織田信長 安土城、琵琶湖のほとりに聳える、築城した3つの城・・・『戦う知識人の精神史』
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
織田信長、5つの城
織田信長は、5つの城を移る。那古屋城、清州城、小牧山城、岐阜城、安土城。織田信長は、3つの城を築城した。小牧山城、岐阜城、安土城。
安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。織田信長は、築城のために、天下一の者をあらゆる領域で求めた。
【小牧山城】
上洛を目標としていた。碁盤の目のように広がる最先端の都市計画が盛り込まれ、紺屋町や鍛冶屋町などの通りの名前が記されている。*
【岐阜城、天下布武】
金華山の山頂に立つ岐阜城を拠点に天下統一を目指した織田信長はこの地で様々な改革を行った。一、当時「井ノ口」と呼ばれていたこの地を「岐阜」と改めた。二、商業を活性化「楽市楽座」と武士と農民を身分的に切り離した「兵農分離」。市場がある城下町に人を住まわせ、まちを作り上げる。三、「天下布武」の印を使い始めた。
永禄10( 1567)年11月から中国の教えを引用した「天下布武」の印を使い始める。「七徳の武を備えた者が天下を治める」。
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作った。銀閣寺「漱蘚亭」と同じ茶室があった。*
【安土城、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ】
安土城天主は、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ。天主閣は、金閣寺「究竟頂」のような信長の館があった。*
「安土城天主閣」は織田信長によって築城され、大型の天守を初めて持った城である。明智光秀が山崎の戦いで討たれた後、天主閣は焼失した。天主は五重六階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角形、異様な風貌の天主。
金閣寺は、楼閣建築であり、初層、二層、三層それぞれに異なる様式を採用、初層は寝殿造風の「法水院」、二層は書院造風の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」である。
――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森、黄昏の神殿に行く。人は目覚める。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
―――――
★楼閣建築
金閣、1397 室町幕府3代将軍・足利義満は1397年(応永4年)、北山山荘(金閣)を建立し、 絶頂期を迎える。
銀閣、1490 文明17年(1485)義政は出家、翌年には、義政の持仏堂「東求堂」が完成、「銀閣」として広く知られる「観音殿」の完成を見ることなく、延徳2年(1490)55歳で 亡くなる。
織田信長、小牧山城、永禄6(1563年)
織田信長、岐阜城、永禄10(1567)、天下布武、金華山、
織田信長、安土城、天正7(1579)、琵琶湖
★狩野永徳「洛中洛外図屏風」、天正2年(1574年)、織田信長から上杉謙信へ贈られた。
狩野永徳「聚光院障壁画」永禄9年(1566年)、24歳の若書きの作。
狩野永徳は安土城に障壁画(1576年-1579年)を描き、 織田信長は、天正十年1582年、48歳で死す。
「安土城之図屏風」1581、狩野永徳「檜図屏風」1590。狩野永徳は、天正18年1590、47歳で死亡。
「安土城之図屏風」天正9年(1581)、安土城を訪問したイエズス会東インド巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノに信長が贈り、ヴァリャーノ神父と天正少年使節によって ローマ教皇グレゴリウス13世に献上された。
2017年1月27日
| 固定リンク
「織田信長」カテゴリの記事
- 「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」元亀3年、細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛(2024.11.03)
- 大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず(2024.02.29)
- どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族(2023.05.01)
- 織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐(2022.04.18)
- 織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐(2022.03.12)
コメント