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2022年10月

2022年10月19日 (水)

ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』294回
青春の日、スペインの灼熱の大地の旅を思い出す。ソフィア王妃芸術センターで「ゲルニカ」1937、プラド美術館でヒエロニムス・ボス『快楽の園』、ベラスケス「ラス・メニーナス」、ティッセンボルネミサ美術館でエル・グレコ展、トレドで「オルガス伯の埋葬」。
パプロ・ピカソ、1881年 - 1973年)92歳で死す。7人の恋人、7つの時代。類稀な才能を開花、4万5千点の作品を残す。藝術の探検隊である。才能によってこの世に成功することは極めて困難であるが、ピカソは才能によって成功を遂げた稀有な例である。
【トマ・ピケティ『21世紀の資本』】「資本主義の富の不均衡は放置しておいても解決できず、格差は広がる。格差の解消のために、なんらかの干渉を必要とする」。その根拠が「r>g」という不等式。「r」は資本収益率を示し「g」は経済成長率を示す。富の蓄積は労働成果より大きい。
【人生の舞台、探検隊】16の性格、外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検隊グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。人生という舞台、自分の必殺技をどう披露するか。特性、強み弱み、どう発揮するか。織田信長は、明晰透徹な指揮官、武の七徳を探求する。
【無能が支配する国、腐敗の帝国】組織における地位は能力を表さない。何も生み出さない、知恵もない、ただの番人が管理階級、搾取階級として君臨する。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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■ピカソ、生涯と藝術、7人の女。7つの時代
(Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)92歳で死す。
スペイン・マラガで生まれた。
1881年 ピカソ誕生。ピカソの母は言う「言葉を覚えるより先に絵を描いていた」。「石膏トルソの習作」(1892)
1900年、19歳のピカソはパリへ 向かう
 しかし芸術の都は甘くなく、思うように絵は売れなかった。ある日、ともにパリにきた友人が自殺。絶望の淵で、それでも筆を握り続けたピカソは苦難の果てにあの色にたどり着く。「自画像」(1901)
ばら色の時代
絵画の革新者の誕生。描く対象をバラバラに分解し、その存在感が引き立つように組み合わせた。「キュビスム」の時代。「アヴィニョンの娘たち」(1907)
新古典主義の時代。40代ギリシア彫刻などに出会い、伸びやかな命があふれる作風が開花する。
第1次世界対戦後 束の間の平穏な時代を反映するかのような光景
同じ画家とは思えないほど極端なまでに変貌を遂げるピカソ
「私は一枚の絵を描く。それからそれを破壊する。一枚の絵は破壊の集積である しかし何も失われはしないんだ」
1937年 ゲルニカへの無差別爆撃。スペイン北部の町ゲルニカをナチスドイツが無差別爆撃。ナチスと手を結んだフランコがドイツ軍に要請した。
1,【 青の時代 】 (1901-1904年)ジャウメ・サバルテスの肖像 (1904)
2,【 ばら色の時代 】(1904-1906年) 座る道化師 (1905)
3,【 アフリカ彫刻の時代 】 (1907-1909年)裸婦 ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907)
4,【 キュビスムの時代 】 (1909-1912年)ピアノの上の静物 (1911-12)
5,【 新古典主義の時代 】 1917年2月-1925年、ピカソはイタリアを初めて旅行。足を拭く座る裸婦 (1921)
6,【 シュルレアリスムの時代 】1925〜1937年、 黄色いセーター (1939)
1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。
【《ゲルニカ》】「ゲルニカ」(1937)第5の恋人ドラ・マールと「泣く女」(1937)
ピカソ【第6の恋人、フランソワーズ・ジロ】1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入る。彼女はピカソよりも40歳年下。パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」「怒るか泣くかしてみろ」「私に発見された恩を返せ」「私のような男を捨てる女はいない」ピカソは、激怒した。
7,【ピカソの晩年、ヴォヴナルグ城】1958-1973
【最晩年】1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジロは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚。
1953年から【第7の恋人、ジャクリーヌ・ロック】
【ピカソの死】パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。
ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百のピカソ作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。
ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席を断った。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独に蝕まれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。
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展示作品の一部
パブロ・ピカソ≪アヴィニョンの娘たち≫の習作 (1907)
パブロ・ピカソ 《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》、1936 年 油彩、カンヴァス 65 x 54 cm、ベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《座るアルルカン》日本初公開1905年 水彩・黒インク、厚紙 57.2 x 41.2cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《窓辺の静物、サン=ラファエル》日本初公開1919 年 グアッシュ・鉛筆、紙 35.5 x 25cmベルリン国立ベルクグリューン美術館
パブロ・ピカソ《丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)》1909年 油彩、カンヴァス 65.1 x 81.3cm
パウル・クレー《中国の磁器》日本初公開1923年 水彩・グアッシュ・ペン・インク、石膏ボード、合板の額 28.6 x 36.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
アンリ・マティス《雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案》日本初公開、1943年 切り紙、カンヴァスに貼り付け 38.1 x 56.8cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託
アルベルト・ジャコメッティ《広場Ⅱ》日本初公開1948-49年 ブロンズ 23 x 63.5 x 43.5cm ベルリン国立ベルクグリューン美術館
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■ピカソが愛した7人の女、作品に与え続けた影響
現代美術の大きな柱であるピカソは女性からインスピレーションを得たせいか、彼の作品数は4万5000点、絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
第1の恋
人、フェルナンドゥオリヴィエ Fernande Olivier
第2の恋人、エヴァ・グエルEva Gouel
第3の恋人、オルガ・クルロバOlga Kokhlov
第4の恋人、マリー・テレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter
第5の恋人、ドラ・マールDora Maar
 1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いの時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。
第6の恋人、フランソワーズ・ジロFrançoiseGilot
 第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らすが、このとき、彼女は二十歳。完璧主義者であり、独占浴が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。
第7の恋人、1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque
 ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期。ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性。彼女は前の夫との間に娘がいる離婚女性、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。
これまで無私なピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
参考文献*
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★参考文献
「ピカソ展−からだとエロス 変貌の時代 1925〜1937年」東京都現代美術館、2004
新古典主義に続く1925年から第二次世界大戦前夜の1937年までの作品160点で構成。シュルレアリストと交流した時代の様々な身体表現を、パリ・国立ピカソ美術館が所蔵する作品を中心に紹介。数多くの女性を愛したピカソの、奔放で力強い作品の数々を十二分に堪能できるまたとない機会といえます。
「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展、サントリー美術館、2008
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展、国立新美術館、2008
「ルートヴィヒ美術館展」ドイツ表現主義からロシア・アヴァンギャルド、抽象絵画まで。国立新美術館2022
「イスラエル博物館所蔵ピカソ ― ひらめきの原点 ―」パナソニック汐留美術館、2022
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
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パブロ・ピカソが愛した7人の女性、作品に与え続けた大きな影響
ピカソが最も恐れた画家「ジョルジョ・デ・キリコ」の不思議な絵
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン・コレクション美術館展、国立西洋美術館、10月8日(土)~2023年1月22日(日)

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2022年10月13日 (木)

没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」

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Hishida-suhsou-kurokineko-1910
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』293回

八百屋の猫を見て竹内栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目惚れし、京都に連れ帰って描き上げた。竹内栖鳳「班猫」1924山種美術館
菱田春草(1874~1911)「白き猫」(1901飯田市美術博物館所蔵)、「黒き猫」(1910年永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)「班猫」(1924年 山種美術館)があり、ともに徽宗の猫を古典として意識している。
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135) 「猫図」
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135在位1100~1125)、は藝術や奢侈遊興にうつつを抜かし道楽に耽った浪子、政治に無関心で軽佻な亡国皇帝。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」は精細な描写が群を抜く。斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われている。
村上華岳「裸婦図」1920年
村上華岳「裸婦図」は、表面的な美ではなく、精神の美を表現している。「霊と肉体が一致した美」であると思う。
観世音菩薩のようでアジャンタ石窟群、仏教美術の雰囲気が濃厚であるが、ルネサンス美術の匂いもする。日本画家、上村淳之が、京都市立藝術大で保管されていた下図を見て鳥の存在を見つけ、ギリシア神話「レダと白鳥」を意識したのではないかと指摘した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
竹内栖鳳「班猫」1924 山種美術館 (重要文化財)
八百屋の猫を見て栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目ぼれし、京都に連れ帰って描き上げた傑作。
村上華岳「裸婦図」1920年 山種美術館 重要文化財
上村 松篁 1902-2001 「白孔雀 」1973(昭和 48)年
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村上華岳は「久遠の女性」だといい、以下のように述べている。
私はその目に観音や観自在菩薩の清浄さを表そうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊でもあるものの美しさ、髪にも口にも、将た腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした。それが私の意味する「久遠の女性」である。
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015には、以下のようにある。
村上華岳(1888-1939)は、生涯を通じて求道的精神で制作に専念し、芸術と信仰がひとつとなる境地を目指して歩みを続けて画家でした。1903(明治38)年、15歳で京都市立美術学校(美校)へ入学、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮を師として画家への第一歩を踏み出します。在学中の1908年には「驢馬に夏草」が第2回文展に入選、20歳という若さで画壇デビューを果たしています。翌年、京都市立絵画専門学校(絵専)に入学、同期の土田麦僊や小野竹喬らと、ともに切磋琢磨しながら意欲的な作品を制作し、画壇の注目を集めます。
ところが、1917(大正6)年、文展での審査基準に疑問を抱いた竹喬や麦僊、華岳ら絵専同期の若手画家たちは文展を離れ、その翌年に「純真なる芸術を創作し公表する」場として「国画創作協会」を結成し、ここで華岳も「裸婦図」など話題作を発表しています。しかし、1921年以降は持病の喘息の悪化と画壇活動による束縛が華岳を苦しめるようになり、1926年の第5回国画創作協会展を最後に華岳は画壇を離れ、翌年に頭・花隈の養家に隠棲して以降は、急進的な創作と施策に沈潜していきました。
「村上華岳―京都画壇の画家たち」
2014年に山種美術館が所蔵する《裸婦図》が、村上華岳の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る特別展「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」を開催いたします。
1888(明治21)年、大阪に生まれた華岳は、神戸で少年時代を過ごした後、京都市立美術工芸学校(美工)、京都市立絵画専門学校(絵専)に学びます。在学中に文展への入選を果たしたものの、やがてその審査の評価基準に疑問を抱くようになった華岳は、1918 (大正7)年には文展を離脱、絵専の同期でもあった土田麦僊、小野竹喬らと新団体「国画創作協会」を結成します。ここで華岳は新鋭の画家たちと切磋琢磨しながら意欲的な作品を発表し、官能性と崇高さが融合した独自の世界を確立していきました。一方、1921(大正10)年頃より持病の喘息が悪化し、同年に予定していた国画創作協会の仲間との渡欧を断念した華岳は、やがて画壇から距離を置くようになっていきます。晩年は制作と思索にふける隠棲の日々を送りながら、ひたすら求道的かつ孤高の制作活動へと向かいます。
本展では、華岳が画家として頭角を現した初期の試みから、理想とした「久遠の女性」を描いた《裸婦図》の完成、そして自己と向き合いながら孤高の境地を追求し続けるまでの作品を通して、その画業をたどります。中でも、盛んに作品を発表し続けた20代から30代半ばは、同時代の関西の画家たちが画壇に新風を吹き込もうと格闘し、優れた作品が生み出された時代でもありました。本展では、《裸婦図》を一つの到達点として華岳の画業の歩みをたどるとともに、美工・絵専時代の師である竹内栖鳳や、同窓生の麦僊や竹喬、国画創作協会でともに活動した岡本神草や甲斐庄楠音らの作品にも注目し、同時代の京都画壇の歩みをふり返ります。「山種美術館」ホームページ
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参考文献
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人・・・哀愁のイタリア、『ベニスの月』
https://bit.ly/394zM7A
「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015
板倉聖哲「画猫の系譜 ―徽宗・春草・栖鳳― | 「淡青」37号より
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00010.html
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」・・・生きとし生けるもの、一切衆生悉有仏性
https://bit.ly/2G8mPkd

没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」

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動物を描けばその体臭までも表す
近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳 (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万 博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。
没後80年を記念し、山種美術館では10年ぶりに竹内栖鳳の特別展を開催します。本展では、動物画の傑作にして栖鳳の代表作《班猫》【重要文化財】をはじめ、東京国立博物館所蔵の《松虎》(前期展示)、個人蔵の初公開作品を含む優品の数々とともに、その画業をたどります。さらに、京都画壇の先人たち、同時代に活躍した都路華香(つじかこう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)のほか、栖鳳の門下である西村五雲(ごうん)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちっきょう)らの作品もあわせて紹介します。また弟子の一人、村上華岳(かがく)による《裸婦図》【重要文化財】を特別に公開します。
近代日本画の最高峰といえる栖鳳の傑作の数々、そして京都画壇を代表する名だたる画家たちの名品をご堪能ください。
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2022/takeuchiseiho2022.html
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没後80年記念「竹内栖鳳」、山種美術館、10月6日(木)~12月4日(日)

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2022年10月10日 (月)

宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長

Chambord-2021
Chambord-1519
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』292回

国家と宗教の戦い、第2巻。プラトンの学園アカデメイア閉鎖、メディチ家の戦いとプラトン・アカデミー、ルネサンスとローマ教皇庁の戦い、織田信長と比叡山、石山本願寺戦争
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1.【神々の滅亡】テオドシウス1世
392年テオドシウス1世は、異教禁止令を発布、異教の供犠と祭式を彈圧する。426年テオドシウス2世(401-450.在位408-450)は、異教神殿破壊令を発布する。これ以後、偉大な古代ギリシアの聖域は、破壊され砂塵の中に埋もれ、19世紀まで1500年の眠りを眠ることになる。
例えば、394年オリュンピア祭典は禁止され393年の祭典が最後となり、デルポイの神託は4世紀以後行なわれなくなる。古代ギリシアの密儀、デイオニュソス、エレウシス、オルフェウスの秘儀がこの地上から姿を消し、再び蘇ることはなかった。
【皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖】
529年、皇帝ユスティニアヌス1世(483-565)は、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。プラトンがBC387年に開いて以來、アカデメイア9百年の歴史が息の根を止められる。
かつて4世紀までローマ帝國の下で迫害されたキリスト教は、4世紀以後、異教を彈圧、迫害する。キリスト教による迫害によって、多彩なギリシア文化やオリエントの宗教が歴史の舞臺から姿を消す。偉大なギリシアの文化遺産とギリシアの生ける知の体系が滅ぼされたことは、人類史にとって悲劇であると言わねばならない。
参考文献
神々の黄昏 皇帝テオドシウス 多神教祭儀を禁止。ローマ帝国滅亡。皇帝ユスティニアヌス1世、プラトンのアカデメイア閉鎖。529年*
https://t.co/OSyk6Kzoq3
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2,神々の復活、ルネサンス メディチ家の戦い、メディチ家とプラトン・アカデミー
【ルネサンス】フィレンツェで1439年から60年間繰り広げられた新プラトン主義の人文主義者たちの思想運動。メディチ家はシクストゥス4世と戦い、ジュリアーノはパッツィ家の陰謀で暗殺、ロレンツォは1492年死に、詩人ポリツィアーノは94年毒殺、ピコ・デラ・ミランドラも94年毒殺、フィチーノは1499年死ぬ。
【メディチ銀行創設】ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360-1429)、父は羊毛商のアヴェラルド・ディ・メディチ(1383年没)。一族の銀行家ヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年⁻1395年)のもとで修業。1397年、ローマから移転、メディチ銀行をフィレンツェに創設。枢機卿バルダッサーレ・コッサ(を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた。1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にする。フィレンツェの「正義の旗手」、外交大使なども歴任。建築家フィリッポ・ブルネレスキを支援。
1、ルネサンス、包囲されたフィレンツェ ロレンツォ暗殺の陰謀、フィレンツェ包囲網、対教皇庁戦争(1474-1480)。イタリアの戦国時代。ロレンツォ(1449-1492 1469から当主)は、稀代の戦略家であり教養人である。イタリアの天秤の針。1479ナポリ王フェランテを説得、和平交渉する。
パッツィ家の陰謀(1478)。真の犯人は、フィレンツェに敵対する、戦争好き陰謀家の法王。陰謀家シクストゥス4世(在位1471-1484)の陰謀。銀行家パッツィに命じる。
2、メディチ家とプラトン・アカデミー
15世紀に蘇った哲学はプラトン哲学である。1439年7月6日フィレンツェ公会議で、コジモ・デ・メディチはギリシア人哲学者プレトンの講義をきき、プラトン哲学の奥義に感銘をうけ、「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を構想した。コジモは、1462年マルシリオ・フィチーノにプラトンの原典とカレッジの別荘を与え、プラトン全集の翻訳を依頼した。コジモは1464年に死ぬ。しかしフィチーノは1477年に完成した。ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は1492年死に、プラトン・アカデミーの思想家たちは、1498年までに次々と死ぬ。だが、フィレンツェから始まったルネサンスはヨーロッパ文化史に深い影響を与えた。*
アカデミア・プラトニカは「美しい精神をもつ人々の自由な集まり、プラトンに捧げられた集まり」である。*フィレンツェ・プラトン主義の愛と美の哲学はミケランジェロたちルネサンスの藝術家に影響を与えた。「魂の美は、肉体における美より美しい」「魂の眼は肉眼が老いる時やっと輝き始める」*
3、プラトン哲学の奥義
プラトン・アカデミーの思想家が学んだプラトン哲学の奥義は、魂の哲学と美の哲学である。「魂は不死不滅である」。「本質は眼で見ることができない」「本質は心の眼によってのみ見ることができる」。「魂の美が存在する」「魂の美は、肉体における美より美しい」。魂と本質の哲学である。プラトン哲学の影響は、フィチーノ『プラトン神学』『饗宴注解』に顕著である。*
4、ルネサンスの終焉、メディチ家追放、サヴォナローラの死
ロレンツォがピコの助言により招いたサヴォナローラに欺かれ裏切られる。サヴォナローラは、間諜=工作員(死間『孫子』用間編)である。シャルル8世のフィレンツェ侵攻(1494年)を予言。1494年、メディチ家、フィレンツェから追放される。「虚飾の焼却」1498年、ルネサンスの藝術、焼かれる。サヴォナローラ、法王アレクサンデル6世を批判、怒り受け破門。1498年5月23日、シニョーリア広場にて処刑される。16世紀、ミケランジェロのマニエリスムの時代、17世紀、カラヴァッジョのバロックの時代が始まる。マニエリスムの藝術家は、フィグーラ・セルペンティナータ(蛇状曲線)を駆使する。*
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
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3,理念を探求 五徳、麒麟、天下布武 織田信長と比叡山、石山本願寺との戦い
【本能寺の変と三職推任問題】【明智光秀、計略と策謀の達人】
【比叡山焼討事件】1435年、6代将軍、足利義教が行った比叡山攻撃とその後、根本中堂自焼。延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し斬首する。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼討。1571年、織田信長、延暦寺根本中堂焼かず。
【織田信長、石山戦争】元亀元(1570)~天正8(1580)年まで11年間にわたり、織田信長と浄土真宗本願寺勢力とが戦った戦い。「宗教弾圧する権力者・信長」と「権力者に抵抗する本願寺勢力」という構図ではない。本願寺は幕府の勅願寺、幕府からは加賀守護に準ずる地位。百姓の持ちたる国。石山本願寺は、三好三人衆、浅井朝倉、毛利、幕府と政治的関係により、時に信長に敵対する。
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【山科本願寺、細川晴元の戦い】石山本願寺は、元々京都市山科区にあった浄土真宗の寺院「山科本願寺」が細川晴元らによって火を放たれた後、当時大坂にいた浄土真宗の僧侶・証如が、現在の「大坂城二の丸」あたりに山科本願寺にあった仏像などを鎮座したのが始まり。
石山本願寺と細川晴元らの戦いは続き、石山本願寺は、寺領を拡大するとともに城郭建築の技術者を集め城を築く。
【織田信長、石山戦争】本願寺が信長に反旗を翻したのは、権力者への抵抗、信仰上の理由ではなく、畿内を中心とする諸大名との関係のため、突き詰めれば政治的理由による蜂起。信長が義昭を奉じて上洛する際の関係、『顕如上人文案』永禄10(1567)年11月7日「いよいよ上洛されるのはまことにめでたいこと」と挨拶、本願寺法主である顕如は義昭と信長の政権を歓迎。
【伊勢国長島一向一揆(1571,73,74年)】無差別殺戮でおよそ2万人が虐殺され、【越前一向一揆(1580)】1万人以上が討ち取られて壊滅。信長と一向宗との戦い、容赦ない残忍な戦い、それはよくある軍事的作戦であって、一般の民衆は容赦するように命じて指導者のみを処断した。
参考文献
神田千里『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年)
神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)
神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。「御すいにん候て然るべく候よし申され候」。5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答した、返答の内容は不明である。6月2日、早暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』、小和田哲男『明智光秀』、ルイス・フロイス『回想の織田信長、ルイス・フロイス「日本史」より』
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参考文献
アカデメイア閉鎖
大久保正雄『地中海紀行』第21回1 P27
神々の黄昏 皇帝テオドシウス 多神教祭儀を禁止。ローマ帝国滅亡。皇帝ユスティニアヌス1世、プラトンのアカデメイア閉鎖。529年*
プラトンは、紀元前387年四十歳の時、アカデメイアの地に學園を設立した。アカデメイア916年の歴史を終焉。
https://t.co/OSyk6Kzoq3
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ルネサンス、メディチ家の戦い
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
https://bit.ly/3aX26KN
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
http://bit.ly/2kSINKR
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
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織田信長、理念のための戦い
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
https://bit.ly/3HjY9zO
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
「桃山―天下人の100年」、東京国立博物館、
「桃山―天下人の100年」東京国立博物館・・・室町幕府崩壊、戦国武将、愛と復讐の壮大なドラマ
https://bit.ly/3lDIoIq
「桃山―天下人の100年」2・・・金碧障壁画、織田信長と狩野永徳、秀吉と長谷川等伯
https://bit.ly/31DlCc0
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
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宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
https://bit.ly/3xYWHQv
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
https://bit.ly/3Tcilcj
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2022年10月 4日 (火)

「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』291回

曜変天目は、織田信長の見果てぬ夢の残像。幻の曜変天目、もう一つあった。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。足利義政、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより。世に残らず。
【本能寺の変、織田信長と天下三肩衝】信長入手当時、「初花肩衝」は「新田肩衝」に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていた。信長は当時「楢柴」を所持していた島井宗室に対して献上するよう申し入れていた。天正十年6月1日、本能寺の茶会で、天下三肩衝が披露された。翌日、6月2日払暁、本能寺の変。

織田信長【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』(1582年)4月25日、5月4日に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずる。 5月、朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献*今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岩崎彌太郎《一行書「猛虎一声山月高」》と書いたが、どのような青雲の志を抱いたのか。三菱創業の初代岩崎彌太郎、岩崎小彌太は、優れた美術コレクターである。
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》。完全な形で日本に現存するのは3点のみとされる。こちらは徳川将軍家より3代将軍家光の乳母・春日局の手を経て、淀藩主稲葉家に伝来した。家光が春日局に、服薬のために献じた。大小の斑文の周りを青色や虹色に輝く光彩が囲み、宇宙の星を覗き込むような心になる美しい茶碗。河野元昭(静嘉堂文庫美術館館長)は、「曜変天目 の美は言葉では語れない」と述べる。
華麗な光源氏の一行と船中の明石君とのすれ違う恋を描いた俵屋宗達の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》「澪標図」。
国宝《太刀 銘 泡永》、太刀の妖しいほどの輝き。
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★展示作品の一部
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》建窯、南宋12-13世紀
重要文化財《油滴天目》建窯、南宋12-13世紀
国宝《太刀 銘 泡永》
唐物茄子茶入《付藻茄子》《松本(紹鷗)茄子》は、信長・秀吉・家康に伝来した大名物。これらは1615年大坂夏の陣で大破したが、その破片を集めて、塗師の名工である藤重藤元(ふじしげ とうげん)・藤巌(とうがん)父子によって漆繕いされて復元された。
国宝 伝 馬遠《風雨山水図》南宋時代・13世紀 静嘉堂文庫美術館蔵
[前期(10月1日(土)~11月6日(日))展示]
(国宝)《風雨山水図》馬遠筆の伝承を持つ
(重要文化財)画僧・牧谿の《羅漢図》
(重要文化財)酒井抱一《波図屏風》江戸時代・1815年(文化12)頃 静嘉堂文庫美術館蔵
[後期(11月10日(木)~12月18日(日))展示]
国宝 俵屋宗達《源氏物語関屋澪標図屏風》、17世紀
尾形光琳《住之江蒔絵硯箱》(重要文化財)、18世紀、酒井抱一《波図屏風》、
鈴木其一《雪月花三美人図》、19世紀
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【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-13世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
★参考文献
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
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★静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展I「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」
静嘉堂文庫美術館、2022年10月1日(土)から12月18日(日)まで
(静嘉堂@丸の内)住所:東京都千代田区丸の内2-1-1 明治生命館 1階
明治生命館(昭和9年〈1934〉竣工)
https://www.seikado.or.jp/

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