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2021年11月

2021年11月30日 (火)

鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』260回

鈴木其一・夏秋渓流図屏風、群青色の水の流れ金色の線が衝撃的である。百合と紅葉、林と渓流が主役なのか。樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉、熊笹、樹木に張り付く苔。其一は何を描こうとしたのか。
『夏秋渓流図屏風』の誕生にかかわる先行絵画。円山応挙「保津川図」の渓流の水の流れは強烈である。山本素軒「花木渓流図」は樹林を流れる渓流の構図、渓流の群青は独創的である。鈴木其一は関西旅行して京都の寺院の絵画を研究した。『夏秋渓流図屏風』は40代半ばの最高傑作。師、酒井抱一をこの作で超えたのか。62歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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円山応挙(1733年6月12-1795年8月31日)『保津川図屏風』(1795年)62歳で死す。
京都市中にある京友禅の老舗に代々受け継がれてきた絵画。天才絵師・円山応挙の絶筆。八曲一双の屏風絵『保津川図屏風』、高さおよそ1.5m、幅は各隻5mに迫る特大の屏風絵。右隻には水しぶきを浴びそうな迫真の激流、左隻は、ゆったりとした渓谷の風情。この大作を、応挙は亡くなる1カ月前に描き上げた。保津川上流にある丹波国の村の農家に生まれた応挙は、10代前半で京の都へとやって来た応挙は南蛮渡来の眼鏡絵と出会う。眼鏡絵とは西洋の透視図法で描かれた絵をレンズで見る。応挙は、写生を基に絵を描いた最初の絵師、1000人を超える弟子を抱えた。
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展示作品の一部
鈴木其一・夏秋渓流図屏風19世紀
圓山應舉「保津川図」1795、18世紀(千總)
山本素軒「花木渓流図」17-18世紀、個人蔵、山本素軒、生年不詳、没年1706 師匠、山本素程、狩野派。尾形光琳の師だったと言われる素軒
其一の関西旅行の記録『癸巳西遊日記』(鈴木其一原本、鈴木守一写)19世紀
酒井抱一「夏秋草図」(東京国立博物館)
酒井抱一『青楓朱楓図屏風』
《檜蔭鳴蝉図》谷文晁筆 日本・江戸時代 19世紀 公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵
参考文献
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
https://bit.ly/2BUy4rl
「円山応挙から近代京都画壇へ」藝大美術館・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
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佐藤 康宏
「鈴木其一・夏秋渓流図」(根津美術館)は、この1双の屛風絵を中心に据えて、現代人も驚かす強烈なイメージが、どのようなイメージの脈絡の上に生まれたのかを探ろうとする特別展です。
 狩野常信をはじめとする檜を描いた先行作例とか、圓山應舉が屛風に渓流を描く「保津川図」(千總)、樹木と渓流を組み合わせる山本素軒の「花木渓流図」、其一の関西旅行の記録である『癸巳西遊日記』などが、動員されます。
 こういうソース探しの試みは本の挿図でやってもいいではないかと思われるかもしれませんが、「名作誕生」(東京国立博物館、2018年)でも実際の作品を並べてみるのは、新たな実感を伴うものではなかったでしょうか。どうぞ体験なさって下さい。
 ほかに其一作品もいろいろ出ています。「秋草・波に月図」の小屛風など、表裏の絵が互いに映り合う洒落た趣向です。少し展示替えがあり、酒井抱一「夏秋草図」(東京国立博物館)は、会期の終盤、12月7日-12月19日の間だけお出ましです。
 「夏秋渓流図」は鈴木其一(1796?-1858)の40代半ばの作と推定されるのですが、やはり彼の最高傑作ですね。その後は概してつまらなくなります。残念だなあと思いますが、自分自身も人様からそんなふうに見られているかもしれませんので、責めるのはやめましょう。11月5日 17:02
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鈴木其一(1796-1858)の筆になる「夏秋渓流図屏風」は、岩場を削る水流のある檜の林を確かな現実感をもって描いた画面に、異様な感覚を抱かせる描写が充満する作品です。
其一は、江戸の地で、一世紀前の京都で活躍した尾形光琳(1658-1716)を顕彰し、「江戸琳派」の祖となった酒井抱一(1761-1828)の高弟ですが、徹底した写実表現やシャープな造形感覚、ときに幻想的なイメージを加え、個性を発揮しました。
そんな其一の画業の中心にあるのが、最大の異色作にして代表作でもある「夏秋渓流図屏風」です。2020年に、其一の作品としては初めて、重要文化財に指定されました。
本展では、抱一の影響や光琳学習はもとより、円山応挙や谷文晁、古い時代の狩野派など琳派以外の画風の摂取、そしてそれらを、自然の実感も踏まえつつ統合する其一の制作態度を検証して、本作品誕生の秘密を探ります。
根津美術館
https://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/
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重要文化財指定記念特別展、鈴木其一・夏秋渓流図屏風
根津美術館、2021年11月3日[水・祝]-12月19日[日]

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2021年11月18日 (木)

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』259回

秋聲は、旅路の果て、戦争の果て、人生の果てにどこに辿りついたのか。
砂漠の果ての「絲綢之路」、「薫風」は、岡倉天心の日本美術院、下村観山「小倉山」の風格がある、「愷陣」1930年には生きものへの愛が窺われる。「山中鹿之助三日月を排する之図」は秋聲自身の祈りであろうか。
小早川秋聲は、《國之楯》1944年により、従軍画家として再発見された(*)が、88年にわたる生涯で変貌を遂げた。卓越した技術で風景画、歴史画、人物画、多彩な領域に多彩な作品を残した。小早川秋聲は、好奇心旺盛で旅を愛し異国文化に憧れ、中国絵画を研究し中国とインド、エジプト、イタリアに憧れ、旅する画家である。
【戦争絵画の責任】戦争絵画のすべての責任を一人で負って日本を去った藤田嗣治、戦争責任を取らず天皇の地位と引き換えに沖縄を米軍に売った天皇、秋聲は、60歳で引退し下鴨の家で庭を眺めて暮らす。頑固一徹な老人と化した秋聲だが、孫に絵を描くことを教えた。
【人と運命との戦い】絶望と悲惨な人生を生きたアルルの印象派の画家、運命と対峙したルネサンスの画家、苦難の人生を生きた詩人李白、悲劇的人生を生きた思想家孔子、敵に暗殺されたメディチ家のプラトン・アカデミーの思想家たち。悲劇的な藝術家、思想家と比べれば、秋聲は幸福な人生を生きたと言える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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小早川秋聲は88年の人生で5つの時代を生きた。≪愷陣≫1930年、凱旋した労を労い花に飾られた馬、生きものの苦しみを癒す心に感銘を受ける。天下和順『無量寿経』の教えが彼を導いた。
【鳥取光徳寺、京都時代】
1885年、鳥取県にある光徳寺の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都・東本願寺の僧籍に入る。その後16歳で歴史画家の谷口香嶠に師事する。
【人生の選択】1909年、京都市立絵画専門学校に入学、退学
秋聲は、1909年、谷口香嶠が教授を務める京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学するが、すぐに退学、中国へ行き、約1年半、東洋美術を学ぶ。1915 年、師・香嶠を亡くした秋聲は、次いで写生の山元春挙の門下となり師事する。
【旅する画家】世界を旅する日本画家、憧れのインド、ヨーロッパ文化1920 -26年
1918~20 年に、北海道、山陰、紀州などを旅する。そして、1920 年末、中国に渡り、東洋美術の研究等に約 1 年を費やす。後、東南アジア、インド、エジプトを経て、1922 年春、ヨーロッパへ。イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、スイス、イギリスなど十数ヵ国を約 1 年かけて遊学。また、1926 年には日本美術を紹介する任を負い、北米大陸を 4 ヵ月間で横断。
【従軍画家】僧である陸軍騎兵少尉1937-44年
1937年10月、東本願寺より従軍慰問使として戦線に向かう。1943年6月秋聲は陸軍によりビルマに派遣される。《國之楯》1944年(1968年改作)を描く。陸軍に受け取り拒否される。60歳の時、終戦。
【下鴨神社、糺の森、自宅アトリエの庭】
秋聲は、従軍画家、藤田嗣治のように、画壇から遠ざかった。下鴨糺の森、自宅アトリエの庭で孫に絵を教えた。1974年2月6日、88歳で死す。
谷口香嶠亡きあとは、巨匠・山元春挙の門下となる。秋聲は、幼いころから絵を描くのが大好きで、おやつの代わりに半紙をもらっていた。元来の才に加え、歴史画の香嶠、写生を重んじる春挙の二人から鍛えられ、初期から高い技術を持つ作品が並びます。
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同時代を生きた藤田 嗣治(1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、従軍画家の時代、秋聲と出会いすれ違う。
藤田嗣治は、「乳白色」の裸婦像で一世風靡したが5人の妻と5つの時代を生きる。そして最晩年の教会へ。「1 とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛、 2フェルナンド フランスへの同化を誘いざなった女性画家、3 ユキ 絶頂期をともにした“トロフィー・ワイフ”、4 マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ、5 君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻」*。
【戦争画家として非難】藤田 嗣治は、戦後、国民を死に煽る戦争画家として責任を追及され、NYへ、パリへ逃れる。藤田嗣治「アッツ島玉砕」1943
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展示作品の一部
「國之楯」1944年(1968年改作)、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)
天覧に供するために陸軍省の依頼で描かれたと伝わるが、完成作は陸軍省に受取を拒まれた。絵の裏にはチョークで「返却」と記されている。
「愷陣」 1930年 個人蔵
凱旋して帰ってきた馬を牡丹の花で飾って、慰める。
「薫風」 1924年 個人蔵
「長崎へ航く」 1931年 個人蔵
「絲綢之路」大正期 鳥取県立美術館
「譽之的」 那須与一、大正期 
「山中鹿之助三日月を排する之図」1902 10代後半の作
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★参考文献
「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂2021
「没後50年 藤田嗣治展」東京都美術館・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
https://bit.ly/2vkauRs
画家たちの戦争『芸術新潮』1995年8月号
藤田嗣治と5人の妻おんなたち『芸術新潮』2018年8月号
小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て
https://bit.ly/3HvP8nu
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小早川秋聲[こばやかわしゅうせい 本名・盈麿(みつまろ)1885-1974]は、大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家です。鳥取の光徳寺住職の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都の東本願寺の衆徒として僧籍に入りました。その後、画家になることを志し、日本画家の谷口香嶠(こうきょう)や山元春挙(しゅんきょ)に師事、文展や帝展を中心に入選を重ね、画技を磨きます。また、旅を好んだ秋聲は、北海道、山陰、紀州など日本各地を絵に描き、国外では複数回の中国渡航に加え、1922年から23年にかけてアジア、インド、エジプトを経てヨーロッパ十数ヵ国へ遊学。1926年には北米大陸を横断し、日本美術の紹介にも努めました。やがて、従軍画家として戦地に何度も赴くようになり、数多く描いた戦争画のなかでも代表作に挙げられる《國之楯(くにのたて)》は深く印象に残る1点です。本展は、初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで、百余点で小早川秋聲の画業を見渡す初めての大規模な回顧展となります。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202110_kobayakawa.html
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小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌
東京ステーションギャラリー
2021年10月9日(土) - 11月28日(日)
京都文化博物館
2021年8月7日(土)~9月26日(日)
東京都
2021年10月9日(土)~11月28日(日)
東京ステーションギャラリー
鳥取県立博物館
2022年2月11日(金)~3月21日(月)

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2021年11月12日 (金)

絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・美と復讐第4巻

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』258回

美と復讐の精神史、第4巻
絶世の美女は、運命に翻弄され運命と戦い、波瀾の人生の果てに、何を観るのか。絶世の美女は、知性と美をもって、時間と空間と階級社会と富と戦い、前人未到の境地に辿りつく。
北方に佳人あり、絶世にして独立。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。
美しい者は、美しさゆえに、戦いと苦悩がある。智慧ある者、美しい魂をもつ者は、美しいがゆえに、天人の苦悩、天人と鬼畜との戦いがある。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『美と復讐の精神史』
――
【織田信長の長女、絶世の美女、徳姫】
幼名、五徳、永禄2(1559) 年10月12日生まれる。織田徳川同盟の絆として、永禄10(1567)年9歳で三河国岡崎城主の信康に嫁した。
天正7年、信康と築山殿を12ヶ箇条の手紙で、信長に告発。
天正7(1579)年夫徳川信康と築山殿を自刃の後、天正8年、家康に見送られて、安土城に行く。本能寺の変1582、関ケ原の戦い1600、大坂冬の陣1614夏の陣1615。家康の死1616を超えて、1636年78歳まで生きる。
1、

【戦国の絶世の美女】織田信長、最愛の妻、生駒吉乃、永 禄9年5月13日(1566年5月31日)39歳で死す。信長の娘、徳姫。信長の妹、お市の方。お市の娘、浅井三姉妹、茶々、初、江。信長、第三の妻、興雲院。斎藤道三の娘、濃姫は、土岐頼純、土岐八郎頼香に嫁ぎ、天文18(1549)年、織田信長と政略結婚、生没年不詳。
――
2、
【織田信長:3人の遺児。絶世の美女、生駒吉乃の子】信忠(1557-82)26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【絶世の美女、織田信長の最愛の妻、生駒吉乃。美人薄命39歳で死す】生駒屋敷、生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)。織田信長の子を3人産む。嫡男、奇妙丸(信忠1557-82)、信雄、徳姫。吉乃は1566年、小牧山城にて39歳で死ぬ。信長は号泣した。
――
3、
【絶世の美女、五徳、徳姫、織田信長に十二箇条の手紙】松平信康の正室・徳姫が、実父である織田信長に送った十二箇条の手紙。夫である信康及び姑である築山殿との不仲を訴え、信康の不行状、築山殿が敵の武田家と内通、信康にも武田家への内通を勧誘していると糾弾。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】天正4(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生、幸せに暮らしていた。信康の母、築山殿は信康に「そなたの妻は女の子しかいない。早く男子をもうけなければ。そなたは国守になる身、側室をもつことが国のため」武田家臣の16歳の娘を信康に強引にひき合わせた。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を、使者として信長の元に赴く重臣・酒井忠次に託した。築山殿は武田勝頼と内通
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康は信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
――
4、
徳姫、織田信長、徳川家康、築山殿、武田勝頼
【絶世の美女、徳姫】「当代記」信長、家康に判断を任せると記載。【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にある。築山殿は信長に討たれた今川義元のめい。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る。夫婦仲も冷える。十四歳で家康の元を離れ、母親寄りの信康
5、
武田勝頼、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡。
6、
徳姫の弟、織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う。大坂夏の陣で家康側につく。信雄72歳で死す。
7
徳姫、関ヶ原の戦い、
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】天正10年6月2日、本能寺の変、父信長、自刃。弟、信忠、自刃。徳川家に残された徳姫の娘、福子、国子、家康の家臣に嫁ぐ。1600年、関ヶ原の戦い。1614年、大阪夏の陣。1615年、家康72歳で死す。1636年2月16日(寛永13年1月10日)76歳まで生きる。
8、
【織田信雄、清須会議、大坂夏の陣】
天正10年6月27日の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも、3男信孝でもなく、長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後、豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り、その後切腹に追いこんだ。やがて秀吉と対立、天正12年には,徳川家康と結び、小牧・長久手の戦で秀吉と戦う。このときは単独で秀吉と講和を結び、以後秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。ところが小田原攻めののち、家康旧領への転封を拒んで、秀吉の怒りを買い、下野烏山に配流され,出家して常真と号した。家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが、一貫して家康サイドで動き、大坂夏の陣後、家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられる。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び茶人として知られる。(小和田哲男)
――
【「毒のある木」】私は私の敵に腹を立てた。私は黙っていた。私の怒りはつのった。そして私は それに恐怖の水をかけ 夜も昼も 私の涙をそそいだ。そして私は それを微笑の陽にあて、口あたりのよい欺瞞の肥料で育てた。ウィリアム・ブレイク「毒のある木」寿学文章訳
【毒のある木】その木は 日ごと夜ごと大きくなり ついに きらきら光る 林檎の実を結んだ。そして 私の敵は それが輝くのを見 それが私のだと知り 私の庭へ忍び込んだ 夜が 天空をすっかりおおいつくしたとき ウィリアム・ブレイク『無心の歌、有心の歌』「毒のある木」
――
資料編
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】徳姫は夫の無謀さに落胆。鬼神のようなその残忍さには城下の農民たちも恐れていた。築山殿は家康に見放され、唐人医師と密通。医師を通じて武田勝頼(信玄の四男)に、自分自身のことや長男信康の先のことを任せる旨の企みを誓紙に取り交わしていた。誓紙のことを知った徳姫は、もろもろの事件を安土城の父信長に、十二カ条の手紙にしたためて伝えた。
手紙を呼んだ信長は、家康の重臣、酒井左衛門尉忠次を呼び寄せて、一条一条自ら読み上げた。「その通りです」と忠次が認めると、信長は即座に信康の切腹を家康に命じた。信康の父、家康は苦しい選択を迫られた。信長との同盟は欠くことができないこと。命令に背く恐さも肝に銘じている。家康は信康の処分を避けられなかった。また、すべての元凶となった築山殿の成敗も自ら決心し、実行した。家康は築山殿を浜松に呼び寄せ、佐鳴湖の湖畔で家臣に刺殺させた。その二週間後、信康は二俣城(浜松市)で自刃。20歳。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】
織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。 信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
【信康 なぜ自刃 家康と確執説】
戦国時代、若くして自害した悲劇の武将として知られる徳川家康の長男、信康(一五五九~七九年)。織田信長に謀反を疑われ、家康がやむなく命じたというのが通説だが、最近の研究ではむしろ、家康と信康の父子間対立が原因だったといわれている。
「当代記」には、信康、築山殿を殺害するよう命令があったわけではなく、家康に判断を任せるという異なる書き方になっている。
【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にあった。
築山殿は信長に討たれた今川義元のめいに当たる。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る形になり夫婦仲も冷え込んだ。十四歳ほどで家康のもとを離れ、同じ城で暮らし母親寄りとみられる信康が二十歳過ぎころから自立を図ろうとして、家臣団も対立する中、家康はわが子より自身の重臣とのつながりを重視した。https://www.chunichi.co.jp/article/45266
――
【本能寺の変1582】織田信長の遺体は、信長とともに育った幻の弟、清玉上人が持ち去った。信長と信忠の遺体を阿弥陀寺にて焼き埋葬。『信長公阿弥陀寺由緒之記録』清玉上人は19歳から阿弥陀寺住職。秀吉は信長の葬儀を大徳寺で行う。清玉上人は変から3年後に亡くなる。
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信長の愛刀【義元左文字】桶狭間合戦(1560)の際に、織田信長が分捕った今川義元の愛刀。初め三好政長(法號宗三)の愛刀であつたが、其後武田信虎に傳はり、信虎より今川義元に譲られ、義元戦死の際織田信長之を得て、其の刀身を磨上げた。本能寺の変の時、流失した。
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★参考文献
絶世の美女、地中海奇譚、戦国奇譚・・・『美と復讐の精神史』第1巻
https://bit.ly/2zvn02e
絶世の美女、孫子と美女百八十人、孔子、ヴェニスの商人、シンデレラ、地中海奇譚・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT
絶世の美女、憂愁の王妃、強欲な魔女、才色兼備の美女、ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世・・・美と復讐第3巻
https://bit.ly/3bA0oAw

絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・美と復讐第4巻

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★「黄金の羅針盤」Golden Compass 2007
Jan MassysまたはMetsys Venus of Cythera, 1561
Caravaggio Yudith 1599

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2021年11月 3日 (水)

絶世の美女、憂愁の王妃、才色兼備の美女、強欲な魔女、ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世・・・美と復讐第3巻

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』257回、美と復讐の精神史、第3巻
【運命と戦う美女】絶世の美女は、運命に翻弄され、運命と戦い、知性と美を以って、逆境を超え、波瀾の人生の果てに、どこに到達するのか。絶世の美女は、時間と空間と社会と戦い、命運と戦い、未到の境地に辿りつく。
北方に佳人あり、絶世にして独立。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の城を傾く。
美しい者は美しいゆえに、戦いと苦悩がある。智慧ある者は、美しい。智慧ある者、美しい魂をもつ者は、美しいゆえに、頂点に立つ者の苦悩がある。
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偉大な王は、何を手に入れたのか。価値ある生とは何か。人生の冒険に破れた詩人。人生の戦いに卓越した哲人、理念を追求する思想家。美しい心をもつ人は、輝く天の仕事をなし遂げる人。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保正雄『美と復讐の精神史』
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【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア、幽閉の王妃】夫ジョージ1世(ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒ)に32年間、幽閉された。ゾフィア・ドロテアは孤独で無念の死を遂げる。(Sophie Dorothea von Braunschweig-Lüneburg, 1666年9月15日—1726年11月13日)
【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア】怨みをもつジョージ1世の母から、虐待される。世継ぎの王子ジョージ2世を産むと、王は醜い愛妾に入り浸る。ゾフィア・ドロテアは、スエーデン貴族ケーニヒスマルク伯爵と愛し合う。伯爵は行方不明。飼い殺しの運命。息子もまた父を憎む。憎み合う父と子。
【イギリス王、ジョージ1世、ハノーヴァー朝開祖】54歳でイギリス王位につく。醜い二人の愛人をつれてドイツから移住。妻ゾフィア・ドロテアを32年間、幽閉。(ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒ(1660年5月28日—1727年6月11日)
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【絶世の美女、ゾフィア・ドロテア、フリードリヒ大王の母】
【フリードリヒ大王、父との確執 母ゾフィア・ドロテア】
フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィア・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とよばれる無骨者で芸術を解さない守銭奴。母ゾフィア・ドロテアは後のイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人。フランス宮廷文化に憧れ、教育方針も正反対の2人は対立。王子フリードリヒに大きな影響を与えた。父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術を禁じた。
【フリードリッヒ大王】フリードリッヒ2世。18歳で父王に要塞に幽閉された後、忍従の日々、苦節10年。1740年、父王は死に、弱小国を受け継ぐ。28歳。マリア・テレジアとオーストリア継承戦争、7年戦争を戦う。大王と呼ばれる。
【父を憎む子、子を憎む父】【フリードリッヒ大王】父王に殺されかけた王子、フリードリッヒ2世。哲学書を読み、オペラを聴き、フルートを吹く。父に蔵書を奪われ、一切の藝術を禁止され、食事を禁止、しばしば杖で殴られる。
【フリードリッヒ大王】父王に殺されかけた王子、フリードリッヒ2世。暴力、圧政の父に、18歳で政略結婚を強制され、国外逃亡。手引きした少尉は、皇子の身代わりに、王に処刑される。「あなたのためなら喜んで死にます」
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【ダリ『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934】交尾後、雌カマキリは雄を食らう。雌蟷螂のように、ガラはダリを裏切る。ダリに城を与えられたガラは、淫蕩の限りを尽くす。ダリ「テトゥアンの大会戦」1962には二人のガラが描かれている。シュルレアリスム(超現実主義)の画家ダリ(1904年5月11日-1989年1月23日)
【ダリとガラ、1934年に結婚】1929年夏、ガラ・エリュアールと出会う。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。ガラはダリを誕生させる。27歳の時、『記憶の固執』1931を描き、生涯の最高傑作となる。『柔らかい時計』『溶ける時計』とも呼ばれる。ガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく状態を見てインスピレーションを得た。だが後年、ガラはダリを裏切る。不実な妻ガラに変貌。ダリに城を与えられたガラは、淫蕩の限りを尽くす。
【ダリ『記憶の固執』】ダリのアトリエからみえるポルト・リガトの海と岩と柔らかい時計がある。27歳のある日の午後、溶けた時計が見えた。「私は二つの柔らかい時計を見た。そのうちひとつはオリーヴの木の枝に嘆かわしい姿でぶらさがっていた。」ダリ『わが秘められた生涯』
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【クレオパトラ7世、才色兼備の美女、傾国の美女、ローマ帝国】弟プトレマイオス13世、姉ベレニケ、妹アルシノエを攻略。王宮の官僚と対決。カエサルを誘惑、カエサルの子カエサリオン、プトレマイオス15世を産む。アントニウスと結婚、オクタヴィアヌスとアクティウムの海戦で戦い敗北。39歳で自決。毒蛇に胸を噛ませる
【クレオパトラ7世、才色兼備、エジプト最後の女王】プトレマイオス12世アウレテスの次女。玄宗皇帝の楊貴妃と比肩する傾国の美女。ギリシア系の才色兼備の王女、高い教養、魅力的な会話術、小鳥のような美しい声をもち、ギリシア語しか話さなかった王家で、エジプト語等を話した。プルタルコス『英雄伝』アントニウス伝
【クレオパトラ7世、才色兼備、姉妹の権力抗争】6人兄弟姉妹の権力抗争。クレオパトラ6世(姉)、ベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(弟)。プトレマイオス12世アウレテスの次女、Ptolemaios Auletes(在位前80—前51)紀元前69年—紀元前30年8月12日。アクティウムの海戦で敗れる。
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【マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』「老絵師の行方」】老画家汪佛とその弟子玲は、漢の大帝国の路から路へ、さすらいの旅をつづけていた。のんびりした行路であった。汪佛は夜は星を眺めるために、昼は蜻蛉をみつめるために、よく足をとめたものだ。
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参考文献
絶世の美女、地中海奇譚、戦国奇譚・・・『美と復讐の精神史』第1巻
https://bit.ly/2zvn02e
絶世の美女、孫子と美女百八十人、孔子、ヴェニスの商人、シンデレラ、地中海奇譚・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT

絶世の美女、憂愁の王妃、強欲な魔女、才色兼備の美女、ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世・・・美と復讐第3巻

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クレオパトラとエジプトの王妃・・・生と死の秘密、時の迷宮への旅
https://bit.ly/2jXjM3l
【偉大な王と憂いの妃】アレクサンドロス、クレオパトラ、王妃オリュンピアス、
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
ダリ『記憶の固執』、『記憶の固執の崩壊』・・・スペインの荒涼とした大地、記憶の迷路
https://bit.ly/2PtGnyk
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
https://bit.ly/2vikIlL
生きものと共生する、神々、仏陀、人間・・・守護精霊は降臨する
https://bit.ly/34JOIb2
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大久保正雄 著作目録『旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/HO0RinYljg
著作目録:大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
https://bit.ly/3mzI8gV
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★「恋におちたシェイクスピア」Shakespeare in love.1998
★「黄金羅針盤」Golden Compass 2007
★サルバドール・ダリ「聖アントニウス」1946

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