であり、しばしば嘘や策略を用いる。プラトンは、国家の上に立つ者や守護者には「真実」と「自己統制(節制)」を求め、狡猾さを称賛する物語を教育に用いるべきではないと批判。

参考文献 町山智浩@TomoMachi 『オデュッセイア』が100倍楽しくなる、オデッセイ映画の世界!
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2、クリストファー・ノーラン監督:帰還というコンセプトを、ギリシア人たちは”Nostos”(英雄の帰還)と呼んでいました。この物語は登場人物の帰還、そして感情の変化を描いています。その人物にも変化が訪れ、故郷にも変化は見られる。長く故郷を離れることの意味、長旅が人や環境に与える影響を語っている。「モンテ・クリスト伯」は、実はもとは「オデュッセイア」だった。ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」は1920年代ダブリンを舞台にした「オデュッセイア」。「2001年、スペース・オデッセイ」。1つ目の巨人キュクロプスや6つの頭を持つ怪物スキュラ、。西洋文学の原点である「オデュッセイア」が愛されてきた魅力の一つは、ファンタジー要素や登場するクリーチャー。映画作りがなかったら、正直どうしていいか分かりません。それ以外にやりたいと感じたものがないからです。人生の目的を見つけられたことは、非常に幸運だと思っています。
参考文献
クリストファー・ノーラン監督インタビュー 韓国・ソウル取材会場
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参考文献
クリストファー・ノーラン監督「オデュッセイア」・・・叙事詩の謎、神々の企みは何か
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-82522f.html
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-062e20.html
https://bit.ly/3C2fXNP
【叙事詩の円環】
運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
https://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
大久保正雄『地中海紀行』第61回トロイア戦争 パリスの審判P29
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』
岡道男『ホメロスと叙事詩の環』1976 京都大学文学部紀要1976.16.55-338,
安村 典子『ゼウスの覇権 反逆のギリシア神話』京都大学学術出版会
城江良知「ガイアの嘆願と『イリアス』」西洋古典学研究
『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね,. しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た. ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/68585/1/KJ00004263559.pdf

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2026年8月23日 (日)

大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画・・・談山神社と狩野宗眼「秋冬花鳥図襖」「春景花鳥図襖」の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第445回

なぜ、狩野宗眼(そうげん)重信による一連の襖絵、奈良の談山(たんざん)神社にあったのか。
「襖は17世紀初頭の談山神社再建時に制作されたと考えられる。襖絵4面の表と裏は分けられた。四季花鳥図(秋冬景)は大英博物館のコレクションに収蔵され、残りの襖絵は1951年にシアトル美術館に収蔵された。作者の比定は時代とともに変化し、狩野山楽から狩野孝信、そして最近では狩野宗眼重信へと変わってきた。これは狩野派の作者についての議論を反映している。」狩野宗眼重信筆 琴棋書画仙人図(國華1569号〈特輯 宮越家詩夢庵の襖絵とステンドグラス〉要旨)
江戸幕府が開かれた直後の1612年、徳川家康の命によって「賢盛法印(けんじょうほういん)」という僧侶が初代学頭(山内の最高責任者)に任じられました。これにともない、多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の本格的な再建・復興プロジェクトが始動。学頭の住まいであった屋敷「竹林坊」を格調高く飾り立てるために、当時の一流絵師集団であった狩野派へ襖絵の制作が依頼された。
多武峰は、京都の最高級公家である九条家と深い結びつきがありました。この一連の襖絵は、九条家が談山神社の再建・復興を支援するために、お抱え、あるいは縁のあった実力派絵師の狩野宗眼重信に描かせ、寺へ寄進。
襖絵には「琴棋書画仙人図」や「名所風俗図」などが描かれていましたが、中には富士山を望む名所(駿府など)が描かれた「富士の間」の襖絵もありました。駿府は家康ゆかりの地であり、家康の命で始まった多武峰復興の象徴、そして幕府への敬意を表すためである。
――
第2部には、浮世絵が展示されている。
喜多川歌麿《文読む遊女》江戸時代・1805~1806年 大英博物館蔵
葛飾北斎《万物絵本大全図》版下絵 江戸時代・1820年代~1840年代 大英博物館蔵
葛飾北斎《万物絵本大全図》版下絵 江戸時代・1820年代~1840年代 大英博物館蔵
コピーライト The Trustees of the British Museum
版下絵とは版画にするための原画のこと。本の挿絵として描かれたが、本が出版されなかったため貴重な版下絵103点が残りました。長く行方不明になっていましたが、2020年に大英博物館が103点をまとめて購入し、世界的に話題に。本展ではうち8点を展示。
円山応挙《虎の子渡し図屏風》江戸時代・1781~1782年 大英博物館蔵
コピーライト The Trustees of the British Museum
母虎が三匹の子を産むと、必ず一匹は彪(ヒョウ)である、という古代中国の伝説に着想を得た応挙中期の作品。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示構成
展示作品の一部
東京都美術館
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_britishmuseum.html
1章:華やかな江戸絵画の世界へ」
狩野宗眼(そうげん)重信による一連の襖絵です。これらはかつて奈良の談山(たんざん)神社にありましたが、明治以降の廃仏毀釈(きしゃく)のあおりをうけて流出し、世界各地に離散してしまいます。
狩野宗眼重信「春景花鳥図襖」(17世紀初、個人蔵)
このうち「秋冬花鳥図襖」が大英博に、「春景花鳥図襖」が青森・津軽の旧家に分かれて所蔵されていましたが、最近の研究により、これらの花鳥図が一連の作品であることが判明。本展の開催をきっかけに、じつに150年ぶりの再会を果たし、隣り合っての奇跡の展示が実現しています。
いずれも狩野宗眼重信による「秋冬花鳥図襖」(左)と「春景花鳥図襖」(ともに17世紀初め)
このほか、大英博所蔵の花鳥図とかつて一組(両面仕立ての片側)だった襖絵があり、現在は花鳥図と分かれてアメリカのシアトル美術館所蔵となっていますが、今回この作品も特別出品されています。
かつて同じ場所に収められていた襖絵が、150年の時と場所を越えて日英米から集結。元々の襖絵の配置を再現した立体的な展示で、じっくりと味わうことができます。
展示されている2点の花鳥図の反対側に回ると、さらに同じ談山神社伝来の、狩野宗眼重信による襖絵が。左は「名所風俗図襖(三保松原・清見寺)」(17世紀初、個人蔵)、右は「琴棋書画仙人図襖」(17世紀初、シアトル美術館蔵)。かつて神社の屋敷にあった実際の配置を再現する形で展示され、当時のようすに思いをはせることができる
朝日新聞
https://www.asahi.com/and/w/article/16788324

2章:スター絵師、大集合 浮世絵の傑作が競演
展示作品の一部
尾形光琳「松島図屏風」円山応挙「虎の子渡し図屛風」、葛飾北斎「『万物絵本大全』版下絵」
肉筆浮世絵、葛飾北斎「為朝図」、喜多川歌麿「文読む遊女」、
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★★★★★
参考文献
大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画・・・段山神社と狩野宗眼「秋冬花鳥図襖」「春景花鳥図襖」の謎
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-bac856.html
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館・・・美の宴2012
https://bit.ly/2C5NsU6
ボストン美術館の至宝展、東京都美術館・・・陳容「九龍図巻」2017
https://bit.ly/3Of7s6v
ボストン美術館、肉筆浮世絵「江戸の誘惑」江戸東京博物館2006
ボストン美術館展 芸術×力・・・増山雪斎「孔雀図」、「平治物語絵巻」三条殿夜討
https://bit.ly/3cMgcUC
――――
1753年に創立したイギリス・ロンドンの大英博物館は、世界を代表するミュージアムのひとつです。同館の日本美術コレクションは、海外では最も包括的なもののひとつと評されるほど量・質ともに充実しています。そのコレクション形成を支えてきたのは、ジャポニスムが流行した19世紀後半以来、海を隔てた異国の地・日本の文化に魅了された人々でした。
数々の収集家や学芸員が築いたつながりは、国境や時代を越えて広がり、今日まで受け継がれています。
本展では、4万点に及ぶ同館の日本コレクションから、江戸時代の屏風、掛軸、絵巻の絵画作品と、歌麿、写楽、北斎、広重など代表的な8人の浮世絵師による版画を中心に、優れた作品を厳選してご紹介いたします。さらに、近年の調査成果や収集の背景にも光をあてることで同館が日本美術の収集・研究・保存の第一線で果たしてきた役割をたどります。それは、国際的な文化交流の歴史を振り返ると同時に、大英博物館に受け継がれてきた日本美術の名品と、今日を生きる私たちとのあいだに新たな対話をひらく機会ともなるでしょう。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_britishmuseum.html

――
世界有数の規模を誇る大英博物館の日本コレクションは約4万点。そのうち日本絵画だけでも4,000点を超える。本展では、江戸時代の作品を中心に、屏風、掛軸、絵巻、浮世絵版画、肉筆画などが幅広く紹介される。
尾形光琳「松島図屏風」円山応挙「虎の子渡し図屛風」、葛飾北斎「『万物絵本大全』版下絵」等、イギリスから初めて里帰りした作品、多数。
青森県中泊町の宮越家、大英博物館、シアトル美術館に分かれていた狩野宗眼重信の襖絵が、約150年ぶりに再会した。別々の土地で守られてきた作品が並ぶことで、本来ひとつの空間を飾っていた頃の姿が偲ばれる。
浮世絵版画は、肉筆浮世絵、葛飾北斎「為朝図」、喜多川歌麿「文読む遊女」、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、初代歌川豊国、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の8人を作家ごとに展示。非常に状態がよく、鮮やかな色彩や繊細な彫り、摺りまで観察できる。作品に合わせて壁の色を変え、展示方法にも細やかな工夫が施されている。
名高い絵師の傑作から、知られていない絵師の優品まで、大英博物館の歴代収集家や学芸員が作品そのものの価値を見極めてきたことが伝わりました。海を渡った日本美術がどのように集められ、守られ、研究されてきたのか。
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東京都美術館開館100周年記念
大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画
会期2026年7月25日(土)~10月18日(日)

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2026年8月17日 (月)

マリー・アントワネット・スタイル・・・ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第444回
サラ・グラント研究員ヴィクトリア・アルバート美術館の記者発表会を聴く。マリーアントワネットのファッション・スタイルの展覧会であり、ハプスブルク家の政略結婚の背景についての説明はない。
マリー・アントワネット(1755–1793)は、14歳でハプスブルク家から、フランス王家に嫁ぎ、19歳で、王妃、37歳で断頭台の露と消えた。

マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
ハプスブルク家、マリアテレジアの15番目の娘、ハプスブルク家の政略結婚の一環として、マリー・アントワネットは、フランスに派遣。
イタリア戦争、ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争、15世紀
マクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュの結婚からハプスブルク家、始まる。15世紀
ハービヒツブルク城、ハービヒツブルク辺境伯、神聖ローマ帝国の選帝侯。
フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト(1837-1898)の結婚と破綻。
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1886年、ルートヴィッヒ2世、41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』に美しく描かれる。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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概要
—彼女が刺激的なわけ。横浜美術館
歴史上もっともファッショナブルな王妃、マリー・アントワネット(1755–1793)。彼女の装いやインテリアは、18世紀から現代にいたるまで、ファッションやデザイン、映画などに広く影響を与えてきました。本展は、あらゆる点で新しい様式(スタイル)をうちたてた王妃の革新性と人物像に迫るとともに、その「スタイル」が、いかに時代を超えて人びとを魅了し、今日のクリエーターたちにも示唆を与え続けているかについて紹介します。
詳細は「展覧会特設サイト」をご覧ください。
https://yokohama.art.museum/exhibition/202608_marie2026/
構成 
展示作品の一部
1 マリー・アントワネット:スタイルの源泉 1770–1793
オーストリア皇女マリー・アントワネット(1755–1793)は、1770年春、14歳の時に王太子妃としてフランスに嫁ぎました。以来、宮廷に新たな視点をもちこみながら、ルイ16世下フランスにおける高級産業、とりわけ ファッションと織物産業の発展に、多大な影響を与えました。
当時のフランスは、植民地と奴隷制を基盤とした国際的なプレゼンスに加え、文化においても中心的な役割を担っていました。そうしたなか、アントワネットは、堅苦しい宮廷の慣習に挑み、あらゆる面で自らの意向を形にしていきました。衣裳のみならずインテリアから音楽、ライフスタイルまで、よりシンプルで洗練された王妃の趣向は、またたく間に国内外で流行します。一方で、そのスタイルは斬新ゆえに取り沙汰され、民衆には想像もつかないほどの贅沢の象徴と受けとめられるようになっていきました。
革命の気運が高まるなか、アントワネットは次第に反体制派の標的となり、ギロチンへと導かれていくのです。
ローブ・ア・ラ・フランセーズ(フランス風ドレス)フランス製 1760年代(1770年代に加工) 絹、光沢をつけた麻 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
通称「サザーランド・ダイヤモンド」1780年代にネックレスに加工 金、銀、プラチナ、ダイヤモンド 長さ 35.8 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
https://artexhibition.jp/topics/news/20260731-
マリー・アントワネットの肘かけ椅子(4点組の1点)
ジャン゠バティスト゠クロード・スネ(作) 1788年 木(クルミ)に着彩、絹で刺繍した綿(近年の上張り) H. 97.5 × 63.5 × 63.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London

2 マリー・アントワネット:追憶と偶像化 1800–1940
マリー・アントワネットは、死後も人びとの記憶のなかに生き続けました。ナポレオン3世の后ウジェニー(1826–1920)を筆頭に、19世紀には王党派の支持者たちが彼女のスタイルを懐古しました。スペインからフランスに嫁いだ皇后は、同じく外国から嫁いだアントワネットに心を寄せ、自らのイメージづくりにおいても王妃を参照しました。

3 永遠に新しく — マリー・アントワネット・スタイル
映画『マリー・アントワネット』(ソフィア・コッポラ監督、2006年)より
Photo: Courtesy of I WANT CANDY LLC. and Zoetrope Corp.
ソフィア・コッポラ脚本・監督、キルスティン・ダンスト主演の映画『マリー・アントワネット』。ピンヒールのパンプス、ポップミュージック、色とりどりのマカロンなど、18世紀の宮廷に「現代」を織り込んだ

主な出品作

コートドレスのマリー・アントワネット
フランソワ=ユベール・ドルーエ(画) 1773年
油彩、カンヴァス 63.5 × 52.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


ローブ・ア・ラ・フランセーズ(フランス風ドレス)
フランス製 1760年代(1770年代に加工)
絹、光沢をつけた麻
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


通称「サザーランド・ダイヤモンド」
1780年代にネックレスに加工
金、銀、プラチナ、ダイヤモンド 長さ 35.8 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


イヴニングドレス「ローブ・ド・スティル」
ジャンヌ・ランバン(作) 1922–23年頃
絹オーガンザ、絹の花かざり、パニエ
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


目隠し鬼(流行年鑑『襞かざりと縁かざり』より)
ジョルジュ・バルビエ(画) 1924年(1925年刊行/
メニアル、パリ) ポショワール(ステンシル)による手彩色の挿絵本 冊子:26.5 × 18.0 × 3.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London / George Barbier
ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)の展示風景
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
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マリー・アントワネット・スタイル 横浜美術館、
2026年8月1日(土)~11月23日(月・祝)
https://yokohama.art.museum/exhibition/202608_marie2026/
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参考文献
マリー・アントワネット・スタイル・・・ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-b6ba4e.html
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
「プラド美術館 ベラスケスと絵画の栄光」・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
美しき女相続人、マリー、ベルギー、奇想の系譜・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/349ffME
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒
http://bit.ly/2zGK4N2
スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
https://bit.ly/31UvEmm
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇
https://bit.ly/2PqaVUV
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る
https://bit.ly/2opYnlB
「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界」・・・ハプスブルグ家の悪趣味の館
https://bit.ly/2JtpinR
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ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
マクシミリアン1世(1459-1519)からオーストリア・ハンガリー二重帝国「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)まで
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
★日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史
10月19日(土)~2020年1月26日(日)国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019haus_habsburg.html
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マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
政略結婚で、14歳の時、フランス王ルイ16世に嫁がせられる。フランス王妃となる。しかし、フランス革命勃発。37歳で、断頭台の露と消える。
マリー・アントワネットは、本当に愛したのはだれか。
マリーの死を悲しんだのは、スウェーデン貴族フェルセン伯爵だけだった。
「私は生きています。それは奇跡なのです」マリー・アントワネット1792年
ヨーロッパ最大の権力、ハプスブルク帝国。最も豊かで、自由なき人々、

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