エドガー・ドガ『エトワール』、一瞬の中にある永遠の美・・・孤独な藝術家
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
秋の夕暮れ横浜に行くと、港から潮風が吹いてくる。10月8日金曜日ナイトミュージアム。内山淳子学芸員のギャラリーツアーをきく。
「踊り子の画家」と呼ばれるドガは、一瞬の動きのなかに美を追求した。
エドガー・ドガ(Edgar Degas:1834‐1917)は、1855年、エコール・デ・ボザールでアングル派の画家ルイ・ラモートに師事。精密なデッサンの線の技法で新古典主義の油彩から出発した。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究。1862年以後、モネの影響を受け印象派の手法を身につける。
1870年36才の時に目の異常に気づく。視力が衰え始め、視力の衰えに応じて、素材、絵画技法を変えて行く。衰えて行く肉体のように、儚い一瞬の動きをとどめるために、滅びやすいパステルを用いて「エトワールEtoire」(1876-77)を紙の上に画いた。彼の肉体が滅び行くにつれて、藝術は変容を始める。
「バレエの踊り子」と「浴女」を題材にした作品が多い。女たちの滅びゆく一瞬の動作を永遠にとどめる素描力に卓越している。
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孤独な藝術家、孤立。ドガ、83歳でパリに死す
エドガー・ドガ(1834‐1917)は、5人兄弟の長男、父親は銀行家、母が13歳の時に死ぬ。1853年パリ大学法律学科、入学。1855年、アングルに出会い、1856年から3年間イタリアに滞在。ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノ、ルネサンスの巨匠の絵画を模写する。1861年ノルマンディーの友人を訪ね馬の絵を描く。1864年、ドガは、マネやモネと知り合い、カフェ・ゲルボアに出没。パティニョール派と呼ばれる。1865年、サロンに出展、入選を果たす。ドガは、1874年バティニョール派の画家たちとともに「第1回印象派展」の開催に参加。発起人の一人。だが印象派を嫌い、印象派のなかで孤立。1886年「印象派展」、解散。1874年父親が死亡、弟レネの借金が発覚。弟のために絵を売る。1874年からの10年間に傑作を次々と生み出す。1912年、活動を休止。ドガは、孤独な藝術家、生涯未婚、パリを彷徨い、83歳まで生きる。
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展示作品の一部
「バレエの授業」(1873-76)
「エトワール」(1876-77)
「緑の部屋の踊り子たち」
「浴盤 湯浴みする女」
「身体を拭く裸婦」
「舞台の袖の踊り子」
「マネとマネ夫人像」
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冷静さと機知をあわせ持ち、客観的な視点で近代都市パリの情景を描き残したエドガー・ドガ(1834-1917)。
ドガは、印象派展に第1回から出品し、そのグループの中心的な存在でした。しかし、屋外で光と色彩に満ちた風景画を描いた多くの印象派の画家たちとは異なり、主にアトリエの中で制作し、踊り子や馬の一瞬の動きや都市の人工的な光をテーマとして、知的で詩情あふれる世界を築きました。油彩の他、パステル、版画、彫刻など様々な技法を研究し新しい表現を試みると同時に、日本美術や写真など、当時紹介されたばかりの美術の要素を取り入れ、近代絵画の可能性を大きく切り開いた画家といえるでしょう。
このたび、オルセー美術館の全面的な協力を得て、国内では21年ぶりとなるドガの回顧展が実現することとなりました。オルセー美術館所蔵のドガの名品45点に、国内外のコレクションから選りすぐった貴重な作品を加え、初期から晩年にわたる約120点を展観いたします。生涯を通じ新たな芸術の可能性に挑戦しつづけた画家ドガの、尽きぬ魅力を堪能できる展覧会です。
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ドガ展、横浜美術館、2010年9月18日から12月31日
http://www.degas2010.com/
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