織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』277回
織田信長は、復讐する阿修羅のようであるが、戦略の達人であるのみならず、天衣無縫の生を生き、理念と美と愛を探求する精神である。信長の根源には、美と復讐と愛がある。
【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年、麒麟『春秋左氏伝』【天下布武、岐阜城】永禄10年、武の七徳『春秋左氏伝』【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正。清靜爲天下正『老子』45章】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』4巻『安土記』天正4年~10年
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
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1、天下布武、岐阜
【天下布武、織田信長】沢彦宗恩が提案した。「武とは戈を止めることである(止戈)」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
【織田信長、岐阜】稲葉山城と呼ばれていた。城主、斎藤龍興を破った織田信長がこの城を1575年に岐阜城と改めた事が岐阜の地名の由来。金華山、山頂にある。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれる。沢彦宗恩が提案した「岐山」「岐陽」「曲阜」から、信長が選んだ。「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に由来。「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるようにという願いからとする。
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2、織田信長、麒麟の花押、足利義輝への手紙、
織田信長【麒麟】有徳の王者の治世には姿を見せるが、殺生を好むような王者が国を治めているときは、姿を隠すと伝えられた霊獣である。【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋左氏伝』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
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3、第六天魔王
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「元亀4(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」*『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。元亀4(1573)年4月20日ルイス・フロイスの書簡。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。空海『秘密曼荼羅十住心論』第三住心、嬰童無畏心『秘蔵宝鑰』第三章。
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4、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。
幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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5、欲界の最頂上、他化自在天
『般若理趣経』経典の《教主》は五智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・清浄法界智)を具えた大毘盧遮那如来であり、《時》はあるとき、《住処》は三界(欲界、色界、無色界)のうち欲界の最頂上にある他化自在天である。
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
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6、【沢彦宗恩、妙心寺派僧】卍元師蛮「延宝伝灯録」によると、妙心寺第一座となるが辞した後は美濃・大宝寺の住持となっていた。その頃、吉法師(織田信長)の傅役を務めていた織田家家臣・平手政秀の依頼を受けて、那古野城に行き、沢彦宗恩が教育係となった。織田信長が元服したあとは参謀として活躍。父・織田信秀の葬儀の際に、織田信長は抹香を投げつけたが、これは沢彦宗恩が提案したとも伝わる。平手政秀が自刃すると、菩提を弔うために織田信長が建立した政秀寺の開山も務めている。岐阜城、その後、京都・妙心寺第39世住持となったあとは、岐阜の瑞龍寺に住んだ。1587年10月2日示寂。1686年「円通無礙禅師」の号が下賜されている。愛知県図書館所蔵『政秀寺古記』がほとんど唯一の資料である。
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7、
【安土城の天主、織田信長の思想の象徴】
安土城の天主は、信長の思想の象徴である。二階は、石蔵の上、柱の数は二百四本、書院に狩野永徳が描いた煙寺晩鐘の景色、唐の儒者たち、鵞鳥の間がある。三階は、花鳥の間、賢人の間、麝香の間、仙人の間があり、柱の数は百四十六本。四階は岩の間、竹の間、鳳凰の間、鷹の間、等、柱の数は九十三本。五階には絵はなく、南と北に破風、六階、八角形の円堂、釈迦十大弟子、釈尊成道説法の図。最上階七階、信長の居室がある。四方の内柱には登り龍、下り龍、天井には天人が舞い降りる図、三皇五帝、孔門十哲、竹林の七賢などあり。【儒学、老荘、仏教、黄金の間】二階は、風景画、儒教。三階は、花鳥画、道教、四階は、鳳凰、六階は、八角形の部屋、仏教、最上階七階、孔子、竹林の七賢。『信長公記』第9巻天正4年。6章。
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8、
【本能寺の変、三職推任問題】天正10年(1582)4月25日、天皇は織田信長に対して、関白・太政大臣・将軍のいずれかに推任しようと申し出た(『天正十年夏記』)。信長に官職の授与を勧めたのは正親町の皇太子・誠仁親王。信長に「どのような官にも任じることができる」
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
【阿弥陀寺、清玉上人】清玉上人は織田家の本拠地・尾張国で生まれた。母親は産気づいたまま道で倒れたところを、信長の兄・信広に助けられた。しかし清玉上人を産んですぐに亡くなった、清玉は織田家によって育てられ、僧として修行をする資金も織田家が工面した。天正十年6月2日、本能寺に兵が集まっていると知ると、清玉上人が駆けつけ、上人は信長の亡骸を持って本能寺を出て供養したと伝わる。阿弥陀寺には信長、信忠、一門の墓がある。
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9、復讐する精神
【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【織田信長、復讐する精神】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信勝2度目の謀反、病気の信長を殺しにきた信勝、清州城北櫓次の間で返り討ち誘殺。弘治三1557年24歳。愛妻、生駒吉乃、嫡男信忠を生む。
【醍醐寺三宝院 元亀4天正元(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信「天下布武」印。1573三方が原の戦い、武田信玄死す4月12日53歳。三年間秘匿。信長包囲網瓦解。
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参考文献
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
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絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
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織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
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10、
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
【この世に不幸な家族に生まれた人物】孔子、アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、カトリーヌ・ド・メディチ、織田信長、武田信玄、伊達政宗。針の筵の日々を生きる、苦悩の人生、怨憎会苦、愛別離苦。人生の旅の窮極は人格を磨くことである。この世に苦しむ人がいることを想え
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
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【東寺、講堂、立体曼荼羅】五智如来と明王の象徴。【五智如来】大日、宝生、阿弥陀、不空成就、阿閦【五菩薩】金剛波羅密、金剛宝、金剛法、金剛業、金剛薩埵【五大明王】不動明王、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉【四天王】持国天、増長天、広目天、多聞天【二天】梵天、帝釈天。
【空海、立体曼荼羅、五大明王、怨敵調伏する】忿怒の形相をもつ五大尊、五忿怒。悪魔を調伏し、仏法を守る守護神。大日如来の変化身。密教で不動明王を中心として四方に配され、魔を降伏させる五明王で、中央が不動、東方が降三世、南方が軍荼利、西方が大威徳、北方が金剛夜叉。
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
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