細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
天下布武と黒き猫。八重桜が咲くころ前期展示をみて、新緑のなかで後期展示をみる。私が細川護煕氏に初めて会ったのは、1993年5月。細川護煕シンポジウムを上智大学で実施した。その夏、細川護煕氏は政権交代を成し遂げ、第79代首相に就任した。護煕氏は、祖父、細川護立から美術の手ほどきを受け薫陶を受けた。
【政権交代】細川護煕が1992年5月に突然1人で立ち上げた日本新党、結党から2カ月後の参院選の比例で360万票余の票を集め、細川や小池ら4人が議席を獲得して国政に躍り出た。93年7月の衆院選で、日本新党ブームはさらに拡大35議席を獲得。8党派連立の細川政権が成立。
細川家歴代当主のなかで特に、細川忠興(三斎)、忠利、重賢、そして護立の4人は、古今伝授、美術蒐集を行ってきた。織田信長書状から菱田春草まで、七百年にわたって継承されてきた厖大な武家の文化遺産と美術の展示である。
細川護煕氏「わたしは、人の集まるところに行くのが嫌だ。人の集まるところに行って話をするのはもっと嫌だ。結婚式や葬式には、妻の佳代子に行ってもらっている。普段は、湯河原の工房、不東庵に籠る。美術を鑑賞する方法は、祖父、護立から教えられた。美術館では、全体を一覧してから、自分の好みの作品を子細に見る」細川護煕、サントリー美術館「BIONBO 屏風、日本の美」2007にて。
織田信長、天下布武
長篠合戦(1575年)などの際に、織田信長が細川藤孝(幽斎)にあてた文書3通が、初公開されている。書状は1575年「織田信長黒印状 長岡兵部大輔宛 五月十五日」、1578年「三月四日 織田信長朱印状」、1581年「九月十日 織田信長朱印状」。信長の意向を秘書役の右筆、武井夕庵らが代筆したものとみられる。天下布武の印影が鮮やかである。
すべての既存の価値を否定し、中世の階級社会に挑んだ織田信長の革命的な精神を感じる。
【織田信長の右筆、武井夕庵】織田信長の初期の近臣(近習)、信長に仕えていた頃は60~70歳の老齢だった。信長に多くの諫言をした。美濃国守護、土岐氏に仕えていたが、斎藤道三がクーデタによって下剋上を果たすと斎藤家に仕える。永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いで信長に仕える。
【織田信長、稲葉山城の戦い】永禄10(1567)年8月14日、信長は城普請の分担を決め、城の周囲に鹿垣を作って閉じ込めた。美濃三人衆が挨拶に来て驚愕。8月15日、美濃が降参。龍興は舟で長良川を下り伊勢長島へ脱出。信長、地名を井口から岐阜に改める『信長公記』
菱田春草『黒き猫』(1910)
菱田春草は、16歳で結城正明に毛筆の手ほどきを受け、1891年東京美術学校に入学、岡倉天心に画才を認められる。明治31年1898年、岡倉天心の東京美術学校事件で学校に反旗を翻す、急進派として懲戒免職。菱田春草『王昭君』明冶35年(1902) は、悲劇の美女の姿、美しい魂を描く。漢の元帝が後宮の美女王昭君を匈奴の王に送る哀愁惜別の情景。菱田春草『水鏡』(1897)天人の衰えを水鏡に表現する。『落葉』1909は、秋の日の寂寞感、無常を感じる。猫図を約12枚、描く。菱田春草『黒き猫』(1910)は、『雨中美人』(1910)、六曲一双を描いていたが完成せず、代わりに黒き猫を出品した。翌年、38歳で死す。菱田春草(1874-1911)。
黒き猫は、38歳で病で亡くなった菱田春草の孤高な姿を思い浮かべる。菱田春草「黒き猫」「落葉」がとくに美麗である。何度みても美しい。空海が留学した青龍寺「如来坐像」は、八世紀の長安を思い起させる。
【運命の出会い。織田信長、足利義昭、明智光秀、細川藤孝】永禄11(1568)年、織田信長は、美濃の立政寺で足利義昭を迎える。義昭の側近、細川藤孝、明智光秀が対面を実現させた。義昭は光秀の勧めで信長とともに上洛を果たし室町幕府15代将軍に就任。藤孝は、長生きして、細川幽斎玄旨、1610年76歳で死す。
明智光秀を裏切った「生き残りの達人」細川藤孝(幽斎)。主君を変え、戦国時代を生き抜く戦略家、3度の人生の転機。第一の選択 義昭は京都から追放。将軍義昭の家臣から織田信長の家臣へ。第二の選択 本能寺の変。名前を「幽斎玄旨」と改め、忠興に国を譲る。光秀を討つために播磨国加古川を渡る秀吉へ、藤孝の家臣、松井康之がはせ参じ。第三の選択 「関ヶ原の戦い」の前哨戦、丹後の田辺城(舞鶴城。
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
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展示作品の一部
「黒き猫」菱田春草筆、1910(明治43)年、重要文化財
「落葉」菱田春草筆、1909(明治42)年、重要文化財
「髪」小林古径、1931、重要文化財
「女」下村観山、1915
「孔雀」小林古径、1934
「菩薩半跏思惟像」北魏時代、6世紀、重要文化財
「如来坐像」青龍寺、唐時代、7世紀~8世紀初、重要文化財
「菩薩立像」隋時代、6世紀末~7世紀初
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永青文庫は旧熊本藩主・細川家に伝来した文化財を後世に伝えるために、16代細川護立(もりたつ)によって昭和25年(1950)に設立されました。その所蔵品は、歌人・歌学者としても知られる近世細川家の祖・細川藤孝(ふじたか)<幽斎(ゆうさい)>の和歌資料や、利休の高弟としてその教えを後世に伝えた2代忠興(ただおき)<三斎(さんさい)>所有の茶道具、忠興の妻でキリシタンとしても知られるガラシャ遺愛の品々、さらには細川家の客分として、晩年を熊本でおくった宮本武蔵の絵画など、古文書類も含めると8万点を超える日本有数の文化財コレクションです。
本展前半では、激動の歴史を生き抜き、和歌、能、茶の湯などの文化を守り伝えた細川家に伝来する貴重な美術品や歴史資料を展示し、細川家の歴史と日本の伝統文化を紹介いたします。
また後半では、細川護立が収集した美術品の中から選りすぐりの名品を出品し、近代日本を代表する美術コレクターである護立の眼と人物像に迫ります。
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細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション、東京国立博物館
2010年4月20日(火)-6月6日(日)https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=677
京都国立博物館(10/8~11/23)
九州国立博物館(2011/1/1~3/4)
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