プラトン哲学の戦い アカデメイア派対ペリパトス派、ローマ帝国、普遍論争、ルネサンス、フランス革命
メディチ家のプラトン・アカデミーと反ルネサンスの戦いの歴史は、今も続いている。形而上学は『純粋理性批判』(1781)によって解体された。イデア論の困難はプラトン『パルメニデス』に予見されている。
「ヨーロッパの哲学的伝統はプラトンへの一連の脚注から成り立っている」ホワイトヘッド『過程と実在』1929。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【プラトン哲学の戦い】【プラトン哲学とアリストテレス哲学のディレンマ】プラトン哲学は本質主義であり、精神主義。アリストテレス哲学は個体主義(物質主義であり、経験主義。【方法論】プラトン哲学『パイドン』は「現象をエイドスにおいて観る」、アリストテレス哲学『自然学』は「現象を救う」【論争、矛盾】プラトン『パルメニデス』「個と個を眺めて共通点を見出し、エイドスを求める。第三のエイドスが現れ無限背進に陥る」アリストテレス『形而上学』「定義(ホリスモス)はエイドスについてのみ成り立つ」
【哲学者の死 ソクラテス(BC469-399)70歳、プラトン(BC 427-347)74歳、アリストテレス(BC 384-322)62歳】【ソクラテス以前の哲学者】タレス(BC624-546)、ピュタゴラス(BC6C)、パルメニデス(BC544-501)、ヘラクレイトス(BC540)、エムペドクレス(BC493-423)、デモクリトス(BC460-370)、アナクシマンドロス(BC670-546)、アナクシメネス(?-BC525)、アナクサゴラス【ソフィスト】プロタゴラス(BC500-430)、ゴルギアス(BC496-376)
アリストテレス『第一哲学』の分裂
【アリストテレス『第一哲学』「ある」ト・オンの第一原因を探究する】「ある」ト・オンは、カテゴリアイ(述語)について多義的に語られる『カテゴリアイ』。事物の何であるか、「実体」を主語に語られる。「存在とは何か」「第一原因」を問うことは、「実体とは何か」を問うことに帰一。『形而上学』第7巻「実体論」は、「本質」と「離存」を実体の二要件として、「形相」こそが「第一実体」と結論する。「個」「基体」は第二実体である。第12巻「神学」、第一の不動の動者、質料をもたない完全現実態(エンテレケイア)としての「神」を論述。だが、アリストテレスは存在探究の第一原因に神を求めながら、神を原理とする哲学体系を構築しない。出隆『アリストテレス哲学』『形而上学』G.E.R.ロイド『アリストテレス』
【プラトン哲学とアリストテレス哲学の対立】1,方法論、「ロゴスにおいて考察する」(エン・トイス・ロゴイス・スコペイン)プラトン『パイドン』、「ソーゼイン・タ・パイノメナ(現象を救う)」アリストテレス『自然学』『形而上学』、2,存在論「生成消滅するものと存在するものとの対比」「変化するものと不変のものとの対比」プラトン『パイドン』『国家』『パイドロス』『饗宴』『パルメニデス』、「四原因論、本質、質料、始動、目的」アリストテレス『自然学』『形而上学』、「実体とは個物(トデ・ティ)である」「実体とは基体(ヒュポケイメノン)である」アリストテレス『形而上学』『カテゴリアイ』、3、イデア論、「第3人間論」プラトン『パルメニデス』、イデア論に対するアリストテレスの批判。アリストテレス『形而上学』、20世紀アリストテレス主義=中期プラトン哲学否定説=GEL.Owenアリストテリアン・ソサエティ
【古代ギリシア懐疑主義の出発点】懐疑主義(ホイ・スケプティコイ)は、教義主義(ホイ・ドグマティコイ)を論敵とし、考察(スケプシス)、探求を停止させる元凶として批判した。判断保留(エポケー)して無動揺・平静・安心(アタラクシア)に至ろうとした。古代ギリシア懐疑主義の出発点、書物を書かなかったピュロン(BC365-270)の弟子ティモン(BC325-235)は判断中止(エポケー)によって無動揺・平静・安心(アタラクシア)に至ることを説き、生活、実践した。【アカデメイア派の懐疑主義(スケプティコイ)化】
アルケシラオス(BC315-240)は、プラトン初期対話篇、『パルメニデス』イデア論批判、『テアイテトス』知識の定義の挫折によって判断留保を説く。ゼノン(BC335-263)が創設したドグマティスト学派、ストア派を論駁した。
【アカデメイア派とストア派の論戦、100年BC3C-2C】
アカデメイア派のアルケシラオスとカルネアデス(BC214-129)とストア派のクリュシッポス(BC280-207)
【ヘレニズム諸学派、物質主義と経験主義】
【ストア派の認識】物質的な魂の統括的部分が感覚的に受ける物質的変容=表象、現れ(パンタシアー)であるとした。表象に対して、同意・承認(シュンカタテシス)を行う。虚偽を避け、真理を得るために、真理の基準(クリテリオン)を必要とする。ストア派は、知識構築の土台の基準として把握的表象(カタレープティケー・パンタシア)とした。把握的表象を承認することによって把握(カタレープシス)が成立する。
【アカデメイア派のストア派に対する批判】把握的表象についても、真実の表象と虚偽の表象が存在する。判断留保(エポケー)しなければならない。
【ストア派のアカデメイア派に対する反論】ストア派の賢者は、把握的表象のみを承認し、それ以外の判断を留保する。【アカデメイア派のストア派に対する批判】真なる信念としてなにかを知ることは不可能だとするアカデメイア的懐疑論。
【ピュロン主義、懐疑主義の300年】アイネシデモス(1C)は、アカデメイア派を離れ、ピュロン主義の名のもとに、【懐疑主義の10の方式】懐疑主義の10の方式(トロポス)を導入した。方式(トロポス)とは、対立する現れを提示し、現れ双方の信憑性が等しく、優劣がつかないことを示すことを示すことによって、判断留保に導く議論の方法である。現れの対立を、動物の種類、人間、感覚器官、状況、等、10の条件に基づいて10の方式を体系的に示した。
【『ピュロン主義哲学の概要』セクストス・エンペイリコス】(Σέξτος Ἐμπειρικός: Sextus Empiricus, 2世紀~3世紀)は、ローマ帝国期ギリシアの懐疑主義。セクストスは、信念を放棄すること、すなわち何かを知ることができるかどうかという判断を停止することを提案する。判断停止することによってのみ、我々はアタラクシア(心の平安)を得ることができる。セクストスは知識そのものの可能性を否定することはしない。真なる信念としてなにかを知ることは不可能だとするアカデメイア的懐疑論の立場をセクストスは批判する。
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プラトン哲学の戦い
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【神々の黄昏、プラトン哲学とローマ帝国との戦い】
新プラトン主義【プロティノス『エンネアデス』301】プロティノス(205-270)の弟子ポリュフュリオス(『プロティノス伝』)が編集、シリア派の新プラトン主義イアンブリコス(プラトン哲学とアリストテレス哲学の一致を目指すローマ期ポリュフュリオスの弟子であった)に思想的対決するため、プロティノスの死後30年、ポリュフュリオスはプロティノス全集を公刊に踏み切った。ピュタゴラス・プラトン派は「書かれた文字」への不信のゆえ、ポリュフュリオスは弟子に勧められて49歳から著述を始めた。
【プロティノスの思想】【三つの原理】一者(ト・ヘン)→知性(ヌース)→魂(プシューケー)
【万物の根源】一は万物であり、一つではない。「一」は万物の原理であって、万物と同一ではない。第5巻第2篇。【流出説】運動するものには、そこに向けて動く目的がなければならない。しかし、あの神にはいかなる目的もないのだから、神は運動しないとわれわれは定立するのである。第5巻第1篇。【神秘的合一としての脱我】(第一の観照は)たぶん観照ではないであろう。それは出会いの別の方式であって、いやしくも至聖所にあるものを見ようとするならば、脱我であり、純化であり、自己贈与であり、触れることに身を延ばすことであり、静止であり、合一への精神集中である。
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キリスト教との戦い
ユダヤ教【ナザレ派のイエス】イエスはパレスチナの北方、ガリラヤ湖を中心に広がる地域「ガリラヤ」と呼ぶ地域の出身者である。ガリラヤの中でも小さな田舎町ナザレでイエスは育つ。イエスが律法学者パリサイ派たちと論争している、イエスの聖書知識は抜群 (ルカ2・41~47)
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キリスト教との戦い
ユダヤ教【ナザレ派のイエス】イエスはパレスチナの北方、ガリラヤ湖を中心に広がる地域「ガリラヤ」と呼ぶ地域の出身者である。ガリラヤの中でも小さな田舎町ナザレでイエスは育つ。イエスが律法学者パリサイ派たちと論争している、イエスの聖書知識は抜群 (ルカ2・41~47)
【コンスタンティヌス1世(在位:306年-337年)、313年発布『ミラノ勅令』】【それまでローマ帝国はキリスト教を拒否】コンスタンティヌス1世【キリスト教に好意的であった理由、その改宗の動機は判然とは分っていない】
【コンスタンティヌス1世】(270頃2月27日-337年5月22日)67歳で死す。(在位:306年-337年)、313年発布『ミラノ勅令』】ローマ帝国においてキリスト教を公認したとされる。非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。325年にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議(第1ニカイア公会議)を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派(アタナシウス派)が正統の地位を占めていく
351年、ガッルスは東方のサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesius) や、エペソスのマクシムス (Maximus) [注釈 6]など、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。
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【皇帝ユリアヌス、キリスト教との戦い】皇帝ユリアヌス(331年⁻ 363年6月26日) 『皇帝饗宴』『ガリラヤ人を駁す』『王なる太陽への賛歌』。在位2年。36歳で死す。
コンスタンティノポリスで修辞学を学んだのち、ニコメディアへ留学した。この地で哲学者リバニオス (Libanius) の講義を、間接的にではあるが受けることができ[注釈 5]、ユリアヌスは新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。342年、追放地にて、カッパドキアのゲオルギウス (Georgius) の蔵書を用いて勉学に励んでいた。351年、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesius) や、エペソスのマクシムス (Maximus) [注釈 6]など、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。
【皇帝ユリアヌス、新プラトン主義、】コンスタンティヌス大帝の甥。コンスタンティウス2世により父と母を暗殺される。ニコメディアの哲学者リバニオス (Libanius) 、カッパドキアのゲオルギウス (Georgius) 、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesius) 、エペソスのマクシムス (Maximus) に学ぶ。(331年⁻363年6月26日) 在位2年。36歳で死す。
【皇帝ユリアヌス、新プラトン主義、背教者と呼ぶのは不当である】 (331年⁻ 在位361-363年6月26日) 『皇帝饗宴』『ガリラヤ人を駁す』『王なる太陽への賛歌』。在位2年。36歳で死す。コンスタンティヌス朝の皇帝の一人で、皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)の甥。最後の「異教徒皇帝」。異教復興を掲げキリスト教への優遇を改めたため「背教者(Apostata)」とも呼ばれる。皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により家族を暗殺された。
【プラトン哲学の戦い、6世紀】【皇帝ユスティニアヌス1世、アテナイのアカデメイア閉鎖】529年、皇帝ユスティニアヌス1世(483-565)は、アテナイのアカデメイア閉鎖を命令。プラトンがBC387年に開いて以來、アカデメイア9百年の歴史が息の根を止められる。
【プラトン哲学とアリストテレス哲学の戦い、14世紀】プラトン哲学は本質主義、アリストテレス哲学は個体主義である【『神学大全』1273】トマス=アクィナスが、キリスト教神学をアリストテレス哲学で解釈、神の存在証明、1270年と死後の1277年、パリ司教の手で異端宣告【普遍論争】トマス・アクィナス(1225年頃⁻1274年)実在論、ウィリアム・オッカム(1285年⁻1347年)唯名論【オッカムの剃刀】「個が唯一の実在、説明されるべきは個体のみ」【神学崩壊】神の存在証明の破綻、個体化の原理の破綻。
【プラトン哲学とアリストテレス哲学の戦い、プラトン哲学のイデアとアリストテレスの個体主義=基体主義】
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【プラトン哲学の戦い、15-16世紀】【ルネサンス、メディチ家とバチカンとの戦い、1439-1499】ルネサンスはなぜ終わったのか。
【プラトン哲学の戦い、15-16世紀】【ルネサンス、メディチ家とバチカンとの戦い、1439-1499】ルネサンスはなぜ終わったのか。
【ルネサンスの死 1499】1492年、ロレンツォ・デ・メディチ43歳。1478年4月26日、ジュリアーノ・デ・メディチ25歳。アンジェロ・ポリツィアーノ39歳。ミランドラ31歳。フ1499,フィチーノ62歳。1510、ボッティチェリ65歳。1564、ミケランジェロ88歳。
【メディチ家、プラトン・アカデミー、思想家の死1499年】1439、コジモ・デ・メディチ、プラトン・アカデミーを構想。1464、コジモ・デ・メディチ74歳。1492、ロレンツォ・デ・メディチ43歳。1499,フィチーノ62歳。1519年レオナルド・ダ・ヴィンチ66歳。1520年ラファエロ11歳で孤児37歳死す。1564年ミケランジェロ88歳。1600年ジョルダーノ・ブルーノ52歳
【ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙と諸世界について』1584】【異端審問、ジョルダーノ・ブルーノ(1546-1600)処刑】【知性と権力】
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【プラトン哲学の戦い、15-18世紀】【理性主義と経験主義の戦い】デカルト『方法序説』1637、ベーコン『新機関』1620ジョン・ロック『人間知性論』1689ジョージ・バークリー『人知原理論』1709デイヴィッド・ヒューム『人性論』1739
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【プラトン哲学の戦い、18-19世紀】【カントとドイツ観念論】カント『純粋理性批判』1781、ヘーゲル『精神現象学』1807、フィヒテ『全知識学の基礎』1794シェリング『先験的観念論の体系』1800【生の哲学】『意志と表象としての世界』1819、『ツァラトゥストラ』1885『悲劇の誕生』1872
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【フィヒテ『全知識学の基礎』1794】人間のすべての認識を基礎づける知識学は絶対に確実な認識に依拠しなければならない。「私は存在する」という私の意識(自我)こそがそれである。知る働きと知られる対象とが同じ私だからである。「自我」は三つの契機を含んでおり、それが知識学の三つの根本命題となる。「知識学」の第一原則「自我は根源的・端的に自分自身を定立する」。第二原則〔定立する〕自我に対して端的に非我が反定立される。第三原則「自我は自我の中において、可分的自我に対して可分的非我を反定立する」
【シェリング『先験的観念論の体系』1800】精神(自我)と自然(非我)を超克するには、精神を原理として自然を生み出すか、自然を原理として精神を生み出す。理想と現実、精神と自然の矛盾を超えることができるのは、藝術においてである。赤松元通訳『先験的観念論の体系』蒼樹社
【ヘーゲル『精神現象学』1807】絶対者は精神であり、有限なる者と無限なる者を止揚(Aufheben)した統一者である。絶対精神の自己意識の自己展開の歩みが歴史である。
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参考文献
ルネサンス、メディチ家の戦い
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
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宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
プラトン哲学の戦い アカデメイア派対ペリパトス派、ローマ帝国、普遍論争、ルネサンス、フランス革命
http:// mediter ranean. cocolog -nifty. com/blo g/2023/ 12/post -83ae10 .html
http://
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