
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』 より
王羲之は、水の流れに盃を浮かべ、詩を吟ずる宴を催した。曲水流觴の宴である。永和九年(353)三月三日、暮春の初め、王羲之は会稽山陰の蘭亭に士人を招いて詩会を催した。せせらぎに浮かべた杯が流れ着く前に詩を賦し、詩ができなければ罰として酒を飲む、文人の雅宴である。三十六人が、詩を吟じた。
この詩集に叙した序文が王羲之「蘭亭序」である。
■数奇な運命をたどる名筆・・・太宗皇帝が愛するあまりあの世に持ち去る
王羲之(303~361)は東晋の武人で弁舌鮮やかな人であった。4世紀、魏晋南北朝時代である。この書は、その後、三百年の時を経て、唐の太宗皇帝が手に入れる。太宗皇帝(598~649)は、王羲之の書を愛するあまり墓に副葬させ、この世から消え去った。しかし、皇帝は生前著名な工匠に複製を作らせた。
★「神龍半印本」(八柱本、第三本)
その中で名品中の名品とされ、現存する作品中に筆跡の鮮やかさを凌ぐものはないと言われる「神龍半印本」(八柱本、第三本)がある。唐の第二代皇帝・太宗皇帝が搨書(とうしょ)の名人馮承素(ふうしょうそ)に書き写させたものと伝わる。清時代には乾隆帝が所蔵し、北京故宮で所蔵されている作品である。
「太宗皇帝之寶」という巨大な印鑑が押印されている。
荘重にして流麗な書は、千四百年の時の流れを超えて美しい。
■王羲之「蘭亭序」は史上最高の書として知られるが、その文章も名文である。
掉尾の一節を引用する。
昔の人が生死の際に感動したわけは、私のこころと割符を合わせたようにぴったりと一致している。昔の人が感慨を述べた文章に接すると、いまだ一度も嘆き悲しまないではいられず、その悲しみのわけを悟ることができなかった。もとより生と死を同一視することはいつわりであり、七百年も長生きをしたという彭祖(ほうそ)と、若死にした者とを同じに見るのはでたらめである。後世の人々が今の我々のことを見て感慨をおこすのは、今の我々が昔の詩文に接して心を動かすことと同じである。古今不変のその思いは、何と悲しいことであろうか。
そこでここに集った人々の名を列記し、彼らが述べた詩を書きとめておく。時世は変わり、事がらが異なっても、感動の源は同じである。後世、これを読む人も、またこれらの文に心を動かすことがあるであろう。(富田淳・訳)
■「神龍半印本」八柱本、第三本
史上空前の傑作書が来る
書の世界で古今、書聖として最も尊ばれてきた王羲之(おうぎし)。書を芸術の域に高めた人物として今日までその功績が伝えられてきました。本展では、その最高傑作として世に伝わる「蘭亭序」(らんていじょ)(八柱第三本)を含む国外不出の国宝の書13点と北京故宮博物院収蔵の書跡の名宝、計65点を紹介します。
「蘭亭序」とは、永和9年(353)3月3日、王羲之が会稽(かいけい)(現・浙江省紹興市)の景勝地、蘭亭で名士42人を招いて催した曲水の宴で詠まれた詩編に、みずからがしたためた序文です。今回出品の「蘭亭序」は、唐の太宗皇帝が搨書(とうしょ)の名人馮承素(ふうしょうそ)に書き写させたもので、清時代には乾隆帝も所蔵していた、現存する肉筆本では名品中の名品とされています。
日中平和友好条約が締結されて30年を迎える今年、中国から日本へと伝承された文字文化の神髄に触れる絶好の機会です。
――
書の聖人 王羲之
王羲之(生没年303~361年 異説あり)は東晋の時代に山東省臨沂(りんぎ)の貴族の名家に生まれ、成人して右軍将軍の職責に就いたことから王右軍と称されました。将軍職に就くころになると、硬骨漢としての気質を備え、飾り気のない堂々たる振る舞いが人々の敬愛を集めました。
王羲之は武人の才能に加えて文筆に優れ、楷書、行書、草書の三体を書き分け、歴史上初めて書を芸術の域に高めた人物として「書聖」(しょせい)とあがめられています。同時に王羲之は、東晋の人々の悲願である中原の地を奪還することができず、失意のうちに晩年を迎えるなど波乱の生涯を送り、書の名品と相まって数々の逸話と謎を残しています。
唐の第二代皇帝・太宗皇帝は、王羲之の書を崇拝し、広くその書を収集しました。最後は愛着の想いを断ち切れず、自らの墳墓「昭陵」(しょうりょう)に、集めた書を一緒に埋葬してしまいました。太宗皇帝をはじめ歴代の人物が王羲之の書を愛好した結果、皮肉なことに真跡が現存しておらず、臨書された作品にその筆跡をたどることができます。
宋の四大家-蔡襄、蘇軾黄庭堅、米ふつ 宋の時代に「大家」と謳われた四人の作品が今回そろって出品されます。蘇軾は政治的抗争に翻弄され挫折を経験する中で、人間味にあふれた作品を残しました。蘇軾と並び称せられる詩人、黄庭堅は禅を修め、ダイナミックな書の世界を確立しました。王羲之以来の書法を重んじた米ふつ は品格の高い書を残しています。蔡襄は実直な書法を得意としました。
激情を吐露した書-連綿草
明末から清時代の初めにかけ、文字間の切れ目なく書き連ねた草書文「連綿草」が誕生しました。激情を噴きだすように筆を走らせた作品群は迫力十分です。その書人に名を連ねる黄道周(こうどうしゅう)、げいげんろ (げいげんろ)、王鐸(おうたく)は、同じ年に上級官吏に合格した同期生でそれぞれの書の表現を追求しました。
揚州八怪-特異な作風の書画家たち
揚州(江蘇省)では塩の専売で富を得た商人が文化を庇護し、多くの文化人が集いました。当時の書風に迎合せず、特異な作風で異彩を放った金農(きんのう)、鄭燮(ていしょう)に代表される書画家八人は「揚州八怪」と通称され、一世を風靡しました。金農は、筆が震えるように書く独特の隷書様式「漆書(しつしょ)」を創作しました。
書表現の多様化-清時代の書-
青銅器や石碑が次々と発見された清時代は、書に新しい表現が生まれました。石碑の書を模範とする碑学派の書論を理想的な形で作品にした趙之謙(ちょうしけん)は、「北魏書」という表現を見出し、近代芸術としての書を開花させました。呉昌碩(ごしょうせき)はさらに時代をさかのぼり石鼓文の要素を取り入れた書風で一家を成し、詩・書・画・篆刻に精通した「四絶」と称賛されています。
「北京故宮 書の名宝展」江戸東京博物館、平成20年7月15日~平成20年9月15日.(主催・財団法人東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/
空海「風信帖」、藤原佐理「離洛状」
最近のコメント