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2018年8月12日 (日)

権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚

David_napoleon_crossing_the_alps__2大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第154回
権力に抗して、知と戦略によって、思想家は戦う。理念を追求して戦う思想家は、天の仕事を成し遂げる。戦略家は、権力者の意志を乗り越えて、理念を追求する。『戦う知識人の精神史』。戦略の天才は、書物の中に何を学んだのか。【ナポレオン1769-1821】ナポレオンは、孫武『孫子』プルタルコス『英雄伝』を愛読した。ナポレオンは『孫子』虚実篇から「無勢で多勢に勝つ方法」を学んだ。兵力集中による敵の各個撃破の戦術を実行した。織田信長、桶狭間の戦術である。
百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。『謀攻篇』
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇「敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。このことほど優れた資質を要求される能力はない。」マキャベリ「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
史上最高の指揮官、テミストクレス、アレクサンドロス大王の戦いが、プルタルコス『英雄伝』に刻まれている。
怨念の歴史家、司馬遷は、『史記』の中に、思想家の運命との戦いを書いた。『孔子世家』『孫子呉起列伝』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保 正雄『旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
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司馬遷『孫子呉起列伝』より
1、春秋時代(紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年まで)
春秋の五覇、下剋上の時代
1、戦わずして勝つ。『孫子』「謀攻篇」
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】呉王、闔閭「先生の著作十三篇はすべて読んだが、宮中の婦人で少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか」孫武はこれを了承した。孫武は宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし、武器を持たせて整列させ、王の寵姫二人を各隊の隊長に任命した。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】太鼓の合図で左右を向くように命令して「右」と太鼓を打つと、女性たちは笑った。孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」、命令を何度も繰り返した後に「左」と太鼓を打つと、また女性たちは笑った。孫武は「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の二人を斬首しようとした。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】壇上で見ていた闔閭は驚き「将軍の腕は既によくわかった。余はその二人がいないと飯もうまくないので、斬るのはやめてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる」と闔閭の寵姫を二人とも斬った。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。
【『孫子』孫武 孫子姫兵を勒す】孫武は「兵は既に整った。降りてきて見ていただきたい。水火の中へもゆくだろう」と言った。闔閭は甚だ不興で「将軍はそろそろ帰られるがよい、余はそこに行きたくはない」。孫武は「王は言を好まれても、実践はできない」と答えた。しかし以後、闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じた。
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2、戦国時代(紀元前771-221年)
【戦国の世を渡り歩く戦略家、呉起】魏の文侯のまわりに集まった逸材、呉起(BC381没)。衛の出身の呉起は、魯に仕えて軍功をあげるが排斥されて、魏の文侯に身を寄せる。文侯は快く受け入れ、魏の将軍として秦と戦い、五城(五つの城市)を陥落させ大活躍するが、
【戦国の世を渡り歩く戦略家、呉起(BC381没)】文侯の死後、武侯も呉起を重用するが、武侯の宰相・公叔に嫌われ、身の危険を感じ、南の大国、楚に向かう。楚の掉王は宰相に任命する。富国強兵策で楚は繁栄するが、掉王の死後、王族、重臣がクーデタを起す。魯、魏、楚、三つの国を渡り歩く。司馬遷『孫子呉起列伝』
【『孫子』孫臏の復讐】同学の徒、囲魏救趙の計、馬陵の戦い、龐涓の反撃、増兵減竈の計「龐涓この樹の下にて死す」孫子の兵法が用いられた代表的な戦い。孫臏を軍師とした斉軍が、龐涓を将軍とする魏軍に勝利した。
【『孫子』孫臏の復讐 紀元前341年馬陵の戦い】孫臏と龐涓 若い頃、孫臏と龐涓は、共に同じ学問の師の下で兵法を学んだ。孫臏の方が常に勝っていたので、自分の資質が及ばない事を悟らされた龐涓は、孫臏と友誼を結びながらも、その裏で激しい嫉妬心を燃やした。
【『孫子』孫臏の復讐】師から皆伝を受けた後の孫臏は斉に仕え、龐涓は魏に仕えて一足先に将軍へと出世。龐涓は、自分より優秀な孫臏が強敵になることを恐れ罠を仕掛けて魏に呼び寄せ、罪に陥れて両足切断の刑に処し、入墨を施して軟禁。幸い孫臏は魏を訪れた斉の使者と出会い、ひそかに帰国する。
【『孫子』孫臏の復讐】帰国後、孫臏は斉の威王に抜群の戦略的才能を評価され軍師となる。孫臏は龐涓の率いる魏軍を翻弄し、紀元前341年馬陵の戦いで魏軍を殲滅、龐涓を死に至らしめる。発端は、魏趙の連合軍が韓を攻撃したことにある。追いつめられた韓から救援要請を受けた斉は、将軍田忌と軍師孫臏に軍勢を率いさせ、韓ではなく魏に向かわせた。龐涓の率いる魏軍はただちに本国に帰り、斉軍を追跡する。
【『孫子』孫臏の復讐】孫臏は「減竈(げんそう)の計」を用い、自軍から逃亡者が出たように装い、この計略にかかり、龐涓はの魏軍は歩兵を棄て少数精鋭の騎兵を率いて追撃する。
【『孫子』孫臏の復讐】すべてを見透した孫臏は、龐涓の工程を緻密に計算して、馬陵の要害に伏兵を配置して、大樹の幹を削って「龐涓この樹の下にて死す」と記し到着を待つ龐涓がその夜、大樹の下に到着しその文字を見た瞬間、斉の伏兵がいっせいに弓を放ち、魏の軍隊は大混乱に陥る。龐涓は「ついに竪子の名を成さしむ」と言い放ち自刎した。孫臏の凄絶な復讐である。井波律子『故事成句でたどる中国史』
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3、諸子百家
【諸子百家】戦国時代(紀元前771‐221年)。斉の威王、宣王、襄王(BC4C)は、学問を愛好し学者を招き、臨淄の都城の稷門に参集した文学の士に豪華な学者村を作り、仕官を条件とせず自由に討議をさせる。この稷下の学士には、孫臏、騶衍、孟子や荀子の徒が名を連ねる。
【諸子百家 孟子】孟子(紀元前372‐289)は、斉の宣王の時代、臨淄の都城の稷門に住む。孔子の孫の思子の弟子から学んだ。鄒の出身で、梁、斉、宋を遊歴した。主君を求めて王道論と四端説を唱えたが意を得ず、鄒に帰国した。
【諸子百家 孟子(紀元前372‐289)】易姓革命説。天は己に成り代わって王に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王に天が見切りをつけた時、革命が起きる。天命を革める。
君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲ることが禅譲、武力によって追放されることが放伐。
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4、三国時代(紀元220-316年)
【竹林の七賢 悪意と偽善に満ちた権力への憤り】243 -253年、魏(三国時代)の時代末期、司馬炎政府の権力に阿ることを嫌悪し、竹林にて清談し交遊した七人の賢人。当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、嵆康は鍾会の讒言によって陥れられ死刑に処せられた。悪意と偽善に満ちた社会に対する憤りである。阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記され、後世の人々から敬愛される。阮籍、王戎、山濤、向秀、嵆康、劉伶、阮咸。
【竹林の七賢 悪意と偽善に満ちた権力への憤り】三国時代、魏(220年-265年)の末期、河南省北東部、竹林に集まって清談を行った7人の賢人。阮籍、王戎、山濤、向秀、嵆康、劉伶、阮咸。世俗を避け、竹林で琴と酒を楽しみ、清談にふけった。老荘の虚無を尊び、儒教の礼節を斥けた。権力の横暴からの逃避と儒教の経学・訓詁、偽善的汚濁への反発。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】王戎は人物眼に優れた人。呉の家臣だった石偉を推薦し、鄧艾の孫の鄧千秋を召した。蜀漢征伐に赴く鍾会が策を聞いてきた時「道家の言葉に『為して恃まず』(老子)とある。勝つのはたやすいが、それを保持するのが難しい」、鍾会の運命を的中させたと評価された。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】琅邪の王氏。王導、王羲之(303-361)、王献之を生む一族。王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり、道教一派「天師道」を信奉し、59歳で死す。
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参考文献
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
「『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅」
http://odyssey2000.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-b4d2.html
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-e107.html
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」・・・絶対権力者が手に入れられない秘宝
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-86b1.html
井波律子『奇人と異才の中国史』
井波律子『故事成句でたどる中国史』
井波律子『中国の隠者』
加地伸行『中国の古典 論語』2004、白川靜『孔子伝』中央公論社、加地伸行『論語全訳注』講談社学術文庫。
浅野裕一『「孫子」を読む』1993
宮崎市定『史記を語る』
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「ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。」魅死魔幽鬼夫「苧菟と瑪耶」
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★ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」
Jacque Louis David - Napoleon crossing the Alps 1801

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