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2010年5月

2010年5月31日 (月)

細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」

Hosokawa-2010
Hishidashunso-kurokineko
Biombo-suntory-2007
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より 
天下布武と黒き猫。八重桜が咲くころ前期展示をみて、新緑のなかで後期展示をみる。私が細川護煕氏に初めて会ったのは、1993年5月。細川護煕シンポジウムを上智大学で実施した。その夏、細川護煕氏は政権交代を成し遂げ、第79代首相に就任した。護煕氏は、祖父、細川護立から美術の手ほどきを受け薫陶を受けた。
【政権交代】細川護煕が1992年5月に突然1人で立ち上げた日本新党、結党から2カ月後の参院選の比例で360万票余の票を集め、細川や小池ら4人が議席を獲得して国政に躍り出た。93年7月の衆院選で、日本新党ブームはさらに拡大35議席を獲得。8党派連立の細川政権が成立。
細川家歴代当主のなかで特に、細川忠興(三斎)、忠利、重賢、そして護立の4人は、古今伝授、美術蒐集を行ってきた。織田信長書状から菱田春草まで、七百年にわたって継承されてきた厖大な武家の文化遺産と美術の展示である。
細川護煕氏「わたしは、人の集まるところに行くのが嫌だ。人の集まるところに行って話をするのはもっと嫌だ。結婚式や葬式には、妻の佳代子に行ってもらっている。普段は、湯河原の工房、不東庵に籠る。美術を鑑賞する方法は、祖父、護立から教えられた。美術館では、全体を一覧してから、自分の好みの作品を子細に見る」細川護煕、サントリー美術館「BIONBO 屏風、日本の美」2007にて。
織田信長、天下布武
長篠合戦(1575年)などの際に、織田信長が細川藤孝(幽斎)にあてた文書3通が、初公開されている。書状は1575年「織田信長黒印状 長岡兵部大輔宛 五月十五日」、1578年「三月四日 織田信長朱印状」、1581年「九月十日 織田信長朱印状」。信長の意向を秘書役の右筆、武井夕庵らが代筆したものとみられる。天下布武の印影が鮮やかである。
すべての既存の価値を否定し、中世の階級社会に挑んだ織田信長の革命的な精神を感じる。
【織田信長の右筆、武井夕庵】織田信長の初期の近臣(近習)、信長に仕えていた頃は60~70歳の老齢だった。信長に多くの諫言をした。美濃国守護、土岐氏に仕えていたが、斎藤道三がクーデタによって下剋上を果たすと斎藤家に仕える。永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いで信長に仕える。
【織田信長、稲葉山城の戦い】永禄10(1567)年8月14日、信長は城普請の分担を決め、城の周囲に鹿垣を作って閉じ込めた。美濃三人衆が挨拶に来て驚愕。8月15日、美濃が降参。龍興は舟で長良川を下り伊勢長島へ脱出。信長、地名を井口から岐阜に改める『信長公記』


菱田春草『黒き猫』(1910)
菱田春草は、16歳で結城正明に毛筆の手ほどきを受け、1891年東京美術学校に入学、岡倉天心に画才を認められる。明治31年1898年、岡倉天心の東京美術学校事件で学校に反旗を翻す、急進派として懲戒免職。菱田春草『王昭君』明冶35年(1902) は、悲劇の美女の姿、美しい魂を描く。漢の元帝が後宮の美女王昭君を匈奴の王に送る哀愁惜別の情景。菱田春草『水鏡』(1897)天人の衰えを水鏡に表現する。『落葉』1909は、秋の日の寂寞感、無常を感じる。猫図を約12枚、描く。菱田春草『黒き猫』(1910)は、『雨中美人』(1910)、六曲一双を描いていたが完成せず、代わりに黒き猫を出品した。翌年、38歳で死す。菱田春草(1874-1911)。
黒き猫は、38歳で病で亡くなった菱田春草の孤高な姿を思い浮かべる。菱田春草「黒き猫」「落葉」がとくに美麗である。何度みても美しい。空海が留学した青龍寺「如来坐像」は、八世紀の長安を思い起させる。

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細川藤孝、主君を変える。足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康
【運命の出会い。織田信長、足利義昭、明智光秀、細川藤孝】永禄11(1568)年、織田信長は、美濃の立政寺で足利義昭を迎える。義昭の側近、細川藤孝、明智光秀が対面を実現させた。義昭は光秀の勧めで信長とともに上洛を果たし室町幕府15代将軍に就任。藤孝は、長生きして、細川幽斎玄旨、1610年76歳で死す。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
【細川藤孝(幽斎)、明智光秀を裏切った「生き残りの達人」】戦国きっての文化人、和歌・連歌のみならず、源氏物語などの古典にも通じる。茶道・音曲・刀剣鑑定から料理まで極めた。武将としても有能。関ヶ原の戦いの折、西軍を2か月にわたって足止めした武勲は名高い、武人としも有能
明智光秀を裏切った「生き残りの達人」細川藤孝(幽斎)。主君を変え、戦国時代を生き抜く戦略家、3度の人生の転機。第一の選択 義昭は京都から追放。将軍義昭の家臣から織田信長の家臣へ。第二の選択 本能寺の変。名前を「幽斎玄旨」と改め、忠興に国を譲る。光秀を討つために播磨国加古川を渡る秀吉へ、藤孝の家臣、松井康之がはせ参じ。第三の選択 「関ヶ原の戦い」の前哨戦、丹後の田辺城(舞鶴城。
【豊臣秀吉、極度に淫蕩で、悪徳】「優秀な武将で戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。身長が低く醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」ルイス・フロイス『日本史』

細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
https://bit.ly/2Pjv8Kx
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細川元首相、出馬へ 来週、正式表明2014年1月10日
「東京都の猪瀬直樹前知事の辞職に伴う都知事選(23日告示、2月9日投開票)で、細川護煕元首相(75)が立候補を決断したことが10日午前、複数の関係者への取材で分かった。来週、正式表明する。
 細川氏は10日、周辺に「出馬を決断する状況になった」と語り、都知事選出馬に向けた準備作業を本格化させる決意を明らかにした。
 公約では「脱原発」や財政改革などを柱に訴える。細川氏は東日本大震災以降、脱原発の立場から発言を繰り返しており、年明けには、周辺に「東京都は東電の株式を多数保有している大株主だ。影響力は大きい」と話した。
孫崎 享 @magosaki_ukeru 2014年1月15日
最新号週間文春・週刊新潮:想像通り、両誌とも細川・小泉批判キャンペーンを行っている。娯楽誌がエンターメントの風を装いながら、政府・自民党広報の一翼、特に政敵の人物破壊の役割を担っていることを理解しておくべきだ。
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展示作品の一部
「黒き猫」菱田春草筆、1910(明治43)年、重要文化財
「落葉」菱田春草筆、1909(明治42)年、重要文化財
「髪」小林古径、1931、重要文化財
「女」下村観山、1915

「孔雀」小林古径、1934

「菩薩半跏思惟像」北魏時代、6世紀、重要文化財
「如来坐像」青龍寺、唐時代、7世紀~8世紀初、重要文化財
「菩薩立像」隋時代、6世紀末~7世紀初
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永青文庫は旧熊本藩主・細川家に伝来した文化財を後世に伝えるために、16代細川護立(もりたつ)によって昭和25年(1950)に設立されました。その所蔵品は、歌人・歌学者としても知られる近世細川家の祖・細川藤孝(ふじたか)<幽斎(ゆうさい)>の和歌資料や、利休の高弟としてその教えを後世に伝えた2代忠興(ただおき)<三斎(さんさい)>所有の茶道具、忠興の妻でキリシタンとしても知られるガラシャ遺愛の品々、さらには細川家の客分として、晩年を熊本でおくった宮本武蔵の絵画など、古文書類も含めると8万点を超える日本有数の文化財コレクションです。
本展前半では、激動の歴史を生き抜き、和歌、能、茶の湯などの文化を守り伝えた細川家に伝来する貴重な美術品や歴史資料を展示し、細川家の歴史と日本の伝統文化を紹介いたします。
また後半では、細川護立が収集した美術品の中から選りすぐりの名品を出品し、近代日本を代表する美術コレクターである護立の眼と人物像に迫ります。
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細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション、東京国立博物館
2010年4月20日(火)-6月6日(日)https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=677

京都国立博物館(10/8~11/23)
九州国立博物館(2011/1/1~3/4)

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2010年5月10日 (月)

レンピッカ展・・・アール・デコの美と退廃

2010030600001_5大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より 
四月の桜吹雪の夕暮れ、Bunkamuraに行く。
「アール・デコ展」でときどきみるが、彼女の作品を集中的にみることはまれな美術展である。アール・デコの時代に凝縮された彼女の絵画には異様な輝きがある。
娘キゼット、自分自身の分身である女たちを描いた肖像画の迫力は圧倒的である。
鋭く挑む目、官能的な眼差し、優雅と退廃、アール・デコの華麗と滅び。タマラ・ド・レンピッカの藝術の頂点は、1926年~33年まで7年間である。
みじかくも美しく燃えた7年の歳月。その後、彼女は、苦悩にみちた時代、最晩年の自己模倣の時代に到る。美しき女性画家の、美と苦悩の生涯をたどる展覧会。
美人画の展覧会に集まる女性は、美人が多い。
■展示作品
タマラ・ド・レンピッカ「初めて聖体を拝領する少女」1928年、ルーベ・アンドレ・ディリジャン芸術・工芸美術館
タマラ・ド・レンピッカ「ピンクの服を着たキゼット」1926年、ナント美術館
タマラ・ド・レンピッカ「摩天楼を背にした裸婦」1930年、NY、キャロライン・ヒルシュ
タマラ・ド・レンピッカ「緑の服の女」1930年、油彩・合板、ポンピドゥーセンター蔵
タマラ・ド・レンピッカ「タデウシュ・ド・レンピッキの肖像」1928年、油彩・キャンヴァス、1930年代美術館蔵
タマラ・ド・レンピッカ「マルジョリー・フェリーの肖像」1932年、油彩・キャンヴァス、個人蔵
タマラ・ド・レンピッカ「カラーの花束」1931年頃、油彩・板、個人蔵
■展示構成
プロローグ ルーツと修行
第1章:狂乱の時代(レ・ザネ・フォル)
第2章:危機の時代
第3章:新大陸
エピローグ 復活
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1920年代~30年代にかけてヨーロッパを席巻したアール・デコの時代を代表する女性画家タマラ・ド・レンピッカ(1898~1980年)。レンピッカは、ワルシャワの良家に生まれ、ロシアとスイスで思春期を過ごし、18歳で若い弁護士と結婚。しかし、翌年のロシア革命を機にパリへ亡命、時代に翻弄されながらも女性の自由な生き方を実践し、狂気の時代とも呼ばれた1920年代のパリで独特の作風により、画家として一躍注目されました。やがて第二次世界大戦の脅威の中、アメリカに逃れ、その後時代とともに次第に忘れられていきました。そして70年代に再評価され、1980年に 82歳でその劇的な人生を終えました。
本展はタマラ・ド・レンピッカの個性的な作品と、その波乱万丈な人生を、その時代背景とともに辿る。 Bunkamura HPより
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美しき挑発 レンピッカ展 本能に生きた伝説の画家
Bunkamura ザ・ミュージアム、2010年3月6日から5月9日まで
兵庫県立美術館、2010年5月18日(火)から7月25日(日)まで

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