« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »

2024年8月

2024年8月14日 (水)

『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立

Gandhara-matura-2024
Gandhara-pakistan-2024
Bamiyan-ryukokui-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第375回
中観派と唯識派の対立。般若経は、中観派の系統に属する。
Prajñā-pāramitā-hṛdaya、玄奘三蔵訳『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』如之我聞、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空 度一切苦厄、舎利子 色不異空 空不異色、色即是空 空即是色、受想行識 亦復如是。
【龍樹、中観派、空(śūnya)】龍樹(Nāgārjuna)はあらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており「独立した不変の実体」(=自性)はもたない(無自性空)とする見方に立つ。すべてのダルマは存在するとする説一切有部と普遍の存在を主張するヴァイシェーシカ派を批判。150‐250年。
【般若系経典】『大般若経』大乗経典。600巻。唐の玄奘 訳。「仁王経」「般若心経」以外の般若部諸経を集大成したもので、16部からなる。般若波羅蜜の義、諸法皆空の理を説いたもの。大般若波羅蜜多経。
不空訳『理趣経』。「般若経」の理趣分に相当。般若の空の理趣が清浄であることを説くもので、密教の極意を示すとして真言宗で常に読誦する。大楽金剛不空真実三摩耶経。般若理趣経。真実の理法そのものである法身の大日如来が金剛薩埵のために般若の理趣(根本の理法)を説いた。衆生の本性は清浄であり、この身のままで仏の境地に達することができると説き(即身成仏)、人間の欲望を肯定。
不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経般若理趣品』【理趣】は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定できる立場【一切法自性清浄】である。この苦楽を超越した絶対境【大楽】が悟りである。
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
https://bit.ly/2H2diKc
【瑜伽行唯識学派(Vijñānavāda)、世親】世親(Vasubandhu)「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から第6識・意識、第7識・末那識を通過して、第8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。このサイクルを阿頼耶識縁起と言う。4世紀。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
★★★★★
玄奘三蔵訳『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』如之我聞、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空 度一切苦厄、舎利子 
――
色不異空 空不異色、色即是空 空即是色、受想行識 亦復如是、舎利子 是諸法空相、不生不滅 不垢不浄 不増不減、是故空中 無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法、無眼界 乃至無意識界、無無明 亦無無明尽、乃至無老死 亦無老死尽、無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故、菩提薩埵 依般若波羅蜜多故、心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖、
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃、三世諸仏 依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪 是大明呪、是無上呪 是無等等呪、能除一切苦 真実不虚、故説般若波羅蜜多呪、即説呪日、
――
羯帝 羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝、菩提僧莎訶、般若心経、
★★★★★
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』私はこのように聞いた。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られた。その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められた。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。
「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」
それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。
「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊 (ごうん) 」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。
シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。
同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。
知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。
ですから知らないといけません。
“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。
さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
※お坊さんが読む、日本語読みではこうなります。
「ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじー そわかー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)
シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。
そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。
以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。
★★★★★
大乗仏教
インドで西暦紀元後に興起した新しい形態の仏教。サンスクリットでマハーヤーナMahāyānaという。Mahāとは「大きい」の意、yānaとは「乗物」を意味する。それ以前からあった保守的な仏教(いわゆる小乗仏教)では修行僧が独善的になる傾きがあったのに対して、ひろく民衆のための仏教であることをめざす。「大乗」の「大」には、大・多・勝の三義があるという。それは(一)偉大な教えであり、(二)多くの人々を救い、(三)勝れた教えであることを標榜する。大乗仏教は、民衆の宗教であり、諸仏・諸菩薩を信仰する。みずからは救われなくてもまず他人を救うという菩薩bodhisattvaの精神が強調された。諸仏・諸菩薩を熱心に信仰して念ずることを強調するために、多数の仏像が製作された。その製作の中心地は、ガンダーラGandhāra(パキスタン北部)とマトゥラーMathurāとであった。最初期の大乗仏教は、ストゥーパを崇拝していた一般民衆および修行僧のあいだから起ったと考えられるが、当時は荘園をもたなかった(当時荘園をもっていたのは、いわゆる小乗仏教だけである)。しかし民衆のあいだに根強かった呪術的要素をとりいれることによって、一般民衆のあいだにひろがった。多数の大乗経典が編纂された。まず多数の般若経典がつくられて、あらゆる事物は空である(一切皆空)ということを説いた。また従前の仏教諸派の超世俗的態度を排斥して、『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、世俗的な在家の生活のうちにあって真の仏道を実践すべしという態度を表明している。『華厳経(けごんきょう)』は菩薩の道を説いているが、一切のものは互いに入りまじり影響し合って成立しているという道理をくり返し表明し、唯心説までも述べている。浄土経典(『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』など)は、阿弥陀仏を信仰することによって極楽浄土に生まれることをすすめる。『法華経』は、その前半においては、仏教のいろいろな仕方の実践がどれも完成に達するための原因であるといって、種々の実践法の存在意義を認め(一乗思想)、後半においては、究極には久遠の本仏が存することを説いている。哲学学派としては、中観派(ちゅうがんは、Mādhyamika)と唯識派(ゆいしきは、Vijñānavādin)とが主なものである。中観派は、竜樹(りゅうじゅ、ナーガルジュナNāgārjuna)に始まるが、種々の論法をもって、あらゆるものが空であるということを論証する。「空」とは、縁起とか中道とかの教えと同じ趣意である。唯識派とは、別名ヨーガ行派Yogācāraともいうが、精神統一によって心を静め、外界の事物はすべて心の顕現したものであると観ずる。その教えは、弥勒(マイトレーヤMaitreya)と呼ばれた哲人に始まるというが、体系的な学説は世親(天親ともいう。Vasubandhu)により完成された。彼によると、われわれの存在の根底にアーラヤ識ālayavijñānaと名づけられる精神的原理があり、万有はそれから顕現したものにほかならない、ということを説いた。それが発展して、中国・日本では法相宗(ほっそうしゅう)となった。唯識説の系統から論理主義的な知識哲学が成立した。仏教論理学(バラモン教系統の古い論理学を「古因明」と呼ぶのに対して、これを「新因明」と呼ぶ)を確立したのは、陳那(じんな、ディグナーガDignāga)であるが、法称(ほっしょう、ダルマキールティDharmakīrti)がこれを大成した。因明は部分的に中国・日本に伝えられ、特に奈良で研学された。三二〇年にグプタGupta王朝が成立し、全インドにわたる集権的な国家体制が確立するとともに、ヒンドゥー教が盛んになったので、仏教も次第にそれに影響されて、ヒンドゥー教的なものに対し妥協適合をせざるを得なくなった。おそらく西ローマ帝国の滅亡に伴う海外貿易の衰退は、インドにおける商業資本の社会的勢威を衰退させ、農村に基盤をおくバラモン教ないしヒンドゥー教を優勢ならしめることとなった。そこで仏教もそれと妥協して真言密教(金剛乗Vajrayānaともいう)を成立させた。民衆の間で行われている多数の呪法を採用し、呪文(陀羅尼dhāra〓ī)を唱えて攘災招福を行なった。根本の仏としては大日如来を想定し、人間の感情欲望を肯定して、即身成仏を期した。それはまた仏教の堕落をひきおこし、密教はヒンドゥー教のうちに没入してしまう傾向があった。十一―十三世紀にわたるイスラム教徒のインド征服とともに、仏教はインドからほとんど消滅してしまった。しかしラダク・ネパール・ブータン・チベット・モンゴル・中国・ベトナム・朝鮮・日本の仏教は圧倒的に大乗仏教を受けている。
[参考文献]
中村元『インド思想史』(『岩波全書』)、竜山章真『インド仏教史概説』、平川彰『インド仏教史』
(中村 元)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
★★★★★
参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-27a785.html
――

| | コメント (0)

2024年8月 8日 (木)

田名網敬一 記憶の冒険・・・永遠に熟さず、老いず、極彩色の彼岸と此岸

Tanaamikeiichi-0-nact-2024 
Tanaamikeiichi-gold-fish-nact-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第374回
田名網敬一は、45歳の時、大病するが生還。生死の境を彷徨し、以後、死を意識して今がある。いつまでも熟さず、老いず。不熟。1936年生まれ、88歳で、サイケデリックなデザイナー。横尾忠則、村上隆、彼らも、老いず。混沌、豊穣、奇想天外なモチーフと極彩色。極彩色の彼岸と此岸。
「彼岸と此岸」をつなぐ橋
展示室の始めに「聖なるものと俗なるもの」「彼岸と此岸」をつなぐ暗喩としての太鼓橋がうず高く積み上げられた新作インスタレーション《百橋図》がお出迎え。内覧会に、田名網敬一の水色と黄色の極彩色の着物を着た若い女性がやってきた。
You are never too old to learn.学ぶのに老いすぎているということはない。いくつになっても学ぶことはできる。
老いるまで生き、老いるまで学ぶ。人不会因为上了年纪而不能学习,活到老学到老。(年老いたからといって学べないということは無い、一生勉強)
【イメージディレクター】武蔵野美術大学デザイン科に入学後、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作らと出会い、彼らの活動に最前線で触れながら、1957年に日本宣伝美術会主催の日宣美展で特選を受賞。在学中からデザイナーとして仕事を依頼されるようになり、卒業後は博報堂に入社。2年ほどで退職した後は画廊での展示に固執せず、1966年にはアーティストとしての出発点ともいえる作品集『田名網敬一の肖像』を出版。自らを「イメージディレクター」と名乗る。
――
勝利に溺れる人々。スポーツ・映画・性欲に溺れる大衆。勝つこと、名誉を崇拝する勝利主義に異議を唱えるソクラテス・プラトンは現代社会で軽蔑される。成功は人生の価値であるか。考えるべき時である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
《Gold Fish》1975年、アクリル絵具/イラストレーションボード、36.4×51.5cm
《キリコ劇場》2009年、アクリル絵具/カンヴァス、195×145.5cm
《彼岸の空間と此岸の空間》2017年
《森の掟》2024年、顔料インク、アクリル・シルクスクリーン、ガラスの粉末、ラメ、アクリル/カンヴァス、251×200cm
――
参考文献
田名網敬一 記憶の冒険・・・永遠に熟さず、老いず、極彩色の彼岸と此岸
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-44855a.html
――
現代の越境者 田名網敬一
近年、急速に再評価が進む日本人アーティスト、田名網敬一。武蔵野美術大学在学中にデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、1975年には日本版月刊『PLAYBOY』の初代アートディレクターを務めるなど、雑誌や広告を主な舞台に日本のアンダーグラウンドなアートシーンを牽引してきました。その一方で、1960年代よりデザイナーとして培った方法論、技術を駆使し、現在に至るまで絵画、コラージュ、立体作品、アニメーション、実験映像、インスタレーションなど、ジャンルや既存のルールに捉われることなく精力的に制作を続け、美術史の文脈にとって重要な爪痕を残してきました。 本展は、現代的アーティスト像のロールモデルとも呼べる田名網の60年以上にわたる創作活動に、初公開の最新作を含む膨大な作品数で迫る、初の大規模回顧展です。
――
田名網敬一(たなあみ けいいち)
1936 年東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。アートディレクター、実験映像及びアニメーション作家、アーティストなど、そのジャンルを横断した類まれな創作活動により、他の追随を許さない地位を築いている。近年の田名網の主要な展覧会として、「パラヴェンティ: 田名網 敬一」(プラダ青山店、東京、2023 年)、「マンハッタン・ユニヴァース」(ヴィーナス・オーヴァー・マンハッタン、ニューヨーク、2022 年)、「世界を映す鏡」(NANZUKA UNDERGROUND、東京、2022 年)、「Keiichi Tanaami」(ルツェルン美術館、スイス、2019 年)、「Keiichi Tanaami」(ジェフリー・ダイチ、ニューヨーク、2019 年)。また、グループ展としてポップアートの大回顧展「インターナショナル・ポップ」(ウォーカー・アート・センター、ダラス美術館、フィラデルフィア美術館、アメリカ、2015-2016 年)、「世界はポップになる」(テート・モダン、ロンドン、2015 年) などがある。パブリックコレクションに、ニューヨーク近代美術館(アメリカ)、ウォーカー・アート・センター(アメリカ)、シカゴ美術館(アメリカ)、M+(香港)、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(アメリカ)、ハンブルガー・バーンホフ(ドイツ) など多数。
――
田名網敬一 記憶の冒険
Keiichi Tanaami: Adventures in Memory
国立新美術館、2024年8月7日(水) ~ 2024年11月11日(月)

| | コメント (0)

2024年8月 5日 (月)

醍醐寺 国宝展・・・如意輪観音の微笑み、理源大師聖宝、秀吉の醍醐の花見

Daigoji-01-2024
Daigoji-sotatsu-2024
Daigoji-sotatsu-senmen-chirashizu-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第373回
如意輪観音は、天人をこの世の苦しみから救う。天人はこの世で苦しむ「六観音菩薩と六道輪廻」。貞観16年(874)、理源大師聖宝が笠取山の山頂に草庵を結び、准胝観音と如意輪観音を祀った。天暦5年(951)には下醍醐に五重塔が建立。天正4年(1576)に醍醐寺座主となった義演は関白二条晴良を父に持ち、秀吉を関白にする。秀吉は慶長3年(1598)に贅を極めた「醍醐の花見」を行った。5か月後、秀吉は死ぬ。
【醍醐寺三宝院 元亀四(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信「天下布武」印【元亀四年】三方が原の戦い、信長と家康は信玄を迎え撃つが敗退。包囲網に参加する武田信玄、死す。
【織田信長の師、沢彦宗恩】臨済宗妙心寺派の僧、織田信秀の家臣・平手政秀の招きにより清洲城にて信長の師に迎えられる。吉法師(織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀。妙心寺第39世住持となり、辞した後は瑞龍寺に住んだ。天正15年(1587)10月2日示寂
――
【密教真言】「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとひ三界の一切の有情を害すも悪趣に堕せず」『般若理趣経』第三段【『理趣経』「第三段」】の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、空海は三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならないとしている。
【空海『聾瞽指帰』序】ここに一の沙門あり、余に虚空蔵聞持法を呈す。その経に説くに、もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得と。ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む。大滝嶽に登り攀じ、谷響を惜しまず。明星来影す
【瑜伽行唯識学派(Vijñānavāda)、世親】世親(Vasubandhu)「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から第6識・意識、第7識・末那識を通過して、第8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。このサイクルを阿頼耶識縁起と言う。4世紀。

【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念を追求する精神は、この世の闇の彼方に美を求める。
【理念を追求する精神】邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孟子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
3つの時間論。自分が生きたい時間論を選ぶならば、何を選ぶか。
【3つの世界観の時間論】時間には、回帰的時間と終末観的時間と進化的時間がある。(渡辺慧『時』第3章、時間の起源と機能)(回帰的時間は、エンペドクレス、ニーチェ『ツァラトゥストラ』。終末観的時間はキリスト教。進化的時間は、ベルクソン『創造的進化』)1974、初刊1948年。エンペドクレスの宇宙円環(Cosmic Cycle)、ヘラクレイトスの回帰的宇宙、ニーチェの永劫回帰(Ewig Wiederkehren)、ピュタゴラスの輪廻転生。
島薗進×大久保正雄『死生学 宗教の名著』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【空海と最澄】「古の人は道の為に道を求め、今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは、道を求むる志にあらず。」「夫れ秘蔵の興廃は唯汝と我なり」空海『答叡山澄法師求理趣釈経書』弘仁4(813)年『理趣釈経』借覧拒否。最澄に答えた書簡。
――
日本の大学は、大学というこの自由な空間を、人間の選別と資格づけのための牢獄に変えてから久しい。ぼくは、大学は学生を募るのに、試験を行ってはならず、また授業料をとってはならないという原則を、いろいろな補いをしながら今なお守っているドイツの大学を讃美する。でなければ、学問も研究も、ますます、奴隷のやる仕事になり下がって行くことを憂いているのである。田中克彦「耳の中の炬火」エリアス・カネッティ 書評より抜粋 2021「わたしが選んだこの一冊」河合塾 収載
――
開創1150年記念 醍醐寺 国宝展
第1章 山の寺 醍醐寺
醍醐寺は醍醐山の頂上にある上醍醐と、山麓の下醍醐に広大な寺領を有している。今日、多くの参詣者は下醍醐までで、上醍醐まで登る人は少ない。しかし、本来醍醐寺の始まりは上醍醐にある。平安時代前期の貞観16年(874)、理源大師聖宝が笠取山の山頂に草庵を結び、准胝(じゅんてい)観音と如意輪観音をまつったのが醍醐寺の始まりである。やがて醍醐寺は醍醐天皇の御願寺となり、天皇の庇護のもと上醍醐に薬師堂や五大堂が建立された。薬師堂には今日に伝わる薬師三尊像をはじめ、今回展示の吉祥天立像や帝釈天騎象像などがまつられた。また、五大堂の五大明王像は四躯が江戸時代に再興されたものであるが、大威徳明王像は創建期の像であり、創建期に遡る初期密教像として貴重である。延長4年(926)、下醍醐に釈迦堂が建立され、天暦5年(951)には下醍醐に五重塔が建立された。こうして醍醐寺は上醍醐と下醍醐の二伽藍からなる大伽藍となったが、上醍醐は開祖聖宝ゆかりの聖地として特別な信仰を集め続けている。室町時代の文明2年(1470)、下醍醐は兵火によって五重塔を残して灰煽に帰したが、上醍醐には兵火が及ばなかった。今日、私たちが醍醐寺の初期に遡る優れた文化財を見ることができるのも、上醍醐と下醍醐という特殊な伽藍構成であったことが大きい。
第2章 密教修法(すほう)のセンター
古来、人々は国の安泰や五穀豊穣、あるいは健康や家内安全など、さまざまな願いを仏に祈ってきた。とりわけ密教の修法(加持・祈祷の作法)は種々の願いに対応する多様性を有しているが、同じ修法でも寺院や流派によって作法が異なり、独自の秘法は門外不出とされることが多かった。雨乞いなら〇〇寺の誰、安産なら✕✕寺の誰というように、特定の験力(げんりき)を有する僧侶がいる寺院には修法の依頼が集中し、皇族や貴族の信仰を集めるようになった。平安時代から鎌倉時代にかけて醍醐寺は高名な学僧や験力の強い僧侶を輩出し、あたかも密教修法の研究センターとでも称すべき観があった。彼らは自流のみならず他流の情報も集め、詳細な記録に残した。また、修法の本尊を描くための設計図である「図像」も熱心に収集した。醍醐寺には近年国宝に指定された文書聖教7万点が伝わっているが、これらは醍醐寺の僧侶たちの数世紀にわたる研究の集積である。密教の聖教をこれほど豊かに伝える寺院はほかにない。この章では、平安時代から鎌倉時代の作品を中心に、仏像や仏画、密教法具を展示する。皇族や貴族の信仰を集めた醍醐寺の美術品は、一流の仏師や絵師の手になるものが多い。人に恐怖心さえ起こさせるほとけの姿にも、どこか優美さがただよっているのはそのためだろう。
第3章 桃山文化の担い手
室町時代の文明2年(1470)、下醍醐は兵火によって五重塔を残して灰燼に帰した。復興に尽力したのが天正4年(1576)に醍醐寺座主となった義演である。義演は関白二条晴良を父に持ち、天正13年(1585)に本来皇族に与えられる称号の准三后となった人物である。復興は豊臣秀吉によるところが大きいが、義演は秀吉とも渡り合える出自と度量をあわせ持っていた。秀吉は慶長3年(1598)に贅を極めた「醍醐の花見」を行ったように、醍醐寺に対して特別な想いを持っていた。秀吉の死後も北政所をはじめとした豊臣氏による復興は続き、金堂、仁王門、上醍醐の諸堂が再興された。今日醍醐寺には三宝院の長谷川派の襖絵をはじめ、俵屋宗達の舞楽図屏風や扇面散図屏風など近世の名画が数多く伝わっている。醍醐寺は桃山の美の殿堂という密教寺院とは別の顔を持っており、それが醍醐寺の大きな魅力となっている。徳川の世になっても醍醐寺に対する庇護は続き、堂宇や仏像の復興が行われた。当時、修験道は当山派(真言宗系)と本山派(天台宗系)などのニ派に分かれ、互いに勢力を競っていた。慶長16年(1611)徳川家康は醍醐寺三宝院に属する修験を当山派と称することを許可し、真言宗の修験道の本寺と認めた。これにより、醍醐寺は全国各地の霊山で行われていた真言系の修験道を統括する寺院となった。
★★開創1150年記念 醍醐寺 国宝展、大阪中之島美術館、2024.06.15 – 2024.08.25
――
参考文献
「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」・・・醍醐寺三宝院、織田信長のために祈祷する
https://bit.ly/2NHbWso
「神護寺」密教の謎・・・五智如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来、無量寿如来、不空成就如来
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/07/post-d32220.html
修行僧、空海・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
醍醐寺 国宝展・・・如意輪観音の微笑み、理源大師聖宝、秀吉の醍醐の花見
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-706d02.html
――

9月
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」三井記念美術館、9月14日(土)~11月12日(火)
「没後300年記念 英一蝶(仮)」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
田中一村展 奄美の光 魂の絵画、東京都美術館、9月19日(木)~12月1日(日)
「生誕130年記念 北川民次展―メキシコから日本へ」世田谷美術館、9月21日(土)より11月17日(日)

10月
ハニワと土偶の近代、東京国立近代美術館、10月1日(火)~12月22日(日)

モネ 睡蓮のとき、国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
「織田信長文書の世界(仮)」(東京・永青文庫)10月5日~
特別展「はにわ」(東京国立博物館)10月16日~(九州国立博物館)2025年
テレンス・コンラン、モダン・ブリテンをデザインする、東京ステーションギャラリー、10月12日(土)~2025年1月5日(日)
オタケ・インパクト、―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―、泉屋博古館、10月19日(土)~2024年12月15日(日)
11月
「トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル(仮)」(東京・三菱一号館美術館)11月23日~1月26日
12月
「坂本龍一展(仮)」(東京都現代美術館)12月21日~
英英紅綠 第49回 白日会会員選抜展、日本橋三越6階、美術特選画廊、12月18日(水)~12月23日(月)
英英紅緑展、山本大貴『十六夜』8号、130万円、1982生まれ。松林淳『装う』6号17万円、1962年生まれ。岩本将弥『葵時雨』6号17万円、1992年生まれ。
美術館スケジュール2024年・・・旅する哲学者、美への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/

| | コメント (0)

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »