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2024年11月

2024年11月26日 (火)

特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第383回 
美術探訪、美への旅、「はにわ 挂甲の武人」ひとみの謎・・・見返り鹿。大久保正雄
はにわの最高傑作「埴輪 挂甲の武人」が国宝に指定されてから50周年を迎える2024年秋、東京国立博物館で特別展「はにわ」が開催される。本展では、全国各地から東京国立博物館に約120件もの選りすぐりの至宝が空前の規模で集結。素朴で本質的な人物、愛らしい動物から、精巧な武具、家に至るまで、埴輪の魅力が満載な展覧会。
とくに注目すべきは、ひとみである。素朴な人物、挂甲の武人、踊る人々、愛すべき動物、犬、馬、穴が開いた眼、ひとみは、不思議な表現である。シュメール美術、ガンダーラ彫刻、エジプト彫刻、ギリシア彫刻、アルカイック・スマイル彫刻、どの美術と比べても、比類なく、シンプルで、引き込まれる。穴の開いた空間が心を表現している。ひとみの謎である。
現代彫刻、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)《眠れるミューズ》(1910–11年)のひとみを思い起こさせる。ブランクーシ彫刻は、概念ではなく、本質を表している。概念ではなく、本質である。概念は、言葉があって、はじめて存在する。
犬型埴輪をみると、母の愛犬、トイプードルを思い出す。愛犬は、ときどき家の門に佇み、門番をしていた。県犬養三千代家は、天皇の門番をしていたのか。犬のひとみも謎である。
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プロローグ 埴輪の世界、古墳時代3世紀から6世紀
埴輪が作られたのは、古墳時代の3世紀から6世紀にかけて。日本列島で独自に出現、発達した埴輪は、服や顔、しぐさなどを簡略化し、丸みをもつという特徴があり、世界的にもその珍しい造形と評価されている。プロローグでは東京国立博物館の代表的な所蔵品の一つ「埴輪 踊る人々」を紹介。
この埴輪は、東京国立博物館が創立150周年を機に国立文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行いました。2024年3月末に修理が完了し、本展が修理後初のお披露目となります。
第1章 王の登場 古墳時代前期(3~4世紀)司祭者、中期(5世紀)武人、後期(6世紀)官僚的
埴輪は王(権力者)の墓である古墳に立てられ、古墳から副葬品が出土する。副葬品は、王の役割の変化と連動するように、移り変わる。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割で、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割であり、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王から配布された。
各時期において、中国大陸や朝鮮半島と関係を示す国際色豊かな副葬品も出土する。ここでは国宝のみで古墳時代を概説。埴輪が作られた時代と背景を顧みる。
第2章 大王の埴輪 倭の五王の陵、百舌鳥・古市古墳群、体大王の陵今城塚古墳
ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒する。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わります。古墳時代前期は奈良盆地に築造され、中期に入ると大阪平野で作られるようになる。
倭の五王の陵としても名高い、大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群は世界文化遺産に登録されている。そして後期には、継体大王の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造された。本章では、古墳時代のトップ水準でつくられた埴輪を、その出現から消滅にかけて時期別に見ることで、埴輪の変遷をたどる。
第3章 埴輪の造形
埴輪が出土した北限は岩手県、南限は鹿児島県。日本列島の幅広い地域で、埴輪は作られた。それらの埴輪は、当時の地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、また大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いが生まれた。
各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。第3章では各地域の高い水準で作られた埴輪や、独特な造形の埴輪を紹介する。
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間5体
埴輪で初めて国宝となった「埴輪 挂甲の武人」は頭から足まで完全武装しており、古墳時代の武人の様子を眼前に見せる。考古学的価値のみならず、その造形美から美術的にも高い評価を得ている。バンク・オブ・アメリカから支援を受け、2017年3月から2019年6月まで、およそ28か月間にわたり解体修理を実施した。第4章では、修理を経て得られた最新の研究成果や知見を紹介する。
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展示作品の一部
国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
埴輪 踊る人々 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金製耳飾 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金銅製沓 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵
馬形埴輪 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県蔵(三重県埋蔵文化財センター保管)
重要文化財
埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀
福島県蔵(磐城高等学校保管) いわき市教育委員会
犬型埴輪 古墳時代・6世紀群馬県伊勢崎市 剛志天神山古墳出土
見返り鹿《鹿形埴輪》静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北
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挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」
会場:東京国立博物館 平成館
会期:2024年10月16日(水)~12月8日(日)
休館日:月曜日、ただし11月4日(月)は開館、11月5日(火)は本展のみ開館
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

巡回情報:九州国立博物館 2025年1月21日(火)~5月11日(日)
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。
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土偶と埴輪
土偶は、今から約1万3千年前~約2千400年前の縄文時代に作られた。縄文時代の後に弥生時代、その次の古墳時代、3世紀後半~6世紀ころに埴輪が作られた。
土偶は、基本的には女性を表す。妊娠した姿も多く、安産や豊穣を祈った。精霊の姿。意図的に壊されたものも多い。祈りと祭祀に用いられた。
埴輪は古墳の副葬品、権力者の墓の周りに立てられた。功績を表している。河野正訓(東京国立博物館主任研究員)
参考文献
「縄文-1万年の美の鼓動」東京国立博物館・・・狩猟人の行動様式
https://bit.ly/2mG25my
特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-72d881.html

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2024年11月11日 (月)

モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
1879年、カミーユ32歳で死す。1883年春、42歳のモネ、フランス北部ノルマンディー地方セーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。43歳から、1926年86歳で死ぬまで、43年間、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネ1840-1926】1884年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。『種まく人』『アルルの跳ね橋』『夜のカフェテラス』『ひまわり』『収穫』『夕日を背に種まく人』1888アルル、『星月夜』『糸杉』サンレミ1889、『夜のプロヴァンスの糸杉と田舎道』『烏の群れ飛ぶ麦畑』オーヴェール=シュル=オワーズ1890。
【モネの謎】
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年モデルのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
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【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
画像説明
クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす“ 大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
本展は、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。
みどころ
1.モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
2.世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、 日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日
さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、 国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ
3.モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]



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2024年11月 3日 (日)

「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」元亀3年、細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第381回
鸞翔鳳集【天下一の才能を集める織田信長】千宗易、狩野永徳、軍師、沢彦宗恩、祐筆、武井夕庵、野面積み、穴太衆、本因坊算砂、阿弥陀寺、清玉上人、弓衆、太田牛一【天下布武】武の七徳を備えたものが天下を治める。七徳は、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。
【織田信長の手紙800通】『信長最後の手紙、天下布武朱印状』4月24日小早川隆景、備中高山城籠城、羽柴秀吉が包囲。万全を尽くして準備に専念せよ。惟任日向守より指示する。
【本能寺の変天正10年1582年6月2日】【細川藤孝・忠興宛て手紙】謀反を起こした理由は何か。『光秀の手紙』6月9日光秀、信長を討った目的は忠興らの政権のために。同盟を乞う。『秀吉の手紙』6月8日、秀吉、9日全軍を教に向かって出陣する。光秀を討つ。
織田信長と細川家
織田信長と細川家は、厚い信頼関係で結ばれていた。永青文庫が所蔵する信長の手紙のほとんどは、細川家初代・藤孝(1534~1610)に宛てて出された。藤孝は、はじめ13代将軍・足利義輝、15代将軍・足利義昭に仕えていたが、義昭が信長と対立すると、(元亀3年〈1572〉)同い年の信長を主君として選び、戦の最前線で明智光秀らとともに信長を支え続けた。さらに藤孝の嫡男・忠興(1563~1645)も、(天正5年〈1577〉)15歳のときに大和の片岡城を攻略、信長からその働きが認められて自筆の感状を受ける。忠興は信長の斡旋により光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻として迎え、細川家と光秀は姻戚関係となった。天正8年(1580)8月 信長、ついに大坂本願寺を屈服させ、天下布武を実現。藤孝・忠興、丹後入国。天正9年(1581)5月 羽柴秀吉、因幡鳥取城攻めを開始。
天正10年(1582)3月 武田氏滅亡。4月 信長、藤孝に備中出陣の準備を指示。詳細は光秀に伝えさせる。6月2日 本能寺の変。光秀、信長に謀反。6月9日 光秀、藤孝・忠興父子を味方に誘う手紙を送るも、拒否される。6月13日 秀吉、山崎合戦で光秀を破る。
室町幕府滅亡の1年前「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日
「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
掲載日2024/09/09 16:15 著者:佐々木 ヒサ
永青文庫の収蔵庫から、熊本大学永青文庫研究センターとの共同調査によって60通目となる織田信長の書状が発見され、このほど文部科学省で記者発表が行われました。2022年8月に発見されたこの未知の文書は、信長が“室町幕府の滅亡”の前年にあたる元亀3年(1572年)8月15日に、細川藤孝に出したもの。そこには、元亀4年7月における足利義昭の京都没落の背景に関わる、貴重な新情報が記されていました。
細川護光さん(公益財団法人永青文庫理事長)、稲葉継陽さん(熊本大学永青文庫研究センター長)
■室町幕府滅亡の約1年前の織田信長書状
東京・目白台にある永青文庫は、細川藤孝(幽斎)を初代とする肥後熊本54万石を治めた細川家に伝わる数多くの重宝を所蔵する、東京で唯一の大名家の美術館。なかでも所蔵する細川家伝来の信長の手紙59通は、すべてが国の重要文化財に指定されるほど貴重なものです。信長の手紙は800通ほど現存しているとされますが、これほどの数が1カ所にまとまって伝わる例は他にありません。2022年に収蔵庫の歴史資料の共同調査で8月15日付けの細川藤孝宛織田信長書状1点が発見され、同館の信長の手紙のコレクションはあわせて60通に。これまでの59通のなかで一番古いものよりもさらに半年前の日付で、検討の結果この書状の年代は元亀3年、つまり室町幕府の滅亡、将軍足利義昭の京都没落の約1年前に書かれたものと断定されました。
★★★【新たに発見された60通目の信長の手紙。「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日/永青文庫蔵】
この書状で、信長は藤孝にこのように伝えています。
八朔(8月1日)の祝儀の詞を承りました。わけても帷子(かたびら)2着を送っていただき、その懇切ぶりに感謝します。今年は「京衆」(※将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただきました。例年どおりにお付き合いくださって、この上なくめでたいことです。鹿毛の馬を贈ります。乗り心地は悪くないと思います。あなたには方々で骨を折っていただき心苦しいのですが、ここは、「南方辺」(※山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです。なお、具体的には他の案件と一緒にお伝えします。
8月15日 信長から細川藤孝殿へ
これは、京都没落の前年から畿内領主たちへの藤孝の諜報活動が本格化していたことを記す、非常に大きな発見。“あなただけが頼りだよ、藤孝、頑張って!”という信長のメッセージも、従来のイメージを覆すものですが、将軍足利義昭と信長との対立から元亀4年(1573年)7月における“室町幕府の滅亡”にいたるまでの経緯として、【1】元亀3年の初頭には、信長と義昭側の奉公衆との対立がほとんど修復不能なまでに悪化していたこと、【2】義昭の側近中の側近であった藤孝ただ一人が信長と通じていたこと、そして【3】当時岐阜にいた信長は藤孝を頼り、藤孝を通じて山城(現京都府南部)から摂津・河内(現大阪府)方面の領主たちの信長方への組織化を、半年にも渡って進めていたことが、この文書から伺えます。
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■「室町幕府の滅亡」を実現したキーパーソン、細川藤孝
「どうしてこの文書が今まで誰にも気づかれずに、21世紀まで永青文庫の所蔵庫に眠っていたのか。まるでタイムカプセルを開けたみたい」と語った、熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽さん。これまでの文書で確認されていたよりもさらに前の状況が明らかになることで、信長の権力のあり方を大きく左右したキーパーソンとして、細川藤孝の存在もクローズアップされる。
細川藤孝という人物は、一体どんな人だった。室町幕府家臣の三淵家に生まれた藤孝は、13代将軍足利義輝の奉公衆として台頭し、義輝暗殺後にはその弟・義昭の側近として、義昭と信長を結び付けて正統幕府を再興する大仕事をやってのけました。義昭側奉公衆の中でただ一人、信長を選んで室町幕府滅亡を実現し、「本能寺の変」後には明智光秀とは結ばず豊臣秀吉を選び、最終的に徳川家康に仕えて国持大名に。このように、ひとつ選択を間違えば家が滅亡するような薄氷を踏む状況の中で、この時期の天下人全員に仕えた藤孝の慧眼と処世術には、目を見張るものがある。
「復古的な、天皇制的な国家の枠組みの中に大名たちを統合できるなら、天下人は誰でも構わないという、非常に透徹した政治を見る目を持った人物で、そんな人物は彼しかいない」というのが、稲葉先生による藤孝評。今回発見された文書はもちろんのこと、江戸初期にまで視点を広げて彼が成したことを位置づけて、この時期の政治史の中で評価することが重要。
永青文庫で秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」が開催
この新発見文書を含む全60通(うち59通が重要文化財)の信長の手紙が、10月5日から永青文庫の秋季展で公開されます。
★★★【重要文化財「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日/永青文庫蔵】“信長の手紙”といっても、当時は書記官である「右筆」が筆をとるのが原則で、信長本人がしたためたことが確実な手紙は1通だけ。豪快な筆運びが特徴の信長直筆、細川忠興に宛てた「織田信長自筆感状」も展示に登場。天正5年10月2日は細川忠興が信長から褒められた日!現存唯一確実な信長直筆の書状「織田信長自筆感状」。信長は豪快な筆跡で、忠興の大和片岡城攻めでの働きを称賛。
――
参考文献
「織田信長 文章の世界 永青文庫珠玉の60通」勉誠社2024
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
プレスリリース
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
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令和6年度秋季展 熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」、永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)
2024年10月5日(土)〜12月1日(日)



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