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2025年10月 1日 (水)

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第408回
ゴッホは、絶望を超えて立ち上がる。孤独で不屈な藝術家。彼の遺志を継ぐ人々。100年の物語
「音楽のように人を慰める何かを僕は絵画で伝えたい」「100年後を生きる人々にも自分の絵を観てもらいたい」ゴッホは1880年、27歳で画家になる決意をした。フィンセントは美術商ビーグル商会に16歳で働き、弟テオは15歳で働く。1888年35歳でアルルに住む。
【ゴッホ1853-1890、37歳で死す】弟テオ(1857-1891)、画商としてフィンセントを経済支援。ゴッホ死後4ヶ月テオ病死。テオの妻ヨー、ゴッホ作品を200点保管、展示。ゴッホのテオ宛手紙を出版。【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。
【ゴッホと宮澤賢治】宮澤賢治は、ゴッホ『糸杉』1989を愛好した。『春と修羅』1924自費出版。妹トシ、弟清六2001、賢治を理解し支援。友人の及川四郎『注文の多い料理店』の出版を熱望。ゴッホは、人間関係を構築できず苦悩。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム1978だけが理解支援した。
不遇な人生【死後才能が発掘された藝術家・詩人・思想家】田中一村(1908-1977)69歳で死す。宮澤賢治(1896-1933)、37歳で死す。高島野十郎(1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年))、85歳で死す。ゴッホ(1853〜1890)37歳で死す。藝術への献身、貧困、忍耐、孤立、無私、迫害、殉教、早世、自殺。イエス・キリスト「わが神よ、どうして私を見捨てたの?」マルコ伝、15章34節
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ゴッホの人と藝術】1853-1890
【ゴッホ、絶望の旅立ち】フィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、フロート・ズンデルト村に生まれた。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男。1869年(16歳)美術商グーピル商会に就職するが解雇。1876年(23歳)新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子に衝撃を受ける。1878年(25歳)ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。79年、半年間の期限付き、伝道師になるが解任。1885年(32歳)3月、父が脳卒中で急死。父子は最後まで理解し合えず。父は死んだ。
1880年から1890年まで。ゴッホ、画家活動10年、27歳から37歳、
【ゴッホ、ハーグ派、灰色派】ハーグ時代、ハーグ派、灰色派、第二のレンブラント、ヨゼフ・イスラエルス「貧しい人々の暮らし」、バルビゾン派、ミレイ「種をまく人」(1850)を尊敬、影響を受ける。ゴッホの師、アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」。ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885。
【パリ】1886年、パリに行く。パリ以後、「自画像」を40枚描く。「パリの屋根」1886。印象派の父、カミーユ・ピサロに会う。浮世絵の国日本に憧れアルルへ旅立つ。
【ゴッホ、アルルへ】1888(35歳)、ゴッホ、35歳でアルルに移住する。10月、「黄色い家」でのゴーガンとの共同生活が始まる。1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。ゴッホ「麦畑」アルル1888。「種をまく人」(1888)3枚(クレラー・ミュラー、ファン・ゴッホ美術館、「日没を背に種をまく人」ビュールレ・コレクション)。「ひまわり」(1888)7枚。描く。「ローヌ川の星月夜」1888。「アルルの跳ね橋」1988。
【ゴッホ、サン・レミ時代】独自の境地に到達する。ゴッホ《星月夜》(1889 MoMA)サン・レミ1889年6月《糸杉のある麦畑》(1889 MET)。ゴッホ「薔薇」サン・レミ。
【オーベール時代】ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。ゴッホオーベール・シュル・オワーズ。
【ゴッホ、最後の境地】ゴッホ「薔薇」サン・レミ。オーベール・シュル・オワーズ時代、ゴッホ最後の2か月。ゴッホ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」オーベール・シュル・オワーズ1890。「糸杉と星のある道」1890、オーベール・シュル・オワーズ。ピストル事件、フィンセントは7月29日に死亡した。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【ゴッホ、孤独な人生】
ゴッホは、人間関係を構築できない、孤立を極めた。家族と社会との軋轢に苦悩した。友人も愛もない。画商の弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、だけが理解した。
1870、27歳、画家になる決意をするが作品は売れず、弟テオだけが彼を援助した。売れた絵は生涯1枚だけ。1888、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかる。アルルにて耳切り事件、1989サンレミにて、病院入院。糸杉を描く。1890オーベール・シュル・オワーズにて拳銃事件、2日後37歳で死す。油絵約850点を残す。4か月後、弟テオ、死す。
【画家生活10年】ゴッホは、10年間で、2000枚のデッサン、850枚の絵画を描いた。ゴッホが描かなかった絵画がある、それは何故か。
【ゴッホの謎】何故、ゴッホは、画廊勤務、伝道師を辞めたのか。何故、ゴッホは、ゴーガンに剃刀をもって襲いかかり、アルルにて耳切り事件、拳銃自殺したのか。
【藝術家、思想家と運命との戦い】思想と藝術を生みだすのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、魔術である。敵との闘争における武器である。思想家は人生の戦いにどう挑み、逆襲するのか。美のイデアのための戦いである。思想と藝術は悩める人の魂を癒す音楽である。醜悪な敵との正義の戦い。思想は悲しみと苦しみから生まれる。
【レオナルドが描いて、ゴッホが描かなかったテーマ】ゴッホが描かなかったテーマは何か。レオナルド、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ミケランジェロ、ブロンズィーノ、巨匠はヴィーナスを描いた。ルノワールは、こればかり描いた。
【印象派画家たち、絶望的人生】印象派の画家は、ほとんどゴッホのように絶望的人生を生きた。画家として成功した富豪画家がいる。
【魂の叫び】美しい心は美しい言葉となる。心は言葉になり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。運命に歯向かい、逆境と戦う、美麗な王妃は、残虐王に幽閉され、美を探求する王子は、残虐な王に虐待される。
【運命との戦い、美の女神】藝術家、思想家は、運命と戦う。邪知暴虐と戦い、この世の闇の彼方に美を求める。虚無の神殿にて、美の女神へ供物を捧げる。美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい夕暮れ。美しい魂に、美の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
【テオとヨーの息子フィンセント・ウィレム】(Vincent Willem van Gogh, 1890年1月31日 - 1978年1月28日)、1966年ゴッホ財団設立、1973年ゴッホ美術館設立。1925年、母ヨーが亡くなり、フィンセントの絵、素描、手紙などを相続した。ヨーはフィンセントの絵画作品だけでなく、その手紙を世に広めることを志し、1914年にテオ宛の書簡集を発行していたが、フィンセント・ウィレムはその使命も引き継いだ。1932年、テオからゴッホに宛てた手紙をまとめた書簡集を出版。テオ宛の書簡だけでなく、エミール・ベルナール、アントン・ファン・ラッパルトなどその他の人物との手紙のやり取りもまとめた完全版書簡集の出版を計画し、ゴッホ生誕100年に合わせて、1952年から1954年までの間に、オランダで全4巻の書簡集を出版した。
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1891年1月25日、1歳の誕生日を迎えるわずか6日前に父テオが病死。母ヨーは、幼いフィンセント・ウィレムと義兄の遺作約200点を抱えてオランダに移り、その年の春からアムステルダム近郊の村バッセムに住み始めた。1901年、ヨーが画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルクと再婚し、一家は1903年にアムステルダムに移った。
1907年、デルフト工科大学に入学して機械工学を学び、1914年、卒業した。その後、フランス、アメリカ合衆国、日本などでエンジニアとして働いた。1920年初頭、オランダに戻り、学生時代からの友人Ernest Hijmansとともに、オランダで初めての経営コンサルタント会社を設立。名前が同じ画家ゴッホとの混同を避けるため、甥であるフィンセント・ウィレムのことを「エンジニア(技師)」と呼んで区別する。
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■「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」展示作品の一部
「画家としての自画像」(1988〜87年)
「種まく人」(1888年)
「羊毛を刈る人」(1889年)
「アブサンが置かれたカフェテーブル」(1887年)
「夕暮れの農家」1985
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【ゴッホ、1853-1890】最も魅力的な作品は何か。
「ジャガイモを食べる人々」「夕暮れの農家」(1885)、「種まく人」「夜のカフェテラス」「アルルの跳ね橋」「日没を背に種まく人」1888年、《糸杉のある麦畑》(1889 MET)渦巻く夜空と大きくそびえる糸杉を描いた《星月夜》(1889 MoMA)、「烏の飛ぶ麦畑」(1889)
ゴッホ家が受け継いできたファミリーコレクションに焦点を当て、ファン・ゴッホ美術館の作品を中心に、ゴッホ作品30点超とその他の巨匠たちの作品を紹介します。ヨーが生前の印象とそっくりだと語った「家宝」の自画像。
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【宮澤賢治1896-1933】100年の物語
宮澤賢治、37歳で死す。弟、宮澤清六(1904年~2001年)97歳まで生きる。宮澤賢治の遺稿を出版。妹トシ(1898~1922年)24歳で死す。『永訣の朝』『無声慟哭』【詩集『春と修羅』1924】
【宮澤賢治1896-1933】妹トシの手紙「兄上様の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」妹トシ(1898~1922年)、日本女子大卒論と将来について兄に相談。大正7年11月24日付。父政次郎との確執を妹トシは認識。
【弟、宮澤清六(1904年~2001年)】賢治の遺稿を託される。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、家業を手伝う。1926年、花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱い、1942年まで営業。光原社の設立は、賢治の盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)時代の同級生が契機である。同級であった及川四郎(1886年~1974年)が、賢治の『注文の多い料理店』の原稿を読み、その出版を熱望した。「光原社」という社名自体も、宮沢賢治自身が命名した。
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参考文献
ゴッホ・・・ハーグ派、灰色派から印象派、糸杉への道
https://bit.ly/3hySZ7S

「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」東京都美術館
http://bit.ly/2zluV3g

「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb

ルノワール『イレーヌ』・・・非情な運命が襲いかかる、波瀾に立ち向かう
https://bit.ly/2ZlgdIp

印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで・・・枯葉舞う秋の夕暮れ
https://bit.ly/2Mwg63Z

孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84

「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館2010
https://bit.ly/3Cf9rCk

「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」東京国立近代美術館2005年3月23日~5月22日
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語

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ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
2025年9月12日(金)~12月21日(日)
愛知県美術館 2026年1月3日(土)~3月23日(月)

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