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2024年5月

2024年5月21日 (火)

「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」・・・大日如来、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第368回
空海(774~835)
774(宝亀5)年、佐伯真魚、讃岐の多度郡多度津に生まれる。778年、15歳、上京し叔父阿刀の大足に学ぶ。791年、18歳、大学寮に入学。797(延暦16)年、24歳『聾瞽指帰』を書く。804年、東大寺にて得度。遣唐使船に乗り入唐。805(延暦24)年、33歳、青龍寺恵果に胎蔵界、金剛界の伝法灌頂を受ける。恵果、死去。806年、33歳、留学僧を途中切り上げ、帰国。809年、36歳、高雄山寺にて滞在。812(弘仁3)年、39歳、胎蔵界、金剛界の結縁灌頂を最澄に授ける。816(弘仁7)年、43歳、嵯峨天皇から高野山を賜り金剛峰寺を建立。824年、51歳、東寺造営の長官。834年、61歳、御七日の修法を淳和天皇に修法。835(承和2)年、62歳、高野山金剛峰寺にて入定。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【五智如来】大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来(無量寿如来)、不空成就如来。
大日如来が宇宙の根本原理であり、至高の存在である。大日如来の【5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)】を象徴する五智如来。大日如来の知恵、法界体性智は、自性清浄なる大日如来の絶対智、他の四智を統合する智恵である
【大日如来の知恵は五智如来に現れる。五智】
大日如来は、法界体性智を持つ。自性清浄心と呼ばれる第9識(阿摩羅識)。宝生如来は、平等性智【諸法の平等を具現する智】を持つ。阿閦如来は、大円鏡智【鏡の如く法界の万象を顕現する智】を持つ。無量寿如来は、妙観察智【諸法を正しく見極め、追求する智】を持つ。不空成就如来は、成所作智【自他のなすべきことを成就せしめる智】を持つ。
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【5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)】第9識(阿摩羅識)、第8識阿頼耶識、第7識末那識、第6識意識、成所作智=前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)
法界体性智は、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。
*法界体性智=自性清浄心と呼ばれる第9識(阿摩羅識)
阿閦如来は、大円鏡智【鏡の如く法界の万象を顕現する智】を持っている。
*大円鏡智=阿頼耶識 第8識
宝生如来は、平等性智【諸法の平等を具現する智】を持っている。
*平等性智=末那識 第7識
無量寿如来は、妙観察智【諸法を正しく見極め、追求する智】を持っている。
*妙観察智=意識 第6識
不空成就如来は、成所作智【自他のなすべきことを成就せしめる智】を持っている。
*成所作智=前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
無着『摂大乗論』
世親『唯識三十頌』
松長有慶『密教経典、理趣経』1984
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金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」・・・大日如来、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f6ef9c.html
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展示作品の一部
国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)のうち胎蔵界、平安時代(9世紀)、京都・神護寺
現存最古にして、空海の在世時に制作された現存唯一の両界曼荼羅。高雄山神護寺に伝わったことから高雄曼荼羅と呼ばれる。令和4年(2022)に修理が完了し、金銀泥で描かれる諸尊の輝きがよみがえった。
国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)のうち金剛界平安時代(9世紀)京都・神護寺
後期展示(5/14~6/9)
現存最古にして、空海の在世時に制作された現存唯一の両界曼荼羅。高雄山神護寺に伝わったことから高雄曼荼羅と呼ばれる。令和4年(2022)に修理が完了し、金銀泥で描かれる諸尊の輝きがよみがえった。
国宝「五智如来坐像」平安時代(9世紀)京都・安祥寺
五智如来は大日如来を中心に阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の各如来を四方に配置し、それぞれ5つの智の徳をつかさどる。空海の孫弟子である恵運が嘉祥元年(848)に開いた安祥寺に伝わった。量感豊かな体つきが分身のようによく似ている。寺院の創建から遠くない時期に造られたとみられ、5体すべてがそろう最も古い五智如来像である。安祥寺の木造五智如来坐像は851年から854年ごろの寺の創建時に造られ、5つの像が揃って伝わる最古の五智如来像。令和元年、重要文化財から国宝に格上げ指定された。
安置されていた多宝塔は明治39年に焼失したが、すでに京都国立博物館(京都市東山区)に寄託されており、難を逃れた。ただ約120年間もの間、寺には存在しない状態が続いている。
一級文物「文殊菩薩坐像」中国・唐(8世紀)中国・西安碑林博物館
長安にあった安国寺の跡で発見された。文殊菩薩とされるが、服装や持物は胎蔵旧図様の金剛波羅蜜菩薩に近い。遺跡からはこの像とともに複数の密教像が見つかっており、長安での密教の興隆を物語る。
国宝「諸尊仏龕」中国・唐(7~8世紀)和歌山・金剛峯寺
空海が身辺に置いたと伝えられることから枕本尊と称される三面開きの仏龕。折りたたむとストゥーパ(仏塔)形になる。インド風な面貌で唐代の作と見られるが、古い時代のものを模した可能性がある。空海が師の惠果から受け継いだ品という。
重要文化財「弘法大師行状絵詞 巻第三(部分)南北朝時代 康応元年(1389)京都・教王護国寺(東寺)
空海生誕600年にあたり制作された全十二巻の絵巻。先行する空海伝絵巻諸本の内容をふまえ、東寺にまつわる独自の内容も加えた集大成というべき対策である。巻第三は苦難の航海から師となる恵果との出会いを色鮮やかに描く。
国宝「錫杖頭」中国・唐(9世紀)香川・善通寺
空海の請来品と伝える錫杖の頭部。錫杖は本来山野を歩く際に持つ杖だが、法会で振り鳴らす梵音具としても用いられた。本品は両面に阿弥陀三尊と二天を鋳表した装飾性の高い名品。尊像表現は極めて精緻で、同時期の金銅仏を思わせる。
国宝「金銅密教法具」中国・唐(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
真言宗最大の法会、後七日御修法に用いる法具。悪を砕き仏を喜ばせるという五鈷杵と五鈷鈴が金剛盤に乗るかたちをとる。空海が唐から請来した品であり、『弘法大師請来目録』にその存在が記される真言密教の至宝。
国宝「両界曼荼羅(西院曼荼羅〈伝真言院曼荼羅〉)のうち金剛界、平安時代(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
彩色の両界曼荼羅として現存最古の絵画である。宮中真言院の御七日御修法所用として伝わり、長く空海の御影堂である東寺西院に置かれた。鮮やかな色彩、秀逸な描写で表されたエキゾチックな諸尊の姿が目をひく。
国宝「両界曼荼羅(西院曼荼羅〈伝真言院曼荼羅〉)のうち胎蔵界、平安時代(9世紀)京都・教王護国寺(東寺)
彩色の両界曼荼羅として現存最古の絵画である。宮中真言院の御七日御修法所用として伝わり、長く空海の御影堂である東寺西院に置かれた。鮮やかな色彩、秀逸な描写で表されたエキゾチックな諸尊の姿が目をひく。
国宝「聾瞽指帰」下巻、平安時代(8~9世紀)和歌山・金剛峯寺
儒教・道教・仏教の教えを架空の人物に語らせることで比較し、仏教が最も優れていることを述べる空海の著作で、出家前24歳の時に書かれた。様々な学問を学んだ上で、空海が仏教を選んだことがわかる。
国宝「灌頂歴名(部分)平安時代 弘仁3~4年(812~813)京都・神護寺
高雄山寺(神護寺)において弘仁3年(812)から翌年にかけ行われた、金剛界・胎蔵界の結縁灌頂を受けた人々の名簿で、空海がその手で書いた。この灌頂は最澄の依頼がきっかけで行われたもので、筆頭に最澄の名が見える。
国宝「金剛般若経開題残巻」部分)平安時代(9世紀)奈良国立博物館
あらゆる執着を断つ知恵を解く説法『金剛般若経』の題名を解説し、密教の立場からその奥旨を示した空海の著作。軽妙な草書で執筆された自筆本の一部で、行間の書き込みなどによる訂正のあとが、推敲の様子を伝えている。
国宝「伝船中湧現観音像」平安時代(12世紀)和歌山・龍光院
空海が唐から帰る際、船に観音が現れて荒波を鎮めたといい、本図はその観音を描くと伝わる。しかし、特異な姿は実際には密教の秘法で行者を守護する別の尊格のもの。空海信仰が高まり、珍しい絵画が空海伝と結びつけられたようだ。
重要文化財、快慶「孔雀明王坐像」鎌倉時代 正治2年(1200)ごろ、和歌山・金剛峯寺
孔雀明王は毒蛇を食う孔雀を尊格化した明王で、一切の災いを除くとされる。本像は後鳥羽上皇の祈願所となった高野山孔雀堂の本尊。端正な顔だちや四臂の巧みな配置、整理された衣のひだに快慶の特色が見て取れる。
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空海の生誕1250年を記念して、奈良国立博物館の総力を挙げた展覧会を開催します。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん。」(『性霊集』巻第八) 
(この世の全ての物が消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は人々が救われることを願い続ける)
衆生救済を願った空海が人々を救うためにたどり着いたのは密教でした。空海は中国・唐にわたり、師匠の恵けい果かから密教のすべてを受け継いだと言われます。
本展では、密教がシルクロードを経由し東アジア諸地域、そして日本に至った伝来の軌跡をたどることにより、空海が日本にもたらした密教の全貌を解き明かします。また、多数の仏像や仏画により、空海が「目で見てわかる」ことを強調した密教の「マンダラ空間」を再現するとともに、各地で守り伝えられてきたゆかりの至宝を一堂に展示し、空海と真言密教の魅力を紹介します。
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奈良国立博物館(館長:井上 洋一)は、弘法大師・空海の生誕1250年を記念し、総力を挙げて生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」を開催いたします。本展は、空海(774~835)が日本にもたらした密教の全貌を解き明かすとともに、密教の「マンダラ空間」を展示室に展開し、国宝・重要文化財を含む様々な作品により、空海と真言密教の魅力を紹介します。
本展では、平安時代、淳和天皇の発願のもと空海が制作を指導した現存最古の曼荼羅で、神護寺(京都市右京区)が所蔵する国宝《両界曼荼羅(高雄曼荼羅)》を、修理後初めて公開します。「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の2幅からなり、いずれも約4メートル四方の大きさを誇ります。 第1章 密教とは――空海の描いた世界
第2章 密教の源流――陸と海のシルクロード
第3章 空海入唐と恵果との出会い――胎蔵界と金剛界の融合
第4章 空海の帰国 神護寺と東寺 密教流布と護国
第5章 金剛峯寺と弘法大師信仰
▼主な展示作品
■国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅) 2幅 京都・神護寺
■国宝 両界曼荼羅(西院曼荼羅<伝真言院曼荼羅>) 2幅
京都・教王護国寺(東寺)
■重文 両界曼荼羅(血曼荼羅) 2幅 和歌山・金剛峯寺
■国宝 五智如来坐像 5軀 京都・安祥寺
■重文 大日如来坐像(西塔安置) 1軀 和歌山・金剛峯寺
■国宝 諸尊仏龕 1基 和歌山・金剛峯寺
■国宝 金銅密教法具 1具 京都・教王護国寺(東寺)
■国宝 錫杖頭 1柄 香川・善通寺
■国宝 聾瞽指帰 下巻 1巻 和歌山・金剛峯寺
■国宝 灌頂歴名 1巻 京都・神護寺
■国宝 金剛般若経開題 1巻 奈良国立博物館
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「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」奈良国立博物館、4月13日~6月9日


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2024年5月 9日 (木)

どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第367回
大紫躑躅、八重桜咲く。桜吹雪舞う、海より深い母の恩、母の愛犬、トイプードル、守護精霊となって帰ってきた。学問僧を守るために。
ウィリアム・モース(1838-1925)は「人力車に乗っている間に、車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けているかに気が付いた。」小山周子、江戸東京博物館学芸員は江戸の人々と動物の風景についてモースのエピソードによって説明する。
歌川広重は60歳の時「名所江戸百景」安政4年(1857)を描き、猫、鷹、鶴、亀、狐、馬、鯉のぼりをクローズアップしている。
西洋の旅行会社のポスターの手法である。広重は35歳の時、北斎『富嶽三十六景』に出会い、火消同心を辞し、絵師に専心する。
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【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】師が優れているか否かが最も重要【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている世界観、基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は稀である】卓越性には2種類ある『ニコマコス倫理学』
人生の目的は、魂を磨くことにあり。地位と金銭を得るにあらず。人もし全世界を得るとも、その霊魂を失えば何の益あらん。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。能く天の命に聴いて行うべし、神人合一、梵我一如の境地に到達すべし。誠実によりて得たる信用は最大の財産なり。成功本位の立身出世主義に従うべからず。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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人生の目的は、品性を完成するにあり。地位と金銭を得るに非ず。人もし全世界を得るとも、その霊魂を失えば何の益あらん。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。能く天の命に聴いて行うべし、自ら己の運命を作らんと欲すべからず。誠実によりて得たる信用は最大の財産なり。成功本位の米国主義に倣うべからず、誠実本位の日本主義に徹すべし。自己に頼るべし。他人に頼るべからず。内村鑑三「軽井沢星野温泉二代目旅館社長に贈った商売10箇条」
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歌川 広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員で断られ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。文政4年(1821年)、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。天保3年 (1832)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心する。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。翌天保4年 (1833年)から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。『名所江戸百景』(1856 - 1859)、竪大判で120枚揃物。
【葛飾北斎、冨嶽三十六景】冨嶽三十六景、1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判錦絵、版元は西村屋与八(永寿堂)。最初に36図が完成し、後に10図が追加出版。苦節50年、72歳『冨嶽三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)。富嶽百景
【歌川広重】火消同心。天保3年 (1832)35歳絵師に専心。35歳で北斎『富嶽三十六景』に出会い、『東海道五拾三次』天保5~7(1834~36)年を描く。20年後晩年60歳で「名所江戸百景」安政4年(1857)を描く。『不二三十六景』(1852)「富士見百図」「富士三十六景」(1859)、竪大判で37枚揃物。最後まで富士を描き続ける。61歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
歌川広重《名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣》1857(安政4)年、東京都江戸東京博物館
歌川広重《名所江戸百景 深川洲崎十万坪》1857(安政4)年、東京都江戸東京博物館
月岡芳年《風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗》1888(明治21)年、東京都江戸東京博物館
歌川豊国《しか茶屋》1792-93(寛政4-5)年頃、東京都江戸東京博物館[5/26まで展示]
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参考文献
「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f7b3b4.html

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本展は、2022年にパリ日本文化会館(フランス)で好評を博した「いきもの:江戸東京 動物たちとの暮らし」展を拡充した凱旋帰国展です。画巻、錦絵、装飾品、郷土玩具などに登場する動物たちの多様な姿をお楽しみください。
1603(慶長8)年、江戸に幕府が置かれ、街並みが整備されていきます。街では人々がネコや犬を可愛がり、時にゾウの見世物が話題となり、ウズラの声を競う会が催され、ウサギの飼育ブームが起きました。また、人々は郊外に出かけて野生の鳥の姿や虫の音に季節を感じたものでした。いまはむかし、一大都市となった江戸や東京における、動物と人々との関係を探ります。
1877(明治10)年に来日した米国の動物学者、エドワード・S.モースは、日本人が動物に対して親切に接することに驚きました。動物の名に「さん」づけをして親しみを込めて呼び、人力車の車夫は道に居座る犬やネコを避けて走っていると記しています。
洗練されたデザイン/素朴なかたち
壮大な狩猟の記録画、広重や国芳ら人気浮世絵師による錦絵など、多くの絵に動物たちは登場しています。さらに、動物たちのイメージはデザインモチーフへと昇華し、温かみのある郷土玩具や、精巧な工芸品にも用いられるようになりました。巨大都市における動物は、共生するだけでなく、さまざまに表現されて人々の生活を彩ったのです。
江戸東京博物館から選りすぐりの作品が大集結!
大規模改修工事のために休館中の江戸東京博物館。その収蔵品は61万点にも及びます。本展では膨大な収蔵品のなかから、浮世絵、工芸品、染織などをテーマ毎に展示し、江戸・東京において人々が動物をどのようにとらえ、表現していたのかを俯瞰します。最新の調査研究と初公開作品を含む充実した作品群をご紹介します。
東京会場だけの特別展示:東京の鉄道馬車
1882(明治15)年から1903(明治36)年まで、東京の大通りではレールの上を馬車が走っていました。「東京馬車鉄道」は、最盛期には300両の車両と2000頭の馬を擁していたといい、都市の交通を鉄道馬車も支えていたことがうかがえます。鉄道馬車の開業を知らせる華やかな錦絵3枚続、名所絵、玩具絵など、当時の版画を展示します。
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動物百景、東京ステーションギャラリー、2024年4月27日(土)〜2024年6月23日(日)

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2024年5月 5日 (日)

デ・キリコ、形而上絵画の謎・・・形而上絵画と古典絵画を往還する

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第366回
美術探訪、美への旅、デ・キリコ、形而上絵画の謎            
デ・キリコ「形而上絵画」1910は、ピカソ、サルバドール・ダリ『記憶の固執』1931、ポール・デルヴォー『眠れるヴィーナス』19044に影響を与えた。
20世紀を代表する巨匠の一人、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。彼の約70年にわたる画業をたどる回顧展「デ・キリコ展」が、東京都美術館で2024年4月27日〜8月29日、開催されている。
――
彼が1910年頃から描き始めた「形而上絵画」は、幻想的な風景や静物によって非日常的な世界を表現する絵画。サルバドール・ダリや、ピカソ、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー、シュールレアリスムの画家をはじめ、多くの芸術家や国際的な芸術運動に衝撃を与えた。本展では、デ・キリコの画業を「イタリア広場」「形而上的室内」「マヌカン」などのテーマに分けて紹介する。初期から描き続けた自画像や肖像画から、デ・キリコの代名詞ともいえる「形而上絵画」、西洋絵画の伝統に回帰した作品、そして晩年の新展開である「新形而上絵画」まで、世界各地から集まった80点以上の作品が展示される。1910年代の「形而上絵画」は世界中に散らばっている、一挙に見られるのは貴重な機会である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【形而上絵画の謎、2010】2010年、デ・キリコは、フィレンツェに移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受け「ある秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」4点、絵画を描く。日常空間と古代建築が同時存在。画面の左右で、遠近法の焦点が分裂している。長い影。人間が描かれていないか、微小。彫刻、マネキンなどの特異な静物。画面内の時計が示している時刻と長い影が矛盾する。地平線に汽車が走る、煙はまっすぐ上に向かう。なぜ、遠近法の焦点は分裂するのか、影と時計は矛盾するのか。なぜ地平線に汽車が走るのか。
【デ・キリコ、パリへ】1911年、パリへ移住。1912年「ある秋の午後の謎」3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。列柱の並ぶ古典的な建築、古代ギリシア風の彫刻、煙を吐いて走る機関車などを配した風景画は当時の流行とは全く異質で、理解されなかった。
1913年その数か月後、描き上げた30点の絵画の展覧会を開催。企画した詩人・評論家のギョーム・アポリネールに見出され「形而上絵画」と呼ばれる。親交を結び、ピカソに紹介され交際した。初めて絵の買い手が現れる。
アンドレ・ブルトンは、ジョルジュ・デ・キリコの「形而上絵画」の影響を受け、ジークムント・フロイトの深層意識、無意識領域に目を向ける。「今まで人間が作ってきた制約を離れて、思考の裏側にある無意識の世界を表現しよう。理性による支配を受けず、美学や道徳的先入観を無視して記述される思考」と評価された。アンドレ・ブルトンは、1924年「シュールレアリスム宣言―溶ける魚」を発表。
【神秘と憂鬱】「通りの神秘と憂鬱」「イタリア広場」(1914年)を描く。1915年、第一次世界大戦。「ダダ」の創始者であるトリスタン・ツァラやイタリア未来派のカイロ・カッラと知り合う。ツァラは翌年ジュネーヴに逃れ、ダダの活動を始めた。一方、デ・キリコは戦争がはじまると弟とともにイタリア軍に従軍しフェラーラに駐屯した。ストレスで神経衰弱となり、入院した。『出発の苦悩』(1917)、列車、そして高い塔、デ・キリコが頻繁に人間、特に彼の父親への象徴的な参照として利用したモチーフ。2005年父の死後、デ・キリコはアテネを去った。ギリシア、彼が育ち、旅行を始めた場所、これは最終的に彼を彼に齎した。両親のネイティブイタリア、そこで彼は広いルネサンス広場とアーケードのある建物に魅了された。
【古典への回帰、シュールレアリストたちと決別】ブルトンは、古典に回帰したキリコを非難した。デ・キリコは、自分のスタイルを貫き、1926年にブルトンをはじめとするシュールレアリストたちと決別。その後、ネオバロック絵画を経て1960年以降は形而上絵画へと回帰。若い頃の作品を自己模倣する。
【幸せな形而上画家】1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。1944年、66歳、ローマへ移住。ローマ、スペイン広場付近に移住。ここで妻であるイザベラ・ファーと晩年の30年を過ごす。1978年、90歳の誕生日を祝う。11月20日心臓発作のため没した。
【形而上絵画、哲学的な世界】デ・キリコは、1907年、ミュンヘンに移住、ミュンヘンの美術アカデミーに入学した。ニーチェ、ショーペンハウエルの哲学に影響を受け、永劫回帰の思想に傾倒。2010年サンタ・クローチェ広場で霊感を受け至高体験に啓示を受けた世界である。「イタリア広場」シリーズはデ・キリコの原体験が源泉であり、柱廊のある建築、長い影、歪んだ遠近法、地平を走る汽車、影のような人物によって、ノスタルジア、不安、空虚、憂愁、謎の空間を生み出す。「肖像画・肖像」は、デ・キリコがその初期から取り組んできた、過去の巨匠たちの作品との対話のテーマである。
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展示作品の一部
予言者 1914-15 ニューヨーク近代美術館蔵(James Thrall Soby Bequest) © Digital image, The Museum of Modern Art, New York / Scala, Firenze © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
赤い塔のあるイタリア広場 1934 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館蔵(L.F.コレクションより長期貸与) © Archivio Fotografico e Mediateca Mart © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
風景の中で赤い布を敷いて水浴する女 1945 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2023
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開館情報 デ・キリコ展、東京都美術館
2024年4月27日(土)〜8月29日(木)、9:30 〜 17:30 金曜日は20:00まで開館
休館日 月曜日 5月7日、7月9日~16日は休室  4月29日、5月6日、7月8日、8月12日は開室 土曜・日曜・祝日及び8月20日以降は日時指定予約制
入場料 一般 2200円、大学生・専門学校生 1300円、65歳以上 1500円、高校生以下・障がい者手帳提示と付き添い1名 無料
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。上智大学大学院、北海道大学大学院博士後期課程修了。
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参考文献
大久保正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女・・・デ・キリコ、ダリ、ポール・デルヴォー
クロード・モネ『日傘の女』・・・藝術家と運命の女、カミーユの愛と死
藝術と運命との戦い、藝術家と運命の女 印象派、ジョルジュ・スーラ
ミラクル エッシャー展、奇想版画家の謎を解く8つの鍵・・・迷宮の旅人
「ヌード NUDE-英国テート・コレクションより」横浜美術館・・・愛と美の象徴、思想表現の自由の戦い
デ・キリコ、形而上絵画の謎・・・形而上絵画と古典絵画を往還する
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-bf7c56.html
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【ジョルジョ・デ・キリコの生涯と藝術1888-1978】
【ジョルジョ・デ・キリコ1888-1900】デ・キリコは、1888年イタリア人の両親の子、ギリシア、テッサロニキの都市ヴォロスで生まれ、家族とともに様々な街を転々とした。父エヴァリスト・デ・キリコは、イスタンブール生まれギリシアを起源に持つ富裕層イタリア人。鉄道建設を担当する鉄道技師として多くの事業を実現。母ジェンマは、ギリシアとトルコの混血のイタリア人、イズミールで生まれた。1900年、アテネの理工科学校に通う。この頃最初の静物画を描く。
【デ・キリコ、1905-1913】1905年、父死去。1906年、家族とともに、ギリシアを離れミュンヘンに移住する。1907年、ミュンヘンの美術アカデミーに入学。この頃、ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。1909年、ミラノに移住。1910年、フィレンツェに移住。弟はパリへ移住、1910年、最初の形而上絵画を手がける。1911年、パリへ移住。1912年、3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。1913年、パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。詩人で評論家のギョーム・アポリネールに注目され、「形而上絵画」と呼ばれる。後に親交をむすぶ。初めて絵の買い手が現れる。2024年シュールレアリスム宣言。2026年シュールレアリストと決別。
【ジョルジョ・デ・キリコ「ある秋の午後の謎」1910】1905年、父死去。1910年フィレンツェ移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受けて描いた「ある秋の午後の謎」を1912年のサロン・ドートンヌに出品、賞賛を受け、1913その数か月後、描き上げた30点の絵画の展覧会を開催。企画した詩人・批評家のギョーム・ド・アポリネールによって「形而上絵画」と呼ばれ、デ・キリコの名声は高まる。
【ジョルジョ・デ・キリコ、形而上絵画の謎2010】2010年、フィレンツェに移住。サンタ・クローチェ広場で霊感を受けて「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」4点絵画を描く。日常空間と古代建築。画面の左右で、遠近法の焦点が分裂している。長い影。人間が描かれていないか、微小である。彫刻、または、マネキンなどの特異な静物。画面内の時計が示している時刻と長い影が矛盾する。地平線に汽車が走る、煙はまっすぐ上に向かう。
【形而上絵画と古典絵画の間を往還するデ・キリコ】
【デ・キリコ、結婚、ローマ、スペイン広場】1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。1947年、60歳の時にスペイン広場の家にアトリエを構え、ここで妻であるイザベラ・ファーと晩年の30年を過ごす。デ・キリコはその後、古典的な作風に転じたが、晩年には幻想的な作風に回帰した。
スケジュールP27
反乱史P204

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