大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず
地位、名声、財産に溺れる者に嵯峨天皇の遺詔を捧げよう。
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて動乱を超えて、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのか。狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面に、蓮の四季が描かれている。
織田有楽斎(1547-1621)織田信長の一族、織田信雄、徳姫、お市の方、浅井三姉妹、茶々、江、初と共に生き残る。運命に翻弄された織田信長の一族、信長の子、信雄、徳姫、長益。信長の弟、茶の湯三昧74歳で死す。
織田有楽斎(1547-1621)、織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟、十一男として生まれた。織田長益は、天文16年(1547)に織田信秀の十一男として生まれ、幼名を源吾(源吾郎)といい、信長の13歳下の弟。武将として活躍。
【建仁寺の塔頭、「正伝院、如庵」】晩年、京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興、隠棲。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られている。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えている。
本能寺の変、天正10年(1582)、織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所において、籠る長益の主君・織田信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず、長益は御所を脱出したことから、京の人々には「逃げた(男)」と揶揄された。さらにその後、【信雄(信長の次男)】に仕え、徳川家康と豊臣秀吉の講和を調整するなど存在感を示した、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆に加わり。【1600年関ヶ原の戦い】東軍として参戦し、戦後も豊臣家に仕えたが、【大坂冬の陣1614年】大坂城に入り淀殿の叔父として淀殿・秀頼母子を補佐したが、徳川方へ配慮、冬の陣においては豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得。【大坂夏の陣1615年】前には家康の許可を得て主君から離れた。【1616年、徳川家康死す】1621年、有楽斎、死す。
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嵯峨天皇、遺詔 嵯峨天皇は遺詔(亡くなる前の詔勅、遺言)に次のように懐(こころ)を述べている。
余昔し不徳を以て久しく帝位を忝(かたじけな)うす。夙夜兢兢として黎庶(れいしょ:人民)を済(すく)はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。豈(あ)に但(ただ)に愚憃微身(ぐとうびしん:愚かでつたない者、自卑の辞)の有(ゆう:持ち物)のみならんや。故に万機の務(つとめ)を以て、賢明に委(ゆだ)ぬ。
一林の風、素(もと)より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊(たんぱく)ならんと思欲(しよく)す。「続日後本紀」承和九年条
【嵯峨天皇、遺詔】徳のない身でありながら長く帝王として天下を預かる間、民に良くあれと願って一心に努めてきた。しかし天下とは有徳の聖人が大切に扱うべき宝である。愚憃微身、拙い身が長くその位置に就き所有するものではない。するべき務めを果たして次代の優れた人物にこれを委ねた。静かな林に風を感じて佇むこと、それがもともと心の愛する好みの暮らしである。地位も権威もいらない、山の麓や水のほとりを散歩し、のんびり何事も為さず、琴を弾き書を読んで遊び、気ままに暮らしたいと思っていた。「続日後本紀」承和九年条
「続日後本紀」承和九年
太上天皇崩于嵯峨院。春秋五十七。遺詔曰、余昔以不徳。久恭帝位。夙夜兢兢、思済黎庶。然天下者聖人之大宝也。豈但愚憃微身之有哉。故以万機之務。委於賢明。一林之風、素心所愛。思欲無位無号詣山水而逍遥、無事無為翫琴書以澹泊。
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【天狗になる人、地位、名声、財産に溺れる者】自惚れる忖度教授、忖度官僚【名声に溺れる芸術家】あまり賢くない人は、自分が理解できない事については何でもけなす。ラ・ロシュフーコー『箴言集』【金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい】(マタイ19章16-26節)【階級社会に溺れる人】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
織田有楽斎像 狩野山楽筆 古㵎慈稽賛、一幅 元和8年(1622)、正伝永源院
蓮鷺図襖(部分) 狩野山楽 十六面、江戸時代 17世紀、正伝永源院
松平陸奥守書状 織田有楽斎宛、一幅 江戸時代 17世紀、正伝永源院
重要美術品 大井戸茶碗 有楽井戸、一口 朝鮮王朝時代 16世紀、東京国立博物館
青磁輪花茶碗 銘鎹、馬蝗絆 南宋時代 12世紀
平重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨した。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。
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参考文献
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず
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織田有楽斎(1547-1621)
天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺において織田信長が自刃すると、彼の命運も激変する。本能寺の変の時、長益は織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けた。親王を逃走させると信忠は自害したが、長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられる。仕えている主君が自害し長益は難を逃れたことから、風聞書などのいくつかには、長益に“逃げた男”というレッテルを貼り、悪し様に評するものもあり。
戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代、長益は有能な大名としての地歩を固めていきますが、夏の陣を前に京都・二条へ移り、また建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とします。もともと長益は利休も一目を置く茶人であり、法躰となり有楽斎と号した後も茶の湯に執心し、高僧や、古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と結びながら茶会を開いていきます。これらの活動を示す書状はいまも正伝永源院に多く残り、茶人としての姿をよく示しています。
正伝院を終の住処とする頃にはすでに当時の茶の湯に重要な役割を果たすようになっていました。正伝院に茶室「如庵」を造営し、茶の湯三昧の日々を送った有楽斎が生前に集めた茶道具は、没後、孫の織田三五郎(長好)が引き継ぎます。その後、これらは織田三五郎の遺言によって形見分けされ、残りは正伝院に寄進。今は、行方不明が多い。
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四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
サントリー美術館、2024年1月31日(水)~3月24日(日)
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