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2022年11月

2022年11月30日 (水)

京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』299回
空海『聾瞽指帰』『秘密曼荼羅十住心論』から1200年、空海の思想が蘇る。時を超えて、聖なる知恵は邪知暴虐と戦い、天人の敵、悪鬼羅刹を滅ぼす。
8世紀末、空海と嵯峨天皇の時代から、京都は学問と藝術の都であり続け、足利義満、義政、16世紀、織田信長、狩野永徳、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦、18世紀、尾形光琳、伊藤若冲、円山応挙の時代まで、1000年間、文化の中心だった。
【桜開花の京都、庭園めぐり】桜開花の密教寺院に宿泊し、桜開花の京都、京都の庭園めぐりした日々を思い出す。龍安寺、銀閣寺、金閣寺、大徳寺、龍光院、仁和寺、醍醐寺、東寺、妙心寺、智積院、東福寺。醍醐寺三宝院の庭に佇むと、安土桃山時代の桜吹雪が蘇る。
【『理趣経』第三段】「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとひ三界の一切の有情を害すも悪趣に堕せず」
空海【聖なる者は悪を滅ぼす】【『理趣経』「第三段」】の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、空海は三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならないとしている。*三毒。貪欲・瞋恚・愚痴。貪瞋痴。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【狩野永徳の死、鶴松の死、久蔵の死】天正18年9月14日永徳の急死によって、等伯に突然の好機が訪れる。秀吉の3歳で亡くなった愛児、鶴松の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込む。完成させた絵「楓図」。この傑作により等伯は秀吉に認められる。【長谷川久蔵の死】久蔵が26才で急死。久蔵の死の悲しみが『松林図屏風』を作らせる。久蔵(1568~1593)は「櫻図屏風」を描いて93年26才で死に、『松林図屏風』(1594,95?)完成。
【狩野永徳の死】長谷川等伯の長男久蔵が工作員を雇い、狩野派の首領、四十八才の狩野永徳を毒殺させた。1590年、狩野永徳の急死により、等伯に好機が回ってくる。秀吉の子、鶴松が3歳にして亡くなり菩提寺・祥雲寺(智積院)を建立。襖絵制作の大仕事が回ってくる。等伯『楓図』久蔵『桜図』。
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■長谷川等伯・・・苦難の生涯、72歳で死す
安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)。等伯は能登の国七尾で生まれ、仏絵師となる。元亀2年(1571年)頃、養父母の死を契機に息子久蔵を連れて上洛。18年間、雌伏の歳月を生きる。天正17年(1589)51才で、大徳寺三玄院襖絵「山水図」(現圓徳院蔵)、大徳寺三門楼上の壁画制作。妻妙清を迎える。狩野派の妨害工作に遭う。最大のライヴァル狩野永徳(1543~90)は1590年48才で過労で急死、支援者・千利休(1522~1591)は91年に死に、息子久蔵(1568~1593)は「櫻図襖」を描いて93年26才で死に、秀吉(1536/37~1598)は98年に死ぬ。等伯は1610年に徳川家康に招かれ江戸に着いて2日後72才で死ぬ。かくて狩野派は御用絵師として江戸末期まで隆盛し、長谷川派は町絵師として生きることになる。
人生は苦難の連続で残酷だが、乗り越える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「没後400年、長谷川等伯」図録、東京国立博物館、2010
長谷川等伯展・・・荒寥たる自然と生命の美
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』
https://bit.ly/3VzQ54h

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展示作品の一部
長谷川等伯、国宝「楓図」六面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
長谷川久蔵、「桜図」五面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
国宝 張即之「金剛経」(部分) 一帖 南宋時代 1253年(宝祐元年) 智積院
重要文化財「瀑布図(滝図)」一幅 宋時代 13世紀 智積院
重要文化財「孔雀明王像」鎌倉時代 14世紀
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京都・東山に建つ智積院は、弘法大師空海(774~835)から始まる真言宗智山派の総本山で、全国に末寺約3,000を擁します。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁(かくばん)(1095~1143)の法統を受け継ぎ、後に隆盛を極めた紀伊国根来寺(ねごろじ)山内で室町時代中期に創建されました。
天正年間には豊臣秀吉政権の下で一旦衰退しますが、その後、徳川家康の寄進を受け、江戸時代初期には現在の地に再興を遂げました。この地には元々、秀吉の夭折した息子・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建てられた祥雲寺があり、長谷川等伯(1539~1610)と息子・久蔵(1568~93)が描いた名高い金碧障壁画群も、智積院による手厚い保護を受けて今日まで大切に守り伝えられてきました。
本展は、国宝「楓図」「桜図」など、誰もが知る障壁画群を初めて寺外で同時公開し、桃山時代の絢爛豪華な抒情美にふれる貴重な機会となります。また、国宝「金剛経」や重要文化財「孔雀明王像」の他、仏堂を荘厳(しょうごん)する仏教美術の貴重な優品や、近代京都画壇を代表する堂本印象(1891~1975)による「婦女喫茶図」に至るまで、智積院が秘蔵する多彩な名宝を一堂に公開します。
――
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
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弘法大師、空海ご誕生1250年、
京都・智積院の名宝、サントリー美術館
開催期間:2022年11月30日(水)〜2023年1月22日(日)

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2022年11月27日 (日)

戦争は作られる。孫崎享『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、ソフィア文化芸術ネットワーク


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『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄
上智大学ソフィア文化芸術ネットワーク、2022年5月29日、上智大学1号館402教室
孫崎享、元外務省国際情報局長、元駐イラン大使
――
【質疑応答】孫崎享×大久保正雄

大久保正雄
1【日本政府、自民党は、なぜ、改憲するのか】
したがっているのか。なぜ、改憲して、戦争に導こうとするのか。米国の共和党政権は軍需産業、民主党は平和主義と思っている愚か者がいる。自民党政権が、改憲、緊急事態条項を要求するのは何故か。

孫崎享
【憲法9条、改憲を求めるのは米国】
米国は「2プラス2閣僚会議」で、日本に政治的な要求をする。何でも、日米合同委員会で決定するわけではない。
【米国は、民主党政権、共和党政権、ともに軍産複合体に支配されている】トランプ大統領は、軍産複合体を排除しようとしたが、イヴァンカ娘婿ジャレド・クシュナーはユダヤ人で軍産複合体。オバマ政権は軍需産業が支配、イスラム国ISISはオバマ政権=民主党が作りだした、作られたテロリズムである。

大久保正雄
2、【ウクライナ戦争の仕掛け、原因は何か】
戦争は金持ちが起こして、死ぬのは貧乏人である。戦争は武器産業の利益のために起こされる。
ウクライナ戦争、戦闘するのはロシア兵とウクライナ兵、米国は武器提供するだけ。台湾有事、戦争するのは中国と周辺国、米国は武器提供するだけ。米国は有事を起こす。米国は、中国と周辺国を戦争するよう、仕掛けているのか。

孫崎享
【米国、民主党政権と軍産複合体】
ロッキード・マーチン社の利益は、過去最高の利益。アメリカは火種を撒いてウクライナ戦争を煽り軍事産業に儲けさせたが、国内総生産GDPは落ち込み物価暴騰、昨年6000万円で買われた家が今は8000万円出さないと買えない。バイデンの支持率は35%に急落、今年11月の中間選挙を見据え、巻き返しを画策。
バイデンの支持率がどうなるかが、ウクライナ戦争の行方を左右する。

大久保正雄
3、米国は戦わず武器提供する。この構図を台湾有事に用いられるのか
ウクライナで、ロシア人とウクライナ人が戦い、米国は戦わず武器提供する。今後、台湾有事で、中国人と台湾人と日本人が戦い、米国は戦わず、武器提供する。
戦争を煽り、焔を炎上させる米国。共和党政権、民主党政権、両方とも、軍産複合体と金融資本の奴隷。民主党政権がリベラルと思うのは、いかさま際政治学者。「軍産複合体の利益が目的」。JFK暗殺事件は軍需産業が計画しCIAが指揮した。ヤヌコビッチ政権は市民の民主化革命で打倒されたと報道されるが、アメリカによるクーデター計画がある。ゼレンスキー政権は独裁政権である。ウクライナ戦争によって、世界的規模の資源危機、食糧危機、物価高騰、影響は測り知れない。プーチン大統領は独裁政権であるが、ゼレンスキー政権は独裁政権化している。停戦に向けて努力すべきである。

孫崎享
【ウクライナ戦争と台湾有事】
米国は、今後、ウクライナ戦争を起こした構図を、台湾有事に用いる可能性はある。自民党政権は戦争を起こしたがっており、そのために、1、軍事費、防衛予算倍増計画、2、緊急事態条項、国会議員の任期延期、3、自民党政権の改憲案は、軍事政権の計画である。米国、民主党政権も、共和党政権も、軍需産業に支配されており、自民党政権は、米国の要望に応じて行くだろう。真の平和を守るためには、「戦争の罠」「台湾有事の罠」を拒否しなければならない。
ウクライナ戦争は、ウクライナが停戦の条件を受け入れれば、すぐ止めることができる。

4、『トゥキュディデスの罠』覇権国と新興国の覇権争い
大久保正雄
ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、フランスとハプスブルク家の戦いを分析して、覇権国は新興国に負けると結論した(グレアム・アリソン『トゥキュディデスの罠』)。今後、国際政治はどう展開するのか。戦争で利益を得るのは誰か。

孫崎享
【アメリカのパクス・ロマーナは終わった】
ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、台湾有事で、米国と中国が衝突すると、米国が中国に敗北する、と分析している。未来の国際政治は、中国とインドが世界の指導的立場に立つ。米国は経済においても、政治においても、衰退していく。米国のパクス・ロマーナは終わった。
――
孫崎享【講演会、論旨】
外交官の経験に基づく、他の追随を許さない国際関係の緻密な分析、ウクライナ問題の解決方法。快刀乱麻を断つ戦術分析、一刀両断の戦略分析、西側マスコミに迎合しない情報分析。観客の反応は好評であった。大久保正雄 2022年11月27日
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【ウクライナ問題の解決】「1、NATOをウクライナに拡大しない。2、ウクライナ東部の自治を認める」。キッシンジャーは2014年これを提言した。
洋画家松本俊介は1941年戦争に反対した。なぜ、戦争に加担するのか。日本はウクライナには関係ないのに何故経済制裁に加担するのか?
【平和の為に外交する】日本は軍事力増強するより平和の為に外交する事が生きる道である。日本の報道はプーチン悪で各社一致しているが、ウクライナ侵攻の前2014年から8年の内戦を解説していない。ウクライナ問題は攻め込んだプーチンが悪いがNATOも悪い。
【アメリカ、武器提供】アメリカはウクライナでやった様に武器だけ与えて戦争には直接参加しない。これを東アジアで応用すれば日本が最前線に自衛隊が参戦してアメリカは参戦しない。自民党は憲法改憲して戦争の出来る国にするがアメリカの圧力で憲法改憲したら大変な事態になる。バイデン政権を支持するのは金融資本と軍需産業だが、金融資本が離れる時、バイデンがウクライナ介入を辞める時。東アジアで中国と周辺国の危機が作られる恐れがある。
【覇権争い、その行方】米国とロシアの覇権争いは米国が制するが、米国と中国の覇権争いは中国が制する。
【米国と中国が衝突、その行方】ハーバード大学教授、グレアム・アリソンは、台湾有事で、米国と中国が衝突すると、米国が中国に敗北する、と分析している。未来の国際政治は、中国とインドが世界の指導的立場に立つ。米国は経済においても、政治においても、衰退していく。米国のパクスロマーナは終わった。
【文化人でも戦争に賛同する人、御用学者、御用芸人】
文化人でもウクライナ戦争に賛同する人がいる。第2次大戦前、文化人でも戦争に賛同する人がいた。無駄な外国の戦争に巻き込まれる必要はない、と言った芸術家はまれである。

注、松本竣介は「みずゑ」1941昭和16年4月号において『生きてゐる画家』という一文を発表。その中で画家は「一切の芸
術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染みこんだ、肉体化したもののみに限り、それ以外は表現不可能といふ、厳然とした事実を度外視することはできないのである」昭和20年10月の「芸術家の良心」で、戦争画を描いていた画家たちの、戦後の変容に対して、彼は痛烈な言葉を投げかけている。「僕なんかは、日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思われることが、なによりもさびしい。(云々)」
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』298回
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孫崎 享
@magosaki_ukeru
11月29日
現実、NYT「ロシアを逃れた反戦活動家達は米国で遭遇したのは自由でなくて、収容所。数千名のロシア人が南部国境を越え亡命を求めた。多くは移住監獄所に入る結末を迎えた。その一人の科白”私はロシアを脱出した。そして見つけた場所はロシアの様だった」。米国で反戦者が歓迎されるはずがない。
Koichi Nakano@Progressive! Channel
@knakano1970
11月29日
防衛費5年で倍増を首相指示と一面トップに出たけど安保法制に反対した皆さんそろそろ声をあげませんか?てか何のために反対したの?
明文改憲は無理でも憲法はもう解釈で突破したから何でもあり、みたいな雰囲気だけど「抑止」神話の果てに避けられる戦争に突っ込んで殺し殺されるのは私たちですよ。
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ファシズム14の兆候、孫崎享×大久保正雄『国家権力の謎』第11回
検察は権力の奴隷、マスコミは追及せず。独裁政権、止めるシステムなし。
孫崎享×大久保正雄『国家権力の謎』第10回
ミサイルは、迎撃できない。孫崎享×大久保正雄『国際政治の舞台裏 核の傘は存在するのか』ソフィア文化芸術ネットワーク
戦争は作られる。孫崎享『国際政治、覇権争い、ウクライナ戦争』【質疑応答】孫崎享×大久保正雄、ソフィア文化芸術ネットワーク

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2022年11月24日 (木)

「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』297回
【秦の謎、兵馬俑の謎】なぜ550年続いた春秋戦国の群雄割拠の世を、秦の嬴政が統一できたのか。始皇帝となりえたのか。なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑を作ったのか。なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか。戦国時代、西の果ての秦は弱小国で、馬の飼育に長け、西方文化と接触した。
【アレクサンドロス大王、帝国の謎、前334年から前323年】マケドニアの騎馬隊と重装歩兵長槍密集隊を思い出す。
――
【秦、始皇帝】嬴政・・・権力の頂点に立つ者の猜疑と残虐
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。父が、敵国趙の人質であったため、趙で苦労した。13歳で秦王となって、わずか9年にして、統一をなし遂げる。22歳で始皇帝となり、51歳で死にまで君臨した。秦は十数後滅亡。紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一。
死後なお地下帝国に君臨しようとした秦始皇帝の凄絶な欲望。権力に憑かれた人間の妄執。几帳面で、細部を一一記憶し、偏執狂的な性格。末梢にこだわる。一度の誤りも許さず、何年も記憶する。
権力の頂点に立つ皇帝の猜疑心と暴虐と妄執。周到な猜疑の目、苛烈、残忍な暴君。権力に盲従する取りまき、扈従の群れ。この世の悪霊。悪霊は、天によって滅ぼされる。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【始皇帝、嬴政、政治と文化】
嬴政(えいせい)に仕えた兵法家尉繚によると、「目は切れ長で、鼻は非常に高く、鳩胸。」「声は山犬のよう」「他人を食い物とし、必要とあらばどんな人間にもへりくだる。」「王が中華統一をすれば、みな奴隷となる。」将軍、王翦は「大王は粗暴で、誰も信用しない。」「一度疑ったら死ぬまで疑い続ける」。
戦国の七勇のなかで、わずか9年にして、統一をなし遂げる。情報収集力にたけ、敵国に何人も間者を送った。中国史上最強の暴君として名を留める。
【暴君】「敵を殲滅する力と、維持をする力は別である。」「万里の長城建設など、人々の苦しみを理解しない。」
【法治主義 韓非子】秦の将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討伐した宴の席。(紀元前215年~214年)「古い王朝の在り方を見習うべき」という意見があった。嬴政は、丞相の李斯に相談する。「時代に合わせて変化しない法など、無意味である。」嬴政は、「韓非子」に基づいて判断した。
【焚書坑儒】「学者は古い書物を持ち出し、喚きあうだけ。」「現実を見ようとせず、机上の空論を正しいものとし邪魔をする。」紀元前213年。丞相の李斯は「国庫にある古い本以外、全て捨てるべき。」と進言。嬴政もこれに同意し、許可する。
【坑儒】学者廬生は「処刑を楽しんでばかりで中華は震え上がり、うわべの忠誠を尽くす。」「天下を我が物とする独裁者なり」と進言した。
嬴政は、460人近い学者を集め、質問攻めにする。しかしどの学派の学者に聞いても、誰かの悪口を言うのみで、正しい情報が得られない。その場の全員を捕え、紀元前212年、捕えた全員を生き埋めにする。
【戦国時代の学術、諸子百家】春秋末期から戦国中期、諸子百家があらわれた。古今の人を、上上聖人、上中仁人、上下智人、中上、中中、中下、下上、下中、下下愚人。九種類に分類する。(王充『論衡』)道家は上人以上を語り、法家は中人以下を管理する。諸子百家は、共存しうる。
【兵馬俑の謎】なぜ始皇帝は等身大の兵馬俑を作ったのか。殉葬を避けるため、兵馬俑を作った。空前絶後の等身大の兵馬俑。孔子は、俑について「人間の魂を吹き込んだような俑を作ったから殉葬の風習が生まれた」と批判した。
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【アレクサンドロス大王、東方遠征の謎、前334年から前323年】マケドニア王フィリッポス2世は、テーバイに人質となり、重装歩兵密集隊戦術を学んだ。祖国に帰り権力を統一し、騎馬隊の組織化、重装歩兵、長槍密集隊などの戦法を採用、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱に乗じてギリシア本土に侵攻した。哲学を学んだ。前338年、カイロネイアの戦いでアテネ、テーベなどのポリス連合軍を破り、ギリシア本土の都市国家を屈服。【フィリッポス2世暗殺事件】前336年春、フィリッポスは娘クレオパトラ(アレクサンドロスの妹)と隣国モロッソイの王子との結婚式。初夏の古都アイガイで、護衛官パウサニアスが王を刺殺。フィリッポス2世、46歳。暗殺事件の背後にフィリッポス2世の妻オリュンピアスとその子アレクサンドロスがいた。20歳でアレクサンドロス3世、マケドニア王即位。前334年から前323年まで、アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシア帝国からインドに及ぶ帝国建設。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
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展示作品の一部
鹿紋瓦当、戦国秦
青銅長剣、兵馬俑1号抗から出土、秦始皇帝陵博物院
鎏金青銅馬、前漢、前3世紀、漢の武帝、1981年、陝西省興平県出土、陝西省茂陵博物館蔵
里耶秦簡、秦、前3世紀、里耶博物館
金印「王精」、前漢、前3世紀、里耶博物館、秦始皇帝陵博物院
戦車馬、 統一秦 秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
2号銅車馬[複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
 始皇帝の陵墓の西、銅車馬坑から見つかった2両のうちの1両。こちらの2号は、御者が立ち姿で操縦する1号の立車に対し、御者が正座で操縦しており、安車と呼ばれる。始皇帝が乗った馬車。実物を2分の1サイズで復元《2号銅車馬》(複製品)、6000件の部品がつなぎ合わされ復元。御者の手綱や部品が精巧に再現されている。
高さ106・2センチ、長さ317センチ、幅176センチの青銅製の銅車馬が作られたのは、始皇帝が生前に巡行した威容を残しておくため。4頭だての牽引(けんいん)力は、中2頭と外2頭で異なる。中2頭の首には軛が覆い被さり、横木で連結されている。その横木と車体中央から伸びた轅(ながえ)が十文字に結ばれ、車体を牽引する。両脇の2頭にも牽引用の綱はあるが、補助的な役割。
1号銅車馬(写真左)、2号銅車馬(写真右) [複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
戦服将軍俑、高さ196cm秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
立射俑、高さ178cm、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
軍吏
俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪射俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪座俑、 統一秦 高さ64cm 秦時代・前3世紀、秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
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★参考文献
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社2004
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
平勢隆郎『都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国』講談社2005
吉川忠夫『秦の始皇帝』講談社学術文庫
「始皇帝と大兵馬俑」・・・皇帝の猜疑心と残虐
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」2022
「始皇帝と大兵馬俑」東京国立博物館、2015
始皇帝を守る最強地下軍隊「兵馬俑」に会いに行こう-AraChina中国旅行:
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎
https://bit.ly/3EBrm8O
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★展覧会概要
古代中国の知られざる秘密が明かされる
紀元前770年、周王朝は洛陽に遷都したが、次第にその権威は失われ、各地で有力な諸侯が独立していく時代に入った。約550年続いたこの群雄割拠の世が、後に言う春秋戦国時代である。
紀元前221年、秦の始皇帝がついにこの戦乱を終結させ、史上初めて中国大陸に強大な統一王朝を打ち立てた。わずか十数年のうちに秦は滅亡した、始皇帝の墓に眠る兵馬俑、万里の長城の遺物は、当時の絶大な国力を現代に伝える。
紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一する。秦の国家制度を引き継いだ漢王朝は、古代中国における一つの黄金時代。この二国の治世は、中国の基礎を確立した時代。
本展では、秦漢両王朝の中心地域であった陝西省の出土品を中心に、日本初公開となる貴重な文物を多数展覧。それらが語る歴史を紐解いていく。戦国時代の極小の騎馬俑が、なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑となり、漢代では再び小さくなったのか?なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか?日中国交正常化から50周年を数える2022年、古代中国の知られざる秘密が明かされる。
秦の始皇帝
趙の都邯鄲で生まれた秦王嬴政。約550年続いた群雄割拠の春秋戦国時代を終結させ、紀元前221年に史上初めて中国大陸に統一王朝を打ち立てた。1974年、秦始皇帝陵付近で、偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることが発見された。
兵馬俑とは
兵士や馬をかたどった像で、陵墓に収められた。始皇帝陵に埋蔵が推定される約8,000体は、顔、体、服装のひとつひとつが異なる。
みどころ
過去最大級のスケール。兵馬俑36体が来日決定!
1974年、西安郊外の秦始皇帝陵墓付近で歴史的な発見がありました。そこには、一体一体違う顔をした等身大の人間の像が、おびただしく埋められていたのです。本展では、この世界的に有名な始皇帝の遺物をはじめ、戦国、漢時代を含めた総計36体の兵馬俑が一堂に会します。日中国交正常化50周年だからこそ実現した、破格のスケールの展示をお楽しみください。
ここに注目! 兵士や馬の俑、その数およそ8000体の埋蔵が推定される始皇帝陵の兵馬俑坑。中でも、かつて11体しか確認されていない希少な将軍俑から、日本初公開となる1体を展示。
日本初公開&国宝級を多数含む、約200点の文物が集結!
現在に至る中国の礎を確立した、秦・漢両王朝の中心地域・関中(現在の陝西省)。今回は中国の陝西省文物局の全面的な協力のもと、同地の出土品を中心とする約200点 ( 兵馬俑36体含む ) を展覧します。中国国家一級文物(国宝級を指す中国国内の区分)から、最新の発掘調査による出土品まで、日本初公開を多数含む貴重な文物をお見逃しなく。
ここに注目! 古代の青銅器から、選り抜きの名品が揃う。さらに、漢の武帝が作らせたと伝わる秘宝・鎏金青銅馬も36年ぶりに本邦で公開。
1,000年に渡る、歴史のドラマを追体験!
紀元前770年の周王朝の遷都から、220年の漢王朝の崩壊まで、およそ1,000年に渡る時代の歴史資料を紹介。群雄割拠の春秋戦国時代、わずか十数年の間に絶大な国力を示した秦時代、そして古代中国の黄金時代の1つを築いた漢時代。
ここに注目! 戦国時代に生まれた小さな副葬品は、始皇帝の意によって等身大の人の姿になった。古城の古井戸から発見された木簡には、何が記されているのか。
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★「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」上野の森美術館、2022年11月22日(火)〜2023年2月5日(日)

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2022年11月16日 (水)

パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』296回
オペラ座の建築は、19世紀半ば、皇帝ナポレオン3世により計画された。 匿名によるコンペが開催され、1661年パリ高等芸術学校出身の若きシャルル・ガルニエが設計した。王立音楽アカデミー1669年の建築。彼の名前でオペラ・ ガルニエと呼ばれる。19世紀、ロマンティック・バレエ、グランド・オペラ、華の総合藝術の舞台となる。1960年アンドレ・マルローの依頼で、シャガールは77歳で天井画「夢の花束 」(1964年)を描き、97才で死ぬまで絵を描き続けた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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シャガール「夢の花束 」
アンドレ・マルローとシャガールとの友情
1960年2月17日。シャルル・ド・ゴール大統領と文化大臣アンドレ・マルローは、ペルーの代表団とともにオペラ座にいた。演目はモーリス・ラヴェルのバレエ《ダフニスとクロエ》。マルローは休憩時間中、舞台美術監督を任命されていたシャガールに新しい天井画を描いてみないかと打診した。 シャガールとマルローは30年来の友人。1962年に公表されメディアは批判した。1964年9月23 日、新しい天井画は公開され、2000人が特別コンサートに招待された。メディアは、作品を痛切に批判した。
古今の大作曲家14人 オペラ座、凱旋門、エッフェル塔
シャガールの天井画は、オペラ座の公演レパートリーとして 1964年当時 200年以上前から貢献してきたラモーを含む 古今の大作曲家14人と、彼らの歴史的演目を絵画の世界に織り込み、凱旋門やエッフェル塔、オペラ座など観光名所の建物を鏤めた大作、巨匠の集大成的作品。1、ラヴェル:バレエ「ダフニスとクロエ」2、ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」3、ラモー:「花々のバレエ」(「優雅なインドの国々」から)4、ベルリオーズ:劇的交響曲「ロメオとジュリエット」5、ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」6、モーツァルト:歌劇「魔笛」7、ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」8、アダン:バレエ「ジゼル」9、チャイコフスキー:バレエ「白鳥の湖」10、ストラヴィンスキー:バレエ「火の鳥」、中央の円環に11、ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」12、ヴェルディ:歌劇「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」13、ビゼー:歌劇「カルメン」14、グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」
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Marc Chagall「夢の花束 」(1964年)、シャガール77歳の作品。
黄色い天使に花束をささげられたオペラ・ガルニエ。左下、 青い背景は、2ドビュッシー《ペレアスとメリザンド》。もたれかかって髪をとかしているメリザンドと、窓から顔をのぞかせるペレアス。2人を見下ろすのは、王冠をかぶった老王アルケル。
赤い背景は、1ラヴェル《ダフニスとクロエ》。羊が放牧されているニンフの神殿の下に、海賊に襲撃された群衆。上部には、 守り神のバン神が海賊の首領ブリュアクシスを連れ去り、 再会して愛し合うダフニスとクロエは半身がつながつている。
パリの象徴、エッフェル塔。その右隣にバレットを片手にしたシャガールの自画像。右上、中央部分の青と緑の背景に11ベートーヴェン《フィデリオ》。剣をもった青い騎士にレオノーレが立ち向かう。
10ストラヴィンスキー《火の鳥》。体がチェロになった音楽の天使。その横の魔法の木には、火の鳥。
鮮やかな黄色を背景に描かれる、9チャイコフスキー《白鳥の湖》。湖のほとりにいる悪魔ロットバルトによって姿を白鳥に変えられたオデット姫。
後ろのダンサーは、 8アダム《ジゼル》の村娘たちと混じり合う。 濃紺の背景に描かれる、 7ムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》。顔が鳥になった天使が空を飛び、隣に緑で描かれたモスクワの街。
14グルック《オルフェオとエウリディーチェ》。エウリディーチェがオルフェオの竪琴を奏で、 天使が花を贈る。
天使が花輪に飾られたモーツァルトの肖像画を指し示す。鳥が笛を吹いている、 モーツァルト《魔笛》。
緑の背景、赤く照らされた凱旋門の左下、横たわり抱き合う2人、5ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》。
抱き合うカップル、4ベルリオーズ《ロメオとジュリエット》。
赤と黄色の背景に、13ピゼー《カルメン》。雄牛の奏でるギターに合わせて、カルメンが踊る。
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マルク・シャガール(Marc Chagall1887-1985)
ロシア帝国ヴィテブスクにユダヤ人として生まれ、1908年21才で美術学校に入学。1911年、モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住み、多くの藝術家たちと出会う。28才でベラと結婚。1917年ロシア革命、1918年ヴィテブスクに美術学校設立。1944年、愛妻ベラ急逝。1952年65才で二度目の結婚。南仏ヴァンスの鷲ノ巣村で晩年を暮らす。77歳1964年パリ・オペラ座の天井画を制作。97才で死ぬまで絵を描き続ける。
故郷ヴィテブスクと結婚のイメージを融合した幻想的な絵画が印象的である。青春を過ごしたパリの風景が織り込まれ、モンパルナスの蜂の巣で出会った藝術家の息吹がある。初期作品はロシア・ネオ・プリミティヴィスムの画家からの影響が濃厚である。
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展示作品の一部
シャルル・ガルニエ「オペラ座ファサード立面図」1861、フランス国立図書館
エドガー・ドガ「バレエの授業」1873-76、アーティゾン美術館
エドガー・ドガ「バレエの授業」1873-76、オルセー美術館
エドゥアール・マネ「オペラ座の仮面舞踏会」1873、アーティゾン美術館
アレクサンドル・カバネル「クレオパトラ」1883
ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」原稿、1909、フランス国立図書館
マルク・シャガール「オペラ座の人々」1968-1971ポーラ美術館
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参考文献
「パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂」図録、2022
シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い
https://bit.ly/3DXyUDY
パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」
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プレスリリース
パリ・オペラ座は、バレエやオペラの輝かしい殿堂としてよく知られた劇場です。ルイ14世によって1669年に設立されたパリ・オペラ座は、その歴史を通して台本作家や作曲家、美術家に、芸術的な進展や技術的な革新を可能にする表現を常に注文してきました。この展覧会では、パリ・オペラ座の歴史を17世紀から現在までたどりつつ、さまざまな芸術分野との関連性を示すことで、その魅力を「総合芸術」的な観点から浮き彫りにします。特に対象とする時期は、19世紀から20世紀初頭。これはロマンティック・バレエ、グランド・オペラ、バレエ・リュスの時代にあたります。フランス国立図書館をはじめとする国内外の約250点の作品により、芸術的、文化的、社会的な視野からパリ・オペラ座の多面的な魅力を紹介し、その歴史的な意
味を明らかにします。パリ・オペラ座と諸芸術との多様なつながりをテーマとする、これまでにない新たな試みです。
パリ・オペラ座とは?
フランスを代表する歌劇場。パリ9区の絢爛な建築は、19世紀後半パリの近代化の一環として計画され1875年に完成、設計者の名に由来しガルニエ宮(オペラ・ガルニエ)とも呼ばれます。ルイ14世によって1669年に設立された王立音楽アカデミーを前身とし、350年以上の間、台本作家や作曲家、美術家に、芸術的な進展や技術的な革新を可能にする表現を常に注文してきました。1989年にバスティーユ歌劇場(オペラ・バスティーユ)が完成し、現在二つの劇場でバレエ、オペラの古典から現代作品までを上演しています。
章構成
序曲:ガルニエ宮の誕生
第Ⅰ幕:17世紀と18世紀
(1)「偉大なる世紀」の仕掛けと夢幻劇(2)音楽つきの「雅宴画」(フェート・ギャラント)
(3)新古典主義の美的変革
第 II 幕:19世紀[1]
(1)ル・ペルティエ劇場(2)グランド・オペラ(3)ロマンティック・バレエ
(4)装飾職人と衣装画家 *パリの観劇をめぐって
第 III 幕:19世紀[2]
(1)グランド・オペラの刷新(2)ドガとオペラ座(3)劇場を描く画家たち
(4)ヴァーグナーの美学 *作家とオペラ座 *ジャポニスムとオペラ座
第 IV 幕:20世紀と21世紀
(1)バレエ・リュス(2)近代芸術とオペラ座(3)画家・デザイナーと舞台美術
(4)演出家と振付師のオペラ *映画とミュージカル
エピローグ:オペラ・バスティーユ
【公式サイト】アーティゾン美術館|展覧会詳細ページ
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★「パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂」、アーティゾン美術館
2022年11月5日[土] - 2023年2月5日[日]

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2022年11月13日 (日)

板谷波山の陶芸、麗しき作品と生涯・・・至高の美を求めて、葆光釉磁の輝き

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Itayahazan-150-2022

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』295回
板谷波山(1872年~1963年)  貧困の果てに 前人未到の境地
1889年、東京美術学校彫刻科に入学。1898年、石川県工業学校に奉職。19世紀末1900年アール・ヌーヴォーの意匠を研究。1903年、石川県工業学校を辞職し、31歳、陶芸家として歩み始めた波山は、高火度焼成の窯を田端に構える。陶芸家として華々しいデビュー、しかし貧困との果てしない戦いが始まる。磁器焼成に挑み釉薬や顔料の調合も吟味した。完全主義で、作品を厳選し、膨大な作品を気に入らず破棄した。大正4(1915)年頃、43歳、マグネサイトを使った「葆光釉」に到達。60歳代まで貧困に苦しんだが、前人未到の境地に到達した。
「私は家を建て、翌年窯を作ると、一厘の余裕もなく、貧乏であった」板谷波山1931年
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至高の美を求めて 葆光彩磁の輝き
波山は、理想の作品づくりのために一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を追求した。大正4(1915)年頃、43歳、「葆光釉」に到達。
「葆光」とは『荘子』「斉物論篇」、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」に喩え幽遠な美の境地である。
荒川正明氏の記者発表会を聞く。「波山は東洋と西洋の美を融合、器の形はギリシアのアンフォラ、波山は新古典主義様式の最後の騎士である」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《彩磁金魚文花瓶》1911(明治44)年頃 筑西市(神林コレクション)蔵
重要文化財《葆光彩磁珍果文花瓶》1917(大正6)年 泉屋博古館東京蔵
《彩磁草花文花瓶》大正後期 廣澤美術館蔵
《天目茶碗》1944(昭和19)年 筑西市(神林コレクション)蔵
《葆光彩磁珍果文花瓶》(重文)など約130点の名品を展示。陶芸を芸術の域に広げた板谷波山(1872年~1963年)の美の世界
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参考文献
『生誕150年 板谷波山の陶芸』展覧会図録、2022
『生誕150年 板谷波山の陶芸』プレスリリース
(荒川正明「板谷波山の陶芸―すべては美しく、やきものを生むために―」『没後50年 板谷波山展』展覧会図録、毎日新聞社、2013年)
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展覧会概要
近代陶芸の巨匠 板谷波山(本名・板谷嘉七)は、令和4(2022)年3月3日、生誕150年を迎えました。明治5(1872)年、茨城県下館町(現・筑西市)に生まれた波山は、明治22年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、岡倉天心や高村光雲に師事しました。明治36年には東京・田端の地に移り、陶芸家「波山」として数々の名作を生みだします。昭和9(1934)年、帝室技芸員に任命され、昭和28年には陶芸家初の文化勲章を受章しました。
波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を数多く手がけました。代表作の一つ、重要文化財 《葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん)》は、大正6(1917)年、波山芸術を愛した住友春翠によって購入され、泉屋博古館東京に継承されています。
この記念すべき年に、選りすぐりの名作と共に、波山が愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」波山の様々な姿を紹介いたします。波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、彼の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
展示構成
序章:ようこそ、波山芸術の世界へ
板谷波山が東京美術学校時代に薫陶を受けた恩師・岡倉天心は、自身が創刊した雑誌『国華』創刊の辞の一節に、「夫レ美ハ國ノ精華ナリ」と記しています。その意は、美しいものを愛おしみ、それを育んでいく精神にこそ、その国家の真髄があるということでしょう。
その恩師の言葉を糧に、波山は全身全霊で陶芸の世界に対峙した人物でした。波山の陶芸は、東洋の古陶磁がもつ鋭く洗練された造形を骨格として、そこに19世紀末の欧米のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたところに特徴があります。序章では、波山の代表作をご覧ください。

第Ⅰ章 「波山」へのみちのり
郷里・茨城県下館の街は、全国有数の木綿の産地であり、江戸時代後期には商都として町人文化が栄えていました。生家は下館藩の御用商人も務める富裕町人で、父・増太郎は文人趣味、茶道の嗜みもありました。この父親の美を愛する心は波山にも受け継がれ、生来の器用さもあり、幼い頃、すでにやきものへの関心も抱いていたと想像されます。
明治22年、開校して間もない東京美術学校に入学、古典の学習、写生や模写、工芸技術など一連の研鑽を経て、芸術家としての基礎を築きました。その後、工芸の街・金沢の石川県工業学校(県工)へ奉職、本格的に陶芸の世界に接近していき、デザインや窯業材料の研究、ロクロ成形や窯焼成など、土にまみれる7年間を過ごしました。
波山はこのように、岡倉天心のもと東京美術学校で芸術家としての魂を注入される一方、県工の同僚である北村弥一郎(ワグネルに連なる東工大窯業科系の俊英)などから、最新の窯業化学をも直に学びます。つまり、近代日本の「美術」と「工業」の両分野の最高峰に連なる環境で鍛えられ、次世代陶芸界の牽引者としての歩を進めていくこととなります。
Ⅰ-1 故郷・下館 —文人文化の街
Ⅰ-2 芸術家を志して —東京美術学校と石川県工業学校
第Ⅱ章 ジャパニーズ・アール・ヌーヴォー
19世紀後期、ジャポニスムブームに陰りが見え、日本の陶磁器輸出は斜陽期に突入します。素地を移入し「上絵付け」主体の東京や横浜の輸出業者は、次々と倒産に追い込まれていきました。この逆境の下、果敢に陶芸家として歩み始めた波山は、大きな賭けに出ます。それまでの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯(平野耕輔設計:三方焚口倒焔式レンガ丸窯、当時の日本では最新型)を東京・田端に構え、磁器焼成に挑みました。絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味しました。
この頃、波山が熱心に取り組んだ課題は、西欧で流行したアール・ヌーヴォースタイルの意匠研究と、西欧渡来の釉や顔料の実用化です。日本陶芸界のアヴァンギャルドとして、造形や意匠の革新者として、波山は次第に注目を集める存在となっていきます。しかし、薪窯による焼成のリスクは大きく、製品の歩留りも悪い状況でした。陶芸家としての華々しいデビュー、しかしそこには貧困との果てしない戦いが待っていました。
Ⅱ-1 陶芸革新 —アヴァンギャルド波山
Ⅱ-2 アール・ヌーヴォー―いのちの輝き
第Ⅲ章 至高の美を求めて
天性のカラリストといっても過言ではないほど、鋭敏な感性の持ち主であった波山。彼の色彩の世界は、釉の下に絵付けする「釉下彩」(下絵)で表現されています。波山はこの「彩磁」から、さらに「葆光彩」へと表現の幅を広げていきました。「葆光彩」は今や波山の代名詞となっていますが、薄絹を被せたようマット釉は、作品に侵しがたい気品を加えることとなります。
「葆光」とは中国・春秋時代の思想家・荘子による『荘子』「斉物論篇」に記されており、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」にたとえています。波山が老荘思想に興味をもった背景は明らかではありませんが、恩師・岡倉天心からの示唆があった可能性も。ともかく、波山の「葆光彩」の完成は、日本の磁器表現に広がりと深み、そして幽遠な美の境地をもたらしました。
Ⅲ-1 葆光彩磁の輝き
Ⅲ-2 色彩の妙、陶技の極み
Ⅲ-3 侘びの味わい —茶の湯のうつわ
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板谷波山の陶芸、麗しき作品と生涯・・・至高の美を求めて、葆光釉磁の輝き
https://bit.ly/3GbpXs1
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「板谷波山の陶芸―近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯」泉屋博古館東京
2022年11月3日(木・祝)〜12月18日(日)

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