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2019年8月11日 (日)

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』189回
真夏の灼熱の森を歩いて藝大美術館に行く。真夏の森の夕暮れ、大乗寺の黄金の襖絵の空間が夕日をあびて光り輝く。夕日に照らされる空間にて瞑想する、事事無礙法界、『因陀羅網』の境地(『即身成仏義』)を夢想する。高野山真言宗、大乗寺の黄金襖は圧巻である。円山応挙は藝術探求の生涯の果てにどこに辿りついたのか。
【大乗寺襖絵】円山応挙(1733-95)が一門十三人を率いて制作した兵庫香美町の大乗寺襖絵は、各室の空間全体を構成した傑作。13室、165面。55歳から62歳まで制作に従事。黄金襖は圧巻。「松に孔雀図」(1795)は、金屏風に墨一色で描かれた異彩を放つ屏風絵である。与謝蕪村の高弟だった呉春が担当した「群山露頂」は蕪村風の叙情性が色濃いが、8年後の「四季耕作図」には応挙の影響が強い。円山応挙、63歳で死す、最晩年の境地に見たものは何か。
【円山応挙の謎】円山応挙は、なぜ、階級社会の中で、亀岡の農民の子から一級の絵師になることができたのか。円山応挙は、なぜ、死の年、一門十三人を率いて、大乗寺襖絵を描いたのか。 応挙の運命の扉を開いたのはだれか。応挙は、京都で、大乗寺、密蔵上人に出会った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』  
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【農家の子から尾張屋】亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
【狩野派から円山派】円山応挙は、狩野派の石田幽汀に学んだ、一方、西洋由来の遠近法の眼鏡絵、中国絵画の影響も受け、後に綿密な写生と伝統的な装飾性をあわせた独自の様式を確立した。応挙の元では息子の応瑞や山口素絢、長沢芦雪ら多くの絵師が育った。虎の絵を得意とする岸派、竹内栖鳳、上村松園に受け継がれていく。応挙の画風に南画の情趣を融合させて四条派を確立した呉春。円山・四条派の全容に迫る展覧会。
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展示作品の一部
円山応挙、重要文化財「松に孔雀図」(全16面のうち4面)寛政7年(1795)兵庫・大乗寺蔵 東京展のみ・通期展示
円山応挙、重要文化財「牡丹孔雀図」明和8年(1771)京都・相国寺蔵 京都展のみ・半期展示
円山応挙、重要文化財「写生図巻(甲巻)」(部分)明和8年~安永元年 (1771-72)株式会社 千總蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
長沢芦雪、「薔薇蝶狗子図」寛政後期頃 (c.1794-99)愛知県美術館蔵(木村定三コレクション) 東京展:前期展示 京都展:半期展示
岸竹堂、「猛虎図」(右隻)明治23年(1890) 株式会社 千總蔵 東京展:前期展示 京都展:半期展示
円山応挙、重要文化財「保津川図」(右隻)寛政7年(1795) 株式会社 千總蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
円山応挙、「狗子図」安永7年(1778) 敦賀市立博物館蔵 東京展:後期展示 京都展:半期展示
円山応挙、重要文化財「松に孔雀図」(全16面のうち4面)寛政7年(1795) 兵庫・大乗寺蔵 京都展のみ・通期展示
円山応挙、重要文化財「郭子儀図」(全8面のうち4面)兵庫・大乗寺蔵 京都展のみ・通期展示
円山応挙、重要美術品「江口君図」寛政6年(1794) 静嘉堂文庫美術館蔵 東京展のみ・前期展示
呉春 重要文化財《群山露頂図》 天明7年(1787) 大乗寺蔵 東京展:前期展示
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参考文献
「円山応挙から近代京都画壇へ」求龍堂、2019
時代が愛したリアリズム 「円山応挙から近代京都画壇へ」:朝日新聞
http://www.asahi.com/event/DA3S14119151.html

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺

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18世紀、江戸時代中期から後期にかけて、京都で活躍した絵師・円山応挙。写生画による親しみやすい表現は京都で多大な影響力を持ち、「円山派」を確立した。応挙からはじまり、近世から近代にかけて引き継がれてきた画家たちの系譜をたどる。
与謝蕪村に学んだのち、応挙に師事した呉春によって「四条派」が誕生すると、その後ふたつの流派を融合した「円山・四条派」が京都で主流となり、日本美術史の中で重要な位置を示すようになる。
亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
応挙は「ものを見て描くこと」、写生をはじめる。実際に自分が見たものを、見えた通りに絵に表現していく方法は、京都画壇に新たな風を吹き込み、瞬く間に大きな影響を持つようになる。その後も写生を重んじる伝統は、近代になっても円山・四条派の重要な特性として受け継がれた。「応門十哲」の中には奇想の系譜で有名になった長沢芦雪も含まれた。
江戸時代、京都では、伝統的な流派である京狩野、土佐派をはじめとして、池大雅や与謝蕪村などの文人画、近年一大ブームを巻き起こした伊藤若冲や曽我蕭白、岸駒を祖とする岸派や原在中の原派、大坂でも活躍した森派など、様々な画家や流派が群雄割拠のごとく特色のある画風を確立していました。しかし、明治維新以降、京都画壇の主流派となったのは円山・四条派でした。円山・四条派とは、文字通り円山派と四条派を融合した流派。
円山派の祖である円山応挙が現れたことで京都画壇の様相は一変しました。応挙が得意とした写生画は画題の解釈を必要とせず、見るだけで楽しめる精密な筆致が多くの人に受け入れられ、爆発的な人気を博しました。京都の画家たちはこぞって写生画を描くようになり、応挙のもとには多くの門下生が集まって、円山派という一流派を形成しました。
四条派の祖である呉春は、初め与謝蕪村に学び、蕪村没後は応挙の画風を学んだことで、応挙の写生画に蕪村の瀟洒な情趣を加味した画風を確立しました。呉春の住まいが四条にあったため四条派と呼ばれたこの画風は、弟の松村景文や岡本豊彦などの弟子たちに受け継がれ、京都の主流派となりました。呉春が応挙の画風を学んでいる上、幸野楳嶺のように円山派の中島来章と四条派の塩川文麟の両者に師事した画家も現れたこともあり、いつの頃からか円山派と四条派を合わせて円山・四条派と呼ぶようになりました。
応挙・呉春を源泉とする円山・四条派の流れは、鈴木百年、岸竹堂、幸野楳嶺等へと受け継がれ、それぞれの門下から、近代京都画壇を牽引した竹内栖鳳、山元春挙、今尾景年、上村松園等を輩出しました。彼らは博覧会や、日本で初めての公設美術展覧会である文部省美術展覧会で活躍し、全国に円山・四条派の名を広めました。一方で、栖鳳たちは、自身の塾や、教鞭を執った京都府画学校や京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で多くの近代京画壇の発展に資する後進たちを育てています。
東京藝術大学大学美術館
https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2019/maruyama-shijo/maruyama-shijo_ja.htm
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★「円山応挙から近代京都画壇へ」
東京藝術大学大学美術館、8月3日(土)~9月29日(日)
京都国立近代美術館11月2日(土)~12月15日(日)

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