『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
中観派と唯識派の対立。般若経は、中観派の系統に属する。
Prajñā-pāramitā-hṛdaya、玄奘三蔵訳『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』如之我聞、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空 度一切苦厄、舎利子 色不異空 空不異色、色即是空 空即是色、受想行識 亦復如是。
Prajñā-pāramitā-hṛdaya、玄奘三蔵訳『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』如之我聞、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空 度一切苦厄、舎利子 色不異空 空不異色、色即是空 空即是色、受想行識 亦復如是。
【龍樹、中観派、空(śūnya)】龍樹(Nāgārjuna)はあらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており「独立した不変の実体」(=自性)はもたない(無自性空)とする見方に立つ。すべてのダルマは存在するとする説一切有部と普遍の存在を主張するヴァイシェーシカ派を批判。150‐250年。
【般若系経典】『大般若経』大乗経典。600巻。唐の玄奘 訳。「仁王経」「般若心経」以外の般若部諸経を集大成したもので、16部からなる。般若波羅蜜の義、諸法皆空の理を説いたもの。大般若波羅蜜多経。
不空訳『理趣経』。「般若経」の理趣分に相当。般若の空の理趣が清浄であることを説くもので、密教の極意を示すとして真言宗で常に読誦する。大楽金剛不空真実三摩耶経。般若理趣経。真実の理法そのものである法身の大日如来が金剛薩埵のために般若の理趣(根本の理法)を説いた。衆生の本性は清浄であり、この身のままで仏の境地に達することができると説き(即身成仏)、人間の欲望を肯定。
不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経般若理趣品』【理趣】は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定できる立場【一切法自性清浄】である。この苦楽を超越した絶対境【大楽】が悟りである。
不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経般若理趣品』【理趣】は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定できる立場【一切法自性清浄】である。この苦楽を超越した絶対境【大楽】が悟りである。
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
https://bit.ly/2H2diKc
【瑜伽行唯識学派(Vijñānavāda)、世親】世親(Vasubandhu)「唯識三十頌」では八識説を唱え、種子は前五識から第6識・意識、第7識・末那識を通過して、第8識・阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である種子生現行。このサイクルを阿頼耶識縁起と言う。4世紀。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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玄奘三蔵訳『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』如之我聞、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空 度一切苦厄、舎利子
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色不異空 空不異色、色即是空 空即是色、受想行識 亦復如是、舎利子 是諸法空相、不生不滅 不垢不浄 不増不減、是故空中 無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法、無眼界 乃至無意識界、無無明 亦無無明尽、乃至無老死 亦無老死尽、無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故、菩提薩埵 依般若波羅蜜多故、心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖、
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃、三世諸仏 依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪 是大明呪、是無上呪 是無等等呪、能除一切苦 真実不虚、故説般若波羅蜜多呪、即説呪日、
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羯帝 羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝、菩提僧莎訶、般若心経、
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『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』私はこのように聞いた。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られた。その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められた。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。
「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」
それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。
「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊 (ごうん) 」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。
シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。
同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。
知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。
ですから知らないといけません。
“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。
さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
※お坊さんが読む、日本語読みではこうなります。
「ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじー そわかー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)
シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。
そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。
以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。
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大乗仏教
インドで西暦紀元後に興起した新しい形態の仏教。サンスクリットでマハーヤーナMahāyānaという。Mahāとは「大きい」の意、yānaとは「乗物」を意味する。それ以前からあった保守的な仏教(いわゆる小乗仏教)では修行僧が独善的になる傾きがあったのに対して、ひろく民衆のための仏教であることをめざす。「大乗」の「大」には、大・多・勝の三義があるという。それは(一)偉大な教えであり、(二)多くの人々を救い、(三)勝れた教えであることを標榜する。大乗仏教は、民衆の宗教であり、諸仏・諸菩薩を信仰する。みずからは救われなくてもまず他人を救うという菩薩bodhisattvaの精神が強調された。諸仏・諸菩薩を熱心に信仰して念ずることを強調するために、多数の仏像が製作された。その製作の中心地は、ガンダーラGandhāra(パキスタン北部)とマトゥラーMathurāとであった。最初期の大乗仏教は、ストゥーパを崇拝していた一般民衆および修行僧のあいだから起ったと考えられるが、当時は荘園をもたなかった(当時荘園をもっていたのは、いわゆる小乗仏教だけである)。しかし民衆のあいだに根強かった呪術的要素をとりいれることによって、一般民衆のあいだにひろがった。多数の大乗経典が編纂された。まず多数の般若経典がつくられて、あらゆる事物は空である(一切皆空)ということを説いた。また従前の仏教諸派の超世俗的態度を排斥して、『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、世俗的な在家の生活のうちにあって真の仏道を実践すべしという態度を表明している。『華厳経(けごんきょう)』は菩薩の道を説いているが、一切のものは互いに入りまじり影響し合って成立しているという道理をくり返し表明し、唯心説までも述べている。浄土経典(『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』など)は、阿弥陀仏を信仰することによって極楽浄土に生まれることをすすめる。『法華経』は、その前半においては、仏教のいろいろな仕方の実践がどれも完成に達するための原因であるといって、種々の実践法の存在意義を認め(一乗思想)、後半においては、究極には久遠の本仏が存することを説いている。哲学学派としては、中観派(ちゅうがんは、Mādhyamika)と唯識派(ゆいしきは、Vijñānavādin)とが主なものである。中観派は、竜樹(りゅうじゅ、ナーガルジュナNāgārjuna)に始まるが、種々の論法をもって、あらゆるものが空であるということを論証する。「空」とは、縁起とか中道とかの教えと同じ趣意である。唯識派とは、別名ヨーガ行派Yogācāraともいうが、精神統一によって心を静め、外界の事物はすべて心の顕現したものであると観ずる。その教えは、弥勒(マイトレーヤMaitreya)と呼ばれた哲人に始まるというが、体系的な学説は世親(天親ともいう。Vasubandhu)により完成された。彼によると、われわれの存在の根底にアーラヤ識ālayavijñānaと名づけられる精神的原理があり、万有はそれから顕現したものにほかならない、ということを説いた。それが発展して、中国・日本では法相宗(ほっそうしゅう)となった。唯識説の系統から論理主義的な知識哲学が成立した。仏教論理学(バラモン教系統の古い論理学を「古因明」と呼ぶのに対して、これを「新因明」と呼ぶ)を確立したのは、陳那(じんな、ディグナーガDignāga)であるが、法称(ほっしょう、ダルマキールティDharmakīrti)がこれを大成した。因明は部分的に中国・日本に伝えられ、特に奈良で研学された。三二〇年にグプタGupta王朝が成立し、全インドにわたる集権的な国家体制が確立するとともに、ヒンドゥー教が盛んになったので、仏教も次第にそれに影響されて、ヒンドゥー教的なものに対し妥協適合をせざるを得なくなった。おそらく西ローマ帝国の滅亡に伴う海外貿易の衰退は、インドにおける商業資本の社会的勢威を衰退させ、農村に基盤をおくバラモン教ないしヒンドゥー教を優勢ならしめることとなった。そこで仏教もそれと妥協して真言密教(金剛乗Vajrayānaともいう)を成立させた。民衆の間で行われている多数の呪法を採用し、呪文(陀羅尼dhāra〓ī)を唱えて攘災招福を行なった。根本の仏としては大日如来を想定し、人間の感情欲望を肯定して、即身成仏を期した。それはまた仏教の堕落をひきおこし、密教はヒンドゥー教のうちに没入してしまう傾向があった。十一―十三世紀にわたるイスラム教徒のインド征服とともに、仏教はインドからほとんど消滅してしまった。しかしラダク・ネパール・ブータン・チベット・モンゴル・中国・ベトナム・朝鮮・日本の仏教は圧倒的に大乗仏教を受けている。
[参考文献]
中村元『インド思想史』(『岩波全書』)、竜山章真『インド仏教史概説』、平川彰『インド仏教史』
(中村 元)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
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参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http:// mediter ranean. cocolog -nifty. com/blo g/2023/ 08/post -d241f1 .html
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
http:// mediter ranean. cocolog -nifty. com/blo g/2024/ 08/post -27a785 .html
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