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2024年11月11日 (月)

モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派

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Monet-1866-1886
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
1879年、カミーユ32歳で死す。1883年春、42歳のモネ、フランス北部ノルマンディー地方セーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。43歳から、1926年86歳で死ぬまで、43年間、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネ1840-1926】1884年以後、人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。『種まく人』『アルルの跳ね橋』『夜のカフェテラス』『ひまわり』『収穫』『夕日を背に種まく人』1888アルル、『星月夜』『糸杉』サンレミ1889、『夜のプロヴァンスの糸杉と田舎道』『烏の群れ飛ぶ麦畑』オーヴェール=シュル=オワーズ1890。
【モネの謎】
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年モデルのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
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【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
画像説明
クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす“ 大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
本展は、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。
みどころ
1.モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
2.世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、 日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日
さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、 国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ
3.モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]



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