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2018年8月 5日 (日)

「没後50年 藤田嗣治展」・・・乳白色の肌の裸婦、苦難の道を歩いた画家

Fujita2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第153回
灼熱の夏の午後、森陰の道を歩いて美術館に行く。面相筆の細密画、乳白色の肌の画家の旅を想う。
旅する画家、藤田嗣治。藤田嗣治は、1913年27歳でパリに旅立つ。1920年代、モンパルナスで活躍する。1930年代、中南米・アジア・日本へ旅する。1949年、日本を去る。絶望の離日。63歳でニューヨークへ旅立つ。1950年パリに帰還。藤田、ヴィリエ・ル・バクルに住む。【藤田嗣治 最後の旅】帰る国を失った画家。最後の作品、ランスの『平和の聖母礼拝堂』1966-67。「それは後世に残るもの。私が生きたことの思い出として残したいと願う永遠の作品なのです。私の仕事のすべてを天にささげます。それが私の喜びなのです」
【藤田嗣治 NYの旅】藤田嗣治『カフェ』 1949 は、ニューヨークにて「パリのカフェにて便箋を置いたまま物思いにふける。パリを想う藤田自身の姿」。『美しいスペイン女』1949、NYにてレオナルド『モナリザ』を想起する画家。パリに想いを馳せる。藤田嗣治の運命の時は、4つの時があった。1918年、1923年、1949年、1966年。
『二人の少女』1918、『五人の裸婦』1923、『自画像』1929、『争闘 猫』1940、藤田嗣治『カフェにて』( 1949 )。**
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
大久保正雄『藝術家と運命の戦い 運命の女』
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【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、苦難の道を歩いた画家】
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、32歳にして様式確立。黄金時代1918-1929 81歳で死す】
藤田嗣治(1886-1968)。1905年に19歳で東京美術学校西洋画科に入学する。が、黒田清輝らの勢力に合わなかった。
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、藝術家の運命】
1913年(大正2年)に渡仏、パリのモンパルナスに住む。エコール・ド・パリの画家たちと交友する。シャガール、モディリアーニ、ジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイーズ・キスリング。第一次大戦1914-18。戦時下のパリで、絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖をとる。
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦 藝術家の運命】
1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚。初めて絵が売れる。7フラン。シェロン画廊で最初の個展。絵も高値で売れるようになる。1918年、第1次大戦、終戦。面相筆による線描を生かした技法による、透きとおる画風を、このとき確立。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される。急速に藤田の名声は高まる。
【藤田嗣治 中南米、日本への旅 苦難の道を歩いた画家】
1933年、南アメリカの旅から日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911-2009)と出会い、一目惚れ。翌年5度目の結婚。終生連れ添う。『争闘 猫』1940。日本において陸軍美術協会理事長に就任。『アッツ島玉砕』(1943)などを描く。戦後、戦争責任を追及され藤田一人だけを追放。63歳で1949年日本を去る。絶望の離日。祖国で正当な評価を得られない失意の日々。「絵描きは絵だけを描いて下さい。仲間げんかをしないでください。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」藤田
【藤田嗣治 日本を去りNYに行く、苦難の道を歩いた画家】
1949年日本を去る。63歳、ニューヨークに行く。『カフェ』『美しいスペイン女』。まだ入国を許されないパリを想う。
1950年、フランス入国許可が下り、ニューヨークからパリに行く。
1955年にフランス国籍を取得、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章、受章。1959年73歳で、カトリックに改宗。レオナール・フジタと名付けられる。
【藤田嗣治 苦難の道を歩いた画家、最後の旅】
1965年、79歳でランスの礼拝堂の建設に着手。マルヌ県ランスにあるマム*の敷地内に『平和の聖母礼拝堂』「フジタ礼拝堂」1966の設計、内装デザイン。80歳で90日間、漆喰に描く、フレスコ画。完成2か月後、倒れる。「私の仕事のすべてを天にささげます」1968年1月29日にスイス、チューリヒにて死す。81歳。
【フレスコ画】漆喰が乾かぬ間に、インスピレーションのまま描くスピード。命を懸けて描いたフレスコ画。受胎告知に始まる『キリストの受難』キリストの生誕、洗礼、十字架への道、磔、キリスト降架、から復活まで。祭壇画の祈る人々の手に仏像の祈りの手を描く。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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藤田嗣治、代表作
藤田嗣治『私の部屋、目ざまし時計のある生物』1921、『ジュイ布のある裸婦』1922、『五人の裸婦』1923、『舞踏会の前』1925、『自画像』1929、『争闘 猫』1940、『私の夢』1947、『カフェにて』( 1949 )、『美しいスペイン女』( 1949 ) 豊田市美術館蔵
藤田嗣治『花の洗礼』(1959)、『礼拝』(1962-63 )パリ市立近代美術館蔵、『タピスリーの裸婦』1923年 京都国立近代美術館蔵
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*「(藤田は)面倒見が良く人懐っこい。‟孤高の画家“ではありませんでした」高階秀爾
*「ノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂」
*シャンパン・メーカー、マムの社長ルネ・ラルー(René Lalou)。
レオナール=フジタと最後の妻君代はここに埋葬されている。
**林洋子「藤田の4つの年、1918、1923、1940、1949」2018.7.30
「美の巨人たち、レオナール・フジタ『平和の聖母礼拝堂』」2008.12.27
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参考文献
「生誕120年 藤田嗣治展-パリを魅了した異邦人-」東京国立近代美術館、2006年3.28-5.21
「没後40年レオナール・フジタ展」、上野の森美術館・・・魂の昇華
https://bit.ly/2LqLRbw
『没後50年 藤田嗣治展』図録、2018
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大久保正雄『藝術家と運命の戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
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★「没後50年 藤田嗣治展」東京都美術館、7月31日-10月8日
京都国立近代美術館、10月19日-12月16日

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上野 chariot 東京都美術館では「没後50年 藤田嗣治展」が開かれています。 会期は10月8日(月・祝)までです。 エコール・ド・パリを代表する画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)の 没後50年を記念する回顧展で、約120点が展示されています。 会期中、一部展示替があります。 「父の像」 1909年 東京藝術大学 東京美術学校(現在の...... [続きを読む]

受信: 2018年8月21日 (火) 22時27分

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