芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界
殺戮のテロ国家、明治政府。言論と思想は常に弾圧。
【徳川慶喜、大政奉還、緻密な戦略】慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説した、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日、14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。その翌日の15日に受理される。薩摩長州に先手を打つ。名君か暗君か。
【孝明天皇、毒殺事件】孝明天皇(1831年-1866年)、妹和宮を降嫁。尊攘派を抑える。第2次長州征伐検討中に暗殺される。薩摩の大久保利通が主犯か。実行部隊は薩長テロリスト。
【王政復古】慶応3(1867)年12月9日、大久保と西郷らが中心となり、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸の5藩が協力して「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデタが決行される。5藩の兵が御所を軍事的に制圧。天皇の名前で幕府と摂政関白を廃止。
【徳川幕府崩壊】徳川軍と新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)で、激突。将軍慶喜、離脱。
【明治維新、慶応4(1868)年】【戊辰戦争(1868年-1869年)】佐幕派と討幕派の戦い【西南戦争、明治10(1877)年】不平士族の反乱。
【自由民権運動】(1874年-1889年)
【言論と思想は常に弾圧されてきた(1875年-1952年)】1875新聞紙条例、讒謗律、1880集会条例、1887保安条例、1900治安警察法、1925治安維持法、1952破壊活動防止法。
【大日本帝国憲法1889年2月11日】民権派を封じる。伊藤博文、枢密院に憲法草案を提出。天皇は、統治権の総攬者、軍隊の統帥権、内閣の任命権を有する。
【日清1894・日露戦争、1904】軍国主義国家、大日本帝国。
【第1次世界大戦(1914年-1918年)】漁夫の利【スペイン風邪(1918年-1920年)】
【世界大恐慌1929年ウオール街から世界】【ファシズム国家、ナチスドイツの独裁1933年】【第2次世界大戦】【大戦の導火線に火、それを消すどころか武器を送り更にエスカレートさせようとする者。戦争屋、武器産業、多くの民の命を奪い世界を破滅に向かわせる地獄の悪魔、富裕層。日本政府は和平の仲介に入るべき。NATOと一緒にロシアを責めている】
【岡倉天心1863-1913】美術評論家、思想家【夢殿解扉】1886(明治19)年【1898東京美術学校辞職、日本美術院創設】岡倉天心(1904-1913)ボストン美術館顧問。
【ウォーナー・リスト】ボストン美術館顧問の岡倉天心(1904-1913)の助手を務めた、ラングドン・ウォーナーがロバーツ委員会の日本部主任を務めていた、日本における美術歴史遺跡の保護のためのリスト作成。ボストン美術館東洋部長・冨田幸次郎、コロンビア大学講師・角田柳作に協力を要請。リストは米軍に送られた。
【日本本土空襲1945】アラバマ・マックスウェル空軍基地にある日本空爆計画に関する機密文書の閲覧許可が下りた。空爆予定地として、それらの緯度・経度も記載されていた。この文書の中にカラーの地図があり、その緑色の部分は空爆を行わない場所となっていた。これには東京では皇居・東京駅・靖国神社・上野公園・東京大学・浅草公園が、奈良では興福寺や法隆寺が含まれていた。
国家の波に飲まれる浮世絵師
【幕末浮世絵、海に暴れる源為朝、歌川国芳】
歌川国芳(1797-1861)。江戸本銀町生れ。文政末期「通俗水滸伝豪傑百八人之壷個」シリーズで人気。役者絵の国貞、風景画の広重と並び、武者絵の国芳として第一人者となる。戯画、美人画、洋風風景画にも発想の豊かな近代感覚を取り込む。役者絵や風刺画を得意とする。『讃岐院眷属をして為朝を救う図―鰐鮫』『宮本武蔵の鯨退治』『相馬の古内裏』『其のまま地口猫飼好五十三疋』、大胆な構図が得意技である。
最後の浮世絵師たち。月岡芳年、落合芳幾、河鍋暁斎は歌川国芳の弟子である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
歌川国芳《太平記英勇伝 登喜十郎左門光隣》嘉永頃 浅井コレクション
歌川国芳《源頼光公舘土蜘作妖怪図》天保14(1843)年 浅井コレクション
歌川国芳《八犬伝之内芳流閣》天保11(1840)年 浅井コレクション
落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション
月岡芳年「藤原保昌月下弄笛図」明治16年(1883)
月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年頃 浅井コレクション
落合芳幾『くまなき影』(部分)慶応3(1867)年、毎日新聞社新屋文庫
月岡芳年、金木年景《大蘇芳年像》明治25(1892)年 西井コレクション
落合芳幾《英名二十八衆句 鳥井又助》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《ま組火消しの図》明治12(1879)年 赤坂氷川神社 肉筆画
落合芳幾《五節句図》東京国立博物館 Image : TNM Image Archives 肉筆画
落合芳幾《東京日々新聞百十一号》明治7(1874)年 毎日新聞社新屋文庫
月岡芳年《月百姿 雨後の山月 時致》明治20(1887)年 浅井コレクション
月岡芳年《つき百姿 千代能》明治22(1889)年 浅井コレクション
――
参考文献
大江戸の華、江戸東京博物館・・・老獪な策士、徳川家康。緻密な戦略、徳川慶喜
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド
「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」図録、三菱一号館美術館
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界
https://bit.ly/3ZX1r4Q
――
「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」、三菱一号館美術館プレスリリースより
■歌川国芳(1797-1861)
寛政9(1797)年、日本橋の染物屋の家に生まれる。幼少時から絵を好み、文化5(1808)年12歳で初代歌川豊国に入門。一勇斎、朝桜楼などと称す。発表を始めてから人気が出るのは遅かった。豊国没後の文政10(1827)年頃、『水滸伝』に取材した《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》シリーズが評判となる。
奇抜な発想の風刺画、ダイナミックな武者絵などを大判3枚続きの画面に展開して人気を博す。西欧の銅版画に学ぶとともに、名所絵、美人画、役者絵や戯画と幅広く手掛けた。猫を描いた戯画も多く知られる。文久元(1861)年没。彼が育てた数多くの弟子が明治6(1873)年、国芳13回忌に建立した顕彰碑が三囲神社にある。
国芳《源頼光公舘土蜘作妖怪図》天保14(1843)年 浅井コレクション
■落合芳幾(1833-1904)
天保4(1833)年、吉原日本堤下の編笠茶屋に生まれる。幼少から国芳門下の芳兼の仕事を見て育ち、質屋の奉公に出されるが、嘉永2(1849)年頃、17-18歳で国芳に入門した。一蕙斎、朝霞楼と称す。安政2(1855)年に江戸を襲った大地震の惨状を写した錦絵で名声を得る。国芳が没した際には弟子を代表して死絵を担当した。戯作者や好事家との交流が多く、明治以降はこうした仲間との事業に携わる。明治5(1872)年、「東京日日新聞」の創刊に参画して記事を錦絵にしたり、明治8(1875)年創刊の「平仮名絵入新聞」に挿絵を描いたりして転身を図った。明治37(1904)年没。
落合芳幾『くまなき影』(部分)慶応3(1867)年、毎日新聞社新屋文庫
■月岡芳年(1839-1892)
天保10(1839)年生まれ。本名は吉岡(後に月岡)米次郎。嘉永3(1850)年、12歳で国芳に入門。玉桜楼、一魁斎などと称す。国芳を踏襲して武者絵を多く描くが、スランプに陥り神経を病んだ。恢復を機に明治6(1873)年「大蘇」を名乗り、時事的な作品など精力的に手掛ける。菊池容斎の歴史人物画や西洋画に学んで新機軸をもたらした武者絵や歴史画には、明治政府による皇国史観の反映もみられる。芳幾に対抗して「郵便報知新聞」の新聞錦絵にも携わった。晩年には《風俗三十二相》など美人画の代表作を描き、また《月百姿》などの静謐な作風で江戸回帰を志向するが、病を再発し明治25(1892)年に没した。
月岡芳年、金木年景《大蘇芳年像》明治25(1892)年 西井コレクション
■国芳への入門
芳幾が国芳に入門したのは嘉永2(1849)年頃、17-18歳の頃でした。芳年はその翌年、12歳で入門しています。そのとき国芳は50歳代前半。この頃、彼の弾圧を目論んだ老中水野忠邦は既に失脚していましたが、国芳はなおも幕府批判の疑いで奉行所から睨まれる存在でした。しかしそうした規制をかいくぐって風刺を続ける国芳に江戸の庶民は喝采を送っていたのです。親子ほどにも年齢の離れた師弟でしたが、こうした師の姿に二人は頼もしさを感じていたのではないでしょうか。その指導の許で彼らは頭角を現すことになります。
江戸後期から幕末にかけての浮世絵界は歌川派が隆盛を誇っており、その黄金期を築いた国芳には多くの門人がいましたが、その筆頭と目されるようになったのは芳幾と芳年でした。当時の人気番付をみると、国芳の弟子の中で二人ともに上位にランキングされているのが分かります。彼らは国芳の教えやその作風をよく受け継ぎ、それぞれのやり方で新しい時代を切り拓いていったのです。
歌川国芳《八犬伝之内芳流閣》天保11(1840)年 浅井コレクション
■武者絵対決
国芳の出世作となり、その最も得意としたのは武者絵でした。芳幾の武者絵を見ると、モデルを正面から捉え、その余白に物語を記述する点で師の作風を忠実に受け継いでいることが分かります。その一方で芳年は背景を無地としてモデルが浮かびあがるように、さらに見上げるような大胆な視点で描くことでダイナミックな効果をあげています。器用だが覇気のない芳幾と、覇気はあるが不器用な芳年。師によるなんとも辛辣な評価です。しかしその眼は鋭く、この評言は彼らの後の生き様まで見通しているようです。
作風をみると芳幾は国芳の正統な継承者でした。しかし彼は浮世絵に見切りをつけ新聞錦絵という新事業へと進みます。芳年は浮世絵にこだわり続け、結果として新しい歴史画の境地を開きました。本展を通して、二人が師から何を吸収し展開していったのかを考えます。
歌川国芳《太平記英勇伝 登喜十郎左門光隣》嘉永頃 浅井コレクション
落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション
月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年頃 浅井コレクション
■ライバル対決の行方
若き日の二人
国芳の葬儀の際、芳幾は人混みに座る芳年をじゃまだと足蹴にしたそうです。兄貴風を吹かせたかったのでしょうか。その5年後には二人で《英名二十八衆句》を共作しており、決して仲が悪いということではなかったようです。明治7(1874)年に芳幾が「東京日日新聞」の錦絵を手掛けるようになると、翌年から刊行された「郵便報知新聞」では芳年が起用されます。これは周囲もまた彼らをライバルと目していたということでしょう。しかし晩年に至ると、芳幾は自分の作風にこだわらず、芳年の図を焼き直して流用していたそうです。これを知った芳年は「昔日の恥辱始めて晴るゝ感が深い」と言って笑ったそう。足蹴にされた恨みでしょうか、とはいえ師の没後20年は経っています。芳年恐るべし……。
英名二十八衆句
歌舞伎などに現れる凄惨な場面を、芳幾と芳年で14図づつ分担して描きました。いわゆる血みどろ絵(無惨絵)を代表する浮世絵として有名ですが、これらは江戸から明治に至る不穏な世相を反映したものとも考えられています。下の二図ともそれぞれ国芳の影響が指摘されていますが、独自な画面とするための創意が見られます。芳幾は一見涼やかな、しかしよくみるとショッキングな水中として描き、芳年は強い色彩によって明快な画面に組み立てています。
落合芳幾《英名二十八衆句 鳥井又助》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション
■肉筆画
月岡芳年《ま組火消しの図》明治12(1879)年 赤坂氷川神社
落合芳幾《五節句図》東京国立博物館 Image : TNM Image Archives
■新聞錦絵
東京日々新聞は明治5(1872)年に発刊された東京で初めての日刊新聞です。現在の毎日新聞の源流にあたります。親しい間柄であった落合芳幾、條野採菊(鏑木清方の父)、西田伝助により創刊されました。翌年には岸田吟香(岸田劉生の父)が入社します。その翌年に大蔵省の役人であった福地桜痴が入社すると社説欄が設けられ、政府の御用新聞の色彩を強めました。芳幾は明治7(1874)年、東京日々新聞からゴシップ的な記事を取り上げて描いた新聞錦絵を始めて、絶大な人気を博しました。
落合芳幾《東京日々新聞百十一号》明治7(1874)年 毎日新聞社新屋文庫
■月岡芳年の到達点
師の得意とした武者絵を継承した芳年ですが、変動する時代の趨勢のなかで彼自身の作画を突き詰めていきます。写生を重視することは国芳の指導でしたが、芳年はさらに西洋画法や、歴史肖像の手本となった菊池容斎『前賢故実』に学び、全く新しいタイプの武者絵を生み出しました。カメラアングルのような視点の意識は、それまでの浮世絵には見られなかったものです。それによって現代の私たちが観ているアニメーションの画面のような、動きのある劇的な効果が生じています。芳年はこうした成果を生かして、武者絵のみならず歴史的な人物や逸話についての作品も数多く残しました。芳年晩年の《月百姿》は100枚からなる大規模なシリーズですが、月にちなんだ歴史上の人物の物語が取り上げられており、江戸時代回顧の気分が偲ばれるとともに、彼が到達した静かな境地をも示しています。
月岡芳年《月百姿 雨後の山月 時致》明治20(1887)年 浅井コレクション
月岡芳年《つき百姿 千代能》明治22(1889)年 浅井コレクション
――
「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」三菱一号館美術館、2月25日(土) 〜 4月9日(日)
| 固定リンク
「浮世絵」カテゴリの記事
- どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857(2024.05.09)
- 芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル・・・世紀末の浮世絵、歌川国芳、落合芳幾、月岡芳年、残虐の世界(2023.03.10)
- 「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅(2022.04.21)
- 「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」(2021.05.13)
- 「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出(2021.02.22)
コメント