« 中野晃一講演会、強者の支配か自由な共存か。【質疑応答】解答篇、上智大学、ソフィア文化芸術ネットワーク | トップページ | 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ― »

2023年8月17日 (木)

マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅

Matisse-met-2023
Matisse-1907-2023
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第338回

20世紀美術を代表する画家の一人、アンリ・マティス[1869~1954]、フォーヴィスム(野獣派)で有名だが、生涯、色彩と線への旅をつづけ、84歳で死す。
裕福な家庭に生まれ、法律家の道を歩んでいたマティス。画家を志したのは21歳のとき、病気で療養中だった彼に母親が絵具箱を贈ったことがきっかけである。法律の学位を得て代訴人の仕事をしていたマティスは、23歳でギュスターヴ・モローの弟子となる。
美術学校や画家のもとで教えを受け、ルーヴル美術館で古典作品の模写をし技術を磨いていったマティスは、次第に自分自身の表現を探求する。
《豪奢、静寂、逸楽》1904年、35歳
《豪奢、静寂、逸楽》は、ポール・シニャックの招きで南仏に赴いたマティスがパリで仕上げた実験的作品、新印象派の筆触分割(絵具を混ぜず直接筆で)に実験的に取り組んだマティス転換期の重要作品。色彩と線描の衝突というテーマをそのまま残す作品となる。
フォーヴィスム(野獣派)「豪奢1(Luxe)」1907年
本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。荒々しい筆遣いと鮮やかな色彩が特徴的な作品がサロンに出品されると、批評家によって「フォーヴィスム(野獣派)」の画家と呼ばれるようになる。美術界に確かな地位を築きつつ、マティスはさらなる進化を続ける。
窓、部屋の中と外の世界とをつなぐ
生涯にわたり室内のアトリエを創作の場としたマティスにとって、窓は部屋の中と外の世界とをつなぐ重要なモティーフ。金魚もマティスが繰り返し描いたモティーフで、《金魚鉢のある室内》1914年、で窓際に置かれた金魚鉢が内と外の世界を映り、小宇宙のような空間を生み出す。生前には公開されなかった《コリウールのフランス窓》。黒く塗りつぶされた部分は当初、外の眺めが描かれていた。第一次世界大戦勃発直後に描かれた。
第一次世界大戦が終わりニースへ、南仏の光 1921年
拠点を移したマティスは、南仏の光の中で精力的な創作活動を展開。多数描かれた「オダリスク」もこの時期に取り組んだ、《赤いキュロットのオダリスク》1921年はその皮切りとなった作品。旅先のモロッコで仕入れた布に、手作りのアクセサリーや衣装。マティスの装飾へのこだわり。マティスが色と同じく大事にした、線の表現。デッサンは「自分の中に芽生えた創作の気持ちを観る人の心にダイレクトに伝えることができる方法」。
マティス60代で出会ったリディア・ディクトルスカヤ1935
《夢》1935以降モデルとして彼のミューズとなったリディア・ディクトルスカヤ。その後マティスが亡くなるまでの20年間、リディアはそばで彼を支え続ける。
《座るバラ色の裸婦》は少なくとも13回描き直されていて、リディアの顔がだんだん抽象的に、そして最終的には線姿。マティスは鑑賞者の想像力をつぶすすべての制限から作品を解放した。
第二次世界大戦が勃発、ヴァンスへ1941
多くの芸術家が国外へ逃げる中、齢70近かったマティスは国を離れることを断念。同時 期に十二指腸癌を患い大手術を受ける。その後、空爆を避けニースからヴァンスに移ったマティスが最後の油絵連作として取り組んだ「ヴァンス室内画」シリーズ。《黄色と青の室内》はその第1作。奥行のない不思議な画面構成なのに、調和した空間。シリーズ最終作《赤の大きな室内》1948。直角で隣り合うふたつの壁、その角を表す黒線はベンチの背までで切れている。
切り紙絵、色彩と線描1947
一日の大半をベッドで過ごすようになりカンヴァスに向かうことが難しくなったマティスは、絵筆をはさみに持ち替え、切り紙絵を創作するようになる。色彩と線描(ドローイング)の対立をどう超えるか。色彩と線描(ドローイング)という造形作業が同時にできる切り紙絵は、マティスにとって到達点ともいえる表現方法。
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」)》1947年
ヴァンス・ロザリオ礼拝堂1951
展覧会の最後はマティス最晩年の作品、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂。建物の設計、装飾、什器、祭服や典礼用品に至るまでを手がけた総合芸術作品、マティスの集大成。マティスはこれを「運命によって選ばれた仕事」として、光、色、線が一堂に会する静謐な空間を創りあげた。
《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活
マティスは「精神安定剤のような、肉体の疲れを癒す、良い肘掛け椅子のような存在」を芸術の理想としていた。戦争で息子を徴兵され、大病を患い、人生には辛い事もあった。それでも画中に苦しみを持ち込まず、調和に満ちた作品を創作し続けた。
自分が感じた深い感動に対する繊細な感覚、芸術を探求する精神。マティスは20世紀初頭の絵画運動であるフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動した後、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と形の探求に捧げた。
マティスの理想の境地は、南フランスの《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活であり、50年間《豪奢、静寂、逸楽》であり続けることは幸せである。
――
展示作品の一部
アンリ・マティス 《豪奢、静寂、逸楽》 1904年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle
「豪奢1(Luxe)」1907年、本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。西欧の伝統的な主題「浴女」を描いているが、アフリカ彫刻を思わせる単純で幾何学的な人物の形態は、当時の批評家の反感を買った。マティスは「異境的」な文明に、新たな芸術へのインスピレーションを求めた
《金魚鉢のある室内》1914年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《赤いキュロットのオダリスク》1921年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《ニースの室内、シエスタ》 1922年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《マグノリアのある静物》1941年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティスが78歳から手がけ始めた最後の絵画連作「ヴァンス室内画群」シリーズ
《黄色と青の室内》1946年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」より)》1947年 ポショワール/アルシュ・ヴェラン紙 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティス最後の油彩画 《赤の大きな室内》 1948年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle
――
参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
――
20世紀を代表するフランスの巨匠、アンリ・マティス(1869-1954年)。強烈な色彩によって美術史に大きな影響を与えたフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動したのち、絵画の革新者として、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩とかたちの探求に捧げました。彼が残した仕事は、今なお色あせることなく私たちを魅了し、後世の芸術家たちにも大きな影響を与え続けています。
世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵するパリのポンピドゥー・センターの全面的な協力を得て開催する本展は、日本では約20年ぶりの大規模な回顧展です。絵画に加えて、彫刻、素描、版画、切り紙絵、晩年の最大の傑作と言われる南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する資料まで、各時代の代表的な作品によって多角的にその仕事を紹介しながら、豊かな光と色に満ちた巨匠の造形的な冒険を辿ります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_matisse.html
――
マチス展、東京都美術館、2023年4月27日~8月20日
2024年2月14日から5月27日まで

 

|

« 中野晃一講演会、強者の支配か自由な共存か。【質疑応答】解答篇、上智大学、ソフィア文化芸術ネットワーク | トップページ | 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ― »

現代美術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 中野晃一講演会、強者の支配か自由な共存か。【質疑応答】解答篇、上智大学、ソフィア文化芸術ネットワーク | トップページ | 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ― »