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2013年12月27日 (金)

下村観山展、横浜美術館・・・紅葉舞う奥山

20131207紅葉舞い木枯し吹く道を歩いて、美術館に行く。港から吹く風が冷たい。
下村観山『小倉山』屏風は、秋の奥山に鹿が鳴く余情妖艶を感じる。古今集の歌を思い出す。「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『猿丸大夫集』、詠み人しらず『古今集』秋上215)。観山は、狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、東西の画技を極めてこの絵を描いた。奥深い優美な世界を構築している。日本美術院100年展(東京国立博物館1998)で見たとき、この絵に感動した。
下村観山『小倉山』は、『小倉百人一首』に収められている藤原忠平の和歌をテーマに描いた。だが、私は藤原定家をイメージする。藤原定家は、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。嵯峨山荘、時雨亭とも呼ばれる。常寂光寺、二尊院、厭離庵は定家の山荘址と伝わっている。
下村観山は、25歳の時「美校事件」で辞任した岡倉天心に殉じて、教授を辞任。30歳から32歳(1903-05)の時、ロンドンに留学し、イタリア・ルネサンス美術に深く魅了された。
*注 1898年、岡倉天心は九鬼隆一に抗議して帝国博物館美術部長・東京美術学校校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任する者、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名に及んだ。天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設した。天心36歳の時である。
展示作品
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
下村観山『小倉山』墨画 東京藝術大学蔵
『白狐』日本美術院の第1回再興院展の出品作
『月下弾琴』
『酔李白』
『帰去来』
『隠士』
『大原御幸』戸村美術
『魚藍観音』
『木の間の秋』東京国立近代美術館
『春秋鹿図』
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下村観山(明治6年1873~昭和5年1930)は、紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれた。幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦に師事して狩野派の描法を身につけ、明治22年(1889)に東京美術学校に第一期生として入学し、横山大観や菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受けた。卒業後は同校の助教授となるが、天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画し、その後は日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くしたことで知られる。大正2年(1913)には実業家・原三溪の招きにより、横浜の本牧に終の棲家を構えた、本市ゆかりの画家でもある。
狩野派の厳格な様式に基礎を置きながら、やまと絵の流麗な線描と色彩を熱心に研究し、さらにイギリス留学および欧州巡見による西洋画研究の成果を加味し、気品ある独自の穏やかな画風を確立した観山。本展では生誕140年を記念し、十代の狩野派修行期から、円熟した画技を示した再興日本美術院時代まで、代表作を含む約140件(展示替えあり)により、画業の全容を紹介する。
http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition_web/100/
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岡倉天心生誕150年・没後100年記念 
生誕140年記念「下村観山展」横浜美術館
2013/12/06 - 2014年2月11日

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