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2021年7月

2021年7月25日 (日)

聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第249回

灼熱の夏、深緑の森を歩いて、博物館に行く。蝉時雨に古の都を思い出す。
斑鳩宮、斑鳩寺、飛鳥、白鳳、法隆寺の謎の暗闇に、幻惑される。法隆寺の暗闇には何があるのか。
法隆寺の暗闇の空間は、推古、天智、天武、持統、聖武、光明子、阿倍内親王の世界につながる、王位継承争い。法隆寺の謎は、深い闇である。
【厩戸皇子、何を夢み何に苦悩したのか】
厩戸皇子はなぜ「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言ったのか。厩戸皇子は、何を理想とし何に苦悩したのか。「法華義疏」を見ると微細な文字で書かれ、訂正と消字と貼り紙が施されている。神経質な性格が感じられる。606年に皇子が推古天皇に講義した草稿であるとされる。「花あれば必ず実あり。善あれば必ず成仏することを表せんと欲す」「法華義疏」
【血に塗れた飛鳥時代、厩戸皇子】
587年、馬子と厩戸皇子は、守屋を襲撃、物部氏一族滅亡。622年、厩戸王子、49歳で死す。生母、穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が死去、三人が死ぬ。死因は疫病か暗殺か。643年、入鹿、斑鳩宮を襲撃、聖徳太子の子、山背大兄王自刃、一族滅亡。計画したのは皇極と軽皇子。645年、中大兄皇子と中臣鎌足、入鹿を襲う、蘇我氏一族滅亡【乙巳の変】。649年、右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、斬首。658年、有間皇子、絞首刑。中大兄皇子と鎌足が関与。

【天智系と天武系の死闘】672年、大海人皇子、大友皇子を襲撃、大友皇子、自刃【壬申の乱】。672年(天武1年)天武天皇、飛鳥板葺宮で即位。686 年(朱鳥2)、器量才幹が抜群な大津皇子、謀反自害。689年、草壁皇子急逝。690年、持統、即位。持統は天武を神格化。
【謎の生涯、聖徳太子、厩戸皇子】754年誕生。585年、12歳の時、父、用明天皇、即位。587年、14歳の時、父、用明天皇、崩御。蘇我馬子、物部守屋を襲撃する、厩戸皇子、蘇我軍に加わり、守屋を殺害。592年19歳の時、崇峻天皇、馬子に暗殺される。593年20歳の時、推古天皇、即位。皇太子、摂政となる。四天王寺、建立。601年、斑鳩宮、造営。607年、小野妹子、第2回遣隋使として派遣。法隆寺を創建。620年馬子とともに『天皇記』『国記』編纂。622年、聖徳太子、斑鳩宮で死す。49歳。
【蘇我馬子、物部守屋を襲撃、物部氏一族滅亡】仏教の受容をめぐって蘇我馬子と物部守屋の戦いが起き、聖徳太子ら加わり、襲撃して物部氏を滅ぼす。

【丁未の乱】587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされた『四天王寺御手印縁起』。
【法隆寺木造四天王立像】日本書紀によれば、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに加わるに際し、聖徳太子が「勝利した暁には四天王寺を建てる」と誓いを立て、593年、戦勝に感謝して建立したとされる。広目天、増長天、持国天、多聞天の順。法隆寺金堂所蔵。
【仏教公伝】聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【王陵の谷、厩戸皇子、聖徳太子、霊墓】聖徳太子は、三経義疏を著。法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立した。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まる。
厩戸皇子の心の声、魂の言葉は僅かである。

「世間虚仮、唯仏是真」(せけんはこけなるも、ただほとけのみこれまことなり) 『天寿国繍帳』、「諸悪莫作、諸善奉行」(もろもろのあしきことをばなせそ。もろもろのよきわざをおこなへ) 『舒明即位前紀』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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斑鳩寺、斑鳩宮、法隆寺、西院伽藍、東院伽藍、夢殿
【仏教公伝】『日本書紀』(720年成立)で、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記される。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされる。
【三経義疏】『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存している。梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文である。
【斑鳩寺、法隆寺】厩戸皇子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)、同年、小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣される。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい転換期。その名が意味する「仏法興隆」を推し進める中心地であった。
【法隆寺最初の伽藍、若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』】再建された現在の西院伽藍。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築、創建以来変化なく伝えられた内陣は、奇跡の空間。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界がある。
【東院伽藍】聖徳太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)、その跡地に建立されたのが東院伽藍、行信が創建した上宮王院。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたって太子の遺品類も集められた。
【山背大兄王一族滅亡、斑鳩宮消失】皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があった。
夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点であった。聖徳太子の遺徳を称える聖霊会、10年に一度行われる大会式等、東院伽藍にまつわる華やかな法要がある。
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇、盧舎那大仏の造立を企図。天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖徳太子信仰の変遷
【平安時代後期12世紀、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰】太子も中心的な信仰の対象となった。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」保安2年(1121)。
【鎌倉時代13世紀、孝養像】角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿が作られる。太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。
【金銅阿弥陀三尊像、光明皇后の母、橘夫人念持仏厨子】法隆寺蔵の厨子、7-8世紀。なかに橘夫人(橘三千代)の念持仏であった金銅阿弥陀三尊像を安置する。厨子、像ともに奈良時代の作。屋蓋の形式は法隆寺金堂内部の天蓋に似、龕身四方の扉と須弥座に描かれた絵は法隆寺金堂壁画の手法に近い。透彫の光背,流麗な浮彫で菩薩を表した後屏(こうへい)、三尊をささえる床に施した精緻な蓮池。
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聖徳太子の謎、だれが聖徳太子と呼んだのか
【厩戸王子、聖徳太子、死の謎】推古30(622)年、厩戸王子、49歳で死す。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。疫病説。暗殺あり。馬子が関与か。
【王陵の谷、古代の道、飛鳥と難波宮を結ぶ、竹内街道、推古天皇陵、聖徳太子の墓】推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道」が置かれた『日本書紀』。推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清という使者を連れてくる。難波津から飛鳥へ。斑鳩寺(法隆寺)は、厩戸皇子。飛鳥寺(法興寺は、蘇我馬子が創建。聖徳太子の墓、南河内郡太子町、叡福寺にある。
【中大兄と中臣鎌足、蘇我氏を滅ぼす。645年、乙巳の変】天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取すること。田村圓澄『仏教伝来と古代日本』。その後、王権神授説(『金光明経』)で天皇支持を明確にした仏教、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教。第45代聖武が大仏造営。
【物欲、名誉欲、地位欲、腐敗した魂に蝕まれた国】持ち物を捨てれば捨てるほど、あなたの魂の表面から所有欲という曇りが消え、その魂は真実の輝きを取り戻す。『ガンディー 魂の言葉』)【動物は食欲と性欲と生存欲だけである。本能で動く。物欲があるのは人間だけである。池田清彦】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★★★展示作品の一部
「法華義疏」飛鳥時代、7世紀。天平19年(747)法隆寺伽藍縁起に、上宮聖徳法王の著とされている。
重要文化財「菩薩立像」飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵、釈迦三尊像の脇侍と同型
国宝「天寿国繡帳」飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と書かれている。正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出している。聖徳太子が亡くなった後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繡によって表されており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品。
国宝 薬師如来坐像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
金堂東の間の本尊。口もとに微笑みを浮かべた神秘的な顔立ち、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。
国宝「阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)」厨子。光明子の母、橘夫人、橘三千代(県犬養三千代)、天平5年(732)に没した。阿弥陀浄土信仰をもっており、光明皇后が母の供養のため法隆寺金堂に奉納した。白鳳時代、7-8世紀。法隆寺蔵
国宝「四天王像」広目天、多聞天、飛鳥時代、7世紀
国宝 行信僧都坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵
夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。
重要文化財 聖徳太子(孝養像)鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵【後期展示:8月11日(水)~9月5日(日)】
角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。
国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子、平安時代・保安2年(1121)、奈良・法隆寺蔵
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参考文献
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
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奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追究し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えることで、後世に続くこの国の文化的な基盤を築き上げました。聖徳太子を敬う人々の心は、その没後に信仰として発展し、今日もなお日本人の間に連綿と受け継がれています。
令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。
本展覧会は1400年という遙かなる時をこえて、今を生きる私たちが聖徳太子に心を寄せることでその理想に思いを馳せ、歩むべき未来について考える絶好の機会となることでしょう。聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)

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2021年7月15日 (木)

大江戸の華・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第248回
老獪な策士、徳川家康、薬草を集め長寿を求めた。家康は、織田信長、明智光秀、細川藤孝、豊臣秀吉、戦国武将と競争、詐欺手法を駆使、生き残り戦略、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を破り、1603年征夷大将軍に任命される。72歳で死す。1867年15代将軍、徳川慶喜まで、江戸幕府は260年間。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)で石田三成を破る。1614年二条城にて70歳の家康は19歳の秀頼と会見、豊臣滅亡を思い立つ。豊臣秀頼を、大阪冬の陣(1614年10月1日)で大阪城外堀内堀を埋め、夏の陣(1615年5月5-7日) 豊臣秀頼軍を破り、豊臣家滅亡、大阪城炎上。1615年、家康72歳で死す。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし】急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。徳川家康の遺訓
心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。
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王家への婚礼行列、
皇女、和宮、将軍家への婚礼行列
慶喜に、白羽の矢を立てられた和宮は、当初強くこれを拒んだが、兄・孝明天皇の強い意向によってついに将軍徳川家茂への降嫁を承諾した。文久元年(1861年)10月20日、16歳の花嫁・内親王和宮の行列が京の都を出発。江戸に向かう和宮様の豪華で50㎞とてつもない長さの花嫁行列。享年32。明治10(1877)。
【マリー・アントワネット、フランス王家への婚礼行列、ドナウ河、泣きながら嫁ぐ】14歳でフランスへ嫁いだアントワネット、婚礼の旅、ドナウ河を航行、宿泊したドナウ川のヴァッハウ渓谷ほとりに聳えるメルク修道院にて観劇。国境の街ストラスブールで、花嫁引き渡しの奇妙な儀式、フランスの衣装に着替え、1770年5月16日ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で執り行われたフランス王太子とオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚。ウィーンの母マリア・テレジアは、遊び呆ける娘のアントワネットを厳しく叱り続けていた。のびのび育った故郷ウィーンの宮殿とは大違い、起床から就寝まで衆目にさらされ、夫婦のベッドインも貴族に見られるという奇習。敷地内の小さな離宮プチトリアノンを自分好みに作り替える。莫大な国費を使って、最高の職人による家具を揃え、当時最先端の動く壁まで。この浪費を知ったウィーンの母マリア・テレジアは手紙で厳しく娘を叱り「あなたはこの上ない不幸に陥る」と予言。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランス王家への政略結婚】
メディチ家出身のカトリーヌとフランス王族との結婚は不釣り合いと見られた。反対意見もあったが、フランソワ1世はイタリア対策を重視してこれを押し切った。1533年10月28日、フランス王の第二子、アンリ2世と結婚。2人は共に14歳。カトリーヌは莫大な持参金と千人の従者を従え、イタリアから嫁いできた。夫の寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエに悩まされた。
【カトリーヌ・ド・メディチ、フランソワ1世、波乱の人生】
1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占された。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【徳川慶喜、名君か暗君か、緻密な戦略】幕府第15代将軍の徳川慶喜、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜。第二次長州征伐で、幕府は長州藩に敗北、家茂は病死第15代将軍職を引き受けた慶喜は、最大の後ろ盾だった孝明天皇を亡くすが、4カ国の公使を相手に外交手腕を見せて開国へと舵を切る。
【徳川慶喜、名君か暗君か、大政奉還、緻密な戦略】慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説した、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日、14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。その翌日の15日に受理される。薩摩長州に先手を打つ。
【偽勅】慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した10月14日に、薩摩藩の大久保利通と長州藩の広沢兵助らは、公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)から、徳川慶喜追討の詔書を授る。これは岩倉具視の策略、朝議も経ていなければ、天皇も認めていない偽勅、それを承知のうえで、薩摩と長州は受け取った。
【薩摩藩の小松帯刀】慶喜は「小松はこの間の消息に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし」と、内戦を避けたいと考えた薩摩藩の小松帯刀から、密かにリークがあった。
【王政復古】慶応3年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して、「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデタが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止し、新政府の発足を高らかに宣言。
【徳川幕府崩壊】徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)で、激突。将軍慶喜、離脱。戊辰戦争(1868年―1869年)へ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
色々威し丸胴具足、徳川家康が用意、秀忠がイギリス王ジョージ1世に贈った。
 イギリス王立武具博物館、ロンドン塔ホワイトタワーDiplomatic Gift
徳川慶喜、白羅紗葵紋付陣羽織、江戸時代末期
徳川慶喜、黒塗り銀立湧紗葵紋付散し陣笠、江戸時代末期、江戸東京博物館所蔵
「楽宮さざのみや 下向絵巻」(部分)青木正忠/画 文化元年(1804)
梨子地葵紋付散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗り物、元禄11年1898、江戸東京博物館所蔵
 徳川家が関わる乗物には源氏物語が描かれ、それ以外は花鳥画。
銀小札変わり袖白糸威し丸胴具足、江戸時代、江戸東京博物館所蔵
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参考文献
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
https://bit.ly/3xCUAQ9
特別展「江戸の街道をゆく~将軍と姫君の旅路~」
2019年04月27日(土)~06月16日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
千代田の大奥 御遊山」楊洲周延/画 明治27~29年(1894~1896) 東京都江戸東京博物館蔵. 江戸時代、幕府によって整備され、多くの往来で活気にあふれていた街道。なかでも、将軍や姫君たちの行列は目を見張る華やかさ

徳川将軍家の婚礼 - 江戸東京博物館
2017年01月02日(月)~02月19日(日)
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/
徳川将軍家の婚礼は、姫君が嫁ぎ先へ豪華な婚礼道具や衣裳を携え、行列を整えて入輿しました。将軍家の正室(御台所)は、3代家光以降、宮家や五摂家から迎えるのが慣例で、京都から江戸に行列を組み婚礼道具を携え、化粧道具は毎日の身嗜みのほか、女性の通過儀礼などに用いられ、大切な役割を果たしました。

大政奉還は緻密な戦略だった!倒幕に動く薩長が手を焼いた「徳川慶喜」
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20210620-00434971-toyo-column2021/06/20
徳川慶喜は二条城で重臣たちに大政奉還を告げた(写真:近現代PL/アフロ). 「名君」か「暗 ... 慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還 について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩
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「大江戸の華―武家の儀礼と商家の祭―」江戸東京博物館、7月10日~9月20日
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/#anc01

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2021年7月 7日 (水)

三菱の至宝展・・・幻の曜変天目

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第247回

初夏の午前、三菱一号館美術館に行く。三菱150年。岩崎弥太郎、弥之助、久弥、小弥太、4代のコレクションの展示。岩崎弥太郎はどうして成功したのか。岩崎弥太郎は汽船3隻で財閥の基礎を築いた。
曜変天目をみると、茶の湯を愛好した織田信長を思い出す。
【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-12世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の茶会、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

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展示作品の一部
国宝《曜変天目(「稲葉天目」)》建窯、南宋時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵
国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》のうち「関屋図」、俵屋宗達、江戸時代・1631(寛永8)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝《風雨山水図》伝馬遠、南宋時代(13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
重要文化財《龍虎図屏風》のうち「虎図」、橋本雅邦、1895(明治28)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『イエズス会士書簡集(アントワネット旧蔵書)』18世紀、(公財)東洋文庫蔵
重要文化財《太刀 銘 髙綱 (附 朱塗鞘打刀拵)》古備前高綱、鎌倉時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
大名物《唐物茄子茶入 付藻茄子》南宋~元時代(13~14世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『八千頌般若経』17~19世紀、(公財)東洋文庫蔵
国宝《倭漢朗詠抄 太田切》平安時代(11世紀)、(公財)静嘉堂蔵【会期中場面替えあり】
国宝『古文尚書』初唐時代(7世紀)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝『春秋経伝集解』平安時代(12世紀頃)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
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参考文献
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
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土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた岩崎弥太郎が、苦心惨憺の末、知人を誘って海運業を営む九十九商会――現在の三菱を興したのは、明治3年(1870)のことであった。今年令和2年(2020)は、それから数えて150周年の節目に当たっている。これを記念する特別展が、この「三菱の至宝展」にほかならない。
三菱ゆかりの静嘉堂文庫と東洋文庫、三菱経済研究所、三菱一号館美術館、さらに三菱金曜会や広報委員会が力を合わせ、その優れたコレクションの全貌を堪能していただけるよう智恵を絞った。三菱が文化的に果してきた貢献――現代の言葉でいえばフィランソロフィーをも感じ取っていただければ望外の喜びである。
三菱一号館美術館は、来日して我が国近代建築の基礎を築いたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計建設した、三菱一号館をそのままに復元してなったものである。またコンドルは、弥之助の深川邸洋館、高輪邸、久弥の茅町本邸、小弥太が弥之助3回忌に際して建てた世田谷区岡本の廟なども手がけている。
その後久弥が駒込に建てた東洋文庫、小弥太が岡本に造った静嘉堂文庫は、コンドルにも学んだ桜井小太郎が完成させたものである。このように三菱・岩崎家が愛して止まなかったコンドルが没してから、今年は100周年の節目にも当たっている。
饒舌館長 http://jozetsukancho.blogspot.com/
http://jozetsukancho.blogspot.com/2021/07/blog-post_03.html
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三菱創業150周年記念 三菱の至宝展、三菱一号館美術館、6月30日(木)-9月12日(日)

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