「西洋絵画の父 ジョットとその遺産展」損保ジャパン東郷青児美術館・・・雪のアッシジの思い出
私がはじめてアッシジを旅したのは1998年秋である。この時、フィレンツェで目覚めるとトスカーナは吹雪で、アッシジは雪におおわれ、サン・フランチェスコ大聖堂は、厳粛な空気に包まれていた。下の院に行くと、サン・フランチェスコの遺体が安置されている空間がある。上の院にはジョットの壁画が壁面を埋めつくしている。
私は、プラトンの哲学を愛し、ギリシア美術を愛している。プラクシテレス『蜥蜴をころすアポロン』、レオカレス『ベルヴェデーレのアポロン』から、レオナルド『レダ』『ヨハネ』まで、なぜこれほどの時間を要したのか。
ギリシア彫刻の黄金時代、紀元前350年からジョットの時代まで1700年の歳月が流れた。さらにジョットからボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』まで、150年。これほどの歳月を必要とした原因は何なのか。
■「池上英洋教授:ジョットとその遺産展 ギャラリートーク」
池上氏の解説要旨は、以下のようなものである。
1、ジョットとジョッテスキ
2、旅する画家、ジョット
3、ジョットとチマブーエの対比
4、フレスコ画の技法について
5、キリスト教のシンボリズム
6、サン・フランチェスコ、没後2年の列聖
先生から「ジョットとチマブーエの対比」「ジョットとマザッチョの対比」この2つの対比から考えるようにという指示があった。
■ジョットとジョッテスキ:Giotto E I Giotteschi
この展覧会は、ジョットとその弟子たちジョッテスキ(Giotteschi)、と呼ばれるべきものである。弟子には、ダッディ、ガッディがいる。14 世紀フィレンツェのジョット派である。
ジョットの弟子の一人が、ベルナルド・ダッディ(Bernardo Daddi, 1280-1348)である。『携帯用三連祭壇画』Triptych (Bigallo)は、ジョットの重厚な画風に色彩を施し、甘美な趣を漂わせている。この作品の他、『磔刑図』が展示されている。
ジョットの弟子タッデオ・ガッディ(Taddeo Gaddi, 1300-1366)の子が、アーニョロ・ガッディである。アーニョロ・ガッディ(Agnolo Gaddi, 1350-1396)の作品は、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の聖歌隊席のフレスコ画、多翼祭壇画の「キリスト磔刑」(ウフィッツィ美術館)がある。ジョルジョ・ヴァザーリ『イタリアの至高なる画家・彫刻家・建築家列伝』の中に、アーニョロの伝記がある。
■旅する画家、ジョット
ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, 1267-1337)は、フィレンツェ生まれ。アッシジ、ローマ、リミニ、パドヴァ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェなど各地で制作している。弟子のダッディとガッディは同行したが、それぞれの場所で画家を集め工房を組織して制作した。各地の画家が参加しジョットの技法を学んだ。これによってルネサンスの先駆であるジョットの画法がイタリア各地に伝播した。
ダンテの『神曲』の一節「ジョットのためにチマブーエの名声が霞んでしまった」という言葉が引用されている。第一人者チマブーエの業績を超えたのがジョットである。
今回の屈指の作品であるジョット「聖母子」(聖セテファーノ・アル・ポンテ聖堂附属美術館蔵)をみると、膝の立体的な形、頬のふくらみが立体的に描写されている。これがジョット様式と呼ばれるものである。
池上氏がBruno Santi(前ウフィッツィ美術館長)から聞いた話によると、今回来日したジョット「聖母子」は、国外不出、3日前まで極秘とされた。極秘とされたのは2007年レオナルド「受胎告知」出国の時に起きた反対運動を避けるためである。多額の保険がかけられている。
■ジョットとチマブーエの対比
チマブーエは第一人者であったが、これを革新したのがジョットである。チマブーエの平面的な人物描写に対して、ジョットの様式は、立体的、写実的な描写、体の輪郭の柔軟さ、遠近法の空間の導入、感情表現、が特徴である。先生のレクチュアは、これをフレスコ画の技法をみることによって、ジョットの写実性を実証していた。
■フレスコ画の技法について
剥がされたフレスコ画から、フレスコ画の技法を垣間見ることができる。
今回展示されているジョットの「嘆きの聖母」(サンタ・クローチェ聖堂附属美術館蔵)の前で、フレスコ画制作についての説明を聞く。このフレスコ画は、1966年、フィレンツェのアルノ河の洪水で衣服の彩色が消失し、シノピア(下絵)の線だけが残っている。
フレスコ画は、砂と石灰を混ぜて作った漆喰で壁を塗り、その上に粉の顔料で絵を描く手法である。濡れた石灰の上に顔料を乗せて描けば、石灰水が顔料を覆って空気中の二酸化炭素と反応して透明な結晶になる。顔料はこの結晶に閉じ込められて美しさを保つ。耐久性は抜群で数千年間、保たれるという。
シノピア(sinopia)は、フレスコ画の下書きに用いられる赤褐色の顔料(酸化第二鉄)である。後でその上に描かれる画は乾かぬうちに急いで描かなければならない。シノピアの画の方の出来栄えが良いことが通例である。実例として、アッシジのサン・フランチェスコ、上の院(Basilica superiore)にあるJacobo Toritiが描いたDio Creatorの「イエス」のシノピアとフレスコの画像を比較して見ると、圧倒的にシノピアの方が優れている。
下層の淡彩画の影をつけることをグリザイユという。グリザイユ(grisaille)とはフランス語で無彩色の明暗だけで描いた絵の総称で油絵の下地として使われる技法。グリザイユは光がつくる影の部分をグレー調の濃淡だけで描き入れ、陽があたる明るい部分はグリザイユしないで地の色をハイライトとしてそのまま残すことで陰影のある絵にする事ができる。全体を明暗でとらえ最後に着彩するのでその後の作業が楽になり、全体としての纏まりもよくなる。
ジョルナータ(giornata)という用語についての説明があった。ジョルナータとは一日のという意味で、フレスコ画は漆喰が生乾きの時に描かなくてはならず、一日の面積をいう。ジョルナータの縁の重なりの上下を見ると描かれた順序がわかる。部分よって一日で出来る仕事の量はことなる。これを研究している学者がいる。学者は閑な商売だといわれる所以である。顔と手は多くの時間がかかることがこれによってわかる。ジョルナータの技法は、ジョットが創始したものである。
■キリスト教のシンボリズム
聖母、聖人のアトリビュートには、キリスト教のシンボリズムがある。
例えば、「赤いひわ」は、キリストの茨の冠の棘を抜いた時に、返り血を浴び赤い斑点が付いたと考えられ、受難の象徴とされた。
聖ニコラウスは手に「三つの玉」を持っている。持参金がない女は、娼婦とならざるをえない三姉妹を憐れみ、金の玉を与えたことによる。
■美術史における位置づけ
私は1998年にフィレンツェで、美術史家Marvin Eisenbergに会ったが、彼の専門はLate medieval art historyだと言っていた。ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco:1370-1425,Firenze)が専門である。(『祭壇画』Adoration of the Magi 1422 Tempera on wood, Galleria degli Uffizi, Florence、参照)
■「神の吟遊詩人」フランチェスコ・・・ばら色の夕暮れの町にて
聖フランチェスコ(1181-1226)が、13世紀のイタリア人に強い影響を与えた原因は、腐敗した教会のなかにあって、貧しく美しい生きかたを示したからである。
フランチェスコの詩『太陽の讃歌』(Cantico delle creature)に現れている心が自由なルネサンスの精神を呼び覚ましたのだろう。花咲き乱れるウンブリアの野、自由に心の翼を広げるイタリアの野の風景に、この詩は息づいている。
たたえられよ わが主 姉妹なる月と星によって
おん身は月と星を天にちりばめ
光も清かに 気高くうるわしく作られた 『太陽の讃歌』より
~ジョットからルネサンス初めまでのフィレンツェ絵画~
2008年9月13日~11月9日
損保ジャパン東郷青児美術館
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index2.html
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