仏教

2024年4月17日 (水)

「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第364回
【浄土教】平安時代、空也、源信は、念仏、西方極楽に往生、来迎、を説き、浄土教を広め、鎌倉時代、法然は、称名念仏・専修念仏、他力、総本山知恩院、浄土宗の開祖。鎌倉仏教の第一歩。親鸞は、阿弥陀仏の慈悲に報恩感謝の念仏、絶対他力、自然法爾、悪人正機、浄土真宗を開宗。室町時代、蓮如は、浄土真宗本願寺派第八世、山科の石山本願寺を建て、本願寺教団を組織化。
法然(法然房源空、1133~1212)。観想の念仏に対して称名念仏を唱え、南無阿弥陀仏と専修念仏すれば、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できる。末法の時代には、自力聖建門の教えは困難であり、他力易行の浄土門である。「極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と口で唱えれば疑いなく往生する」『一枚起請文』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【法然(法然房源空、1133~1212)】長承2(1133)年、美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使の漆間時国の子として生まれた。9歳の時に、父は預所の明石定明によって夜襲で殺された。幼名は勢至丸。叔父の観覚に従って剃髪。1147(久安3)年 15歳で比叡山に登り源光、皇円に師事。天台を学んだが、18歳1150年教学などに対する疑問を生じ、西塔黒谷の叡空のもとに隠棲、法然房源空と称した。以後20年間修学、叡空は,念仏は『観無量寿経』が説く観想の念仏に対して、法然は善導『観無量寿経疏』によって称名念仏に専修する悟りに達した。安元1(1175)年、43歳にして山を降り、東山の吉水に草庵を結び、老若貴賤を問わず教化した。1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し、建久9(1198)年関白九条兼実の依頼によって念仏の肝要を述べた『選択本願念仏集』。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され、至誠心(しじょうしん),深心(じんしん),回向発願心(えこうほつがんしん)の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく、阿弥陀仏によって救われるとした。1201年(建仁1)に親鸞も弟子となった。女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け、1207年讃岐に配流された。建暦1(1211)年許されて京に帰ったが翌、建暦2(1212) 年80歳の生涯を閉じた。門下に聖光、源智、証空、親鸞などを出し、日本浄土教の発展の基礎となった。
【『無量寿経』】浄土教の根拠は『仏説無量寿経』である。だが、ゴータマ・ブッダが説いたものではないことは言うまでもない。1世紀に仏典作者が創作した。『仏説無量寿経』。説法の舞台は王舎城(ラージャグリハ)耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、ある国の王が世自在王仏の説法を聞いて、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩となり、五劫という長い間思惟して、無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土に生まれたいと願い、この第十八願を「本願」、すべての人びとを信心と念仏によって救う本願こそ、浄土教の教えの根本。法蔵菩薩は願いを実現するために、兆載永劫果てしなく長い間修行を重ね、阿弥陀如来となった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
重要文化財「選択本願念仏集(廬山寺本)(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)鎌倉時代・12~13世紀 京都・廬山寺蔵
重要文化財「法然上人坐像」鎌倉時代・14世紀 奈良・當麻寺奥院蔵
国宝「法然上人絵伝、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎)、鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵
国宝 「綴織當麻曼陀羅」 中国・唐または奈良時代・8世紀、奈良・當麻寺蔵 画像提供:奈良国立博物館
「仏涅槃群像」香川・法然寺、「さぬきの寝釈迦」を81体の菩薩や動物たちが囲む。
狩野一信「五百羅漢図」増上寺、江戸時代、19世紀
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参考文献
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
https://bit.ly/3B53Xvn
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/post-cf7488.html
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
https://bit.ly/3HFXOt8
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
「法然と極楽浄土」・・・称名念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土の幻覚
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/04/post-ce2b9b.html
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第1章 法然とその時代
相次ぐ戦乱、頻発する天災や疫病、逃れられない貧困など、平安時代末期の人々は苦悩に満ちた「末法」の世に生きていました。この時代に生を享けた法然は、比叡山で天台僧としての修行を積みますが、43歳の承安5年(1175)、唐の善導の著作によって専修念仏の道を選びました。「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるという教えは幅広い階層の信者を得ます。しかし、既存の仏教界からは念仏を止めることが強く求められ、ついに法然は75歳のとき讃岐国(香川県)へ配流されるに至りました。やがて帰京し、80歳で往生を遂げます。本章では、浄土宗の歴史のはじまりである、祖師・法然の事績や思想をたどります。
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2章 阿弥陀仏の世界
法然は、本尊である阿弥陀如来の名号をひたすらに称える称名念仏をなにより重んじました。貴賎による格差が生まれる造寺造仏などの善事をすることには否定的で、法然自身は阿弥陀の造像に積極的ではありませんでした。
しかし、それを必要とする門弟や帰依者らには認めました。彼らは阿弥陀の彫像や来迎する様を描いた絵画を拝し、日ごろ念仏を称え、あるいは臨終を迎える際の心の拠りどころとしたのです。多くの人々の願いが込められた阿弥陀の造形の数々は、困難の多い時代、庶民にまで広がった浄土宗の信仰の高まりを今に伝えています。
3章 法然の弟子たちと法脈
法然のもとには彼を慕う門弟が集い、浄土宗が開かれました。法然没後、彼らは称名念仏の教えを広めようと、それぞれ精力的に活動をおこないます。九州(鎮西)を拠点に教えを広めていった聖光の一派である鎮西派は、その弟子良忠が鎌倉を拠点として宗勢を拡大しました。また、証空を祖とする一派である西山派は、京都を拠点に活動を展開し、『観無量寿経』を図示した當麻曼陀羅を見出しその流布に大きな業績を残しました。
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平安時代末期、繰り返される内乱や災害・疫病の頻発によって世は乱れ、人々は疲弊していました。比叡山で学び、中国唐代の阿弥陀仏信仰者である善導(ぜんどう、613~681)の教えに接した法然(法然房源空、ほうねんぼうげんくう、1133~1212)は、承安5年(1175)、阿弥陀仏の名号を称えることによって誰もが等しく阿弥陀仏に救われ、極楽浄土に往生することを説き、浄土宗を開きました。その教えは貴族から庶民に至るまで多くの人々に支持され、現代に至るまで連綿と受け継がれています。
本展は、令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依(きえ)によって大きく発展を遂げるまでの、浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝、重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものです。困難な時代に分け隔てなく万人の救済を目指した法然と門弟たちの生き方や、大切に守り伝えられてきた文化財にふれていただく貴重な機会です。
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「法然と極楽浄土」東京国立博物館、2024年4月16日(火)~6月9日(日)
京都国立博物館 平成知新館
会期:2024年10月8日(火)〜12月1日(日)
住所:京都府京都市東山区栄屋町527
九州国立博物館
会期:2025年10月7日(火)〜11月30日(日)
住所:福岡県太宰府市石坂4-7-2

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2024年1月28日 (日)

「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第356回
美術探訪、美への巡礼。特別展「中尊寺金色堂」大久保正雄
金色堂の須弥壇に、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至菩薩)、更に六体の地蔵菩薩、そして持国天、増長天が祀られている。この像容は、他に例が無く珍しい配置。吾妻鏡9巻(1189年)にこの像容の記載がある。国宝11体展示される。
魔界の入口【中尊寺金色堂の謎】藤原清衡は金色堂にどのような祈りをこめたのか。どのような一族の運命を願ったのか。中尊寺金色堂の原型は何か。藤原頼通は、平等院鳳凰堂に地上の極楽浄土を願った。なぜ今も千年前の姿をとどめるのか。宇治殿別荘、源融、藤原道長、紫式部は宇治に何を夢見たのか。紫式部は夢の果てに何を見出したのか。阿弥陀如来の極楽浄土の根拠はどこにあるのか。『仏説無量寿経』の根拠は何か。
【奥州藤原氏の悲劇】清衡は、一族繁栄、極楽浄土を願ったが、泰衡は源頼朝の罠にかかり一族滅亡。藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡。三代秀衡(∸1187)は毛越寺を復興、社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇「吾妻鏡」。文治3(1187)年、頼朝の弟である義経が追放されて奥州へ落ち延び、秀衡のもとに身を寄せる。秀衡は息子たちに「義経を大将軍として仕え、奥州を守れ」と告げ、兄弟が争わないように取り計らうが亡くなる。だが側室から生まれた国衡と泰衡は対立。文治4(1188)年、義経の奥州潜伏が発覚、頼朝は泰衡たちへ義経討伐の命を何度も要請。泰衡は義経一行を攻め、自害に追いつめる。それにもかかわらず頼朝は全国の武士へ奥州攻め、泰衡は殺され、権勢を誇った奥州藤原氏四代は滅亡。
【藤原清衡、中尊寺金色堂】奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例。「金色堂 上下四壁は皆金色なり」『吾妻鏡』【阿弥陀三尊像】中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天、増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像を安置。中央壇の阿弥陀如来像は丸顔で典型的な定朝様であり、定朝から3代目の円勢などの円派仏師の作風に通ずる12世紀前半の制作。
【平等院鳳凰堂】平安後期1052年、最大権力者であった関白・藤原頼通が父・藤原道長から継いだ別荘を仏寺に改めた『平等院』。そして翌1053年、当時最高技術を誇る仏師・定朝が造り上げた『阿弥陀如来坐像』を堂内に安置した『鳳凰堂』(阿弥陀堂)が完成した。国宝『鳳凰堂』は、摂関時代(平安中期)の建築を知ることができる藝術、堂内には金色の『阿弥陀如来坐像』が安置され、壁に『九品来迎図』や『極楽浄土図』が描かれ、建物内に優美な世界観が広がる。末法思想が貴族や僧侶らの間で広まり、1052年から末法になると信じられていた。死後に極楽往生を願う浄土信仰が広く浸透、南無阿弥陀仏を唱え阿弥陀如来を信仰すれば極楽浄土に行けると信じ、各地に阿弥陀堂が造られた。
【宇治別邸、源融】宇治の地は859年(貞観元年)第52代・嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融が造営した別荘の地。第59代・宇多天皇、宇多天皇の孫、藤原頼通の父、藤原道長が源重信の婦人から譲り受け別荘「宇治殿」を創った。【紫式部『源氏物語』宇治十帖】光源氏のモデルは、源融と藤原道長。紫式部は、源融に憧れ、藤原道長の召人、中宮彰子の家庭教師。1001年(長保3)夏に宣孝が死に、1001年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めた。1005年(寛弘2)ごろ年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれる。紫式部の二百年後、『新古今和歌集』春の夜の夢の浮橋の歌がある。
【春の夜の夢の浮橋】「春の夜の夢の浮橋と絶えして嶺に別るる横雲の空」藤原定家、三十七歳の作である(建久八年(1197)12月5日、仁和寺守覚法親王五十首歌会)。春の夜の夢、たなびく曇が別れる空、実らぬ愛、魂の夢の浮橋。夢の浮橋とは『源氏物語』五十四帖の最終巻の巻名。見果てぬ夢のごとく、愛し合った男女、薫と浮舟が別れたまま終わる。【見果てぬ愛は、永遠に美しい】実らない愛は永遠に輝いている。定家は式子内親王と禁断の恋をし、逢ひて逢はぬ恋になる。「玉の緒よ絶えなば絶えね、ながらへば忍ぶることのよわりもぞする」式子内親王。わたしの命よ。絶えてしまうというなら絶えてしまえ。生きつづけていたならば、恋心を秘めておくことができないから。
【浄土教、大乗仏教はファンタジー】浄土教の根拠は『仏説無量寿経』である。だが、ゴータマ・ブッダが説いたものではないことは言うまでもない。1世紀に仏典作者が創作した。『仏説無量寿経』。説法の舞台は王舎城(ラージャグリハ)耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、ある国の王が世自在王仏の説法を聞いて、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩となり、五劫という長い間思惟して、無量の寿、無量の光をもつ阿弥陀浄土に生まれたいと願い、この第十八願を「本願」、すべての人びとを信心と念仏によって救う本願こそ、浄土教の教えの根本。法蔵菩薩は願いを実現するために、兆載永劫果てしなく長い間修行を重ね、阿弥陀如来となった。
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。上智大学大学院、北海道大学大学院博士後期課程修了。
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「建立900年 特別展 中尊寺金色堂」
会場:東京国立博物館 本館特別5室 会期: 2024年1月23日(火)~4月14日(日)
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで
休館日 :月曜日、2月13日(火)※ただし、2月12日(月・休)、3月25日(月)は開館
問い合わせ先 050-5541-8600(ハローダイヤル)
詳しくは東京国立博物館公式サイト https://www.tnm.jp/
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参考文献
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・西方浄土、阿弥陀如来の本願、『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
「中尊寺金色堂」・・・魔界の入口、中尊寺金色堂の謎
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2023年8月26日 (土)

仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第340回

【仏教2500年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀)、マトゥラー『仏陀立像』クシャーン朝・2~3世紀)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、サールナート『初転法輪の仏陀』(グプタ朝時代5世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)
【原始仏教】ゴータマ・ブッダ、釈迦族に生まれる。前463頃、カピラバストゥ、ルンビニに生まれ、前383頃、クシナガラにて死す。仏教の開祖。釈迦牟尼Śākya muni。シャカ族の国王浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とし、姓をゴータマ Gotama (瞿曇) 、名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。生後まもなく母を失い、叔母の手で養育された。 16歳で結婚,息子ラーフラをもうけたが、
【四門遊観】迦毘羅城の東西南北の四つの門から郊外に出遊、東門を出て杖に縋る老人を見、生あれば老あるを悟り、西門を出て病人に会い、生あれば病あるを知り、南門を出て死人に会い、生あれば死あるを知り、北門を出て高徳の沙門に会い、苦諦に目を開き、出家を決意した『大辞泉』。
29歳のとき意を決して出家。修行の末、35歳頃ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ buddha (仏陀 ) 、すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法【初転法輪】を行い、以後 80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。四諦、八正道。五蘊皆空、十二因縁、六入、涅槃。
【四苦八苦】生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。仏教は四苦八苦から生きものを救うことから始まる。業を起因する輪廻転生を真理の証悟によって解脱する教え。五蘊は認識作用の対象。
【五蘊皆空】「五蘊」は人間を形成する五つの要素。色(肉体)、受(感覚)、想(想像)、行(意志)、識(判断)の対象は、実体ではない。『般若心経』
【五蘊】五陰ともいう。「蘊」は集まりの意味で、サンスクリット語のスカンダskandhaの訳。仏教では、一切の存在を五つのものの集まりと解釈し、その五つも、やはりそれぞれ集まりからなる、とする。五つとは、色(しき)蘊(対象を構成している感覚的・物質的なものの総称)、以下は主体の意識において、受蘊(なんらかの印象を受け入れること)、想蘊(イメージをつくる表象作用)、行蘊(ぎょううん)(能動性をいい、潜在的にあり働く)、識蘊(具体的に対象をそれぞれ区別して認識する働き)をいう。このように、一切を、色―客観的なもの、受・想・行・識―主観的なものに分類する考え方は、仏教の最初期から一貫する優れた伝統とされる。[三枝充悳]
【龍樹、中観派、空(śūnya)】龍樹はあらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており「独立した不変の実体」(=自性)はもたない(無自性空)とする見方に立つ。すべてのダルマは存在するとする説一切有部と普遍の存在を主張するヴァイシェーシカ派を批判。龍樹、150‐250 年頃。

【仏教の矛盾】無我(anātman)説と輪廻転生(saṃsāra)は、根本的に矛盾する。この矛盾をどのように解決するのか。この問題は、婆羅門教のアートマンと仏教の無我説の対立に根源がある。仏教2千5百年、多彩な仏教の学派には、この問題を解く学派がある。
【ガンダーラの思想家】瑜伽行唯識Yogācāra学派。無著(Asaṅga)は、4世紀後半から5世紀前半に活躍した乾陀羅の仏教学者。瑜伽唯識思想の大成者。ガンダーラのプルシャプラのバラモンの家柄に生まれ、部派仏教の一派(説一切有部とも化地部)で出家。代表作『摂大乗論』。兄弟3人のうちの長男。次男には説一切有部から唯識派に転向して大成した世親(Vasubandhu、400-480)。『倶舎論』のほかに『弁中辺論』『唯識三十頌』『摂大乗論釈』などがある。7世紀ころより有相唯識派と無相唯識派に分かれる。
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【仏教史、論争の歴史】説一切有部(Sarvāstivāda)は「存在するもの(asti)すべて(sarva)の理論(vāda)」との意味であり、我(人我、アートマン)は空だが、一切のダルマが過去・現在・未来の三世にわたって実在する、膨大なアビダルマ哲学を完成させた『六足論』『発智論』『大毘婆沙論』、成立は紀元前2世紀前半、大衆部や経量部と対立。龍樹(Nāgārjuna)150-250 年頃中観派の祖、その主著は『中論』。龍樹は、般若経典の般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化した。ナーガールジュナは、世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部や認識される根拠として「普遍」が実在するとするヴァイシェーシカなどの実在論をとる諸学派を鋭く批判。【中観派と唯識派の対立】無著(4ⅽ-5ⅽ)世親(400-480)は瑜伽行唯名論学派と呼ばれ7世紀ころより有相唯識派と無相唯識派に分かれる、龍樹(2ⅽ-3ⅽ)、提婆の中観派とともにインド大乗仏教の二大主流となって、6-7世紀頃から中観派との間に論争し鋭く対立した。阿頼耶識が自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出している(唯識無境)、阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)。『瑜伽師地論』、世親『唯識二十論』『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』護法、(6世紀)『成唯識論』。
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【仏身論、三身論】trikāya。法身(永遠不滅の真理で釈迦の本身)、報身(単に永遠の真理でも無常の人格でもなく、真理を悟った力をもつ人格的仏)、応身(衆生救済のため,真理により現世に姿を現した仏)。
瑜伽行唯識学派で完成された三身説では、三身を順次に自性身、受用身、変化身という名でよぶ。長尾雅人「仏身論をめぐりて」1971、
https://repository.kulib.kyoto-.ac.jp/dspace/bitstream/2433/273454/1/jps_45_03_179.pdf
【仏身論、三身説】仏身に関する思索が深まり、瑜伽行派の弥勒、無著、世親らの論師たちによって最終的に3種の仏身をたてる〈三身説〉が成立した。三身とは(1)法身(ダルマ・カーヤdharma‐kāya)、(2)報身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐kāya)、(3)応身(化身、ニルマーナ・カーヤnirmāṇa‐kaya)の3種、あるいは(1)自性身(スババーバ・カーヤsvabhāva‐kāya)、(2)受用身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐kāya)、(3)変化身(ニルマーナ・カーヤnirmāṇa‐kāya)の3種をいう。これら三つは論師あるいは宗派によって異なる。
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蓑輪 顕量「中世における仏身論の展開」仏教文化研究論集2020
密教が成立すると,独自の視点から更に新しい捉え方が登場した.それが四種法身説である。四種法身説とは自性身,受用身,変化身,等流身を言う。
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「無著、世親」運慶の晩年に制作された興福寺北円堂諸像の中の二体。運慶の指導の下、無著は六男の運助、世親は五男の運賀が担当した。無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見る。天平彫刻の写実、弘仁彫刻の繊細が融合。運慶『無着像』は西行がモデル。田中英道。
【中観派】2、3世紀、龍樹(Nāgārjuna)『中論』などを基本的な典籍とする。龍樹は般若経典を背景として、「すべては、人間が想定しがちな不変で固定的な本質をもつものではない」という空の思想を、論理性の高い表現によって、日常的なことばや思考のもつ矛盾を暴露することを通じて明らかにした。その後、提婆(3世紀)は龍樹の考えを体系化しようと努力、5、6世紀には仏護が『中論』の忠実な注釈を試み、清弁は空の思想を論理学的な推論式で積極的に論証する方法を確立、7世紀には月称が清弁を批判して、相手の論法に沿った形でその論法の不合理性を明らかにする帰謬論証のほうがより有効であるとした。後代、中観派が清弁側の独立論証派と月称側の帰謬論証派に分裂する。[江島惠教]
【唯識論と中観派の対立】弥勒、無着、世親の仏教は瑜伽行派と呼ばれ、龍樹、提婆の中観派とともにインド大乗仏教の二大主流となって、鋭く対立した。中国や日本に広く流伝した。
【三蔵法師、玄奘、太宗皇帝】玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、唐帝国に出国許可を求めたが得られず国禁を犯して密出国。西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へとルートを辿って
【三蔵法師、玄奘、太宗皇帝】密出国から16年を経た貞観19年1月(645年)、657部の経典を長安に持ち帰った。皇帝太宗も玄奘の業績を高く評価した、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われなかった。太宗のために『大唐西域記』を執筆。仏教と経典の保護を高宗
【玄奘、三蔵法師】26歳の時、法律を破って一人、インドへ旅立つ。40歳まで学問を深め、中国に仏教を伝えたいと帰ることを決意。インドのサンスクリット語で書かれた経典を22頭の馬に積んで旅する。43歳のとき帰国。経の翻訳に人生を捧げる。『解深密経』『大般若経』『般若心経』『倶舎論』『唯識三十頌』『唯識二十論』『瑜伽師地論』。弟子の窺基(きき)が法相宗を開いたので、玄奘は後に唯識に基づく法相宗の開祖といわれる。602年~664年。
【螺鈿紫檀五絃琵琶、正倉院756年】沙漠を超えて、千二百年前からきた旅人。駱駝に乗って琵琶を演奏する波斯人。裏面に散り乱れる宝相華文。琵琶を奏でる、千二百年の旅人。天平の音色が漂う。56歳で亡くなった聖武、五絃琵琶を光明皇后が東大寺盧遮那仏に献じた。
【密教】8世紀、密教が伝来する。善無畏と一行訳『大毘盧遮那成仏神変加持経』(725)。【不空金剛】(Amoghavajra,705-774)は、唐の開元8 (720) 年洛陽に来て金剛智の弟子となり、師の没後,同 29年セイロンに渡り,密教経典を集め、天宝5 (746) 年再び長安に入った。以後 30年間、玄宗、粛宗、代宗の3皇帝の優遇を受け、『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』以下 80部以上の密教経典を訳した。
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飛鳥、白鳳彫刻、天平、弘仁貞観
【飛鳥文化、推古天皇】法隆寺金堂の釈迦三尊像が光背裏の銘文から,推古 31 (623) 年3月,その前年に亡くなった聖徳太子のために止利仏師 (鞍作止利) が造立した。六朝時代末、北魏様式の影響を受ける。『日本書紀』の天智天皇9 (670) 年4月の条の法隆寺炎上の記事をめぐって再建非再建の論争。白鳳期の美術であり、推古期の建築は現存しない。
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【密教の起源】750年8世紀初めから半ば、唐に善無畏、金剛智が順次に来唐し、善無畏が『大日経』を、金剛智が『金剛頂経』を翻訳して中国に組織的な密教経典が備わる。不空はセイロン(スリランカ)に渡って密教を学び、帰国して80余部の密教経典をはじめ数多くの経典を訳して密教を大成、唐の玄宗、粛宗、代宗の厚い信任を受けた。不空の弟子のうち恵果は真言密教の秘奥を究め、晩年、日本から入唐した空海にその奥義を伝えた。[勝又俊教]【密教】秘密仏教。インド大乗仏教の末期(7世紀後半)に興起した一流派。
【空海、波瀾の遣唐船漂流、謎の生涯】24歳で『聾瞽指帰』を書く。57歳で『秘蔵宝鑰』を書く。大学入学18歳から31歳、遣唐使留学僧、入唐まで、大学寮明経科中退、山林修行、私度僧。東大寺にて得度、遣唐使留学層派遣、謎の12年間。宝亀5年(774)6月15日生まれる。承和2年(835) 4月22日入定、62才。
【空海の書】空海は日本書道界の祖、嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ、また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。世に空海筆と称されるものは数多いが、確実に彼の筆と認められるのは《風信帖》《灌頂歴名》《真言七祖像賛》《聾瞽指帰》《金剛般若経開題》《大日経開題》《三十帖策子》
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智慧と慈悲
【智慧】梵語: prajñāの訳語である場合。この場合の智慧は、 prajñā の音写語である般若と同等の意味合いで用いられる。六波羅蜜および三学の一つ。智がジュニャーナ(梵語: jñāna)の訳語として用いられ、慧が梵語: prajñāの訳語として用いられる場合。この場合は、智が慧と区別されて用いられる。
【慈悲】「慈」はサンスクリット語のmaitrī(友情)にあたり、深い慈しみの心をさし、「悲」はkarunā(同情)にあたり、深い憐(あわれ)みの心をさす。仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える(与楽)のが慈であり、不幸を抜き去る(抜苦)のが悲である。藤田宏達、「慈悲」 『日本大百科全書』
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七支刀
学生時代、友人と3人で、早春、山の辺の道、大神神社、石上神宮、を歩いた。石上神宮にて、七支刀について質問した。回答が得られたのは数十年後、東京国立博物館、研究員に質問したところ、回答を得た。
出雲と大和展、七支刀
https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/category/108/
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参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
https://bit.ly/2U9rO6s
法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
「密教彫刻の世界」・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、転識得智、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
https://bit.ly/2H2diKc
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html

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2023年5月 7日 (日)

親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・西方浄土、阿弥陀如来の本願、『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第327回
春爛漫、躑躅、咲く。桜満開の京都を思い出す。「法然と親鸞」(東京国立博物館2011年)。
親鸞の最も著名なことばである。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(唯円『歎異抄』第三条)、悪人正機。悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。仏教は、智慧と慈悲の獲得を目ざし実践する教えである。浄土仏教は、智慧を身につけさとるより、阿弥陀如来の慈悲による救いを他力本願すること。私を救わずにおかない阿弥陀如来の願いのままに、阿弥陀如来の智慧と慈悲に導かれて生きる生き方が他力本願。専修念仏を親鸞は説く。「親鸞は弟子一人ももたず候」(唯円『歎異抄』第六条)
【承元の法難】1204年、比叡山の衆徒から法然教団に対して専修念仏を禁止すべきという声が上がる。1205年、興福寺から朝廷に法然教団には9ヶ条の過失「興福寺奏上」提出。1206年、建永元年、後鳥羽上皇の女官が法然教団の法会に参加、外泊。承元元年1207年、後鳥羽上皇と興福寺とが一致して専修念仏を弾圧。専修念仏を禁止。法然は土佐国、親鸞は越後国、流罪。法然は75歳、親鸞は35歳。
親鸞「南無阿弥陀仏と念仏すれば、往生浄土、西方浄土に往生できる」と布教、多くの信徒を獲得、強大な浄土真宗教団を作る。九条兼実の娘と三善為教の娘と結婚、7人の子をなした。
【蓮如】本願寺派第8世宗主・蓮如(1415-1499)は、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』)、「自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀仏の救いは向けられる」悪人正機、布教し、教団を再興。5度婚姻、27人の子を生じた精力家。
【石山戦争】本願寺派第11世宗主・顕如(1543-1592)は、摂津加賀の戦国大名と化した石山本願寺、教団を率いて、10年間、元亀元年~天正8年(1570~80)、織田信長と戦い、敗北、正親町天皇の勅命講和により、石山本願寺より退去。
「飢えた子どもは餓鬼となる。飢えた人は悪をなす。念仏で飢えた人を救うことができるのか。飢えた人の飢えを満たすのは親子丼、天丼、かつ丼である」「本願寺教団は軍事組織となり、百姓の国は飢餓を救うことができたのか。教団は新たな搾取階級となり、本願寺教祖階級は、どこまでも続くのか。」
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞教団、王朝の始まり】親鸞(1173~1262)。『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』において恵信尼も親鸞を観音菩薩の化身と考えていたと書かれる。互いを阿弥陀如来の慈悲のあらわれと思った。長男は玉日姫との間に生まれたとされる範意、第二子以降は恵信尼との間に生まれる小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫人道有房、高野禅尼、覚信尼の計7人である『日野家一流系図』。
親鸞(1173~1262)、蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)、親鸞の教団は、民衆を救ったのか。専修念仏、南無阿弥陀仏、他力本願の浄土仏教は、阿弥陀如来の浄土へ往生浄土させることができるのか。
民衆に極楽往生の門を開いた法然。悪人女人救済の仏道を説いた親鸞。踊り念仏・遊行を勧めた一遍。念仏を唱えれば阿弥陀浄土に往生すると布教する浄土仏教、真実は何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2023年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。1173年、親鸞は京都に生まれ、9歳で出家して比叡山で修行に励みますが、29歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこですべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗させられ越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。1262年没す。その90年の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。京都国立博物館
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「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)
「親鸞、唯円『歎異抄』の思想を通じて近代の知識人は、宗教を考えてきた。西田幾多郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、遠藤周作、五木寛之、吉本隆明、梅原猛、子安宣邦。「人は、生まれながら罪を背負っているという「原罪」の思想が浸透している。」釈徹宗
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蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
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親鸞の思想
1、他力本願
阿弥陀仏がすべての人を救う。自らの力でさとりをひらくことができないものが歩む仏道。阿弥陀仏がすべての人を救う願いの力。『仏説無量寿経』浄土に往生するためには信心と念仏が必要。と親鸞は説いた。
2、悪人正機
悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。自力本願できない、自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀如来の救いはある。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」『歎異抄』第三条。

3、往生浄土と南無阿弥陀仏
往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれること。浄土仏教において、仏の世界に往き生まれること。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を敬いよりどころとする称名念仏。
4、法然の教え 親鸞の師「専修念仏」『選択本願念仏集』
長承2(1133)年4月7日 美作-建暦2(1212) 年1月25日 京都、没。79歳。
法然(1133-1212)浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (大原問答 ) 。建永2 (1207) 年、帰依する者がふえると既成仏教教団の反感をまねき、念仏は禁止。諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。80歳。
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展示作品の一部
国宝 三十六人家集 西本願寺 12世紀
国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 奈良国立博物館(3月25日~4月2日展示)
刺繡阿弥陀如来像 室町時代(15世紀)福井 誠照寺(3月25日~4月23日展示)
国宝 観無量寿経註 親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月30日展示〈巻替あり〉)
重要文化財 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻 本(詞書)覚如筆 (絵)康楽寺円寂筆 南北朝時代 康永2年(1343)京都 東本願寺(5月2日~5月21日展示)
重要文化財 歎異抄 巻下 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月9日展示)
重要文化財 善鸞義絶状(部分)顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺
覚信尼絵像 室町~桃山時代(16世紀)新潟 福因寺
重要文化財 顕智坐像 鎌倉時代 延慶3年(1310)栃木 専修寺
重要文化財「恵信尼書状類」のうち(第3通)(部分) 恵信尼筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(5月2日~5月21日展示)
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参考文献
釈徹宗『仏にわが身をゆだねよ』NHK出版
釈徹宗、佐々木隆晃「『歎異抄』に出会う」2023
梅原猛『地獄の思想』
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・西方浄土、阿弥陀如来の本願、『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
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親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝、京都国立博物館、3月25日(土)~5月21日(日)

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2023年3月19日 (日)

特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第318回
東福寺に桜満開の森と方丈の重森三玲作の八相の庭(1939)を訪れたのは、2011年春、仁和寺に滞在した時である。
【寺院の奥に秘蔵された非公開の秘宝】東福寺の桜の森と八相の枯山水を見た時、その存在も知らなかった。吉山明兆筆「五百羅漢図」南北朝時代・至徳3年(1386)、吉山明兆筆「白衣観音図」、「三十三観音図」、吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、「寒山拾得図」。門外不出の秘宝が展示されている。
空海、明恵、最澄と比べると、円爾、無準師範、虎関師錬、禅宗祖師の個性は不明である。東福寺は、臨済宗東福寺派、建仁寺派、大徳寺派と同じく、中国仏教であり、中国仏教の本質は道教である。道教の教えの本質は、道、無為自然、玄徳、柔弱謙下、大道廃れて仁義あり、上善は水のごとし。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性証成仏」仏の真理は言葉によらず体験によって心に直接に悟られ、経典の教えのほかに以心伝心で伝えられ、坐禅によって自己の心を直接とらえ、心の本性を見ることが真理と一体となり仏となることである。(栄西『興禅護国論』)
延暦寺、興福寺、等、巨大寺院は、内部の不正、暴力事件を隠蔽、封印した。延暦寺は、僧兵が狂暴化、白河法皇は天下三不如意に激怒、足利義教は延暦寺を2度包囲4人の僧の首を刎ね僧自ら焼き討ち、細川政元は延暦寺焼き討ち、抗争を繰り広げた【閉鎖社会、無能な管理職に報復するにはどのような方法があるか】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【無能な管理職に復讐する方法】無能が支配する管理社会。なぜ日本組織は未だに大日本帝国、上意下達、忖度官僚だらけ。カネで魂を売る大衆は烏合の衆【織田信長、正親町天皇による勅命講和】1570生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、秀吉、家康、光秀、結集
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
戦国時代、織田信長は、妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えを受け、他化自在天、麒麟、五徳、天下布武、天正、清静は天下を正と為す。儒教、道教、仏教の理念を学んだ。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、比叡山焼き討ち、元亀2年9月12日(1571年9月30日)朝倉義景・浅井長政との戦い。当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕。『信長公記』「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」。『信長公記』、ルイス・フロイス書簡、『言継卿記』。
【織田信長、正親町天皇、勅命講和】信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現。元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)足利義昭との戦い、天正8年(1580年)石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命による
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
島薗進×大久保正雄『死生学 ファンタジーと魂の物語』
今谷明 『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』1992年
特別展、東福寺・・・円爾、九条道家、吉山明兆、無準師範
https://bit.ly/3JmEdye
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展示作品の一部
国宝 無準師範像、自賛 中国 南宋時代・嘉熙2年(1238)、京都・東福寺蔵
重要文化財「癡兀大慧像」鎌倉時代・正安3年(1301)京都・願成寺蔵
癡兀大慧(ちこつだいえ、1229~1312)は、もと天台僧。円爾に法論を挑んだが、その徳に圧倒されて弟子となった。本像は73歳の折の肖像画で、目も見開きにらむ顔が迫力満点である。中世の肖像表現の白眉であり、畏怖にみちた禅風をしのばせる。
重要文化財「五百羅漢図」吉山明兆筆 南北朝時代・至徳3年(1386)京都・東福寺蔵
水墨と極彩色とが見事に調和した、若き明兆の代表作。1幅に10人の羅漢を表わし50幅本として描かれた作で、東福寺に45幅、東京・根津美術館に2幅が現存する。東福寺の伽藍再興運動のなか、至徳3年(1386)に完成したことが記録により判明する基準作としてもきわめて貴重である。14年に渡る修理事業後、本展で初めて全幅が公開される。
南宋禅宗界きっての高僧で、円爾の参禅の師である無準師範の肖像。無準が自ら賛を書いて円爾へと付与した作で、中国から日本へと禅の法脈が受け継がれたことを象徴する。迫真的な面貌表現は南宋肖像画の高い水準を示す。
重要文化財「白衣観音図」吉山明兆筆 室町時代・15世紀 京都・東福寺蔵
明兆は巨幅や連幅を数多く描いたが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。もとは法堂の壁面に貼られていたとも考えられる作で、筆勢あふれるダイナミックな描写には明兆の非凡な画力が遺憾なく発揮されている。
高さは326.1センチメートル。
国宝 太平御覧、李昉(りぼう)等編 中国 南宋時代・12~13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財「東福寺伽藍図」了庵桂悟賛 室町時代・永正2年(1505) 京都・東福寺蔵
国宝 禅院額字幷牌字、張即之筆 中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵
重要文化財 迦葉・阿難立像、鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵
「寒山拾得図」吉山明兆筆、室町時代15世紀
吉山明兆筆「仏涅槃図」室町時代1408、展示なし。
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特別展「東福寺」
第1章 東福寺の創建と円爾
嘉禎元年(1235)、円爾(1202~80)は海を渡り、南宋禅宗界の重鎮である無準師範(1177~1249)に師事します。帰国後は博多に承天寺(じょうてんじ)を建立。その後九条道家の知遇を得て京都に巨刹、東福寺を開きました。以来、寺は災厄に耐えて古文書や書跡、典籍、肖像画など無準や円爾ゆかりの数多の宝物を守り継いできました。それらは13世紀の東アジアの禅宗と日中交流の実情を窺わせる、質量ともに類をみない文物群で、今日、東福寺を中世禅宗文化最大の殿堂たらしめています。
第2章 聖一派の形成と展開
円爾の法を伝える後継者たちを聖一派(しょういちは)と呼びます。円爾は禅のみならず天台密教にも精通し、初期の聖一派の僧たちも密教をよく学んでいました。また彼らはしばしば中国に渡り、大陸の禅風や膨大な知識、文物を持ち帰りました。東福寺周辺には彼らの書や、面影を伝える肖像画や彫刻、袈裟などの所用品が多数現存し、いずれも禅宗美術の優品ぞろいです。聖一派は国際性豊かで好学の気風が強く、名僧を多く輩出し、禅宗界で重きをなしました。
第3章 伝説の絵仏師・明兆
吉山明兆(きっさんみんちょう、1352~1431)は、東福寺を拠点に活躍した絵仏師です。 江戸時代までは雪舟とも並び称されるほどに高名な画人でした。寺内で仏殿の荘厳などを行う殿司(でんす)職を務めたことから、「兆殿司(ちょうでんす)」とも通称されます。中国将来の仏画作品に学びながらも、冴えわたる水墨の技と鮮やかな極彩色とにより平明な画風を築き上げ、巨大な伽藍にふさわしい巨幅や連幅を数多く手掛けました。 本章では、東福寺および塔頭に伝蔵される明兆の代表作をご覧いただきます。
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特別展「東福寺」東京国立博物館、3月7日(火)~5月7日(日)
京都国立博物館 平成知新館、2023年10月7日(土)~12月3日(日)

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2022年3月 3日 (木)

「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』273回

亡き人を想う、生死の境
空也は、伝染病の流行で亡くなった人を想い、念仏を唱え、浄土教を流布、天禄3(972)年、70歳で死す。六波羅蜜寺は、六道の辻にある。六道珍皇寺の井戸を通って小野篁(802~52)は冥界と往還を果たした。
六波羅蜜は、仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳 (般若波羅蜜) を目指す。

三百年後、慶派仏師、康勝は亡くなった空也を想い、空也の像を刻んだ。
平家一族滅亡後、慶派は僧形平清盛像を製作した。運慶の長男、湛慶は、運慶像を刻んだ。
この時代、新古今歌人は、生と死の境を歌った。藤原定家は、亡き母の歌を沢山詠んだ。定家の父、俊成に教えを受けた西行は「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌い、涅槃会に亡くなった。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藤原定家、亡き母を歌う】
玉ゆらの露もなみだもとどまらず なき人恋ふる宿の秋風、藤原定家(『新古今和歌集』哀傷・七八八)
亡き母が住まっていたこの家。今はもう会えないと思うと涙が止まらない。この家に吹く秋風よ、せめて一目逢いたい。
藤原定家(1162-1241)は、母美福門院加賀が亡くなった(建久四年1193年2月13日)時のことを詠む。亡き母の歌を沢山詠んだ。「百首歌」(1200年、後鳥羽院主催)で献上した歌。
梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏(のきも)る月の影ぞあらそふ『新古今和歌集』巻第一・春歌上、四十四
軒近く咲く梅の花が匂いを移し、懐旧の涙で濡れている袖の上に、荒れた軒を漏れる月の光が、梅の匂いと争うように映る。
「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」『明月記』。19歳の藤原定家(1162-1241)の藝術至上主義宣言だが、政治的混乱に書き込まれていく。建久7年の政変、藤原定家の好敵手、後鳥羽上皇は、北条義時に承久の乱を起こす。
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
浄土教
阿弥陀如来が教主となり、その仏国土「極楽浄土」を説く経典が現れた。『無量寿経』と『阿弥陀経』『観無量寿経』。東晋の仏駄跋陀羅、覚賢、と南朝の宋の宝雲が421年に共訳した(藤田宏達)。
六道の辻

衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は、六道へ通じる道。六道珍皇寺の井戸ゆかりの小野篁(802~52)が冥界と往還を果たしたという伝説から、六道の辻と称された。この地西福寺は、空海(774~835)が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自作の土仏地蔵尊を祀ったという伝説がある。
六波羅蜜寺とゆかりの人々、平清盛(1118~1181)は六波羅に一族の屋敷を建てた。
運慶一族と六波羅蜜寺
運慶(生年不詳⁻貞応2年12月11日(1224年1月3日)は、なぜ、地蔵菩薩坐像、など六波羅蜜寺の仏像を製作したのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山に上り、天台座主延昌(880-964)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏をしたので、後世、一遍と時衆の踊念仏も空也を祖とする。浄土往生の念仏を勧める。賀茂川の東に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄3(972)年9月11日入滅。享年70歳。[五来重 2017年6月20日]
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平清盛、六波羅
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。【後白河上皇、天下一の大天狗】
【源平争乱、壇ノ浦の戦い】1180年から1185年に平氏が壇の浦で滅亡するまでの源氏平氏の争い、治承・寿永の乱。寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱の終局、壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺。範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に出る。
【承久の乱1221後鳥羽上皇、北条義時】後鳥羽上皇、北条義時に反乱。1219源実朝、公暁による暗殺、将軍後継者争い勃発。後鳥羽上皇、地頭任命権を返還要求。義時、後鳥羽上皇に抵抗。三浦義村、義時につく。【御家人制、御恩奉公。地頭の権利】北条政子「頼朝の恩は、山よりも高く、海よりも深い」
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展示作品の一部
重要文化財 空也上人立像、康勝作 鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 四天王立像のうち持国天立像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 伝平清盛坐像、鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 地蔵菩薩立像、定朝作、平安時代・11世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 閻魔王坐像、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 運慶坐像、湛慶作、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
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参考文献
「国宝 聖林寺十一面観音」#東京国立博物館
https://bit.ly/3d1h6Kh 
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
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2022年は空也上人没後1050年に当たります。空也上人が十一面観音立像を本尊として京都東山の地に創建した六波羅蜜寺(創建時は西光寺と称した)には、現存最古となる上人の像が伝えられています。念仏を唱え歩いた姿を目の当たりにするような写実的な像は、仏師運慶の息子である康勝がつくりました。同寺は運慶一門にゆかりの深い寺でもあり、運慶作の地蔵菩薩坐像などが残されています。
本展覧会では、東京では半世紀ぶりの公開となる空也上人立像をはじめ、六波羅蜜寺の創建時につくられた四天王立像、定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像など、平安から鎌倉時代の彫刻の名品が一堂に集います。
六波羅蜜寺の創建は、今からおよそ1000年前の平安時代半ばにさかのぼります。 天暦5年(951)、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人は、疫病がおさまり世の中が穏やかになるように祈り十一面観音菩薩立像を造像し、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。
本章では、市井の人々から絶大な信仰を得た空也上人の足跡をたどりながら、六波羅蜜寺創建時の像をご覧いただき、人々に親しまれてきた六波羅蜜寺の歴史をたどります。
■空也上人 平安時代中期の僧侶。
南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生を願う阿弥陀信仰をいちはやく広めた。山林で修行をしながら各地を遍歴し、橋梁や道路等の整備や行倒れた人を弔うなど社会事業を行い、庶民から有力者まで幅広い信仰を集めた。10世紀半ばには、京都東山の地に十一面観音像を本尊とした六波羅蜜寺の前身となる西光寺を開き、天禄3年(972)、70歳にてその生涯を閉じた。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129
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特別展「空也上人と六波羅蜜寺」東京国立博物館、本館特別5室(上野公園)、3月1日~5月8日

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2021年12月19日 (日)

「聖徳太子 日出づる処の天子」・・・四天王寺『聖徳太子絵伝』、聖徳太子伝説の虚構

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』263回

聖徳太子は、思想家か、指揮官か、番人か、官僚か、探検隊か、聖人か、権力者であるか。河内国渋川郡の物部守屋の館襲撃、斑鳩宮にて山背大兄王殺害、飛鳥板葺宮にて蘇我入鹿殺害、近江朝大友皇子を美濃国不破関にて破る。乱の歴史が蘇る。崇仏論争の本質は、権力抗争、王位継承争いである。
【丁未の乱から壬申の乱】丁未の乱、乙巳の変、山背大兄王一族殺害、壬申の乱、殺人が権力の源泉である。仏教は権力の神聖化の手段として利用された。暴力を仏教で神聖化し糊塗した。天皇制の本質は、殺人暴力と階級社会である。聖徳太子は権力者であり、最澄は官度僧、官僚である。空海は沙門、私度僧、思想家であり、指揮官である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【思考と言葉と運命】心は思考となり、思考は言葉となり、言葉は思想となり、思想は行動となり、行動は習慣となり、習慣は性格となり、性格は運命となる。人生の目的は、人格を磨くことである。

【ルネサンス復讐悲劇】復讐悲劇の先駆、ストア派哲学者セネカ『テュエステス』が起源である。復讐悲劇を定義。1、人に知られない殺人、通常、悪人が善人の統治者を殺す。2、犠牲者の亡霊が若い親類、主に息子のところに訪れる。3、殺人者と復讐者が互いに対し偽装と策略。4、復讐者または支援者が本当のあるいは偽りの狂気に陥る。5、最後にバイオレンスの爆発。ルネサンス期は嘘の仮面劇や祭で起こる。6、復讐者を含め登場人物の多くが死ぬカタストロフ。
【人生は舞台。人はみな大根役者】慢心は人間最大の敵だ。運命をはねつけ、死を嘲り、野望のみを抱き、知恵も恩恵も恐怖も忘れてしまう。シェイクスピア『マクベス』
人生は舞台。人はみな大根役者。消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ。人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。『マクベス』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『聖徳太子絵伝』四天王寺】母妃、夢に黄金の僧を見て懐妊。母妃、厩前で産気に気づき太子を出産する。2歳太子、東に向かって合掌し「南無仏」と唱える。11歳子供たちと遊び、超人的能力を発揮する。12歳、百済より帰国した高僧・日羅が大使を救世観音と見抜き、礼拝する。16歳、蘇我馬子、物部守屋と戦い蘇我軍として参戦、四天王像を彫って戦勝を祈願する。16歳、蘇我軍を大勝に導く。19歳、天皇の前で戴冠し、群臣が称賛する。22歳、四天王寺創建する。27歳、甲斐の国から太子の愛馬となる黒駒を献上される。27歳、黒駒に乗り富士山に登る。34歳、仏師鞍作登利に仏像を作らせる。35歳、推古天皇の求めに応じて『勝鬘満経』を講義すると蓮華が降る。36歳、太子は遣隋使として派遣される小野妹子に前世で所持していた経典を持ち帰るように命じる。37歳、妹子が持ち帰った経典は違うものだった、太子は夢殿に籠り瞑想する。37歳、夢殿から魂を青龍車に乗せ自ら隋の衡山へ経典を取りに行く。40歳、狩猟を楽しむ推古天皇に殺生を戒める。41歳、百済の未摩子が伎楽を伝える。48歳、人形が献上され禍の前兆と考えられる。49歳、天に赤気が現れ百済僧が太子の一族・上宮王家滅亡を予言する。50歳、太子薨去する。薨去の年、河内の磯長廟へ葬送される。『聖徳太子絵伝』には66のエピソードが描かれている。
【聖徳太子伝説】『日本書紀』
養老4年(720)に成立した『日本書紀』によれば「母が宮中の厩の戸にあたった時に安産で生まれた。生まれながら言葉を話すことができ、聖人の智を持っていた。耳がよく、成人後は十人の訴えを聞き分けた。未来のことを予言できた。父の用明天皇に寵愛され、幼少期は特別に上宮とよばれる宮殿に住まわされた。」
『日本書紀』よりも8年前に成った『古事記』には超人伝説はみられない。
【聖徳太子の正式な名前、上宮厩戸豊聡耳太子】
「上宮」とは、太子が壮年以降に営んだ斑鳩宮であり、これが太子のむすこの山背大兄王に相続された後に上宮とよばれるようになった。斑鳩宮は実際には太子の父・用明の没後に造営された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
重要文化財『聖徳太子絵伝』 第1幅~6幅、遠江法橋筆 鎌倉時代、元亨3年(1323)大阪・四天王寺
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参考文献
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
理念を探求する精神、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義は、なぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW

「聖徳太子 日出づる処の天子」・・・四天王寺『聖徳太子絵伝』、聖徳太子伝説
https://bit.ly/3sit9Lv
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令和4年(2022)、聖徳太子(574~622)が没して1400年を迎えます。聖徳太子ゆかりの寺院では、聖霊会をはじめ太子の偉業を偲ぶ大規模な法会が催されます。このような100年に一度の節目にあわせて、太子の生涯をたどり、没後の太子信仰の広がりを紹介する展覧会です。
用明天皇の皇子として生まれた聖徳太子は、推古天皇の摂政として十七条憲法の制定や遣隋使の派遣など国家体制の確立に大きく貢献したことで知られます。さらに、大阪・四天王寺や奈良・法隆寺の創建に代表されるように仏教を篤く信奉し、現在まで続く日本仏教の礎を築きました。
現在でも、その名を知らない人がいない聖徳太子ですが、最澄や親鸞をはじめとする日本仏教諸宗の名だたる開祖・祖師は、なぜ太子を篤く尊んだのでしょうか。太子ゆかりの寺院は、なぜ1400年もの長きにわたり参詣が絶えないのでしょうか。
本展覧会では、こうした聖徳太子にまつわる問いを解くべく、太子信仰の中核を担ってきた大阪・四天王寺の所蔵品を中心に、太子にかかわる美術の全貌を紹介します。
千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」サントリー美術館
【「聖徳太子絵伝」で読み解く太子の生涯】
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2021_4/index.html
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サントリー美術館 開館60周年記念展「千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子」、サントリー美術館、2121年11月17日~2022年1月10日

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2021年8月18日 (水)

聖徳太子と法隆寺・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第251回

仏陀入滅から1000年、6世紀、仏教は日本に到達した。仏像彫刻、寺院は、建設されたが、仏陀の思想と学問、生きかたは、この国において学ばれたのか。
仏陀入滅から1000年
522年、来朝した梁の司馬達等(止利仏師の祖父)が仏教伝来。百済の聖明王(聖王)は中国南朝梁の武帝から冊封され仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うために、欽明天皇に公伝。
【仏教1000年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀頃)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)、北魏の孝文帝、皇帝菩薩と称された梁の武帝、北魏様式南梁様式(6世紀)、隋帝国(581~618)、飛鳥(7世紀)、唐帝国(618-907)、玄奘三蔵(7世紀)、敦煌莫高窟、白鳳美術(7世紀)、天平美術(8世紀)、不空(705-774)、恵果(746-805)、空海(774-835)、密教美術(9世紀)
【仏教公伝】7世紀、聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【密教への旅】『華厳経』4世紀頃中央アジアで成立、漢訳は東晋の仏駄跋陀羅訳の60巻本、唐の実叉難陀訳の80巻本、唐の般若訳の40巻本の3種。7世紀『大日経』『金剛頂経』『理趣経』(不空が763年から771年にかけて訳した訳本)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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殺戮の飛鳥、厩戸皇子の謎、法隆寺の謎
蘇我馬子は物部守屋一族を滅亡させ、崇峻天皇暗殺、推古天皇を即位、厩戸皇子を摂政とした。蘇我馬子は厩戸皇子とともに『天皇記』『国記』を編纂。蘇我馬子の画いたシナリオによって生きた厩戸皇子。中大兄皇子と中臣鎌足を動かした皇極天皇と軽皇子、姉弟。中大兄皇子と中臣鎌足の使嗾によって蘇我入鹿により滅亡させられた山背大兄王一族。蘇我入鹿により炎上した斑鳩宮。天智天皇時代に炎上した斑鳩寺。天武天皇の后、持統天皇によって再建された法隆寺。聖武天皇、光明子、阿倍内親王によって建築された夢殿。
【厩戸皇子の謎】王位継承権をもつ王家。49歳で死去。死因は諸説紛々。聖徳太子は、物部守屋一族襲撃に参加し、推古1年、四天王寺創建。物部氏一族を四天王寺の奴婢とした。聖徳太子の子、山背大兄王一族は、中大兄皇子と中臣鎌足に使嗾された蘇我入鹿によって襲撃され滅亡。斑鳩宮炎上、斑鳩寺にて自刃。
【法隆寺の謎】厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺は炎上、飛鳥時代の伽藍は一つも残存せず。夢殿は、天平時代の伽藍。聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王が関与。法隆寺、西院伽藍は、世界最古の木造建築と言われるが、持統天皇時代に建立、正確な建築年代不明。鞍作登利様式の飛鳥時代彫刻はどこにあったか謎である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【四天王寺創建、推古天皇、1年】【四天王、仏法を守護する王】四天王を支配するのはインドラ。須彌山の中腹にある四王天の主で、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天または毘沙門天のそれぞれを主宰する王の総称。八部衆を支配して帝釈天に仕え、仏法と仏法に帰依する人々を守護する。
【法隆寺、東院伽藍】上宮王院といい、八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿【山背大兄王一族滅亡643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮】跡に【739年(天平11)僧行信により造営】され、北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。西院伽藍の東方に隣接する。
【夢殿、夢違観音】法隆寺の大宝蔵殿に安置されている聖観音菩薩立像。国宝。銅製鍍金で像高 87.3cm。頭部の三面宝冠と台座は別鋳で本体は一鋳になり,内部は空洞。像名の「夢違」は,江戸時代に書かれた『古今一陽集』に、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来し、一般に親しまれている。白鳳時代の代表作の一つ。なお台座は江戸時代の後補。
【金堂、薬師如来】推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
【阿弥陀三尊像、橘夫人念持仏と伝える】光明子の母、橘三千代=県犬養三千代は阿弥陀如来を信仰。唐代のより完成した様式への接近を窺わせる。飛鳥初期ではない。白鳳時代。
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
当館と法隆寺ではこれを記念して、特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」を開催します。 2004年3月2日(火)~4月11日(日)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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美術史の謎
1,飛鳥美術

【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
――
【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
――
2,白鳳美術
【白鳳時代】奈良時代にこの時代を白鳳・朱雀と呼んだのに基づく。白鳳は白雉(650年-654年)、朱雀は朱鳥(686年)という年号の美称。壬申の乱(672年)を境に2期に区分できる。後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてのインドの影響も現れる。「薬師寺金堂の薬師三尊像、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩」の豊満な彫刻、焼失した「法隆寺壁画」「夢違い観音」「阿弥陀三尊像」「山田寺仏頭」。
飛鳥時代と天平時代とにはさまれる、大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都まで。前期には飛鳥時代の様式も残しているが、中国北斉・北周の影響が見られ、後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてインド(アジャンタ)の影響がある。
――
3,天平美術
【天平美術】不空羂索観音像、日光菩薩、月光菩薩、執金剛神像、釈迦十大弟子像、八部衆像734年、阿修羅像(734年)、鳥毛立女屏風 樹下美人図。
【東大寺】毘盧遮那仏、平重衡による南都焼討(再興は重源、陳和卿)、松永・三好の兵火(再興は公慶)で二度焼失。天平時代のオリジナル部分が残っているのは、台座の三千蓮華像世界。
――
参考文献
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
「運慶」 東京国立博物館・・・魂の深淵
https://bit.ly/2XPANQi
――

東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
――
「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

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2021年8月12日 (木)

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第250回

法隆寺と厩戸皇子は、謎に満ちている。厩戸皇子は、何を理想とし、何を苦悩し、何を成し遂げたのか。
【法隆寺の謎】斑鳩宮と斑鳩寺は、なぜ焼失したのか。斑鳩寺は、なぜ、法隆寺として再建されたのか。斑鳩宮は、なぜ、夢殿として再建されたのか。
厩戸皇子の子、山背大兄王一族は、なぜ襲撃され、斑鳩寺で自刃し一族滅亡したのか。山背大兄王を襲撃した真犯人はだれか。
根本的な謎が蘇る。厩戸皇子は49歳で死ぬ。前年、生母、穴穂部間人皇女が死す。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人死す。疫病といわれるが、死因は何か。
厩戸皇子は、いつから、聖徳太子、となったのか。斑鳩寺の焼失後、釈迦三尊像、救世観音、薬師如来坐像、鞍作登利様式の仏像は、どこに保存されたのか。
――
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1,
厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。
飛鳥時代は、知性のない殺戮の時代。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡【厩戸皇子】厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。「和を以て貴しとなす、厚く三宝を敬え仏法僧」十七条憲法、法華義疏。推古天皇元年(593)四天王寺創建。【丁未の乱】蘇我馬子の物部守屋一族滅亡、祝勝の寺。斑鳩寺創建。
【蘇我馬子の権力闘争と厩戸皇子=聖徳太子は一体化】王位継承問題、相続問題。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡

2,
【斑鳩宮、斑鳩寺の謎】なぜ、消失したのか。
厩戸皇子(聖徳太子)が建てた、斑鳩宮(601)、斑鳩寺(607)は、なぜ、僅か42-63年で消失したのか。皇極時代、天智時代、炎上した。

【法隆寺の謎】2度、炎上。皇極時代、天智時代、
【斑鳩寺】厩戸皇子、推古天皇15年(607年)、斑鳩寺創建。推古天皇30年(622年)、厩戸皇子、49歳で死去。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、聖徳太子の子山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩寺にて自刃。襲撃の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画。【乙巳の変】中大兄と中臣、蘇我入鹿、殺害。山背大兄王襲撃と一体のクーデタ。
【斑鳩宮】『日本書紀』によれば、聖徳太子=厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、炎上。
夢殿、天平11年、行信によって再建。
――
【中大兄皇子と中臣鎌足によって粛清、殺された人々】蘇我入鹿。山背大兄王自刃。【天武天皇によって粛清、殺された人々】中大兄皇子、皇極天皇の子。皇極天皇は、女帝であり、その子は王位継承できない。
――
3,
【法隆寺の謎。なぜ、再建されたのか】
【斑鳩寺と斑鳩宮、炎上の原因】1,斑鳩宮炎上、山背大兄王自刃一族滅亡(643年)の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画、皇極天皇の子が、天智・天武。2,斑鳩寺、炎上は、天智時代(670)。
【斑鳩寺】厩戸皇子、607(推古15)年、斑鳩寺を創建。605年、推古天皇、太子に「丈六仏像 銅像と塑像」作らせる詔。606年、銅像を飛鳥寺に納める。621(推古29)聖徳太子、薨去。622(推古30)推古天皇、「金堂釈迦三尊像」完成。若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』

【法隆寺、再建したのはだれか】
【法隆寺】法隆寺金堂、天智9年(670)の火災後に建立された、現存の西院伽藍、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成。

【斑鳩宮、再建したのはだれか】
【斑鳩宮】厩戸皇子、601年(推古9)斑鳩宮を創建。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。斑鳩宮、炎上。
【救世観音像】『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙)に奏聞し、天平十一年(739) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂(夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
――
4,
【厩戸皇子、聖徳太子の謎】厩戸皇子は、いつから、聖徳太子と呼ばれたのか。聖徳太子の意味は何か。斑鳩寺、607年、創建。いつから、法隆寺と呼ばれたのか。釈迦三尊像光背銘、法華義疏。「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」(623年)
――
【厩戸皇子『十七条憲法』】推古天皇12年(604年)厩戸皇子(聖徳太子)31歳の時、作った。
「以和爲貴。無忤爲宗」。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、聖徳太子49歳で死亡、山背大兄王自刃。殺人と疫病の飛鳥時代、以和爲貴(和をもって貴しと爲し)とは、ありえない夢。
以和為貴。無忤為宗。
第一条、「和をもって貴しと爲し、忤(さから)うること無きを宗と爲せ」
二に曰く、篤く三寶を敬へ、三寶とは佛と法と僧となり
日本の名著I「日本書紀」』責任編集・井上光貞。
――
5、聖徳太子と蘇我馬子
【蘇我馬子】穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇を暗殺。女帝推古天皇を擁立、聖徳太子を摂政とする。聖徳太子は、49歳で死ぬ。推古女帝は、推古36年、統治74歳。蘇我馬子は、73歳で天寿を全うする。

【蘇我馬子、飛鳥寺】武略と弁才を有し、三宝を恭敬した。法興寺(飛鳥寺)の造営に着手。推古1 (593) 年に塔に仏舎利が奉安。本尊は606年(推古天皇14)止利仏師作、丈六の金銅釈迦如来像。桃原墓に埋葬、明日香村石舞台古墳に比定される。子は蝦夷。孫、入鹿。
――
★★★★★
仏教美術史の謎 飛鳥、白鳳、天平
【仏教美術史】飛鳥(北魏、南梁様式)、白鳳、天平、弘仁貞観、平安後期、鎌倉時代。
推古天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王、孝謙女帝、嵯峨天皇。仏教美術は、古代王家の文化として展開。日本美術史で、最も美しい仏教彫刻は何か。
1、
【法隆寺、仏像の謎】斑鳩寺の仏像、飛鳥時代の仏像は、斑鳩寺炎上とともに保管する場所を失った。どこに所蔵されていたのか。
【飛鳥美術、北魏様式、南梁様式】飛鳥美術は、北魏様式、南梁様式。法隆寺、鞍作止利は、北魏様式。板耳、杏仁形の目の表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座、鰭のような裳裾、男性的な容姿。623年、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像。南梁様式は、中宮寺、広隆寺、半跏思惟像。
――
2.
【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
――
【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
――
【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
――
【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
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★参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

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2021年7月25日 (日)

聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第249回

灼熱の夏、深緑の森を歩いて、博物館に行く。蝉時雨に古の都を思い出す。
斑鳩宮、斑鳩寺、飛鳥、白鳳、法隆寺の謎の暗闇に、幻惑される。法隆寺の暗闇には何があるのか。
法隆寺の暗闇の空間は、推古、天智、天武、持統、聖武、光明子、阿倍内親王の世界につながる、王位継承争い。法隆寺の謎は、深い闇である。
【厩戸皇子、何を夢み何に苦悩したのか】
厩戸皇子はなぜ「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言ったのか。厩戸皇子は、何を理想とし何に苦悩したのか。「法華義疏」を見ると微細な文字で書かれ、訂正と消字と貼り紙が施されている。神経質な性格が感じられる。606年に皇子が推古天皇に講義した草稿であるとされる。「花あれば必ず実あり。善あれば必ず成仏することを表せんと欲す」「法華義疏」
【血に塗れた飛鳥時代、厩戸皇子】
587年、馬子と厩戸皇子は、守屋を襲撃、物部氏一族滅亡。622年、厩戸王子、49歳で死す。生母、穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が死去、三人が死ぬ。死因は疫病か暗殺か。643年、入鹿、斑鳩宮を襲撃、聖徳太子の子、山背大兄王自刃、一族滅亡。計画したのは皇極と軽皇子。645年、中大兄皇子と中臣鎌足、入鹿を襲う、蘇我氏一族滅亡【乙巳の変】。649年、右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、斬首。658年、有間皇子、絞首刑。中大兄皇子と鎌足が関与。

【天智系と天武系の死闘】672年、大海人皇子、大友皇子を襲撃、大友皇子、自刃【壬申の乱】。672年(天武1年)天武天皇、飛鳥板葺宮で即位。686 年(朱鳥2)、器量才幹が抜群な大津皇子、謀反自害。689年、草壁皇子急逝。690年、持統、即位。持統は天武を神格化。
【謎の生涯、聖徳太子、厩戸皇子】754年誕生。585年、12歳の時、父、用明天皇、即位。587年、14歳の時、父、用明天皇、崩御。蘇我馬子、物部守屋を襲撃する、厩戸皇子、蘇我軍に加わり、守屋を殺害。592年19歳の時、崇峻天皇、馬子に暗殺される。593年20歳の時、推古天皇、即位。皇太子、摂政となる。四天王寺、建立。601年、斑鳩宮、造営。607年、小野妹子、第2回遣隋使として派遣。法隆寺を創建。620年馬子とともに『天皇記』『国記』編纂。622年、聖徳太子、斑鳩宮で死す。49歳。
【蘇我馬子、物部守屋を襲撃、物部氏一族滅亡】仏教の受容をめぐって蘇我馬子と物部守屋の戦いが起き、聖徳太子ら加わり、襲撃して物部氏を滅ぼす。

【丁未の乱】587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされた『四天王寺御手印縁起』。
【法隆寺木造四天王立像】日本書紀によれば、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに加わるに際し、聖徳太子が「勝利した暁には四天王寺を建てる」と誓いを立て、593年、戦勝に感謝して建立したとされる。広目天、増長天、持国天、多聞天の順。法隆寺金堂所蔵。
【仏教公伝】聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【王陵の谷、厩戸皇子、聖徳太子、霊墓】聖徳太子は、三経義疏を著。法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立した。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まる。
厩戸皇子の心の声、魂の言葉は僅かである。

「世間虚仮、唯仏是真」(せけんはこけなるも、ただほとけのみこれまことなり) 『天寿国繍帳』、「諸悪莫作、諸善奉行」(もろもろのあしきことをばなせそ。もろもろのよきわざをおこなへ) 『舒明即位前紀』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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斑鳩寺、斑鳩宮、法隆寺、西院伽藍、東院伽藍、夢殿
【仏教公伝】『日本書紀』(720年成立)で、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記される。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされる。
【三経義疏】『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存している。梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文である。
【斑鳩寺、法隆寺】厩戸皇子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)、同年、小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣される。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい転換期。その名が意味する「仏法興隆」を推し進める中心地であった。
【法隆寺最初の伽藍、若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』】再建された現在の西院伽藍。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築、創建以来変化なく伝えられた内陣は、奇跡の空間。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界がある。
【東院伽藍】聖徳太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)、その跡地に建立されたのが東院伽藍、行信が創建した上宮王院。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたって太子の遺品類も集められた。
【山背大兄王一族滅亡、斑鳩宮消失】皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があった。
夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点であった。聖徳太子の遺徳を称える聖霊会、10年に一度行われる大会式等、東院伽藍にまつわる華やかな法要がある。
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇、盧舎那大仏の造立を企図。天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖徳太子信仰の変遷
【平安時代後期12世紀、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰】太子も中心的な信仰の対象となった。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」保安2年(1121)。
【鎌倉時代13世紀、孝養像】角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿が作られる。太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。
【金銅阿弥陀三尊像、光明皇后の母、橘夫人念持仏厨子】法隆寺蔵の厨子、7-8世紀。なかに橘夫人(橘三千代)の念持仏であった金銅阿弥陀三尊像を安置する。厨子、像ともに奈良時代の作。屋蓋の形式は法隆寺金堂内部の天蓋に似、龕身四方の扉と須弥座に描かれた絵は法隆寺金堂壁画の手法に近い。透彫の光背,流麗な浮彫で菩薩を表した後屏(こうへい)、三尊をささえる床に施した精緻な蓮池。
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聖徳太子の謎、だれが聖徳太子と呼んだのか
【厩戸王子、聖徳太子、死の謎】推古30(622)年、厩戸王子、49歳で死す。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。疫病説。暗殺あり。馬子が関与か。
【王陵の谷、古代の道、飛鳥と難波宮を結ぶ、竹内街道、推古天皇陵、聖徳太子の墓】推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道」が置かれた『日本書紀』。推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清という使者を連れてくる。難波津から飛鳥へ。斑鳩寺(法隆寺)は、厩戸皇子。飛鳥寺(法興寺は、蘇我馬子が創建。聖徳太子の墓、南河内郡太子町、叡福寺にある。
【中大兄と中臣鎌足、蘇我氏を滅ぼす。645年、乙巳の変】天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取すること。田村圓澄『仏教伝来と古代日本』。その後、王権神授説(『金光明経』)で天皇支持を明確にした仏教、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教。第45代聖武が大仏造営。
【物欲、名誉欲、地位欲、腐敗した魂に蝕まれた国】持ち物を捨てれば捨てるほど、あなたの魂の表面から所有欲という曇りが消え、その魂は真実の輝きを取り戻す。『ガンディー 魂の言葉』)【動物は食欲と性欲と生存欲だけである。本能で動く。物欲があるのは人間だけである。池田清彦】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★★★展示作品の一部
「法華義疏」飛鳥時代、7世紀。天平19年(747)法隆寺伽藍縁起に、上宮聖徳法王の著とされている。
重要文化財「菩薩立像」飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵、釈迦三尊像の脇侍と同型
国宝「天寿国繡帳」飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と書かれている。正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出している。聖徳太子が亡くなった後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繡によって表されており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品。
国宝 薬師如来坐像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
金堂東の間の本尊。口もとに微笑みを浮かべた神秘的な顔立ち、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。
国宝「阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)」厨子。光明子の母、橘夫人、橘三千代(県犬養三千代)、天平5年(732)に没した。阿弥陀浄土信仰をもっており、光明皇后が母の供養のため法隆寺金堂に奉納した。白鳳時代、7-8世紀。法隆寺蔵
国宝「四天王像」広目天、多聞天、飛鳥時代、7世紀
国宝 行信僧都坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵
夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。
重要文化財 聖徳太子(孝養像)鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵【後期展示:8月11日(水)~9月5日(日)】
角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。
国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子、平安時代・保安2年(1121)、奈良・法隆寺蔵
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参考文献
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
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奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追究し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えることで、後世に続くこの国の文化的な基盤を築き上げました。聖徳太子を敬う人々の心は、その没後に信仰として発展し、今日もなお日本人の間に連綿と受け継がれています。
令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。
本展覧会は1400年という遙かなる時をこえて、今を生きる私たちが聖徳太子に心を寄せることでその理想に思いを馳せ、歩むべき未来について考える絶好の機会となることでしょう。聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)

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