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2024年10月

2024年10月23日 (水)

モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第380回
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。1926年86歳で死ぬまで、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【ル・アーブル】クロード・モネは1840年にパリの食料品店の次男として誕生。4歳のときにノルマンディー地域の港町ル・アーブルに引っ越し、18歳までここで暮らす。ル・アーブルという町はセーヌ川河口の大西洋岸に面した港町。モネは10代から地元で人気の似顔絵画家になる。似顔絵を偶然見つけた、ウジェーヌ・ブーダン。35歳のブーダンは18歳のモネに「君の似顔絵は本当に上手い。でも、もっと目を鍛えたほうがいい」クロード・モネ⦅ルエルの眺め⦆1858年。【パリ1858年】モネが画家になるためにパリに行くことに父親は猛反対する。アカデミー・シュイス入学。革新的な画家を多く輩出。カリカチュアのオノレ・ドーミエもシュイス卒。近代画家の父、ポール・セザンヌも卒業生。翌年に徴兵でアルジェリアに行く。チフスのためル・アーヴルに戻り、叔母が納付金を払ったため実質1年で徴兵は終わった。アーブルでヨンキントとブーダンと交流した後、【パリ1862年】22歳でパリに戻り、シャルル・グレールのアトリエへ。モネはここでルノワール、シスレー、バジルなどの画家と出会う。ルノワール、シスレー、バジルは「見たままを感覚的に描いた作品をつくろう」
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。
【クロード・モネ「草上の昼食」1866年プーシキン美術館】クロード・モネが26歳の頃、1866年に描いた「草上の昼食」。パリ近郊のフォンテーヌブローでピクニックを楽しむ若者たち。モネが敬愛したエドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862年頃オルセー美術館所蔵)に触発されて描いた。モデルの女性は、当時モネと出会ったばかりの恋人、後に妻となるカミーユ。紳士はモネの友人で画家だったフレデリック・バジール。カミーユは32歳で死ぬ。 【1870年パートナーのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
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「モネ 睡蓮のとき」マルモッタン・モネ美術館より、 モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた 。モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]

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2024年10月14日 (月)

「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第379回

【ルイーズ・ブルジョワ 《蜘蛛》1997年】1932年、ソルボンヌを退学。ルイーズは芸術部門の最高学府エコール・デ・ボザールに入学する。父ルイは仕送りを打ち切った。なぜなら家業を継いだ際に役に立つ能力への投資だったからだ。家を出て、ルーブル美術館で働き始める。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】母はタペストリー修復工房を経営する。彼女にとって蜘蛛は、親でもあり、「親友」でもあり実母を象徴。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。彼女の自画像でもある「蜘蛛」。【毒親、父ルイの呪縛を解く】藝術は悪魔祓いエクソシズム。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ルイーズ・ブルジョワ(1911年パリ生まれ、2010年ニューヨークにて没)20歳1932年、母が死ぬ。エコール・デ・ボザールに入学。1938年、美術史家ロバート・コールドウォーターと結婚、ニューヨークへ移住。1982年ニューヨーク近代美術館で大規模個展。1993年ベネチア・ビエンナーレ・アメリカ代表。
20世紀を代表する最も重要なアーティストの一人。彼女は70年にわたるキャリアの中で、インスタレーション、彫刻、ドローイング、 絵画など、さまざまなメディアを用いながら、男性と女性、受動と能動、具象と抽象、意識と無意識といった二項対立に潜む緊張関係を探求。
ブルジョワは一生を通じて、見捨てられることへの恐怖に苦しみ。第一章で紹介する作品群は、この恐れが、母親との別れにまで遡ることを示唆している。ブルジョワは両義的かつ複雑性に満ちた「母性」というテーマのもと《自然研究》をはじめとする作品を制作する中で、母と子の関係こそが、将来のあらゆる関係の雛形になるという確信に至った。
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【毒親との戦い、父ルイ】父ルイは美貌の持ち主で、常にエレガントで見栄えよく着飾る人だ。しかし、見た目の良い経営者のナルシシストならではの闇があった。仕切りたがり屋でいじめっ子。常に他人をコントロールし、リーダーとして家族を操作することに喜びを感じていた彼は、毎日一家全員(当時、母方の兄弟やルイーズの従兄たちも一緒に暮らしていた)が食卓に揃わないと気が済まず、勝手に食卓でしゃべろうものなら無言でソーサーを投げつけることもしょっちゅう。食事のあとは、ひとりずつ歌や詩を強制的に披露させるなどやりたい放題だった。あるとき、父は食卓でオレンジの皮をナイフで人の顔や乳房や脚の形に器用にに切り抜いていき、人型の展開図にして見せた。その人型は両脚の間に丁度オレンジの芯が位置するようになっていた。それがルイーズだとふざけた。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】ブルジョワ芸術を代表するモチーフ。彼女にとって蜘蛛は、ブルジョワにとって親でもあり、「親友」でもあった実母を象徴している。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。本展では、いわば彼女の自画像ともいえる 「蜘蛛」をモチーフとした様々な作品が登場する。
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★展示作品の一部
ルイーズ・ブルジョワ《ママン》1999/2002年 ブロンズ、ステンレス、大理石 9.27× 8.91 ×10.23 m 所蔵:森ビル株式会社(東京)
ルイーズ・ブルジョワ《かまえる蜘蛛》2003年 パティナ、ブロンズ、ステンレス鋼 270.5×835.7×627.4 cm 撮影:Ron Amstutz コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
おわりに
本展の副題「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」はハンカチに刺繍で言葉を綴った晩年の作品からの引用です。自らを逆境を生き抜いた「サバイバー」だと考えていたルイーズ・ブルジョワ。生きることへの強い意志を表現するその作品群からは、戦争や自然災害、病気など、人類が直面するときに「地獄」のような苦しみを克服するためのヒントが得られるかもしれません。
ルイーズ・ブルジョワ《無題(地獄から帰ってきたところ)》1996年 刺繍、ハンカチ 49.5×45.7 cm 撮影:Christopher Burke コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)
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★参考文献
森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful”、図録 プレスリリース
父に“いらない子”と呼ばれたルイーズ・ブルジョワ【短期連載:アート界の毒親たち】
「女なんていらない」。父に呪われ虐げられた天才彫刻家がたどり着いた救いの境地。https://www.elle.com/jp/culture/ellelovesart30/g29842557/louise-bourgeois-and-her-toxic-father-191120/
「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-90e3d1.html
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ハーバードの研究で「明確な目標と具体的な計画を設定して紙に書き残している人ほど、目標設定していない人に比べて10年後の収入が10倍になっていた」という結果があるけど、大谷翔平選手が高校時代に使った目標達成シートがまさにそれでしかない。
https://x.com/jinji_990/status/1838330216474907022
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★森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful” 
Mori Art Museum, 森美術館、2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)
https://www.mori.art.museum/jp/

 

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