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2026年7月

2026年7月19日 (日)

没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第441回
東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業して才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、孤独の道を選んだのか。実主義絵画と、仏教思想はどう関わるのか。友人たちに贈った蠟燭の絵はいのちの焔か。
1、
高島弥十郎の生涯と藝術
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身の洋画家。写実と仏教思想を探求した画家。1904-9年「蓮華」を描く。
福岡県御井郡合川村(現・久留米市)の裕福な酒造家であった髙嶋家の五男に生まれる。本名は彌壽(やじゅ)。福岡県立中学明善校(現・明善高等学校)に学んだ頃から絵に目覚め、長兄の宇朗(詩人)の友人青木繁を知る。
旧制第八高等学校(名古屋大学)を経て1912年東京帝国大学農学部水産学科に入学。1916年、東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しながらも恩師の銀時計を辞退、画家の道を選び、独学で絵を学んだ野十郎は、特定の美術団体に属さず、流行や時代に迎合することなく、自らの理想と信念にひたすら忠実であろうとした。
1930~33 1930年欧州に向け旅立つ。2月アメリカ滞在。4月スコットランド、グラスゴー滞在。ベルギー、オランダ経由でパリに入る。イタリア、ヴェネツィア近郊キオッジア滞在。パリに戻る。留学や帰郷を挟みながら絵画を探求。1936実家と断絶。1936年赤坂区青山北町4丁目43に住む。東京の渋谷や青山にアトリエを構えていた、渋谷区にゆかりの深い人物でもあり。
1945年空襲で被災、姉スエノの嫁ぎ先中島家に疎開。1948年、港区赤坂青山南町3丁目21に住む。1960年70歳、晩年に千葉県柏市増尾へ移る前の約50年、1975年85歳で死去。没後50年を機に開催する本展は、初公開作品や青木繁、坂本繁二郎、岸田劉生など関連する作家の作品、関係資料を含めた約170点を展覧する、髙島野十郎展としては最大規模の回顧展となります。「蝋燭」や「月」を主題とした代表作を含む、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、
これまで大きく取り上げられなかった部分にも焦点を当てます。また、野十郎関係者による書簡やメモ等の資料から、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築いたのか、彼の人間像にも改めて迫ります。「孤高の画家」と称されてきた髙島野十郎の新たな全貌をお楽しみください。
昭和50(1975)年に85歳で亡くなり、没後5年、昭和55(1980)年に福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)で開催された展覧会「近代洋画と福岡県」に《すいれんの池》が出品されたことで無名の画家であった野十郎に光が当てられ、
没後11年、1986(昭和61)年に初の回顧展「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎展」が福岡県立美術館で開催されて以降、連続的に展覧会が開催され、その作品や画業の全体像が明らかになってきた。代表作「蝋燭」や「月」をはじめとする作品は、卓越した技量と、緊張感さえもみなぎる独特の写実的筆致を魅力とする。

【1】《満月》昭和38(1963)年頃 油彩・画布 東京大学医科学研究所蔵
【2】《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年 油彩・画布、福岡県立美術館蔵
プロローグ 野十郎とはだれか
野十郎の回顧展が初めて開催されたのは昭和61(1986)年でした。それ以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されてきましたが、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこで本章では、まず野十郎の全体像を概観します。
【3】《からすうり》昭和10(1935)年 油彩・画布福岡県立美術館蔵 からすうりは、月や蝋燭に並ぶ野十郎作品を象徴するモチーフ。
【4】《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃 油彩・画布 福岡県立美術館蔵留学時代、ノートルダム寺院を望むアパルトマンの窓からの風景を描いた作品。パリでの拠点であったのだろう。
【5】《すいれんの池》昭和24(1949)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵 昭和55(1980)年、福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)での展覧会「近代洋画と福岡県」に出品され、野十郎が“発見”されるきっかけとなった作品。
【10】《岸上鎌吉先生像》大正10年代(1921-26)頃 油彩・画布 東京大学大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵 野十郎の東京帝大在学時の恩師を描いた作品。柔和な表情や丁寧に描かれた研究室の細部からは、師への敬愛と感謝の気持ちを読み取ることができる。
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2、写実主義と仏教思想
東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業して才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、学校に学ばず、孤独の道を選んだのか。なぜ写実主義絵画を志し、仏教思想はどう関わるのか。高島野十郎の写実主義の核心は何か、仏教思想の核心は何か。なぜ孤高の道を選んだのか。
高島野十郎の「遺稿」の言葉は、即身成仏義を思い出す。
【空海『即身成仏義』】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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写実と慈悲 髙島野十郎「遺稿ノート」より
「寫実(しゃじつの)極致 それを慈悲といふ」髙島野十郎
『世の画壇と全く無縁になることが、私を本当に自由にし私の願う勉強を完全にさせてくれた』
全宇宙を一握する、是れ写実、全宇宙を一口に飲む、是写実 
「四曼を一にしてあらはす、それを写実といふ」
髙島野十郎「遺稿ノート」
★★★★★
参考文献
没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-a66b4c.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
参考文献2
空海『秘密曼荼羅十住心論』・・・大日如来は、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)をもつ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-2f9322.html
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
学問僧、空海・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
「没後50年 髙島野十郎 展」図録2025 2026
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3、展示構成
展示作品の一部
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。
《すいれんの池》昭和24(1949)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵
第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。
《田園太陽》昭和31(1956)年 油彩・画布 個人蔵
第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《蝋燭》大正時代(1912-26) 油彩・板 福岡県立美術館蔵
《秋の花々》昭和28(1953)年 油彩・画布 個人蔵
《岸上鎌吉先生像》大正10年代(1921-26)頃 油彩・画布 東京大学大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵 野十郎の東京帝大在学時の恩師を描いた作品。

第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。
《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃 油彩・画布 福岡県立美術館蔵
《小さき停車場》昭和5(1930)年 油彩・画布(厚紙貼) 個人蔵
《夏雲》昭和23-34(1948-59)年 油彩・画布 個人蔵

《からすうり》昭和10(1935)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵
第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《空》 昭和23(1948)年以降、個人蔵
《雨 法隆寺塔》昭和40(1965)年 油彩・画布 個人蔵

《割れた皿》昭和23(1948)年以降 油彩・板 福岡県立美術館蔵
割れた皿という主題から、形あるものはいつか失われ、命あるものはいつかは果てるという野十郎の思想

エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を感じていただけましたら幸いです。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
《桃とすもも》昭和36(1961)年 油彩・画布 個人蔵
《睡蓮》昭和50(1975)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵

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没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
50 Years after His PassingTakashima Yajuro
2026年7月4日(土)~ 9月6日(日)
前期:7月4日(土)~8月2日(日)/後期:8月4日(火)~9月6日(日)
※会期中、一部展示替えあり
展覧会概要
没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
展覧会公式HP: https://takashimayajuro50.jp/
会場 渋谷区立松濤美術館
〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
電話:03-3465-9421 HP: https://shoto-museum.jp
プレスリリース https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2026/03/05deeb6e94cc4ff6a67343a7cc0b0a1e.pdf

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2026年7月16日 (木)

「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第440回

レンブラントの生涯、栄光と没後
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606~1669年)は版画史上最大の巨匠とも評され、伝統的表現となったエッチング(腐食銅版画)に新たな表現や技術で取り組んだ。レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン《書斎の学者(ファウスト)》1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館は、19世紀、ゴヤ、ピカソ、マティスといった画家から、ゲーテの『ファウスト』、ボードレールの詩集『悪の華』やユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)』などに、大きな影響を与えた。
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインは1607年7月15日、オランダのレイデンの裕福な製粉商人に10人兄弟の9番目の息子として誕生した。14歳のときに画家を目指して修行を始め、18歳レイデンで仲間の画家たちと一緒に工房を開いた。1631年、レンブラントはアムステルダムにアトリエを移すと、翌1632年「テュルプ博士の解剖学講義」を描き、その名声を揺るぎないものにした。当時、オランダでは資金を出し合い、一枚の絵にする「集団肖像画」が流行っていた。
レンブラントは28歳でサスキア6歳年下の女性と結婚。幸福な家庭を得て、レンブラントの創作活動はますます旺盛。サスキアをモデルにした素晴らしい作品も沢山描き、高い値段で売れた。若く美しい妻、画家として手に入れた名誉と金。幸せの絶頂にあったレンブラントの暮らしは贅沢になった。世界中の美術品や骨董品を買い漁り、レンブラントは浪費家となった。
サスキアとの間に生まれた二人の子どもが幼くして次々に亡くなった。1639年、33歳のとき大金を借りて大きな家を買い、この家で生まれた3人目の子どもも育たなかった。さらに4人目の子どもティトゥスが生まれた翌年には妻のサスキアが病気でこの世を去る。
1942年「夜警」を完成させたが、徐々にレンブレントの人気にも陰りが見え始める。当時オランダでは集団肖像画の依頼人が割り勘(Dutch account)で絵の代金を支払うのが一般的である。
【1652年オランダとイギリスが戦争】を始め、オランダの人々は絵を買うどころではなくなり。お金が入らなくなったレンブラントは借金の取り立てに追われ、1656年、50歳のときに破産。
1660年、レンブラントは住み慣れた家を売り払い、小さな家に移り、そこで息子ティトゥスと新しい妻ヘンドリッキェ、彼女との間に出来た娘コルネリアと慎ましやかでありながらも幸せな家族生活を過ごす。しかし、3年後にヘンドリッキェ、さらにその5年後にはティトゥスが27歳の若さで亡くなる。
レンブレントは自画像を描き続けた画家としても良く知られている。1669年、レンブラントが63歳で亡くなったとき、部屋の画架には未完成の絵が置かれたままだった。
17世紀オランダ、商業主義と立身出世主義の勃興の時代である。レンブラントのエッチング、ドライポイントによる版画がメディアとして発達した。

長谷川潔(1891-1980)は第一次世界大戦後1919年4月に単身渡仏し、南仏に転地療養、パリの同地で生涯を終えた。失われつつあった銅版画の古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の形で復興させ、版画の歴史に大きな足跡を残し、またエングレーヴィング、アクアチントなど様々な技法を探求した。《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 1969年、メゾチント、を残した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2、

「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」エッチング、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法
第1章 版画家レンブラント エッチング
レンブラントが制作に着手した17世紀初頭、エッチングは歴史的な転換期を迎えていました。以前のエッチングは主として、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法であり、その規則正しい線描の再現が重視されました。
第2章 レンブラント版画の影響:17-18世紀
イタリアのジョヴァンニ・ベネデット・カスティリオーネやステファーノ・デッラ・ベッラの例のように、レンブラントのエッチングに創造的に感化を受けた作品も生み出されました。
18世紀には、ドイツの芸術家たちを中心に、レンブラントのエッチングへの関心が高まります
第3章 レンブラント版画の影響:19-20世紀
ゴヤはスペイン国内におけるレンブラントのエッチングを熱心に研究し、受けた刺激を自作に反映させました。続いて、19世紀フランスを中心としたエッチング復興リヴァイヴァルの文脈における、レンブラント人気の興隆
フレデリック・レガメ 《『エッチングのパリ』誌ポスター》1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
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参考文献
「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-40e824.html
「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」国立西洋美術館・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
エル・グレコ展・・・天上界と地上界の融合、 「昨夜私は永遠を見た」
https://bit.ly/3radRHN
フェルメールと17世紀オランダ絵画・・・ドレスデンの思い出
https://bit.ly/3sPtioB
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史、国立西洋美術館・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
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メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年・・・美女の歴史、詐欺師女、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3p6BrUA
西洋絵画の500年、カラバッジョ・・・バロック、若者たち、女詐欺師、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3hrwK3b
「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/
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オランダ、アムステルダムの中心に位置するレンブラント・ハウス美術館は、レンブラントが1639年から1658年にかけて実際に暮らした家を利用した、世界で唯一のレンブラント専門の美術館です。レンブラントによるエッチング(腐蝕銅版画)の世界有数のコレクションを中心に、同じく素描作品、さらに彼と関連の深い、あるいは、その強い影響を受けた芸術家たちの作品を収蔵しています。一方、国立西洋美術館でも、レンブラントのエッチングを重点的な収集の対象としており、《病人たちを癒すキリスト》や《三本の木》など代表作を含む、20点余の作品を所蔵しています。
今回の展覧会は、この2つのコレクションを組み合わせ、国内の美術館、大学図書館および海外の個人コレクターから拝借した作品や書籍も加えて、レンブラントのエッチングと、それが同時代および続く時代に与えた影響を見ていく企画です。
展覧会の前半では、まずレンブラントのエッチングに焦点をあてます。彼は当時、先例より刺激を受けつつ、さまざまな実験的な試みを通してエッチング表現の可能性を追究し、その地平を拡げました。そうして生み出された諸作品は、数世紀にわたって芸術家たちに影響を与え続けます。とくに、19世紀には、エッチング技法そのものの再評価と結びつき、レンブラントのエッチングへの関心は熱狂的な高まりをみせました。展覧会の後半では、そうした事例を、版画のみならず文学や批評なども交えてご紹介します。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《書斎の学者(ファウスト)》 1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館
フレデリック・レガメ 『エッチングのパリ』誌ポスター 1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《窓辺でエッチングを制作する自画像》 1648年 エッチング、ドライポイント、ビュラン/中国紙 レンブラント・ハウス美術館
アンリ・マティス 《版画を彫るアンリ・マティス》 1900-03年 ドライポイント 国立西洋美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《百グルデン版画》 1648年頃 エッチング、ドライポイント、ビュラン/和紙 国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026rembrandt.html
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「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」が国立西洋美術館、7月7日から9月23日

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2026年7月 9日 (木)

「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第439回
廃墟から蘇る、陸奥宗光旧居、台東区根岸。別邸として鶯谷の洋館を購入したのは1883年(明治16年)。
ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はあるのか。
謎の洋館、病院坂の医者の家、坂道を降りる謎の美女、
【1883年(明治16年)】鹿鳴館が完成、欧化政策が本格化。政府による条約改正交渉。華族制度や西洋化政策が広がり、自由民権運動への弾圧、政府との対立が深まる。
近代国家としての外交・文化整備が進展した。
江戸の風情が残る日本橋と遠くに望むコンドル設計の洋館
「武蔵百景之内 江戸橋より日本橋の景」小林清親/画 1882年(明治15)
東京都江戸東京博物館蔵 85200735
現在の迎賓館赤坂離宮。大正天皇、皇太子時代の邸宅
東宮御所 彩鸞の間 (『東宮御所写真帖』より)小川一真/撮影 1909年(明治42)頃
東京都江戸東京博物館蔵 22604205
赤煉瓦、長大なファサード…現代に残る東京駅の誕生
「中央停車場建物展覧図」 1911年(明治44)頃、鉄道博物館蔵
「国会議事堂案 外観透視図」 エンデ&ベックマン/作 1887-8年(明 治20-21)頃
ベルリン工科大学建築博物館蔵 Architekturmuseum der Technischen Universität Berlin, Inv. Nr. 20190
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-92da5c.html
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「洋館 明治の夢と挑戦」江戸東京博物館、
日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年あまりの時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化の入口が開き、洋風建築の流入が一気にはじまることを意味しました。本展では、人びとが建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、多種多様な資料と立体的な展示手法で描きます。
大工棟梁による擬洋風ぎようふう建築、外国人技術者による非本格的洋館や外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまで、日本の建築史上稀にみるこの大変革の時代の多彩な成果を活写します。
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プロローグ 前夜―幕末の東京・横浜風景―
第1章 ナマコ壁と擬洋風ぎようふう建築
明治元年(1868)、東京開市とともに築地に居留地が開かれます。このとき、外国人のための宿泊・交易場として建てられたのが、伝統的な左官技術ナマコ壁を用いた東京初の洋館・築地ホテル館です。主設計はアメリカ人建築技術者リチャード・ブリジェンスが、工事は大工棟梁の二代目清水喜助が行いました。清水は明治5年 (1872)に大作、第一国立銀行の設計・施工を手がけます。このように、江戸時代以来の大工が明治初期に見よう見まねで作った和洋折衷の建物を「擬洋風建築」と呼びます。
第2章 建築家がやってきた―外国人建築家と「都市風景」
棟梁たちが見よう見まねで建てた擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも「本物の西洋」でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、さまざまな国から技師や建築家が来日します。イギリス人のジョサイア・コンドル、ドイツ人のヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンらがその代表です。彼らのつくりだす建物は、擬洋風建築とはひと味違う本格的なものとして、都市・東京の風景を壮麗に刷新していきました。
第3章 開花する洋館の明治―日本人建築家の挑戦
明治12年(1879)、ジョサイア・コンドルが育成した日本人が工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業し、日本人最初の建築家4名が誕生しました。彼らが設計した建築作品のいくつかは東京に現存しており、片山東熊の表慶館(明治41)、曾禰中條建築事務所の慶應義塾図書館(明治45)、辰野金吾の中央停車場(現・東京駅、大正3)などが国の重要文化財に指定されています。日本人建築家たちの果敢な挑戦の軌跡を、現存する建物や失われた作品から見ていきます。
第4章 羨望の住処すみか―明治の洋風邸宅
明治の建築家たちに課せられた使命の中心は、国家を飾る大建築を設計することでしたが、時に邸宅も重要な創作の対象となり得ました。また、ジョサイア・コンドルのように、邸宅を得意とする建築家も少数ながら存在しました。彼らが創造した洋館に共通して言えるのは、そのほとんどが限られた上流階級の人たちの大邸宅であったことです。それらはまさに、人々が瞠目する「羨望の住処」として、明治の東京を華麗に装飾したのです。明治期に建てられた邸宅の群像を、古写真や絵画資料、残された家具、空間の再現などから描きます。
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/western-style-architecture/
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江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」
江戸東京博物館、2026年6月23日(火)~2026年8月23日(日)

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