ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第500回
ルネサンスは、レオコーンの像が、皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)遺跡から、発見されたことなど、古代ギリシア・ローマの藝術が見つかり、古代ギリシア・ローマの藝術に戻ろうとする藝術志向である。
それゆえ、古代ギリシア・ローマとキリスト教の折衷主義は、ルネサンスではない。ジョヴァアンニ・カンパネルラ『太陽の都』は、真の意味でルネサンスではない。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展覧会構成
Ⅰ. 旅
【展示作品の一部】ヴェネツィアの画家《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》1511年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
本展が対象とする15世紀から16世紀にかけてのルネサンス期は、ヨーロッパの人々が「旅」を通じて既知のものとは異なる世界を発見していった時代でした。商業、交易、外交、戦争、キリスト教の布教、名所旧跡巡り――旅の動機は様々でしたが、人と物の活発な往来は国や都市に経済発展と異文化交流をもたらし、ルネサンス文化を大きく開花させる動力となりました。
この時代の人文学の発展を先導したエラスムス、モンテーニュなど、人文主義者たちの多くは、好奇心の赴くままにヨーロッパ各地を巡り、異国の地で出会った風習や伝統についての思索を生き生きと書き綴っています。芸術家たちもまた、技量を磨くためにしばしば故郷を離れました。ヨーロッパ北部の芸術家たちは、アルプス山脈を越えてイタリアに赴き、古代遺跡や彫刻を素描するとともに、同時代のイタリア美術における均整のとれた身体描写や一点透視遠近法を用いた空間表現を学びました。
一方、イタリアの画家たちは、北方の画家たちの油彩技法や緻密な写実描写を取り入れていきます。また、王侯貴族や教皇といったパトロンからの招きに応じるため、あるいは戦禍を逃れるためなど様々な外的要因によっても、芸術家たちは国境を越えて移動するようになり、これが様式・技法の伝播を促しました。
国王や皇帝が広大な領土を治めるために頻繁に移動したことも、この時代の特徴です。たとえばフランスの国王は、家族と家臣を引き連れながら領内各地の城館を転々としていました。こうした宮廷の習慣は、壁にかけて冷気を遮ることができ、部屋の仕切りにも使えた実用的な装飾品であるタペストリーや、衣類などを収納する長持など、持ち運べる豪華な調度品の発展を後押ししました。また、君主たちが都市に入る時の祝典(入市式)の記念として、しばしば彼らや妃の横顔を彫ったメダルが制作されたことも、ルネサンスのメダル芸術の洗練を促した一因として特筆されます。
【展示作品の一部】アルブレヒト・デューラー《サイ》1515年(初版) パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Michel Urtado / distributed by AMF-DNPartcom
緻密な細部描写が際立つ木版画《サイ》はとてもリアルに見えますが、背中に本来存在しない角が生えていたり、皮膚が甲冑のようであったりと、実物からかけ離れた部分があります。実はデューラーは、サイを見たことは一度もありませんでした。彼は、1515年にポルトガル王のためにインドから輸送され、リスボン港に到着したサイについての記述とスケッチだけを頼りに、自身の想像力を駆使しながら迫真的なサイを創り出したのです。《サイ》はデューラーの死後にも7回重版されるほど、人気を博しました。その図像は、18世紀半ばに本物のサイの外見がヨーロッパで認知されるまでの間、博物学の書物の挿絵に繰り返し転用され、江戸時代の日本にも伝わっています。
【展示作品の一部】ヤン・ファン・スコーレル《32歳の男性の肖像》1521年 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
エル・グレコ《アントニオ・デ・コバルビアス・イ・レイバ(1524‒1602年)の肖像》1597 ‒1600年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF-DNPartcom
南ネーデルラント(?)《田園の合奏》16世紀第1四半期 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト Musée du Louvre, Dist. GrandPalaisRmn / Philippe Fuzeau / distributed by AMF-DNPartcom
II. 技法の革新と洗練3
III. 古代へのまなざし
【展示作品の一部】ジェルマン・ピロンの工房《シャルル9世の騎馬像》1570‒1574年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト Musée du Louvre, Dist. GrandPalaisRmn / Pierre Philibert / distributed by AMF-DNPartcom
ルネサンスにおける古代復興、すなわち古代ギリシア・ローマの文化を規範として再評価する動きは人文学の分野で始まり、次第に芸術にも広まりました。人文主義者たちは古代の重要文献の写本を研究し、それらに注釈をつけたものを出版しました。なかでも、視覚芸術の展開に大きな役割を果たした著作の一つが、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』です。ギリシア・ローマ神話の様々な物語を集めたこのラテン語の叙事詩は、ルネサンス期に様々な言語に翻訳され、各国で出版されました。芸術家たちは、こうした古代神話のテキストと、それらに添えられた版画挿絵も着想源にしながら、人間味あふれる古代の神々の物語場面を絵画や彫刻に表現しました。
古代の文献だけでなく、建築や彫刻も、ルネサンスの芸術家たちが手本として学ぶべき対象でした。彼らは古代遺跡が残るローマを訪れ、凱旋門などの建築に残るレリーフや、神々を表した大理石彫像を素描することによって、古代の図像や人体の造形表現を研究しました。イタリアに赴くことができない芸術家たちも、版画や石膏像などの複製を介して古代美術を参照していました。
15世紀後半になると遺跡の発掘が盛んになり、古代ブームがいっそう高まるなかで、各国の王侯貴族は、古代彫刻を縮小した複製品の収集を通して、自身のコレクションの価値を高めようと試みます。
これに伴い、ルネサンスの芸術家たちが復活させたのが、ブロンズ芸術でした。蝋で作った原型を用いるロストワックス鋳造法は古代にすでに確立されていましたが、中世の時代に古代のブロンズ像の多くが武器に流用するために溶かされてしまい、技法自体もすたれていたのです。ルネサンスの彫刻家たちはこの技法に再び習熟することによって、大規模な彫像から、小像、装飾板やメダルに至るまで、多種多様なブロンズ作品を世に送り出しました。
【展示作品の一部】サンドロ・ボッティチェリ《5人の天使に囲まれる聖母子》1470年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF-DNPartcom
この作品は、フィレンツェのルネサンスを代表する画家ボッティチェリが、自身の工房を構えて間もない20代半ばに制作したものと考えられています。膝に幼子イエスを抱きながら地面に座る聖母マリアは「謙遜の聖母」と呼ばれる形式で、15 世紀前半にイタリアからヨーロッパに広まりました。聖母は原罪の象徴であるザクロを左手に持ち、イエスに差し出しています。背景には、聖母の純潔を象徴する白いユリの花や、聖母に献じるための花冠を手にした5人の天使が描かれています。ボッティチェリは、聖母や天使たちの衣服の立体的なドレープを巧みに描写することで、その下にある身体のフォルムや手足の位置を明確に表現しました。これにより人物像には自然な立体感が生まれています。こうした描き方には、古代彫刻の学習の反映を見てとることができます。
【展示作品の一部】ルカス・クラーナハ(父)《三美神》1531年 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF-DNPartcom
ドイツ・ルネサンスを代表する巨匠ルカス・クラーナハ(父)は、ザクセン選帝侯によってドイツ北部のヴィッテンベルクの宮廷に招聘され、大工房を構えて活躍しました。ヨーロッパ北部では16世紀初めに人文主義が芽生え、ヴィッテンベルクの宮廷には古典古代に精通した学者や詩人たちが集っていました。こうした環境のなかで、クラーナハと彼の工房は神話画を数多く手がけており、その一つである本作にはギリシア神話の三美神が描かれています。
クラーナハは、古代の彫刻やレリーフにおける三美神の伝統的な形式を用いつつ、独創性を発揮しました。古代美術では通常後ろ姿で表されている中央の女神が、クラーナハの絵画では正面を向き、鑑賞者の方に視線を投げかけています。また、女性たちのなまめかしい裸身や、16世紀当時の流行を反映した帽子やネックレスは、古代の女神よりも現実の女性を想起させ、独特のエロティックな雰囲気を強めています。
IV. 肖像芸術の隆盛
【展示作品の一部】バロンチェッリの肖像の画家《ジャコモ・ディ・ジョヴァンニ・ダントニオ・ロイアーニの肖像(?)》1498‒1499年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Thierry Le Mage / distributed by AMF-DNPartcom
中世と同様にルネサンス期においても、キリスト教の信仰は人々の日常生活の拠り所でした。しかし、神が創造した世界のなかに、意志を有する人間の存在をどう位置づけるべきか、人文主義者たちが考察を深めるにつれて、身体的にも内面的にも固有の特性を備えた「個人」という概念が形作られていきます。ルネサンス期に伝記や回想録、旅行記といった著作が格段に増加した現象は、この時代の個人に対するまなざしの変容をよく物語っています。
こうした流れのなかで大きく花開いたのが、肖像芸術でした。外見の特徴から内面の性格まで、一人の人間の個性を絵画や彫刻として永遠に留める肖像は、当初は王侯貴族や高位聖職者など支配階級のための芸術ジャンルでしたが、時代が下るにつれて、知識人や富裕市民など中産階級の人々にも広まっていきます。男性、もしくはその妻と家族をともに描いた肖像画は、モデルの社会的功績を記念するために描かれることが多く、服装や持ち物、周りの環境などの描写を通じて職業や地位が示唆されました。一方、女性の肖像はしばしば、婚約者に送るため、あるいは結婚の記念として描かれました。また、当初は家族の一員として描かれていた子どもも、次第に単身で肖像に表されるようになります。
肖像画の形式に大きな革新が起こったことも、この時代の特徴です。北方、特にフランドルの画家たちは「四分の三正面観」、すなわち画面に対し人物を斜めに配する肖像形式を発展させました。当初、その背景は暗いグレーや黒のモノトーンで仕上げられていましたが、次第に風景が描かれ、空間の奥行きが表現されるようになります。この新たな形式は15世紀後半からイタリアに普及し、それまで一般的だった横顔の肖像形式に代わって、広く用いられるようになりました。
15世紀後半から16世紀にかけて、芸術家たちは、人物の容貌や身体的特徴の的確な描写を通じて、その内面に潜む心理や感情を表現することに、ますます重点を置くようになります。レオナルド・ダ・ヴィンチやティツィアーノなど、肖像芸術に卓越した芸術家たちは、モデルの姿勢や視線の向きなどを巧みに操作しながら、その似姿に命を吹き込みました。
【展示作品の一部】
バッチョ・バンディネッリに帰属《ミケランジェロの肖像》1522年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF-DNPartcom
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《フランソワ1世の肖像》1538年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Philippe Fuzeau / distributed by AMF-DNPartcom
ロンバルディアの画家《女性の肖像》、通称《美しきフェロニエール》1500 ‒1512年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Franck Raux / distributed by AMF-DNPartcom
ジャン・クリストフォロ・ロマーノ、本名ジャン・クリストフォロ・ガンティ《ベアトリーチェ・デステ》1490 ‒1491年頃 パリ、ルーヴル美術館 Photo コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Stéphane Maréchalle / distributed by AMF-DNPartcom
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【徹底解剖】ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》
最後に、本展最大の注目作品であり、今回初来日となるレオナルド・ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》について、その作品の詳細をまとめました。展覧会前の予習にお役立て下さい。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《女性の肖像》、誤って付された別称《美しきフェロニエール》1490‒1497年頃 パリ、ルーヴル美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Michel Urtado
【制作時期と表現上の特徴】
レオナルド・ダ・ヴィンチは1482年、30歳の時に、ミラノ公国で実権を握っていたルドヴィコ・スフォルツァに仕えるためにミラノに移り住み、1499年まで当地で活動しました。今日《美しきフェロニエール》の通称で世界的に知られる《女性の肖像》は、ミラノ滞在の後半に描かれたものと推測されています。その様式や技法の特徴から、のちに描かれる《モナ・リザ》のいわば前身として位置づけられてきた傑作です。当時、北イタリアではまだ横顔の肖像形式が主流でしたが、レオナルドはフランドルの画家たちが発展させた四分の三正面観を取り入れました。女性の目元、鼻筋、頬からあごにかけての丸み、かすかな笑みを浮かべる口元などは、明るい部分から暗い部分へと自然に推移する繊細なグラデーションによって、柔らかく立体的に描かれています。彼女の頭は身体と同じ方を向くのではなく、ほんのわずかに身体と逆方向に回転しています。この微細なひねりによって、女性がふと顔をこちらに向け始めたかのような動きの感覚が生まれ、彼女の生命感を高めているのです。女性は私たちを見返しているようで、もっと右を見ているようでもあり、その謎めいたまなざしは、様々な感情をあわせもつ人間の複雑な心の動きを映し出しているかのように感じられます。
【「美しきフェロニエール」とは?通称の由来】
「美しきフェロニエール」はフランス国王フランソワ1世(在位1515–1547年)の愛妾で、王の死の要因になったと伝えられる人物です。しかし、彼女らしき人物が史料に現れるのは、1547年の王の死から半世紀以上も経た17世紀初めのことで、今日の歴史学では、後世に作り上げられた架空の人物と考えられています。フランス王家のコレクションのなかで、17-18世紀を通じて「美しきフェロニエール」と呼ばれていたのは、当時はレオナルドの作品とみなされていた横顔の女性肖像画(※本稿少し上に掲載したロンバルディアの画家《女性の肖像》)で、この四分の三正面観の女性肖像画ではありませんでした。その後、19世紀初頭に呼び名が混同されたことをきっかけに、次第にこの作品が「美しきフェロニエール」と通称されるようになりました。
【モデルは誰なのか?】
レオナルドの《美しきフェロニエール》に触れた最古の史料は、フォンテーヌブロー城のフランス王家所有の美術品について記した1642年の書物です(Pierre Dan, Le Trésor des merveilles de la Maison Royale de Fontainebleau, Paris, Sébastien Cramoisy, 1642[別ウィンドウ], p. 135)。そこではこの絵は、レオナルドによる「マントヴァの公爵夫人の肖像」と記されていました。以降の文献では「女性の肖像」と記述されることがほとんどでしたが、18世紀末に初めて、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛妾、ルクレツィア・クリヴェッリ(1464–1534年)をモデルとする見解が現れました。彼女はルドヴィコの妻ベアトリーチェ・デステの侍女で、ルドヴィコから見初められて愛妾となった女性です。レオナルドがルドヴィコのために「ルクレツィア」という名の女性の肖像を描いたことが、同時代のイタリアの詩人アントニオ・テバルデオ(1463–1537年)の詩にうたわれており、これがルクレツィア・クリヴェッリをモデルとみなす根拠の一つとなっています。
テバルデオは、肖像に描かれたルクレツィアの魂はミラノ公ルドヴィコだけのものだとうたっています。もし、《美しきフェロニエール》のモデルがルクレツィア・クリヴェッリであるなら、私たちを見返しているようで、そうではないようにも見える彼女のまなざしは、ルドヴィコただ一人に向けられているのかもしれません。前景に配された石の欄干も、ルドヴィコ以外の鑑賞者に、彼女には近寄りがたいと感じさせるための工夫だったのかもしれません。
ルドヴィコの一代前のミラノ公の妃イザベッラ・ダラゴーナ、あるいはベアトリーチェ・デステなど、他の女性もモデル候補に挙げられてきましたが、いずれも決定的な証拠はなく、現在、研究者の多くはルクレツィア・クリヴェッリを支持しています。
【ファッションの特徴】
レオナルドの《美しきフェロニエール》における女性の髪型や服装は、1490年代にミラノやマントヴァなど北イタリアで流行したものです。額の中央で分けた長い髪を後ろで一つにまとめる髪型、後頭部にかぶったボンネット、額から頭に巻いた細い飾り紐は、本展に出品されるミラノ公妃ベアトリーチェ・デステの彫刻(本展出品番号 cat. 52)や、マントヴァやミラノの貴婦人たちを表したメダルや絵画(本展出品番号 cat. 53、55)にも見られます。また、四角い形の襟ぐりと、胴衣にリボンで袖を結び付け、肩口の隙間から白いブラウスをのぞかせるスタイルも、同様に北イタリアの流行を反映しています。
額の中央に一粒の宝石をあしらった飾り紐は、15世紀末のイタリアでは「レンツァ」と呼ばれていましたが、次第にすたれました。しかし、レオナルドの絵画が19世紀初めに「美しきフェロニエール」と誤って呼ばれ、有名になるにつれて、このアクセサリーがフランスの女性たちの間で再び流行し、1830年代には「フェロニエール」と呼ばれるようになりました。
なお、額の中央に一粒の宝石をあしらった飾り紐は、15世紀末のイタリアでは「レンツァ」と呼ばれていましたが、次第にすたれました。しかし、レオナルドの作品が19世紀初めに「美しきフェロニエール」と誤って称され、有名になるにつれて、このアクセサリーがフランスの女性たちの間でリバイバルし、1830年代には「フェロニエール」と呼ばれるようになりました。
国立新美術館
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参考文献
ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
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ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
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大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
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孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
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「レオナルド×ミケランジェロ展」三菱一号館美術館・・・レオナルド「レダと白鳥」
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レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年記念「夢の実現」展・・・レオナルドの夢、ルネサンスの夢
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ルーヴル美術館展、ルネサンス・・・レオナルド「美しきフェロニエール」
国立新美術館 企画展示室1E(東京都港区六本木7-22-2)
2026年9月9日(水)~12月13日(日)
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