« 大久保正雄 著作目録 6 美学・美術史編 | トップページ | 2014年 美術展ベストテン・・・幻の美の国への旅 »

2014年4月26日 (土)

「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人

20140325

大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
天下人は、なぜ茶を好むのか。
【織田信長、天下布武、茶会】織田信長は、天下布武(1567年(永禄10年)から、戦いと茶会を展開した。織田信長の茶会は、信長が入京した永禄十一年(1568年)から安土城が出来る天正四年(1576年)まで、臨済宗、東福寺、相国寺、あるいは法華宗、妙覚寺、本能寺の大寺院で催された。信長の茶会は、「天目台」に茶碗を載せて出す格式の高い作法。
【織田信長、価値観の創造】織田信長は、接客手段としての楽しみや道楽であった茶の湯を、独自の感覚で政治に用い、天下一の名器とされる茶道具を、土地や金銭に代わる新たな基準、価値観として創造した。
織田有楽斎は、殺戮に明け暮れる戦国時代、本能寺の変、関ヶ原の戦いを生き抜き、建仁寺正伝院如庵を創設、76歳まで生きた趣味人である。
■空海と嵯峨天皇は、香茶を酌み交わした。「海公と茶を飲みて山に帰るを送る」嵯峨天皇詠
嵯峨天皇と空海は秋の一日、大沢池に舟を浮かべ、茶を汲み交わし逍遥、夕方、空海が山に帰るにあたり、嵯峨天皇が詠まれた詩が『経国集』巻十にある。
与海公飲茶送帰山一首 嵯峨天皇
道俗相分経数年  今秋晤語亦良縁
香茶酌罷日云暮  稽首傷離望雲煙
海公〔空海〕とともに茶を飲み、山に帰するを送る一首
道俗(どうぞく)相分かれて数年を経たり 今秋晤語(ごご)するも亦(また)良縁なり。
香茶酌み罷(やす)みて日云(ここ)に暮れる 稽首(けいしゅ)して離(わか)れを傷み雲煙を望む。
嵯峨天皇は、平城太上天皇の変(薬子の変、810年)、「二所朝廷」の事態を、兵を出して勝利した。この時、空海は嵯峨帝を助けた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
――
栄西
抹茶を用いた喫茶法の中国から日本への伝来は、日本で最初の茶書である『喫茶養生記』を著した栄西によるとされる。建仁寺に、開山栄西の生誕を祝し、毎年4月20日に設けられる「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」が伝わる。
栄西(1141‐1215)は、臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。建仁2年(1202年)源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行した。
織田有樂齋如庵
織田有樂齋。織田信長の弟。信秀の十三人の子の中で十一人は戦死、不慮の死を遂げる。信包、長益の二人だけ天寿を全うした。戦国の殺戮の時代、本能寺の変、関ヶ原の戦いを生き抜き、76歳まで生き残った趣味人。
織田長益(1547‐1622)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益は織田家嫡流初代、織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(有樂齋如庵)と号し、後世は有楽、有楽斎と称される。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人に数えられる。後に自ら茶道有楽流を創始。京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
本能寺の変(1582年6月21日、天正10年6月2日)の時は、二条御所にいたが、信長の嫡男信忠自刃をみて、城を脱出、近江安土を経て岐阜へ逃れた。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にある。関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日、西暦1600年10月21日)後、有楽斎は大和国内で3万2,000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念、趣味に生きた。元和元年(1615年)有楽斎本人は隠居。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。
小野篁
小野篁(802‐853) 小野篁は平安時代前期の役人であり学者であり歌人である。嵯峨、淳和、仁明三代の天皇に仕えた。宮廷に役人として仕えながら、夜は京都六道珍皇寺の裏手にある井戸から冥途世界に下り、閻魔大王に仕ていた。六道珍皇寺。この世と冥府の堺であるという「六道の辻」のすぐそばにある。平安時代、この近くには「鳥辺野」とよばれる埋葬地があった。珍皇寺、小野篁卿旧跡、篁の亡霊が、珍皇寺門前の六道の辻からに冥府に通ったという伝説がある。
「小野篁・冥官・獄卒立像」院達作、江戸時代17世紀、六道珍皇寺蔵
――
展示作品の一部
建仁寺方丈「四頭茶会」の空間 方丈の正面中央に栄西像と龍虎図を掛け、卓の上に香炉・花瓶・燭台を飾り、栄西に献茶したのち4人の正客と相伴各8人(計36人)に茶を供します。予め抹茶を入れて天目台にのせた茶碗を客にささげ持たせ、そこに4人の法衣をつけた供給(くきゅう)僧が正客から順次、浄瓶(じんびん)の湯を投じて点茶してまわります。
「国宝 風神雷神図屏風」俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 京都・建仁寺蔵
重要文化財「雲龍図」海北友松筆 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・建仁寺蔵
重要文化財「竹林七賢図」海北友松筆 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・建仁寺蔵
竹林に世事を逃れ、清談を事とした中国の七人の賢人が略筆で描かれている。老松と竹をわずかに描いた背景は、霧に満ちた深い空間をなし、「袋人物」と称される略筆の人物描写は、友松画の筆力と豊潤さを余すところなく伝えている。
重要文化財「琴棋書画図」海北友松筆 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・建仁寺蔵
「雪梅雄鶏図」伊藤若冲筆 江戸時代・18世紀 京都・両足院蔵
「山水図」曽我蕭白筆 2幅 江戸時代・18世紀 京都・久昌院
「織田有楽斎坐像」1躯 江戸時代・17世紀 京都・正伝永源院   
「織田有楽斎像 古澗慈稽賛」狩野山楽筆 1幅 江戸時代・元和8年(1622)京都・正伝永源院
「小野篁・冥官・獄卒立像」院達作、江戸時代17世紀、六道珍皇寺蔵
――
参考文献

禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人

――
展示構成
第一章 栄西の足跡
第二章 建仁寺ゆかりの僧たち
第三章 近世の建仁寺
第四章 建仁寺ゆかりの名宝
――
2014年は、日本に禅宗(臨済宗)を広め、京都最古の禅寺「建仁寺」を開創した栄西禅師(ようさいぜんじ、1141~1215)の800年遠忌にあたります。これにあわせ、栄西ならびに建仁寺にゆかりの宝物を一堂に集めた展覧会を開催します。
本展は、近年研究の進んでいる栄西の著述のほか、建仁寺に関わりのある禅僧の活動を通して、栄西の伝えようとしたもの、そして建仁寺が日本文化の発展に果たした役割を検証しようとするものです。俵屋宗達の最高傑作、国宝「風神雷神図屏風」を筆頭に、海北友松筆の重文「雲龍図」など建仁寺本坊方丈障壁画、山内の塔頭に伝わる工芸や絵画の名品、栄西をはじめとした建仁寺歴代の書蹟はもちろん、全国の建仁寺派の寺院などが所蔵する宝物を展示します。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
――
★ 開山・栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」東京国立博物館
2014年3月25日(火) ~ 2014年5月18日(日)

|

« 大久保正雄 著作目録 6 美学・美術史編 | トップページ | 2014年 美術展ベストテン・・・幻の美の国への旅 »

仏教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人:

« 大久保正雄 著作目録 6 美学・美術史編 | トップページ | 2014年 美術展ベストテン・・・幻の美の国への旅 »