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2023年1月29日 (日)

エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才・・・ウィーン世紀末、分離派、象徴派、退廃藝術


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 大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第312回
ハプスブルク帝国の遺産を旅したのは20年前の灼熱の夏、東欧4カ国の世界遺産の旅。チェスキークルムロフ城をめぐり、ベルベデーレ宮殿でクリムト『接吻』を見た。
オーストラリア・ハンガリー帝国の支配下、自由なきウィーン。多民族国家ハプスブルク帝国、解放したのは皇帝ではない。ハプスブルク帝国解体、感染爆発、サラエボ事件、第1次大戦。
【19世紀ウィーンに言論の自由はなかった。シラーは官憲の弾圧を恐れて、『自由賛歌』(Án die Freiheit)を『歓喜の歌』(Án die Freude)に書き換えた。】
【自由賛歌】シラーはフランス革命の4年前、1785年26歳の時友人の依頼により『自由賛歌』(Án die Freiheit)を書いた。封建的な政治形態と専制主義的な君主制に苦労した、ここで人類愛と何百万人の人達の団結による、人間解放を理想として歌った。官憲の弾圧を恐れて、『自由賛歌』(Án die Freiheit)を『歓喜の歌』(Án die Freude)に書き換えた。
【自由賛歌】ベートーベンはフランス革命からわずか3年後の1792年22歳の時、シラーの詩“歓喜に寄せて”(自由に寄す)と出会い深く感動、いつかこの詩に曲をつけたいと心に秘め、約30年後の54歳の時に完成、自らの指揮で初演。1824年5月7日ウィーン

【分離派、装飾藝術、象徴派、表現主義、1898年】19世紀末、ウィーン、自由の始まり
1897年、グスタフ・クリムト率いるオーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成。1903年ウィーン工房設立。ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出した。
【1898年、第1回、分離派展】フェルナン・クノップフ、女性像展示。6つ年下の妹マルグリット・クノップフを描いた。【ベルギー象徴派フェルナン・クノップフ】フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff 1858年-1921年)は、フランス象徴派のモローに傾倒し、ラファエル前派のバーン=ジョーンズと親交を結び、ウィーン分離派のクリムトに影響を与えた。6つ年下の妹マルグリット・クノップフを多数描いた。
【世紀末の藝術家と女たち】
グスタフ・クリムトとエミーリエ・フレーゲ、フェルナン・クノップフと妹マルグリット、エゴン・シーレとエーディト
【エゴン・シーレ、クリムトと出会い】1907年、シーレ17歳、クリムトと出会い、その才能を認められた。
【1915年シーレ25歳、エーディト・ハームスと結婚、第一次大戦】エゴン・シーレ(1890-1918)、表現主義的絵画、次第に画壇で成功し始めた。アトリエの建物の向かいに住んでいた裕福なハームス家の姉妹と親しくなる。長年の恋人ワリーと別れ、25歳で妹のエーディトと結婚した。
アトリエの向かいにあるハームス姉妹の住んでいた家。シーレは結婚後すぐに第一次大戦に招集されるが、前線に送られることは免れた。
【1918年、エゴン・シーレ、28歳で死す】戦争から戻り、第49回分離派展に出品、成功をつかみかけたシーレ。しかし1918年10月31日、世界的に流行したスペイン風邪に罹り、シーレの子供を身籠ったまま妻エーディトは病に罹患し帰らぬ人となり、後を追うようにシーレも28歳の若さでこの家で亡くなった。28歳。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【エゴン・シーレの生涯と藝術(1890-1918)】
16歳で学年最年少の特別扱いでウィーン美術アカデミーに入学。
1907、17歳クリムトと出会い、17才にしてその才能を認められた。
シーレ「僕には才能がありますか」クリムト「才能がある?それどころかありすぎる」
【クリムトから離別】
クリムトや表現主義の影響を受けながら、20歳の若さで独自の画風を確立し、自画像や人物画をときには裸体で赤裸々に描き出した。
「僕はクリムトを知り尽くした。それはこの3月までのことで、いまの僕はその頃とまったく違っていると思う。」
【クルマウ(チェスキークルムロフ)】21歳
モルダウ湖畔の町クルマウ(現在のチェスキークルムロフ)へ移住するも、ヌードモデルが出入りする生活が住民に受け入れられず、3か月で町を去る。
「僕は早くウィーンから離れたい。この醜悪な町。(中略)僕は1人になりたい。ボヘミアに行きたい。」
【ノイレングバッハ、禁錮3日間の有罪】21歳
クルマウを去ったウィーン郊外のノイレングバッハに家を見つけました。静かな環境ながら、汽車を使えばウィーンまで1時間もかかりません。意外に便利です。
21歳の貧しいシーレは平屋の一戸建ての半分だけを借りました。暖房もトイレもな休暇小屋のような家で、シーレは一冬を過ごし、多くの作品を描きました。
ある日14歳の家出少女がシーレを訪れます。彼女をかくまったシーレは、誘拐などの疑いで訴えられてしまいます。シーレは留置所に20日以上も拘束されました。
最終的には「わいせつ画の掲示」の罪のみで禁錮3日間の有罪になったシーレ。ノイレングバッハ にはシーレが収監された留置所の部屋が今でも遺されている。
人々の目につく場所にわいせつ画を掲示したとして有罪となり、3日間収監される。
「偉大な世界観を獲得するためには、ナイーヴで純粋な目で世界を観察し、経験する必要がある。」
判決の際には「わいせつ画」として素描が燃やされる。シーレは傷つき、創作意欲を失いますが、恋人のワリーが留置所に通い、シーレを支えた。
22歳のシーレはウィーンに戻り、なんとか13区にアトリエを見つけた。後ろ盾だった クリムト のアトリエは目と鼻の先。最上階がシーレのアトリエ。
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展示作品の一部
エゴン・シーレ《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》1911年 油彩/カンヴァス レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna
エゴン・シーレ《頭を下げてひざまずく女》1915年 鉛筆、グワッシュ/紙 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna
エゴン・シーレ《自画像》1912年レオポルド美術館蔵
グスタフ・クリムト《シェーンブルン庭園風景》1916レオポルド美術館蔵
エゴン・シーレ
ハームス姉妹の住んでいた家
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参考資料
フェルナン・クノップフ《愛撫》1986
フェルナン・クノップフ《マルグリット・クノップフの肖像画》(1887年)
エゴン・シーレ《スカートを上げた黒髪の少女》1911年、レオポルド美術館所蔵
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参考文献
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」東京都美術館・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
クリムト『ベートーベン・フリーズ』・・・理念を目ざす藝術家の戦い。黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う
「ユリイカ」(青土社)2023年2月号 特集=エゴン・シーレ ―戦争と疫禍の時代に―
「芸術新潮」2023年2月号100年前のパンデミックで逝ったあの男が、いま甦る!エゴン・シーレ特集
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
フェルナン・クノップフ☆謎多き巨匠|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才・・・ウィーン世紀末、分離派、象徴派、退廃藝術
ウィーン史【ウィーン1740から1916】
1 啓蒙主義時代のウィーン 女帝マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世
女帝マリア・テレジアとその息子、皇帝ヨーゼフ2世が統治した1740年代から90年代のハプスブルク帝国の首都ウィーンでは、啓蒙主義に基づいた社会の変革が行われました。理性や合理主義に基づき、社会の革新を目指す啓蒙主義の思想がウィーンに入ってきたのは、他のヨーロッパ諸国に比べ早くはありませんでしたが、この思想の熱烈な支持者であったヨーゼフ2世は、宗教の容認、死刑や農奴制の廃止、病院や孤児院の建設など、行政や法律、経済、教育においてさまざまな改革を実行しました。
2 ビーダーマイアー時代のウィーン 1814ウィーン会議
ナポレオン戦争終結後の1814年には、各国の指導者たちが集まったウィーン会議が開催され、ヨーロッパの地図が再編されます。以降、1848年に革命が勃発するまでの期間は、「ビーダーマイアー」と呼ばれます。
3 リング通りとウィーン 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1848年-1916年)
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に、ウィーンは帝国の近代的首都へと変貌を遂げます。人口は、150万人から220万人にまで増加しました。
近代的な大都市への変貌は、1857年に皇帝が都市を取り囲む城壁の取り壊しを命じ、新しいウィーンの大動脈となる、「リング通り(リングシュトラーセ)」を開通させたことに始まります。沿道には帝国の要となる建築物が次々と建設されました。
4 1900年―世紀末のウィーン 建築家オットー・ヴァーグナー(1897年-1910年)
カール・ルエーガーがウィーン市長として活躍した時代(1897年-1910年)には、さらに都市の機能が充実します。路面電車や地下鉄など公共交通機関も発展し、建築家オットー・ヴァーグナーがウィーンの都市デザイン・プロジェクトを数多く提案しました。計画のみに終わったものもありますが、今日のウィーンの街並みは、実現されたヴァーグナーの建築によって印象付けられています。
絵画の分野では、1897年にグスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成しました。1903年には、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立されました。
ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層でした。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出したのです。
参考文献
日本・オーストリア外交樹立150周年記念、ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
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エゴン・シーレ(1890-1918)は、世紀末を経て芸術の熟期を迎えたウィーンに生き、28年という短い生涯を駆け抜けました。シーレは最年少でウィーンの美術学校に入学するも、保守的な教育に満足せず退学し、若い仲間たちと新たな芸術集団を立ち上げます。しかし、その当時の常識にとらわれない創作活動により逮捕されるなど、生涯は波乱に満ちたものでした。
孤独と苦悩を抱えた画家は、ナイーヴな感受性をもって自己を深く洞察し、ときに暴力的なまでの表現で人間の内面や性を生々しく描き出しました。表現性豊かな線描と不安定なフォルム、鮮烈な色彩は、自分は何者かを問い続けた画家の葛藤にも重なります。
本展は、エゴン・シーレ作品の世界有数のコレクションで知られるウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、シーレの油彩画、ドローイング40点以上を通して、画家の生涯と作品を振り返ります。加えて、クリムト、ココシュカ、ゲルストルをはじめとする同時代作家たちの作品もあわせた約120点の作品を紹介します。夭折の天才エゴン・シーレをめぐるウィーン世紀末美術を展観する大規模展です。
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レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才、東京都美術館、1月26日(木)~4月9日(日)

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