一瞬の出会い、運命は変わる。岐路を導く人は、師である。藝術家、ミューズ、母の恩。魔術師の旅、旅路の果て。よき師と出会い、美しい人と出会い、幸運の女神に会い、美しい卓越性を成し遂げよう。
【《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 優雅な生活】
マティスは「精神安定剤のような、肉体の疲れを癒す、良い肘掛け椅子のような存在」を芸術の理想としていた。戦争で息子を徴兵され、大病を患い、人生には辛い事もあった。それでも画中に苦しみを持ち込まず、調和に満ちた作品を創作し続けた。
自分が感じた深い感動に対する繊細な感覚、芸術を探求する精神。マティスは20世紀初頭の絵画運動であるフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動した後、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と形の探求に捧げた。
マティスの理想の境地は、南フランスの《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活であり、50年間《豪奢、静寂、逸楽》であり続けることは幸せである。
*Luxe, Calme, et Voluptéボードレールの『悪の華』の詩「L'Invitation au voyage」旅へのいざない
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【一瞬の出会い、運命は一瞬で変わる】よき師と出会い、美しい人と出会い、運命の女神に会い、不滅の魂で、美しい卓越性を成し遂げよう。
世界には君以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、問うてはならない。ひたすら進め。
There is only way no one can walk besides you in the world. A field's reaching where or, you aren't supposed to care. Advance earnestly.
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図】【先生が持つ基礎認知力、持っている体系】知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は極めて稀である】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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アンリ・マティス(1869~1954) 色彩の魔術師 84歳で死す。
20世紀美術を代表する画家の一人、アンリ・マティス(1869~1954)、フォーヴィスム(野獣派)で有名だが、生涯、色彩と線への旅をつづけ、84歳で死す。
裕福な家庭に生まれ、法律家の道を歩んでいたマティス。画家を志したのは21歳のとき、病気で療養中だった彼に母親が絵具箱を贈ったことがきっかけである。法律の学位を得て代訴人の仕事をしていたマティスは、23歳でギュスターヴ・モローの弟子となる。
美術学校や画家のもとで教えを受け、ルーヴル美術館で古典作品の模写をし技術を磨いていったマティスは、次第に自分自身の表現を探求する1898年、アメリー・パレイルと結婚。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した。
【ポール・シニャック(Paul Signac)との出会い、コリウール1905、36歳】
ポール・シニャック『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』1899に影響を受け、筆触分割の技法を用いる。D'Eugène Delacroix au Néo-impressionisme
1905年、家族とともに、海辺の町、コリウールで夏を過ごす。《日傘を持つ婦人》1905年、を描く。《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 1904年、35歳。《豪奢、静寂、逸楽》は、ポール・シニャック(1863-1935)の招きで南仏に赴いたマティスがパリで仕上げた実験的作品、新印象派の筆触分割(絵具を混ぜず直接筆で)に実験的に取り組んだマティス転換期の重要作品。色彩と線描の衝突というテーマをそのまま残す作品となる。
【「フォーヴィスム(野獣派)」】
荒々しい筆遣いと鮮やかな色彩が特徴的な作品が1905年サロン・ドートンヌに出品されると、批評家ルイ・ヴォークセルによって展示室は「野獣の檻」と呼ばれ、「フォーヴィスム(野獣派)」の画家と呼ばれるようになる。美術界に確かな地位を築きつつ、マティスはさらなる進化を続ける。本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館
フォーヴィスム(野獣派)「豪奢1(Luxe)」1907年
【窓、部屋の中と外の世界とをつなぐ】
生涯にわたり室内のアトリエを創作の場としたマティスにとって、窓は部屋の中と外の世界とをつなぐ重要なモティーフ。金魚もマティスが繰り返し描いたモティーフで、《金魚鉢のある室内》1914年、で窓際に置かれた金魚鉢が内と外の世界を映り、小宇宙のような空間を生み出す。生前には公開されなかった《コリウールのフランス窓》。黒く塗りつぶされた部分は当初、外の眺めが描かれていた。第一次世界大戦勃発直後に描かれた。
【第一次世界大戦が終わりニースへ、南仏の光 1917-1930】
拠点を移したマティスは、南仏の光の中で精力的な創作活動を展開。多数描かれた「オダリスク」もこの時期に取り組んだ、《赤いキュロットのオダリスク》1921年はその皮切りとなった作品。旅先のモロッコで仕入れた布に、手作りのアクセサリーや衣装。マティスの装飾へのこだわり。マティスが色と同じく大事にした、線の表現。デッサンは「自分の中に芽生えた創作の気持ちを観る人の心にダイレクトに伝えることができる方法」。
1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と呼ばれる。
【マティス60代、リディア・ディクトルスカヤ1935】
《夢》1935以降モデルとして彼のミューズとなったリディア・ディクトルスカヤ。その後マティスが亡くなるまでの20年間、リディアはそばで彼を支え続ける。
《座るバラ色の裸婦》は少なくとも13回描き直されていて、リディアの顔がだんだん抽象的に、そして最終的には線姿。マティスは鑑賞者の想像力をつぶすすべての制限から作品を解放した。
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