2017年3月 1日 (水)

シャセリオー展、国立西洋美術館・・・アポロンとダフネ、泉のほとりで眠るニンフ

20170228Chasseriau_apollo_and_daphne_apolloThodore_chassriau_1850シャセリオー展、国立西洋美術館・・・アポロンとダフネ、泉のほとりで眠るニンフ

春よみがえる森、枝垂れ梅が満開の森を歩いて、美術館に行く。
シャセリオーは、詩人たちを愛し、シェイクスピア、バイロンを愛読した。ギリシア神話に霊感をうけた。ラファエロを崇めるアングルとは、方向が異なる。*
シェイクスピア劇の愛と嫉妬、憎悪、猜疑心、人間の暗い情念、苦悩、亡霊、魔女、幻影に、ロマン主義の藝術家たちは題材を得た。
『海から上がるウエヌス』(Louvre)をみた日を思い出す。
シャセリオーは、美人画に卓越した画家である。シャセリオーの絵画は、調和ある古典的世界と女性美を探求した。シャセリオーは37歳で死する夭折の画家である。
『泉のほとりで眠るニンフ』1850、『カバリュス嬢』1848、『16世紀スペイン女性の肖像』1834—50、『海から上がるウエヌス』1838,1842。
『アポロンとダフネ』1845 アポロンはダフネに恋するが、ダフネは樹木に変身して拒絶する。*オヴィディウス『変身物語』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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永遠を旅する哲学者は、美のイデアへ旅する。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿が目覚める。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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■テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau, 1819年9月20日 - 1856年10月8日)
テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau 1819-1856)。11歳でアングルに入門する。ドラクロワの影響を受け、ロマン主義の画家となり、新古典主義と融合する。『アポロンとダフネ』1845を描く。象徴主義に影響を与える。
■ギュスターブ・モロー(Gustave Moreau, 1826–1898)
シャセリオー『アポロンとダフネ』1845。この絵がギュスターブ・モローに影響を与える。37歳で早世する。ギュスターブ・モローは、美術学校を辞め、シャセリオーの近くにアトリエを構える。
ギュスターブ・モロー『アポロンとダフネ』『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』1865、『若者と死』1882。これらの絵画において、ギュスターブ・モローは、シャセリオーの影響が濃厚である。ギュスターブ・モロー藝術は、「詩人のテーマ」を根源としている。
★主要作品
テオドール・シャセリオー『アポロンとダフネ』1845ルーヴル美術館
テオドール・シャセリオー、『カバリュス嬢の肖像』1848年カンペール美術館
CHASSERIAU, Theodore 1819-1856. French Romanticism.
Théodore Chassériau, Apollo and Daphne. (Apollon et Daphne). 1846
Théodore Chassériau,Venus Anadiomene,1842
Théodore Chassériau,Nymphe,1850
Théodore Chassériau,Portrait de Mademoiselle de Cabarrus
Théodore Chassériau,Cabarrus,1848
Théodore Chassériau , Venus Anadyomene, or Venus of the Sea ,1838
■フランスの新古典主義 ジャック=ルイ・ダヴィッド(David)、弟子たち
ダヴィッドの弟子たち、アングル(Ingres)、フランソワ・ジェラール(F.Gerard)、グロ(Grot)、ジロデ=トリオソン(Girodet de Roussy-Trioson)
荘重な様式をもとめて古典古代、ギリシァの芸術を模範とした。ナポレオン時代、英雄主義的な主題は好まれ、インペリアル様式となる。ロココ美術のあまりに甘美な装飾様式、退廃的貴族主義に対する反発から生まれた。
■イギリス文学のロマン主義文学
ウィリアム・ブレイクの詩を萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジ『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)によって始まるが保守化した。ナポレオン戦争後、ジョージ・ゴードン・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイス・イタリアに移り、理想主義を追求した。
■ロマン主義の画家 ロマン主義に属する画家は、スペインのゴヤ、フランスのドラクロワ、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・ドレ、イギリスのウィリアム・ブレイク、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、サミュエル・パーマー、リチャード・ダッド、イタリアのフランチェスコ・アイエツ、スイスのヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ドイツでは山岳・廃墟をテーマにしたカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲ、ノルウェーのヨハン・クリスチャン・ダール。日本の絵画では藤島武二、青木繁。
★参考文献
陳岡めぐみ「異国の香り テオドール・シャセリオー」『シャセリオー展図録』
澁澤龍彦「小ロマン派群像」中央公論社『悪魔のいる文学史』〔中公文庫〕
デーヴィッド・ブレイニー・ブラウン『岩波世界の美術 ロマン主義』高橋明也訳、岩波書店2004年
高階秀爾『フランス絵画史』講談社1990年
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★シャセリオー展―19世紀フランス・ロマン主義の異才、国立西洋美術館
2017年2月28日(火)〜5月28日(日)

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2017年2月26日 (日)

梵寿綱、生命の讃歌、輝き溢れる芸術建築

Von_jour_caux_2Von_jour_caux_mind_waaVon_jour_caux_201701梵寿綱、生命の讃歌、生命の輝き溢れる芸術建築

梵寿綱、異端の建築家。
梵寿綱師に、教えられた。高度な普遍的な学問を修めても価値がない。創造的学問、創造的研究を自ら創造するべきだ。個性的な独創的な学問ならば、その人の処に求めにくる。
梵寿綱師はジョルジュ・スーラ「グランドジャット島の日曜日の午後」*の絵の前を毎日通って、秘密の通路からシカゴ美術館附属美術大学に通った。
【芸術建築】梵 寿綱(Von Jour Caux、本名:田中 俊郎1934年1月27日 - )、日本の建築家、芸術家、思想家。
東京都浅草出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、シカゴ美術館附属美術大学で学ぶ。
1974年6月より梵寿綱を名乗り「梵寿綱と仲間たち」を結成。以来、近代工業製品化している建築技術、様式に疑問を投げかける。「日本のガウディ」の異名を持つ。
梵寿綱建築
ドラード早稲田、マインド和亜、ラポルタ和泉、ムンディアニムス、MUNDI ANIMUS精霊の館
★梵寿綱『生命の讃歌 建築家 梵寿綱+羽深隆雄』美術出版社2017年
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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日本のガウディ、梵寿綱の建築 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139080974526375301
Mundi Animus 精霊の館
http://1955nonnon.jugem.jp/?eid=15
梵寿鋼「ぼくは日本のガウディではない」
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=250324378433891&set=a.171599139639749.40503.100003689911265&type=3&theater
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。*
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、迷宮図書館に行く。糸杉の丘、知の神殿が目覚める。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
★画像 梵寿綱、美術出版社

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2017年2月19日 (日)

アトレウス王家、血族の抗争、ギリシア悲劇 オレステス

TroyTroy_paris_2004Leda_melzi_uffiziアトレウス王家、血族の抗争、ギリシア悲劇 オレステス

骨肉の争いの歴史 
タンタロス王、ペロプス王、アトレウス王、アガメムノン王、オレステス。5世代の苦闘。
王家の戦い、血族の抗争、殺し合い。悲劇は五世代に重層する。王家は、父を殺し、兄弟を殺し、何を残すのか。

陰謀、裏切り、だまし討ち、下剋上、何でもありの乱世。戦国時代。
敵の陰謀を見破り、敵を滅ぼす最高の指揮官。
理念を追求する人は、天のために戦う。
美しい魂は、生死をのり超えて、美しい理念を探求する。美の化身となる。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する不滅の魂の神殿に旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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タンタロスは、自分の子(ペロプス)の人肉をスープにして神々に供した。
ペロプスは、ヒッポダメイアの子、アトレウスとテュエステスに呪いをかけた。
アトレウスは、テュエステスの子たちを食材にして料理して父親に供した。
アトレウスの子アガメムノンが、テュエステスを殺害し、王位につく。
理想を追求する人は、運命に対峙し、運命と戦う。
オイディプス王は、運命と戦い、荒野をさまよう。オレステスは、アトレウス王家の呪縛を解くのか。
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■リュディア王タンタロス
ゼウスの子タンタロスは、ゼウスの食卓で、神々の食べ物アンブロシアとネクタルを飲み不死身になった。思い上がったタンタロスは、自分の子の人肉をスープにして神々に供した。神々はタンタロスの企みに気づき、罰を下した。ゼウスは、スープを釜に戻し子を生き返らせた。これがペロプスである。ペロプスは、美しい若者に成長した。
■ペロプス一族の悲劇 ピーサ王
ペロプスは、王女ヒッポダメイアを一目見ると恋におち、一計を案じて車輪の楔を抜き、ピーサ王を戦車競走で、転落死させる。ペロプスは、ニンフとの間にクリュシッポスを儲ける。ヒッポダメイアは、ペロプスが王位をクリュシッポスに譲るのではないかと不安になり、クリュシッポスを殺害した。ペロプスは、ヒッポダメイアの子、アトレウスとテュエステスに呪いをかけた。ペロプスの呪い。
■アトレウス王家の悲劇 ミュケナイ王
アトレウスとテュエステスは、ピーサから国外追放され、ミュケナイ王の下に身を寄せる。ミュケナイ王と子が相次いで亡くなり、アトレウスとテュエステスは王位をめぐって争う。アトレウスが王になり、テュエステスが追放される。アトレウスの妻とテュエステスが通じて、アトレウスを追放する。アトレウスは、テュエステスの不義を暴き王座に復権する。
アトレウスは、テュエステスに和解を持ちかけ、テュエステスの子たちを食材にして料理にして御馳走した。復讐の鬼と化したテュエステスは、自分の娘ぺロピアにアイギストスを産ませる。アトレウスを殺害させ、ミュケナイ王座を奪還させる。アトレウスの子アガメムノンが、テュエステスを殺害し、王位につく。アガメムノンは、テュエステスの息子タンタロスを殺害、その妻クリュタイムネストラを自身の妻とし、ミュケナイ王に君臨する。
■アガメムノン王の悲劇 ミュケナイ王家
ヘレネとトロイアの王子パリス
アガメムノン王の弟メネラオスの妻ヘレネがトロイアの王子パリスと駆け落ちして、トロイア戦争が始まった。
アガメムノン王は、トロイアに出帆するために、娘イピゲネイアを生け贄にした。
これを恨んだクリュタイムネストラは、テュエステスの子アイギストスと共謀して、アガメムノン王殺害を計画した。アイスキュロス『アガメムノン王』
■オレステスの悲劇
アガメムノン王の子、姉エレクトラと弟オレステスは、クリュタイムネストラの殺害を遂行する。エウリピデス『オレステス』『エレクトラ』
■オイディプス王 テーバイ王家
オイディプスは、テーバイの王、父ライオス王によって、幼少時に、キタイロン山中に捨てられた。コリントス王の子として育てられる。オイディプスは、ライオスと王妃イオカセテの子である。『オイディプス王』の悲劇が起きるのは、三叉路でライオス王に出会ってからである。ソポクレス『オイディプス王』
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運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
https://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
愛と復讐 アイスキュロス『オレステイア』三部作
*ヴォロマンドラのクーロスKouros of  Volomandra
https://t.co/httDdX6Bvr
旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致
https://t.co/BIXeFsq7GS
デルフィ、光り輝く(ポイボス)アポロン アポロンの悲恋
https://t.co/gQ7mPYqr7A
デルフィ、オイディプス王の悲劇
https://t.co/9WqVXF2spg
アモールとプシューケー エロースと絶世の美女プシューケー
https://t.co/I5hzrLUU2R
エウリピデス『王女メデイア』アルゴ号の航海、金毛羊皮を求めて
https://t.co/dgAcFdNJlf
★系図 Genealogy of Agamemnon
https://en.wikipedia.org/wiki/Agamemnon
Tantalus  Lineage Tantalus
https://en.wikipedia.org/wiki/Tantalus
http://bit.ly/2maT9TS
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★ヘレネ Helen of Troy
★トロイアの王子パリスParis of Troy
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
2017年2月19日

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2017年2月13日 (月)

若き織田信長、戦国武将、復讐、天下布武

Caravaggio_1599Kano_eitoku_1565若き織田信長、戦国武将、復讐、天下布武
戦国時代。陰謀、裏切り、だまし討ち、下剋上、何でもありの乱世。
理念を追求する人は、天のために戦う。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する不滅の魂の神殿に旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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若き織田信長、戦国武将、復讐、天下布武
【織田信長、清州城内において、弟信行を謀殺】
織田信長は、1557年弘治3年11月2日、清州城内において、弟信行を謀殺した。信行の二度目の謀反に反り討ちにした。信長24歳。信行の家臣団が、信長の家督を奪おうとしたことに対する報復である。
【織田信長、父織田信秀の葬儀】若き織田信長、大うつけ 相続争い
織田信長は、大うつけ、と呼ばれた。信長が「大うつけ」として決定的なのは、父の織田信秀 が病死した葬儀の時、焼香をつかんで位牌に投げつけ、そのまま帰った。
*織田信秀、41歳で死亡。この時、信長18歳。天文20年3月3日(1551年4月8日)
尾張では家督相続争いが起き、弟の信行は家臣と共に、信長 に対し2度「謀反」を起こした。
【織田信長、嫡子、信忠(奇妙丸)、誕生】
1557(弘治3)年、生駒家宗の娘、吉野との間に嫡子、信忠、幼名、奇妙丸、誕生。
【武田信玄、暴虐な父信虎を追放】
武田信玄は、暴虐な父信虎を追放した。武田信虎は、嫡男、信玄の弟、信繁に家督を相続させようとした。信虎追放(天文10年1541年)。
伊達晴宗は、対立した父植宗を幽閉した。天文の乱(1542年)である。
織田信長は、天文3年1534年、誕生。
【アレクサンドロス、クレオパトラ7世】
アレクサンドロス3世は、母オリュンピアスと、父を謀殺。クレオパトラの結婚式の時、アレクサンドロスの父フィリッポスは、アレクサンドロスの妹クレオパトラの婿に相続を画策したからである。紀元前336年。
クレオパトラ7世は、姉ベレニケ4世、妹アルシノエ4世、弟プトレマイオス13世と対立した。相続をめぐり一族に紛争が起きる。クレオパトラ7世(在位BC51-30)。
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戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず
https://t.co/VH3SqMi4ns
★カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」1599
★狩野永徳「洛中洛外図」1565
★織田信長、名古屋城
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
2017年2月13日

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2017年2月 7日 (火)

メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族

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メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族

ルネサンス最高の美貌とされる。ジュリアーノ。
ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ、37歳で死す。ジュリアーノ・デ・メディチ、パッツィ家の陰謀事件で、25歳で死ぬ。
コジモとロレンツォ 容貌魁偉だが、優れた人間性に人は感銘を受けた。ロレンツォの知性と教養に、ナポリ王は圧倒された。
ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォ。ロレンツォ・イツ・マニフィコの遺児たち。
カトリーヌ・ド・メディシス、フランス王アンリ3世王妃となる。運命に翻弄されながら、異国で意志を貫く。

アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」である*
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する魂の神殿を旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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【ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ】
ルネサンス最高の美貌とされる。
Giuliano di Lorenzo de' Medici、ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ
37歳で死す。
(1479年3月12日 - 1516年3月17日)
Giuliano di Lorenzo de' Medici, Duca di Nemours (Firenze, 12 marzo 1479 – Firenze, 17 marzo 1516)
ミケランジェロ『メディチ家礼拝堂』1555年、Michelangelo, Cappela di Medici, 1555
ヌムール公、ジュリアーノ・デ・メディチの霊廟には「夜(眠る若い女性)」と「昼(男性)」、ウルビーノ公、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチには、「夕暮(年老いた男性)」と「曙(眠りから覚める女性の姿)」と名づけられた彫刻が、施されている。

【ウルビーノ公ロレンツォ】
ウルビーノ公ロレンツォ。ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Lorenzo di Piero de 'Medici, Duke of Urbino,1492年9月12日 - 1519年5月4日)
イタリアのフィレンツェの僭主(1516年から1519年までその権力をもつ)、ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』はロレンツォに献上された。27歳で死す。

【コジモ・デ・メディチ】
Cosimo de' Medici,1389 – 1 August 1464 Pontormo
コジモはフィレンツェに納められた税金の65%を負担し、死後ローマ皇帝にならい「祖国の父」「pater patriae」の称号を贈られた。1429年に父が亡くなり、メディチ家当主となる。1433年、政変が起こりフィレンツェを追放される。翌年、反対派のアルビッツィ家が失脚・追放され、コジモはフィレンツェ共和国に帰還する。
Cosimo di Giovanni de' Medici (il Vecchio) and, posthumously, Father of the Nation' (pater patriae); 10 April 1389 – 1 August 1464)

【ロレンツォ・デ・メディチ】
(Lorenzo de 'Medici, Il Magnifico)ロレンツォ・イル・マニフィコ1449-1492

【ジュリアーノ・デ・メディチ】
Giuliano de' Medici, 1453-1478 25歳で死ぬ。

【カトリーヌ・ド・メディシス】
Catherine de Médicis, (1519年4月13日 - 1589年1月5日)
出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。オルシーニ家の養女となる。0歳。
1527年、フィレンツェにおけるメディチ家の政権は打倒され、カトリーヌは人質とされて女子修道院に入れられる。8歳
1529年10月、カール5世の軍隊はフィレンツェを包囲。【フィレンツェ包囲】10歳
1530年8月12日にフィレンツェは陥落、教皇クレメンス7世はカトリーヌをローマへ呼び寄せる。
カトリーヌがローマを訪れた時、ヴェネツィア大使は「小柄で痩せており、顔立ちに優美さはなく、またメディチ家特有の突き出た目をしている」。カトリーヌは従兄のイポリットと恋仲になっていたが、教皇クレメンス7世は野心家の彼を退け、婿探しを始める。数多くの求婚者がいた。
1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉が纏まり、フランスの第2王子と結婚。14歳。
1534年9月25日、教皇クレメンス7世が死去するとフランス宮廷におけるカトリーヌの立場は悪化。新教皇パウルス3世はフランスとの盟約を破棄。

コジモ1世
コジモ1世(Cosimo I de' Medici, 1519年6月11日 - 1574年4月21日)は、初代トスカーナ大公。勇敢な傭兵隊長「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)と、その妻ロレンツォ・デ・メディチの孫マリーアの間に生まれる。
アンジェロ・ブロンズィーノを抱え、多くの肖像画を描かせた。
Bronzino - Eleonora di Toledo with her son Giovanni de' Medici

教皇レオ10世
レオ10世(Leo X 1475年12月11日 - 1521年12月1日)ルネサンス期のローマ教皇(在位:1513年 - 1521年)。本名ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。ロレンツォ・デ・メディチ・イル・マニフィコの次男。

教皇クレメンス7世
クレメンス7世(Clemens VII 1478年[1]5月26日 - 1534年9月25日)
ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。本名、ジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。

アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ
(Anna Maria Luisa de'Medici, 1667年8月11日 - 1743年2月18日)、ピッティ宮殿で暮らした最後のメディチ家直系。 トスカーナ大公コジモ3世とマルゲリータ・ルイーザ(オルレアン公ガストンの娘)の娘。
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参考文献
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
https://t.co/J6q12oMYUX
大久保正雄「イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」世界遺産アカデミー
https://t.co/yxlgRpwirV
大久保正雄『美の探求、旅する哲学者、美への旅』
https://t.co/oMWzv4rP2c
メディチ家年代記 メディチ家礼拝堂の幽明境
https://t.co/jfr10GQn6W
ルネサンス年代記 ミケランジェロ、孤独な魂
ピエタ、メディチ家礼拝堂、卓越した藝術、見出された才能
https://t.co/ejOdghjAJM
ルネサンス年代記 ボッティチェリ ルネサンスの理念
https://t.co/mjMEiIw7xi
ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世
https://t.co/UMusFWGFOz
ロワールの古城めぐり フランソワ1世、カトリーヌ・ド・メディシス
https://t.co/J9r9OZN2vP
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
バロック カラヴァッジョ、光と闇の巨匠たち
https://t.co/3Ny54JCgH1
『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅
https://t.co/RggoniP3wD
プラトン、アカデメイア派2000年 美への旅
https://t.co/AC2EF2HKDB
『戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹』
https://t.co/TtfGTKcUEL
美とは何か
【ソクラテスの祈り】
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
―――――

Giuliano di Lorenzo de' Medici, Michelangelo, Cappela di Medici, 1555
Vasali,Lorenzo de 'Medici,ヴァザーリ「ロレンツォ・デ・メディチ」
Pontormo ,Cosimo de' Medici「コジモ・デ・メディチ」
2017年2月7日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

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2017年2月 1日 (水)

ティツィアーノとヴェネツィア派・・・・光彩陸離、滅びゆくルネサンス

Tiziano_venere_di_urbino_1535Tiziano_flora_1515ティツィアーノとヴェネツィア派・・・・光彩陸離、滅びゆくルネサンス
森を歩いて、冬の午後、都美術館に行く。
イタリアの秋、ヴェネツィアの迷宮都市を歩いた日々。リアルト橋、サン・マルコ寺院、サンジョルジョ・マッジョーレ島、ドカーレ宮殿、ホテル、ダニエリHotel Danieliを思い出す。「ヴェネツィア共和国1200年」の光と影、行きし世の面影。15世紀はメディチ家の世紀、16世紀はヴェネツィアの世紀。旅人は、時の迷路に迷い込む。「ホテル、ダニエリ」、グランドカナルに臨む、迷宮ホテル。ヴェネツィア派は、何故、ヴィーナスのヌードを愛好したのか。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
■サン・マルコ寺院の残照
グランド・カナルを船で行き、サン・マルコ広場に上陸すると、サン・マルコ寺院は黄金の残照に輝いている。夢の都。水の都、迷宮都市。ヴェネツィアの干潟(ラグーナ)の上に立つ、幻の都市。夢うつつの迷宮都市。
■ヴェネツィア派の最高傑作 ジョルジョーネとティツィアーノ
ヴェネツィア、フィレンツェ、ドレスデンを歩き、ヴェネツィアの巨匠の作品を見た旅を思い出す。
ジョルジョーネ『眠れるヴィーナス』1510、『嵐』1508。ティツィアーノ『聖母被昇天』1515、『ウルビーノのヴィーナス』1538。
ジョルジョーネ(1477—1510)は、33歳で死ぬ。ティツィアーノ・ベチェッリオ(1488—1576)は、88歳まで生きる。
ジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco)は謎の画家である。
光彩陸離。ヴェネツィア派は、色彩、線描なき絵画、油彩で、フィレンツェ派と対比される。フィレンツェ派は、線描、テンペラ画。
ティツィアーノの妻セシリア*
ティツィアーノの故郷ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身の理髪師の年若い娘。5年にわたってジョルジョーネ家の家政を取り仕切る内縁関係にあった。セシリアと正式に結婚した。1530年8月にセシリアはラヴィニア出産時の産褥で死去した。
★15世紀フィレンツェ、16世紀ヴェネツィア
16世紀は、ヴェネツィアの世紀である。ティツィアーノ、「ハプスブルグ家の宮廷伯爵、黄金拍車の騎士」となる。
15世紀は、メディチ家の世紀である。フィレンツェのルネサンスは、1499年で終焉する。
フィレンツェのルネサンスが滅びたのは、何故か。
■ティツィアーノと皇帝カール5世、フェリペ2世 
ハプスブルグ家の宮廷伯爵
1488、ティツィアーノ、ピエヴィ・ディ・カドーレに生まれる。
ティツィアーノ・ベチェッリオ(1488—1576)は、ベッリーニの工房で学び、ジョルジョーネに学び、27歳で『フローラ』、50歳で最高傑作『ウルビーノのヴィーナス』を描き、88歳まで生きた。
1515、ティツィアーノ『フローラ』1515、内側から光るような肌の描写。27歳の作品。
1515年、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂、ティツィアーノの代表作、祭壇画『聖母被昇天』を描き始めた。非凡な色彩感覚に彩られた絵画。大規模な作品。
1538、ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』1538、50歳の作品。
ティツィアーノ『ダナエ』1544-46、ティツィアーノ58歳の作品。
ティツィアーノ『教皇パウルス3世』1543
ティツィアーノ、40代。ハプスブルグ家、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷伯爵、となる。黄金拍車の騎士の号を受ける。フェリペ2世の肖像画を描く。
ティツィアーノ、ヤコポ・ティントレットが弟子になるが、3日で破門した。才能を恐れたためである。しかし、パオロ・ヴェロネーゼは可愛がった。
ティツィアーノは、ミケランジェロの肉体表現に影響を受ける。
1545年、ティツィアーノ、ミケランジェロに会う。ミケランジェロが彼の作品を見たとき、色彩は美しいが、線描がないことを指摘した。*ヴァザーリ『藝術家列伝』
1548年、ティツィアーノ、カール5世にアウグスブルグで会う。後のフェリペ2世にミラノで会う。
1550年、ティツィアーノ、アウグスブルグでフェリペ2世に会う。
フェリペ2世のために、「ポエジーエ」(1550—1562)、オヴィディウス『変身物語』神話画を描き、スペインに送る。
*1550年、ティツィアーノ、アウグスブルグで、クラーナハに会う。
ルカス・クラーナハ(父1472~1553年)作『ティツィアーノの肖像』。★
1576ティツィアーノ、ペストに感染、88歳で死ぬ。
■ヴェネツィア年代記、ヴェネツィアの旅人
1477年、ジョルジョーネ生まれる。1510年死す。
1494年、アルブレヒト・デューラー、ヴェネツィアを訪問。第1回。
1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェネツィアに行き滞在する。*
レオナルドのスフマートとジョヴァンニ・ベッリーニの色彩が融合する。
1505年、アルブレヒト・デューラー、第2回ヴェネツィア訪問。
1528年、ミケランジェロ、ヴェネツィアに滞在。
     パオロ・ヴェロネーゼ、生まれる。1588死す。
1550年、ヴァザーリ『藝術家列伝』第一版、刊行。
1566年、ヴァザーリ、ヴェネツィア訪問。ティツィアーノに会う。
1568年、エル・グレコ、ヴェネツィア滞在。ヴァザーリ『藝術家列伝』第二版、刊行。
1585年3月23日(天正13年旧暦2月22日)天正遣欧使節、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
1585年、6月3日(天正13年旧暦5月6日)天正遣欧使節、ヤコポ・ティントレットの子、ドメニコ・ティントレットに会う。天正10年(1582)九州のキリシタン大名の名代として長崎を出航した天正遣欧使節。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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★主な展示作品
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「フローラ」1515、油彩、カンヴァス、ウフィツィ美術館
ティツィアーノ「ダナエ」1544-46、油彩、カンヴァス、カポディモンテ美術館
ティツィアーノ「教皇パウルス3世」1543 油彩、カンヴァス、カポディモンテ美術館
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「マグダラのマリア」1567年 油彩、カンヴァス、カポディモンテ美術館
ヤコポ・ティントレット「レダと白鳥」1551-54 油彩、カンヴァス、ウフィツィ美術館
ヤコポ・ティントレット「ディアナとエンディミオン(もしくはウェヌスとアドニス)」1543-44年 油彩、カンヴァス、ウフィツィ美術館
ポリドーロ・ダ・ランチャーノ「眠るウェヌスのいる風景」1565
パオロ・ヴェロネーゼ「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」1565
ジョヴァンニ・ベッリーニ「聖母子(フリッツォーニの聖母)」1470年、コッレール美術館
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★参考文献
宮下規久朗「ヴェネツィア 海の都の美をめぐる」芸術新潮2011年11月号、P56
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
https://t.co/FmdQyofuL9
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち、黄金の残照に輝く迷宮都市
https://t.co/7tXSdLCUfN
ヴェネツィア 迷宮都市 美への旅
https://t.co/hjc7vHF74b
ヴェネツィアの黄昏
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-363a.html
大久保正雄「イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」世界遺産アカデミー
https://t.co/yxlgRpwirV
https://t.co/lX5zZsb5PL
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これまでのティツィアーノとヴェネツィア派
「ウルビーノのヴィーナス 古代からルネサンス、美の女神の系譜」国立西洋美術館2008
「世界遺産ヴェネツィア展 魅惑の藝術、一千年の都」江戸東京博物館2011
「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」国立新美術館2016
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★「ティツィアーノとヴェネツィア派」東京都美術館 2017年1月21日~4月2日
http://titian2017.jp/

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2017年1月29日 (日)

才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず

Kano_eitoku_cypress_treesKanoueitoku_kachouzu才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず

織田信長は、旧制度(ancient regime)の矛盾を破壊するために、天下布武、楽市楽座、戦略をもって敵と戦った。安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。天下一の者をあらゆる領域で求めた。織田信長は、非凡を見つけ、活躍する場を与えた。画人、狩野永徳もその一人である。
織田信長は、人の才能をみぬき、地位につける最高の才能をもっていた。名伯楽である。*階級制を無視した尾張のうつけにしかできない最高の才である。甲冑でさえ、家格により制限されていた時代である。織田信長は、天下一の者をあらゆる領域で求めた。*「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」韓愈*。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
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*千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。(韓愈『雑説』四首・其四)
〔世に伯楽有り。然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇(た)だに奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)し、千里を以て称せられざるなり。・・・嗚呼、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。〕
いかに才能のある者も、才能を見抜く人(それを認めてくれる人)がいなければ、力を発揮できない。「伯楽」は、もともと星の名で、天上で馬の世話をするのが役目であったというが、転じて馬の素養を見分ける人をいうようになった。韓愈(七六八~八二四)は伯楽の喩えを「温処士の河陽軍に赴くを送る序」や「人の為に薦めを求むる書」にも用いており、自分の才能を認めぬ上流の人への憤懣をもらしている。
★三省堂『中国故事成語辞典』金岡照光編
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【韓愈の悲劇】
【韓愈】韓愈(768-824年)は、唐を代表する文人。官僚としては不遇であったが、詩人として名を残した。韓退之とも呼ばれる。唐宋八大家の一人で詩人として名高く、白居易と並び称された。生まれてすぐに母を、3歳の時に父を亡くし兄夫婦に育てられた。
【科挙3度落第】19歳の時に初めて科挙を受けたが落第。3度目まで失敗した。4度目、792年に25歳で進士に及第する。 監察御史となったが、京兆尹の李実を弾劾したことで広東省に左遷される。
唐【徳宗、順宗、憲宗】805年に徳宗が崩御して順宗が即位すると、大赦によって許される。順宗、病により退位、在位7ヵ月。805年8月、憲宗が即位する。
中央に復帰した後は中書舎人などを経て吏部侍郎となる。818年に仏教に傾倒していた憲宗が法門寺の仏舎利を長安の宮中に奉迎することを計画すると、「論仏骨表」を上奏して怒りを被り再び広東省に左遷された。
憲宗が崩御して穆宗が即位すると再び許され、兵部侍郎、吏部侍郎となって退官。間もなく死去。享年56歳。
【古文運動】9世紀初め、唐代に韓愈や柳宗元がおこした散文改革運動。六朝時代に対句や典故、平仄などを極端に重視する四六駢儷文が流行し、唐代にも引き継がれた。安史の乱(755‐763)によって貴族社会の基盤が大きく揺らぐとともに、この装飾的で内容の空疎な美文に対する反省の機運が高まった。特に科挙出身の新興官僚層が彼らの思想や主張を表現できる達意の文体を強く求め、その模範を司馬遷の『史記』や諸子百家の文章に見いだした。★(『世界大百科事典 第2版』)
韓愈は古文運動を推進して、対句や典故を多用して事実や論理よりも技巧や華麗さを追求する駢文を批判した。
【科挙】韓愈は3度目の落第の時には「今の世で才能があると呼ばれる人は、時勢に逆らうことなく権力者へ媚びを売る人達である。私も同じようにすれば出世することが出来るのかもしれないが、そんなことでは満足することはできない」と言った。尚、合格した4度目は、担当した試験官も美辞麗句を重視する駢文に疑問を持っていたので文体による影響を受けなかった。★ http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_ka/goi_ka_10.html
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★参考文献
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
https://t.co/FmdQyofuL9
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅
https://t.co/RggoniP3wD
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★狩野永徳『檜図」「花鳥図」
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

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2017年1月27日 (金)

織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える

Kinkakuji1397Nobunaga織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える

織田信長、5つの城
織田信長は、5つの城を移る。那古屋城、清州城、小牧山城、岐阜城、安土城。
安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。織田信長は、築城のために、天下一の者をあらゆる領域で求めた。
小牧山城の時、「天下布武」の印を使い始める。上洛を目標としていた。
碁盤の目のように広がる最先端の都市計画が盛り込まれ、紺屋町や鍛冶屋町などの通りの名前が記されている。*
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作った。銀閣寺「漱蘚亭」と同じ茶室があった。*
安土城、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ。
安土城天主は、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ。天主閣は、金閣寺「究竟頂」のような信長の館があった。*
「安土城天主閣」は織田信長によって築城され、大型の天守を初めて持った城である。明智光秀が山崎の戦いで討たれた後、天主閣は焼失した。天主は五重六階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角形、異様な風貌の天主。
金閣寺は、楼閣建築であり、初層、二層、三層それぞれに異なる様式を採用、初層は寝殿造風の「法水院」、二層は書院造風の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」である。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森、黄昏の神殿に行く。人は目覚める。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG

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2017年1月27日
★金閣、1397
★銀閣、1490
★織田信長、岐阜城、1567、天下布武、金華山、
★織田信長、安土城、1579、琵琶湖
★狩野永徳、檜図屏風、1590

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2017年1月24日 (火)

織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術

Kano_eitoku_cypress_treesKano_eitoku_1565織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
明晰透徹な武将、織田信長は、藝術を愛し、美的趣味に耽溺した。狩野永徳は、信長の安土城を、最高傑作で装飾した。
織田信長は、たぐい稀なる美的趣味に卓越した武将である。

織田信長と狩野永徳は、1574年ころから交流し始めた。『洛中洛外図屏風』を1574年上杉謙信に贈り、狩野永徳は安土城に障壁画(1576年—1579年)を描き、『安土城之図』(1581)を描いた。織田信長は、屏風をヴァリニャーノに与えた。織田信長は、天正十年1582年、48歳で死す。狩野永徳は天正18年1590年47歳で死す。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
1574【織田信長】将軍足利義輝が日本最高の絵師、狩野永徳に描かせ、永禄8年(1565)に完成。義輝没後に織田信長が入手して、1574年、上杉謙信へ贈った。
狩野永徳
天文12年1月13日(1543年2月16日)-天正18年9月14日(1590年10月12日))。安土桃山時代の絵師。狩野派の代表的な画人、日本美術史上もっとも著名な画人の一人。現存する代表作、『洛中洛外図屏風』1565、『唐獅子図屏風』1582、『聚光院障壁画』1583、『檜図屏風』1590。『洛外名所遊楽図屏風 四曲一双』天正4-7年(1576-1579年)、
弟の狩野宗秀に家屋敷を譲った後、安土城に障壁画を描き(『信長公記』)、天正11年(1583年)に大坂城、天正14年(1586年)に聚楽第の障壁画を担当する。足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、など天下人に仕える。
壮大雄大な障壁画が有名。人物画も描いた。細密画にも秀でたことは『洛中洛外図屏風』が示している。過労で心筋梗塞、47歳で死す。
安土城 天正4年—天正13年
儒教、道教、仏教の屏風画が描かれていた。
1576年(天正4年)1月、築城開始、1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城された。天守内部の宝塔、絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が見られる。
狩野永徳『安土城之図』天正9年(1581年)
天正九年、織田信長が安土を訪れた宣教師ヴァリニャーノに贈った。安土城下や京で展示され、後、天正遣欧使節の手によって渡欧。バチカンにてローマ教皇(グレゴリウス13世)に献納された。教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれる。現在、行方不明。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
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天正遣欧使節
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)からなる使節団。日本におけるキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的とした。しかし、旅立ちから8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった。
★泉秀樹「天正少年使節-信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯」
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10194-09.html
★幻の屏風絵「安土城之図」、バチカンに「痕跡」確認 朝日新聞2007年02月10日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200702100034.html
http://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12053828491.html
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小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
http://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html
安土城天主復元のために参考にされる史料
ルイス・フロイス『日本史』
太田牛一『安土日記』 信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を引用。
★狩野永徳「檜図屏風」1590年(天正18年)
狩野永徳「梅花禽鳥図」(四季花鳥図襖)1566年(永禄9年)
★狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
大久保正雄2017年1月24日

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2017年1月18日 (水)

孤高の画家、長谷川潔 大地の果てへの旅

Hasegawa_alexandre_19301951孤高の画家、長谷川潔 大地の果てへの旅
時の止まった静謐な空間。幻想的な典雅な世界。南欧の美しい風景。「黒には七色ある」と語る黒を極めた画家。
孫崎享氏の家でみた長谷川潔『森陰の道』(油彩)。昏い森陰の道のかなたに碧空がみえる。憂愁の彼方に理想がみえる。画家の心象風景。長谷川潔『ヴォルクスの村』油彩(1930)の時代の作品だろうか。この時代、画家はトレドに旅している。荒寥たる大地の果てになにをみたのか。岡鹿之助の静謐な美の世界を感じる。孤高の画家、孤高の旅人、長谷川潔。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-02f4.html
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長谷川 潔(1891年- 1980年)
1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加。表紙や口絵を木版画で製作。日夏耿之介、堀口大學の本の装幀も担当した。日夏耿之介『転身の頌歌』『黒衣聖母』『黄眠帖』3冊の詩集が限定330部で制作された(第一書房)。
後年、1925年、『月下の一群』(堀口大学訳詩集)表紙(1925 木口木版)、『日夏耿之介定本詩集』表紙・エキスリブリス(1925)が出版された。
1918年(大正7年)、銅版画技法習得のため渡仏。1919年4月4日にパリに到着するが、静養のため10月から南フランスに約三年間滞在。
1924年 デュフィの勧めで独立画家・版画家協会に入会。マニエール・ノワールを研究。
1926年 サロン・ドートンヌ版画部門の会員となる。
1934年「マルキシャンヌの村(東ピレネーの村)」(1934 ポアント・セーシュ)
1980年、89歳で死す。
★長谷川潔の油絵作品
1920年代後半から30年代にかけて制作された。
長谷川潔「マルキシャンヌ」油絵
http://nagai-garou.com/contents/3f/2928
長谷川潔、油彩画「修道院の古塔(ラグラス)
http://cardiac.exblog.jp/d2012-02-02/
長谷川潔、油彩「トレド」8号1929
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★長谷川潔、マニエール・ノワール
「アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船」1930
「摩天楼上空のポアン・ダンテロガシオン号」1930
★岡鹿之助『遊蝶花』1951
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『京都国立近代美術館所蔵[長谷川潔作品集]』光村推古書院2003
「生誕100年記念 長谷川潔展」京都国立近代美術館(1991
「生誕120年記念 長谷川潔展」横浜美術館2011年

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