「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」2・・・無著、世親、唯識派の思想、唯識派と中観派の矛盾
【興福寺】710年の平城遷都の際、誕生。藤原不比等(ふじわらのふひと)の追善のために721年に建立される。法相宗、思想は唯識思想の寺院。
参考文献
「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」1・・・弥勒如来、無著、世親、唯識思想の寺院
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「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」2・・・無著、世親、唯識派の思想、唯識派と中観派の矛盾
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第397回
【仏教伝来】西暦538年、飛鳥時代に百済の斉明王より仏教が伝えられた。飛鳥寺、斑鳩寺(法隆寺)、四天王寺、などの寺院が造られ、仏像の制作が始まった。この仏像の微笑みはギリシア彫刻のアルカイックスマイルとされる。飛鳥時代の仏像の顔にギリシア彫刻の影響がある。法隆寺金堂釈迦三尊像。法隆寺救世観音像、遡ること千年。
【仏陀誕生BC463-383】紀元前5世紀、ゴータマ・シッダールタ Gotama Siddhārtha BC463-383年。仏滅後、仏教徒はブッダの遺骨(仏舎利)を仏塔(ストゥーパ)に納め、礼拝した。このストゥーパの装飾(レリーフ)が仏教美術の始まり。
【原始仏教】【根本分裂】仏滅後100年、大衆部と上座部【枝葉分裂】西暦1世紀【部派仏教、精緻な理論の体系化】説一切有部。部派仏教は高踏派。【大乗仏教】部派仏教に対して、大乗(Maha-Yana)仏教が興起。二大潮流、中観派(龍樹)(2c-3c)と唯識派・瑜伽行派(弥勒・無著・世親) (4c-5c)、興起。竹村牧男『空海の哲学』P54-68。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ブッダの死後はブッタの姿を表現することは禁じられていたが、1世紀末になると、現在のパキスタン北西部ペシャーワル周辺のガンダーラでは仏像・菩薩像が造られた。
【ガンダーラ美術】古代の国ガンダーラGandhāraを中心に、東のタキシラ地方、北のスワート地方,西のアフガニスタンの一部をも含む地域で1~5世紀に展開した仏教中心の美術。クシャーナ朝時代に初めて仏陀の姿を表現してその図像を定型化したことは特筆に値する。
インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。ガンダーラではギリシア、ヘレニズム・ローマ文化の影響を受けてインド・ペルシア西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ、3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4~5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【バクトリア王国】紀元前3世紀半ばに古代ギリシア人が国家を建て、この地には古代ギリシア(ヘレニズム文化)が栄えた。この地は東西からインド人、ペルシャ人、ギリシア人多くの民族による文化の交流が行われて。仏像はインド文化を元に古代ギリシア(ヘレニズム文化)の影響を受けている。ギリシア彫刻のような彫りの深い顔立ち、波状の頭髪は束ねられ、体格もよくギリシア風のドレープ(衣文)のある衣服を着ている。
ガンダーラ仏。1~2世紀。高さ約1メートル。東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ レリーフ 東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ 小塔。2~3世紀。平山郁夫シルクロード美術館 東京国立博物館、東洋館。
【クシャーナ朝の美術】王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影 響力の強さは他に類を見ない。
【マトゥラー美術】古都マトゥラーMathurāを中心として,古代、ことにクシャーナ朝時代とグプタ朝時代に最も隆盛であった石彫主体の美術で、インドで最も重要な流派の一つ。【カニシカ王の即位】(144ころ。異説多い)からほぼ1世紀間が第1のピークで、遠くカウシャーンビー,サールナート、サーンチーからもマトゥラー彫刻が出土している。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【クシャーナ朝】クシャン朝ともいい,また貴霜朝。1世紀半ばから3世紀中葉まで,現在のアフガニスタンおよび北インドを中心に栄えた王朝。大月氏支配下のクシャーナKusana族の族長【カドフィセース1世】がバクトリアに興起し,その子【カドフィセース2世】がインドに侵入して王朝の基礎をつくった。次いで2世紀中葉【カニシカ王】が出て大帝国を確立し最盛期を迎えた。その後3世紀後半から衰退し,ササン朝に滅ぼされた。東西交通の要衝を占め,ローマとの交流が盛んで,ガンダーラ美術の形成,大乗仏教の興起など特色ある文化を生んだ。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
参考文献
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
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仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
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『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
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アレクサンドロス大王の東方遠征とヘレニズム文化
【アレクサンドロス大王、東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)】マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、【グラニコス川の戦い(紀元前334年)】にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかり。【紀元前333年、イッソスの戦い】ペルシアの王ダレイオス3世と対峙。ダレイオス3世は10万の大軍を率いて対抗、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めた。ダレイオスは逃亡。ティルスやガザなどが反抗し、この地域を征服、エジプトに進出。エジプトではペルシア支配に対する不満が高まり、無血でエジプトを征服、アレクサンドロスはエジプト人に歓迎され、エジプトのファラオ(王)として即位。西方のシワ・オアシス、エジプト神話の太陽神であるアメン神を祀る神殿で、自らをアメンの子とする神託を受けた。マケドニア軍は、現在のイラク北部へと侵攻。世界遺産アルベラ(エルビール)の近くで、【ガウガメラの戦い(紀元前331年)】ダレイオス3世率いるペルシア帝国の主力軍20~30万と激突。アレクサンドロスは再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世を完全に敗北。ペルシア帝国滅亡。ダレイオス3世は部下に暗殺。アケメネスの中心である、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々と占領。【紀元前329年から紀元前327年まで、バクトリア】バクトリア(現在のアフガニスタン)やソグディアナ(現在のウズベキスタン)を制圧。バクトリアの王女ロクサネと結婚。インドへの遠征を開始。アレクサンドロスはパンジャーブ(現在のパキスタン北東部・インド北西部)へ侵攻、【ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)】パウラヴァ族の王ポロスと戦い、勝利。ポロスの勇敢さを称賛したアレクサンドロスは、彼に領地を与えて統治を任せた。インド遠征の途中、兵士たちが疲労、部下たちが遠征を拒否、アレクサンドロスはガンジス川を渡る計画を断念、スーサへ引き返した。【紀元前323年にスーサ、バビロンに戻る】戻り、マケドニア軍の将校たちが、ペルシア 貴族や王族の女性たちと結婚する「合同結婚式」。遠征(アラビア半島征服)を計画、バビロンにて突然の病に侵され、32歳の若さで亡くなる。ディアドコイ(後継者)戦争、起こり、ヘレニズム文化(BC3ⅽ-AD5ⅽ)広がる。プトレマイオス朝、セレウコス朝、アンティゴノス朝、カッサンドロス朝
参考文献
森谷公俊『アレクサンドロス大王 征服と神話』2007
大久保正雄『地中海紀行』53回アレクサンドロス大王1P45
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
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大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2P52
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
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仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』273回
亡き人を想う、生死の境
空也は、伝染病の流行で亡くなった人を想い、念仏を唱え、浄土教を流布、天禄3(972)年、70歳で死す。六波羅蜜寺は、六道の辻にある。六道珍皇寺の井戸を通って小野篁(802~52)は冥界と往還を果たした。
六波羅蜜は、仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳 (般若波羅蜜) を目指す。
三百年後、慶派仏師、康勝は亡くなった空也を想い、空也の像を刻んだ。
平家一族滅亡後、慶派は僧形平清盛像を製作した。運慶の長男、湛慶は、運慶像を刻んだ。
この時代、新古今歌人は、生と死の境を歌った。藤原定家は、亡き母の歌を沢山詠んだ。定家の父、俊成に教えを受けた西行は「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌い、涅槃会に亡くなった。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藤原定家、亡き母を歌う】
玉ゆらの露もなみだもとどまらず なき人恋ふる宿の秋風、藤原定家(『新古今和歌集』哀傷・七八八)
亡き母が住まっていたこの家。今はもう会えないと思うと涙が止まらない。この家に吹く秋風よ、せめて一目逢いたい。
藤原定家(1162-1241)は、母美福門院加賀が亡くなった(建久四年1193年2月13日)時のことを詠む。亡き母の歌を沢山詠んだ。「百首歌」(1200年、後鳥羽院主催)で献上した歌。
梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏(のきも)る月の影ぞあらそふ『新古今和歌集』巻第一・春歌上、四十四
軒近く咲く梅の花が匂いを移し、懐旧の涙で濡れている袖の上に、荒れた軒を漏れる月の光が、梅の匂いと争うように映る。
「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」『明月記』。19歳の藤原定家(1162-1241)の藝術至上主義宣言だが、政治的混乱に書き込まれていく。建久7年の政変、藤原定家の好敵手、後鳥羽上皇は、北条義時に承久の乱を起こす。
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
浄土教
阿弥陀如来が教主となり、その仏国土「極楽浄土」を説く経典が現れた。『無量寿経』と『阿弥陀経』『観無量寿経』。東晋の仏駄跋陀羅、覚賢、と南朝の宋の宝雲が421年に共訳した(藤田宏達)。
六道の辻
衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は、六道へ通じる道。六道珍皇寺の井戸ゆかりの小野篁(802~52)が冥界と往還を果たしたという伝説から、六道の辻と称された。この地西福寺は、空海(774~835)が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自作の土仏地蔵尊を祀ったという伝説がある。
六波羅蜜寺とゆかりの人々、平清盛(1118~1181)は六波羅に一族の屋敷を建てた。
運慶一族と六波羅蜜寺
運慶(生年不詳⁻貞応2年12月11日(1224年1月3日)は、なぜ、地蔵菩薩坐像、など六波羅蜜寺の仏像を製作したのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山に上り、天台座主延昌(880-964)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏をしたので、後世、一遍と時衆の踊念仏も空也を祖とする。浄土往生の念仏を勧める。賀茂川の東に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄3(972)年9月11日入滅。享年70歳。[五来重 2017年6月20日]
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平清盛、六波羅
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。【後白河上皇、天下一の大天狗】
【源平争乱、壇ノ浦の戦い】1180年から1185年に平氏が壇の浦で滅亡するまでの源氏平氏の争い、治承・寿永の乱。寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱の終局、壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺。範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に出る。
【承久の乱1221後鳥羽上皇、北条義時】後鳥羽上皇、北条義時に反乱。1219源実朝、公暁による暗殺、将軍後継者争い勃発。後鳥羽上皇、地頭任命権を返還要求。義時、後鳥羽上皇に抵抗。三浦義村、義時につく。【御家人制、御恩奉公。地頭の権利】北条政子「頼朝の恩は、山よりも高く、海よりも深い」
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展示作品の一部
重要文化財 空也上人立像、康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 四天王立像のうち持国天立像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 伝平清盛坐像、鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 地蔵菩薩立像、定朝作、平安時代・11世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 閻魔王坐像、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 運慶坐像、湛慶作、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
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参考文献
「国宝 聖林寺十一面観音」#東京国立博物館
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「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
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六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
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「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
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2022年は空也上人没後1050年に当たります。空也上人が十一面観音立像を本尊として京都東山の地に創建した六波羅蜜寺(創建時は西光寺と称した)には、現存最古となる上人の像が伝えられています。念仏を唱え歩いた姿を目の当たりにするような写実的な像は、仏師運慶の息子である康勝がつくりました。同寺は運慶一門にゆかりの深い寺でもあり、運慶作の地蔵菩薩坐像などが残されています。
本展覧会では、東京では半世紀ぶりの公開となる空也上人立像をはじめ、六波羅蜜寺の創建時につくられた四天王立像、定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像など、平安から鎌倉時代の彫刻の名品が一堂に集います。
六波羅蜜寺の創建は、今からおよそ1000年前の平安時代半ばにさかのぼります。 天暦5年(951)、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人は、疫病がおさまり世の中が穏やかになるように祈り十一面観音菩薩立像を造像し、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。
本章では、市井の人々から絶大な信仰を得た空也上人の足跡をたどりながら、六波羅蜜寺創建時の像をご覧いただき、人々に親しまれてきた六波羅蜜寺の歴史をたどります。
■空也上人 平安時代中期の僧侶。
南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生を願う阿弥陀信仰をいちはやく広めた。山林で修行をしながら各地を遍歴し、橋梁や道路等の整備や行倒れた人を弔うなど社会事業を行い、庶民から有力者まで幅広い信仰を集めた。10世紀半ばには、京都東山の地に十一面観音像を本尊とした六波羅蜜寺の前身となる西光寺を開き、天禄3年(972)、70歳にてその生涯を閉じた。
東京国立博物館
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特別展「空也上人と六波羅蜜寺」東京国立博物館、本館特別5室(上野公園)、3月1日~5月8日
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