栂尾山高山寺
私が高山寺を訪れたのは、高野山、東大寺真言院をたずねてからである。高野山は絶壁の山を攀じ登るような地にあるが、高山寺も険峻なところにある。
高雄山神護寺、栂尾山高山寺を、旅して、その厳しい石段を踏みしめてほしい。
栂尾山高山寺は、深い森の中にある。栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中にあり、平安時代には、近隣の高雄山寺の別院とされた。私は空海の足跡をたどる旅にでたとき、この寺を訪れた。高雄山寺は、険峻な山の上にあり、高山寺も森厳な森の中にある。
この地を訪れると、このような人里離れた、山間僻地に、なぜこのように高度な文化があったのかと問わざるをえない。
空海の時代、高山寺は高雄山寺の別院であり、高雄山寺本寺から離れた、密教修行僧の隠棲修行の場所であった。
平安末期、鎌倉初期は、二重権力の時代であり、都では九条家と後鳥羽上皇とが対立しながら文化を生み出していた。
華厳宗の僧、明恵(1173-1232)は建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。
境内には日本最古と伝えられる茶園がある。鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西が、中国の南宋において種を得て、帰国後に明恵に贈ったものと伝えられる。明恵はこれを初めは栂尾山に植えた。
この場所には13世紀、歴史上の重要人物が三人でてくるが、それと絵巻との関係はない。
いうまでもなく「鳥獣戯画」は、絵師が自分のために画いた絵ではない。『鳥獣戯画絵巻』、この絵の発注者はだれか。何のために注文したのか。だれが画いたのか。どのように楽しまれたのか。
鳥獣戯画は、名人と呼ばれる絵師たちを虜にした。狩野探幽、他、『鳥獣戯画絵巻』の模写は夥しく画かれたが、このような山奥にある作品とこれらの画家たちはいかにして出会ったのか。謎は、ますます深まるばかりである。
森の沈黙は深い。
絵画、美術作品は、藝術それ自体を目的として生みだされたものではない。すべて何かの目的のために作られたものである。たとえばレオナルドの『岩窟の聖母』は、「無原罪の御宿り教団」のために注文制作されたものである。教団の広報手段つまりプロパガンダの道具として制作された。数学、天文学、哲学、他のすべての学問も何かの目的のために作られたものである。それは人間の一部であって、全体ではない。
人は、藝術が生みだされた、その地に行ってその空間に佇むと、失われた時間が蘇る。時の片隅から、時を超えた普遍的なメッセージが語りかけてくる。藝術は異界への扉であり、通路である。
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