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2024年11月 3日 (日)

「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」元亀3年、細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第381回
鸞翔鳳集【天下一の才能を集める織田信長】千宗易、狩野永徳、軍師、沢彦宗恩、祐筆、武井夕庵、野面積み、穴太衆、本因坊算砂、阿弥陀寺、清玉上人、弓衆、太田牛一【天下布武】武の七徳を備えたものが天下を治める。七徳は、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。
【織田信長の手紙800通】『信長最後の手紙、天下布武朱印状』4月24日小早川隆景、備中高山城籠城、羽柴秀吉が包囲。万全を尽くして準備に専念せよ。惟任日向守より指示する。
【本能寺の変天正10年1582年6月2日】【細川藤孝・忠興宛て手紙】謀反を起こした理由は何か。『光秀の手紙』6月9日光秀、信長を討った目的は忠興らの政権のために。同盟を乞う。『秀吉の手紙』6月8日、秀吉、9日全軍を教に向かって出陣する。光秀を討つ。
織田信長と細川家
織田信長と細川家は、厚い信頼関係で結ばれていた。永青文庫が所蔵する信長の手紙のほとんどは、細川家初代・藤孝(1534~1610)に宛てて出された。藤孝は、はじめ13代将軍・足利義輝、15代将軍・足利義昭に仕えていたが、義昭が信長と対立すると、(元亀3年〈1572〉)同い年の信長を主君として選び、戦の最前線で明智光秀らとともに信長を支え続けた。さらに藤孝の嫡男・忠興(1563~1645)も、(天正5年〈1577〉)15歳のときに大和の片岡城を攻略、信長からその働きが認められて自筆の感状を受ける。忠興は信長の斡旋により光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻として迎え、細川家と光秀は姻戚関係となった。天正8年(1580)8月 信長、ついに大坂本願寺を屈服させ、天下布武を実現。藤孝・忠興、丹後入国。天正9年(1581)5月 羽柴秀吉、因幡鳥取城攻めを開始。
天正10年(1582)3月 武田氏滅亡。4月 信長、藤孝に備中出陣の準備を指示。詳細は光秀に伝えさせる。6月2日 本能寺の変。光秀、信長に謀反。6月9日 光秀、藤孝・忠興父子を味方に誘う手紙を送るも、拒否される。6月13日 秀吉、山崎合戦で光秀を破る。
室町幕府滅亡の1年前「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日
「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
掲載日2024/09/09 16:15 著者:佐々木 ヒサ
永青文庫の収蔵庫から、熊本大学永青文庫研究センターとの共同調査によって60通目となる織田信長の書状が発見され、このほど文部科学省で記者発表が行われました。2022年8月に発見されたこの未知の文書は、信長が“室町幕府の滅亡”の前年にあたる元亀3年(1572年)8月15日に、細川藤孝に出したもの。そこには、元亀4年7月における足利義昭の京都没落の背景に関わる、貴重な新情報が記されていました。
細川護光さん(公益財団法人永青文庫理事長)、稲葉継陽さん(熊本大学永青文庫研究センター長)
■室町幕府滅亡の約1年前の織田信長書状
東京・目白台にある永青文庫は、細川藤孝(幽斎)を初代とする肥後熊本54万石を治めた細川家に伝わる数多くの重宝を所蔵する、東京で唯一の大名家の美術館。なかでも所蔵する細川家伝来の信長の手紙59通は、すべてが国の重要文化財に指定されるほど貴重なものです。信長の手紙は800通ほど現存しているとされますが、これほどの数が1カ所にまとまって伝わる例は他にありません。2022年に収蔵庫の歴史資料の共同調査で8月15日付けの細川藤孝宛織田信長書状1点が発見され、同館の信長の手紙のコレクションはあわせて60通に。これまでの59通のなかで一番古いものよりもさらに半年前の日付で、検討の結果この書状の年代は元亀3年、つまり室町幕府の滅亡、将軍足利義昭の京都没落の約1年前に書かれたものと断定されました。
★★★【新たに発見された60通目の信長の手紙。「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日/永青文庫蔵】
この書状で、信長は藤孝にこのように伝えています。
八朔(8月1日)の祝儀の詞を承りました。わけても帷子(かたびら)2着を送っていただき、その懇切ぶりに感謝します。今年は「京衆」(※将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただきました。例年どおりにお付き合いくださって、この上なくめでたいことです。鹿毛の馬を贈ります。乗り心地は悪くないと思います。あなたには方々で骨を折っていただき心苦しいのですが、ここは、「南方辺」(※山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです。なお、具体的には他の案件と一緒にお伝えします。
8月15日 信長から細川藤孝殿へ
これは、京都没落の前年から畿内領主たちへの藤孝の諜報活動が本格化していたことを記す、非常に大きな発見。“あなただけが頼りだよ、藤孝、頑張って!”という信長のメッセージも、従来のイメージを覆すものですが、将軍足利義昭と信長との対立から元亀4年(1573年)7月における“室町幕府の滅亡”にいたるまでの経緯として、【1】元亀3年の初頭には、信長と義昭側の奉公衆との対立がほとんど修復不能なまでに悪化していたこと、【2】義昭の側近中の側近であった藤孝ただ一人が信長と通じていたこと、そして【3】当時岐阜にいた信長は藤孝を頼り、藤孝を通じて山城(現京都府南部)から摂津・河内(現大阪府)方面の領主たちの信長方への組織化を、半年にも渡って進めていたことが、この文書から伺えます。
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■「室町幕府の滅亡」を実現したキーパーソン、細川藤孝
「どうしてこの文書が今まで誰にも気づかれずに、21世紀まで永青文庫の所蔵庫に眠っていたのか。まるでタイムカプセルを開けたみたい」と語った、熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽さん。これまでの文書で確認されていたよりもさらに前の状況が明らかになることで、信長の権力のあり方を大きく左右したキーパーソンとして、細川藤孝の存在もクローズアップされる。
細川藤孝という人物は、一体どんな人だった。室町幕府家臣の三淵家に生まれた藤孝は、13代将軍足利義輝の奉公衆として台頭し、義輝暗殺後にはその弟・義昭の側近として、義昭と信長を結び付けて正統幕府を再興する大仕事をやってのけました。義昭側奉公衆の中でただ一人、信長を選んで室町幕府滅亡を実現し、「本能寺の変」後には明智光秀とは結ばず豊臣秀吉を選び、最終的に徳川家康に仕えて国持大名に。このように、ひとつ選択を間違えば家が滅亡するような薄氷を踏む状況の中で、この時期の天下人全員に仕えた藤孝の慧眼と処世術には、目を見張るものがある。
「復古的な、天皇制的な国家の枠組みの中に大名たちを統合できるなら、天下人は誰でも構わないという、非常に透徹した政治を見る目を持った人物で、そんな人物は彼しかいない」というのが、稲葉先生による藤孝評。今回発見された文書はもちろんのこと、江戸初期にまで視点を広げて彼が成したことを位置づけて、この時期の政治史の中で評価することが重要。
永青文庫で秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」が開催
この新発見文書を含む全60通(うち59通が重要文化財)の信長の手紙が、10月5日から永青文庫の秋季展で公開されます。
★★★【重要文化財「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日/永青文庫蔵】“信長の手紙”といっても、当時は書記官である「右筆」が筆をとるのが原則で、信長本人がしたためたことが確実な手紙は1通だけ。豪快な筆運びが特徴の信長直筆、細川忠興に宛てた「織田信長自筆感状」も展示に登場。天正5年10月2日は細川忠興が信長から褒められた日!現存唯一確実な信長直筆の書状「織田信長自筆感状」。信長は豪快な筆跡で、忠興の大和片岡城攻めでの働きを称賛。
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参考文献
「織田信長 文章の世界 永青文庫珠玉の60通」勉誠社2024
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
プレスリリース
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
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令和6年度秋季展 熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」、永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)
2024年10月5日(土)〜12月1日(日)



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