不変/普遍の造形—中国青銅器名品選・・・饕餮文、鴟鴞文、殷周の謎の文様
https://bit.ly/3HmqojF
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』186回
初夏の森、緑陰の道を歩いて、博物館に行く。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。関羽、張飛、周瑜、諸葛孔明、すべて滅び、司馬炎が建てた西晋に征服される。桃園の誓い、赤壁の戦い、名場面の真実は何か。
虚構の英雄たち、『三国志演義』と『正史三国志』。赤壁の戦いの敗因は「火攻め」ではなく「病気の蔓延」である。「疫病が流行して、官吏士卒の多数が死亡したため撤退した」陳寿『正史三国志』。
【三国時代】三国時代は、220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪った時から、280年、司馬炎が建てた西晋王朝が呉を滅ぼし天下統一するまでである。
魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。魏に対して、蜀と呉は、対立し互いに殲滅し合う。
263年、魏、蜀を滅ぼす。280年、晋、呉を滅ぼす。
三国志の戦乱の世に終止符を打った司馬氏一族。クーデターで曹爽の権力を剥奪し、西晋の礎を築いた司馬懿仲達。 「晋、呉を平らげ、天下太平」磚(煉瓦)西晋時代。
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『三国志演義』
【黄巾の乱】「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」。184年、太平道の教祖張角を指導者とする信者が各地で起こした反乱。【宦官派と反宦官派、清流派知識人の戦い】曹操は、清流派知識人に乱世向きの人材と注目される。「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価される。
【桃園の誓い】桃の花が咲き乱れる庭園で、劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを交わした。生まれた月日は違えど、死ぬ時は同年同月同日を願わん。
【赤壁の戦い】208年、2万の孫権軍は、80万の曹操軍と、赤壁において揚子江を挟んで対峙する。周瑜は火攻めを画策し、老将黄蓋とともに苦肉の計で敵を欺き、連環の計で曹操軍の船団を鎖でつなぎ合わさせる。最後に、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷し、冬の最中に東南の風を吹かせ、投降を装って近づいた黄蓋の一団が一斉に火を放つ。逃げ場のない曹操軍は炎に包まれ、孫権軍の大勝利である。
【天下三分の計】たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は、その評判を聞くと、207年(建安12)に孔明の庵を訪れ、3度目にやっと会見できた。【三顧の礼】にこたえた孔明は、劉備のために〈天下三分の計〉を説き、華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには、江南に割拠する孫権と連合、みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。劉備はこの計略を喜び、孔明を不可欠な人物としてその関係を【水魚の交わり】に喩えた。
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【三国戦史】184年、黄巾の乱。200年、官途の戦い。208年、赤壁の戦い。219年、定軍山の戦い。樊城の戦い。222年、夷陵の戦い。228年、石亭の戦い。234年、五丈原の戦い。諸葛亮、死亡。
『三国志演義』の内容は、三国時代以前から始まる。
1・黄巾の乱 2・桃園の誓い 3・董卓の専横 4・連合軍を結成
5・曹操の台頭 6・官途の戦い 7・孫策の死 8・三顧の礼
9・赤壁の戦い 10・天下三分の計 11・定軍山の戦い 12・関羽の死
13・曹操の死 14・夷陵の戦い 15・諸葛亮の「第一次北伐」 16・孫権の帝位
17・諸葛亮の死 18・蜀の滅亡 19・魏、滅亡。晋へ 魏の晋王・司馬炎(司馬昭の長子)が第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し晋を建国。 20・三国統一 呉の第4代皇帝・孫皓が晋に降伏。呉、滅びる
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美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊があなたを救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
関羽像、明時代、15~16世紀
蝉文冠飾、西晋時代、3世紀
「晋平呉天下太平」碑、西晋時代・280年
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参考文献
井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書
井波律子『故事成句でたどる中国史』岩波新書
『旅する哲学者 美への旅』より
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
――
第1章 曹操・劉備・孫権
魏の基盤をつくった曹操は、父祖伝来の勢力基盤を引き継ぎつつ漢王朝の中枢で実権を握り、動乱の時代に覇をとなえた。蜀の劉備は漢皇室の血統を自認し、漢王朝の復興を掲げた。呉の孫権は海洋ネットワークを駆使して勢力を伸ばす、独自の路線を歩んだ。
第2章 漢王朝の光と影
2世紀末には王朝内部の政争が表面化し、皇帝は求心力を失っていった。黄巾の乱がおこり、漢の都では董卓が横暴のかぎりを尽くすなど、社会全体が混迷を深めていった。
第3章 魏・蜀・呉―三国の鼎立
魏・蜀・呉の鼎立は、後漢時代の末期に形づくられ、境界で争いはとくに熾烈を極めた。220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪うと、蜀の劉備と呉の孫権はこれに反発し、おのおの正統性を主張し相次いで建国を宣言した。
第4章 三国歴訪
魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原をおさえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域に割拠した。
第5章 悲惨な貧しい時代。
後漢時代の末期から三国時代になると、支配者たちは墓づくりに対してこれまでとは異なる路線を歩み出した。豪華さを競うのではなく、質素倹約を貴ぶようになった
エピローグ三国の終焉―天下は誰の手に
三国時代。最後に天下をおさめたのは魏でも蜀でもなければ呉でもなかった。280年、武将として力を強めていった司馬氏一族であり、司馬炎が建てた西晋王朝であった。
特別展「三国志」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1953
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「特別展「三国志」」東京国立博物館、7月9日(火)~9月16日(月・祝)
九州国立博物館、2019年10月1日(火)〜 2020年1月5日(日)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第171回
冬枯れの森を歩いて博物館に行く。東晋の王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり書を書き59歳で死す。*
唐の第二代皇帝・太宗は、博学で文芸に通じ、王羲之の書を愛した。太宗皇帝が愛するあまり墓に埋葬させた書、『蘭亭序』。幻の『蘭亭序』は、今も人の魂を魅惑する。
太宗皇帝に仕えた虞世南、欧陽詢、褚遂良は能書としても活躍した。
顔真卿は、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で官吏登用試験に及第し、4人の皇帝に仕えた官僚。顔真卿筆「祭姪文稿」(758)は、安史の乱の際に、従兄、顔杲卿(がんこうけい)とその末子の顔季明を失った凄惨な思いを綴った書。激情あふれる名筆として著名、情感を発露する書風。
懐素筆「自叙帖」の流麗な恍惚とした速筆は、目くるめく美がある。藤原佐理の流麗な書体は、懐素の影響があるということを初めて知った。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
「書聖 王羲之」・・・苦悩と美意識から生みだされた美しき書
https://bit.ly/2kVbzeA
王羲之「蘭亭序」・・・詩人の宴、唐の太宗皇帝が愛するあまりあの世に持ち去った書
https://bit.ly/2Duczkn
和様の書・・・典麗、優美、華麗、繊細な世界
https://bit.ly/2Mwt7Jj
顔真卿、王羲之を超えた名筆・・・顔真卿「祭姪文稿」と懐素「自叙帖」
https://bit.ly/2DzePor
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展示作品の一部
虞世南筆「孔子廟堂碑-唐拓孤本」、唐時代・貞観2~4年(628~630)三井記念美術館蔵
欧陽詢筆「九成宮醴泉銘」、唐時代・貞観6年(632)、台東区立書道博物館蔵
褚遂良摸「雁塔聖教序」、唐時代・永徽4年(653)、東京国立博物館蔵
褚遂良摸「黄絹本蘭亭序」 原跡:王羲之筆、唐時代・7世紀、台北 國立故宮博物院寄託
顔真卿筆「祭姪文稿」、唐時代・乾元元年(758) 台北 國立故宮博物院蔵
懐素筆「自叙帖」、唐時代・大暦12年(777) 台北 國立故宮博物院蔵
懐素筆「小草千字文(千金帖)」、唐時代・貞元15年(799)頃、台北 國立故宮博物院寄託
空海筆、国宝「金剛般若経開題残巻」、平安時代・9世紀、京都国立博物館蔵
蘇軾筆「行書李白仙詩巻」、北宋時代・元祐8年(1093)、大阪市立美術館蔵
国宝、嵯峨天皇「李嶠百詠断簡」。『李嶠百詠』の一首「霧」「玲瓏素月明」
橘逸成「伊都内親王願文」
最澄「久隔帖」
藤原佐理「詩懐紙」
藤原行成「臨王羲之尺牘」
聖武天皇「賢愚経残巻」
藤原行成「白氏詩巻」1018年
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東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)
中国の歴史上、東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(303–361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。そして顔真卿(がんしんけい、709–785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。
本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。
虞世南、欧陽詢、褚遂良
唐王朝の基礎を築いた第二代皇帝・太宗は、博学で文芸に通じ、王羲之の書をこよなく愛した。太宗に仕えた虞世南、欧陽詢、褚遂良は能書としても活躍し、王羲之書法の伝統を受け継ぎながら、楷書の典型を完成させました。
初唐の三大家、虞世南、欧陽詢、褚遂良
虞世南は、王羲之の7世の孫の智永に教えを受けて、王羲之・王献之の正当に根ざした南朝の書法を継承しました。行書にその特色がよく表れ、楷書には温和で落ち着いた用筆の「孔子廟堂碑」があります。
これに対し、欧陽詢は北朝の書に基盤を置き、険しさをたたえた書風をよくしました。なかでも、文字の組み立てがきわめて緻密な「九成宮醴泉銘」は、細部にまで神経の行き届いた傑作で、「楷書の極則」と賞賛されています。この作において、楷書は隷書の束縛から完全に解放され、楷書独自の表現を確立しました。
褚遂良の晩年の作「雁塔聖教序」は、細身の線質に華やかさを盛り込んだ、初唐の楷書を代表するにふさわしい名品です。「雁塔聖教序」がひとたび世に出ると、この書風は一世を風靡し、多くの追随者を輩出することになりました。
――
顔真卿
顔真卿は、山東省の琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人。代々、訓詁と書法を家学とする名家に生まれ、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で官吏登用試験に及第し、4人の皇帝に仕えた官僚です。
天宝14年(755)、安史の乱が起こり、顔真卿とその一族は敢然と義兵を挙げ、唐王朝の危機を救いました。建中4年(783)、再び李希烈(りきれつ)によって反乱が企てられると、顔真卿は宰相の盧杞(ろき)の計略と知りながらも敵地に赴き、捕らえられて蔡州(河南省)の龍興寺で殺害されました。時に顔真卿77歳。顔真卿はのち忠臣烈士として尊ばれ、初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれたその書は、後世の多くの人々にきわめて大きな影響を与え続けています。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1925
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★「顔真卿 王羲之を超えた名筆」東京国立博物館
2019年1月16日(水) ~2月24日(日)
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第123回
蝉しぐれの森を歩いて、美術館に行く。
夏の花に舞う蝶を見ると、ある歌を思い出す。
友よいとしの我友よ、色香ゆかしき白百合の心の花と咲き出でし世に香ぐはしく馨るらむ。
(*「色香ゆかしき白百合、『相思樹の譜』、ひめゆり学徒隊」)
雲のなかに舞う龍
南宋の文人画家の陳容「九龍図巻」(1244)は、雲のなかに九匹の龍が舞う。10メートルの水墨画。清の乾隆帝に愛蔵されていた名品。文人画家、陳容は、自然主義を超えて、破墨、発墨の技法を用いて、精神あふれる龍を描いた。闇のなかで、歴史を超えて生き生きと躍動する水墨画の美に瞠目する。
宋画6点、展示されていて圧巻である。 北宋徽宗「五色鸚鵡図巻」、南宋馬遠「柳岸遠山図」、夏珪「風雨舟行図」、大徳寺「五百羅漢」から周季常1178年頃「観舎利光図」「施財貧者図」、陳容1244年「九龍図巻」。
ボストン美術館は、1870年設立。顧問として招かれた岡倉天心は1905年、東洋美術の蒐集を始める。
「ボストン美術館 日本美術の至宝」東京国立博物館2012年、「ボストン美術館 肉筆浮世絵展、江戸の誘惑」江戸東京博物館2006年を思い出す。
―――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
黄昏の丘、黄昏の森。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
―――
展示作品の一部
「ツタンカーメン王頭部」Head of King Tutankhamen
エジプト、新王国時代、第18王朝、ツタンカーメン王治世時
紀元前1336-1327年
高さ30.5cm×幅26.7cm×奥行22.2cm 砂岩
「メンカウラー王頭部」 Head of King Menkaura (Mycerinus)エジプト、古王国時代、第4王朝、メンカウラー王治世時、 紀元前2490-2472年 高さ29.2cm×幅19.6cm×奥行21.9cmトラバーチン(エジプト・アラバスター)
Harvard University - Boston Museum of Fine Arts Expedition, 09.203
陳容 「九龍図巻」(部分)Chen Rong Nine Dragons南宋、1244年(淳祐4年)
46.2cm×958.4cm 一巻、紙本墨画淡彩
徽宗「五色鸚鵡図巻」Emperor Huizong Five-colored parakeet on a blossoming apricot tree 北宋、12世紀初期 53.3cm×125.1cm 一巻、絹本着色
曾我蕭白 「風仙図屏風」Soga Shôhaku,Transcendent Attacking a Whirlwind江戸時代、1764年(宝暦14年/明和元年)頃 155.8cm×364cm 六曲一隻、紙本墨画
英一蝶「涅槃図」江戸時代、1713(正徳3)年
喜多川歌麿「三味線を弾く美人図」1804-06(文化1-3)年頃
Fenollosa-Weld Collection, 11.4642
フィンセント・ファン・ゴッホ「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」1888年
Gift of Robert Treat Paine, 2nd, 35.1982
フィンセント・ファン・ゴッホ「子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」1889年
クロード・モネ 「ルーアン大聖堂、正面」Claude Monet
Rouen Cathedral, Façade 1894年
フィッツ・ヘンリー・レーン「ニューヨーク港」 Fitz Henry Lane, New York Harbor1855年頃
―――
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館、2012年3/20~6/10
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1416
ボストン美術館 肉筆浮世絵展、江戸の誘惑、江戸東京博物館
2006年10月21日(土)〜12月10日(日)
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★ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション、東京都美術館
2017年7月20日(木)~10月9日(月・祝)
http://www.tobikan.jp/exhibition/2017_boston.html
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
紅葉の森を歩いて、博物館に行く。博物館は、夢と冒険の宝庫。見果てぬ夢の果ての幻の地。
現代でも権力の頂点に立つ悪霊がいる。皇帝の猜疑心と残虐。恨みの血は、千年地中に埋もれて、土の中で宝玉となる。皇帝の悪霊は、天によって滅ぼされる。恨血千年土中碧。天誅下るべし。苦難を超えて、美と真実は蘇る。
博物館のソファで微睡んでいると岸田劉生の蒐集家に出会う。「岸田劉生の絵画40点、所蔵している。幻の麗子像がある。劉生は、写実で麗子を描いたのではなくわが子への強烈な思いが籠もっていた。初期伊万里200点所蔵。軍艦島端島に写真撮影に行ったが異民族の怨念の籠る島なので行かないほうがいい」と蒐集家は語る。
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【秦、始皇帝】嬴政・・・権力の頂点に立つ者の猜疑と残虐
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。父が、敵国趙の人質であったため、趙で苦労した。13歳で秦王となって、わずか9年にして、統一をなし遂げる。
死後なお地下帝国に君臨しようとした秦始皇帝の凄絶な欲望。権力に憑かれた人間の妄執。几帳面で、細部を一一記憶し、偏執狂的な性格。末梢にこだわる。一度の誤りも許さず、何年も記憶する。
権力の頂点に立つ皇帝の猜疑心と暴虐と妄執。周到な猜疑の目、苛烈、残忍な暴君。権力に盲従する取りまき、扈従の群れ。この世の悪霊。悪霊は、天によって滅ぼされる。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【戦国七勇】秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓
春秋時代は晋と楚の二大強国の時代、 戦国初期はその流れを受け、三晋(魏・趙・韓)と楚が強国でそれに次ぐ斉。群雄割拠する実力と騙し討ちと下剋上の時代。
【戦国時代の学術】春秋末期から戦国中期、諸子百家があらわれた。古今の人を、上上聖人、上中仁人、上下智人、中上、中中、中下、下上、下中、下下愚人。九種類に分類する。(王充『論衡』)道家は上人以上を語り、法家は中人以下を管理する。諸子百家は、共存しうる。
【嬴政】
嬴政(えいせい)に仕えた兵法家尉繚によると、「目は切れ長で、鼻は非常に高く、鳩胸。」「声は山犬のよう」「他人を食い物とし、必要とあらばどんな人間にもへりくだる。」「王が中華統一をすれば、みな奴隷となる。」将軍、王翦は「大王は粗暴で、誰も信用しない。」「一度疑ったら死ぬまで疑い続ける」。
戦国の七勇のなかで、わずか9年にして、統一をなし遂げる。情報収集力にたけ、敵国に何人も間者を送った。中国史上最強の暴君として名を留める。
【暴君】「敵を殲滅する力と、維持をする力は別である。」「万里の長城建設など、人々の苦しみを理解しない。」
【法治主義 韓非子】秦の将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討伐した宴の席。(紀元前215年~214年)「古い王朝の在り方を見習うべき」という意見があった。嬴政は、丞相の李斯に相談する。「時代に合わせて変化しない法など、無意味である。」嬴政は、「韓非子」に基づいて判断した。
【焚書坑儒】「学者は古い書物を持ち出し、喚きあうだけ。」「現実を見ようとせず、机上の空論を正しいものとし邪魔をする。」紀元前213年。丞相の李斯は「国庫にある古い本以外、全て捨てるべき。」と進言。嬴政もこれに同意し、許可する。
【坑儒】学者廬生は「処刑を楽しんでばかりで中華は震え上がり、うわべの忠誠を尽くす。」「天下を我が物とする独裁者なり」と進言した。
嬴政は、460人近い学者を集め、質問攻めにする。しかしどの学派の学者に聞いても、誰かの悪口を言うのみで、正しい情報が得られない。その場の全員を捕え、紀元前212年、捕えた全員を生き埋めにする。
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★参考文献
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社2004
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
平勢隆郎『都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国』講談社2005
吉川忠夫『秦の始皇帝』講談社学術文庫
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★「始皇帝と大兵馬俑」東京国立博物館
2015年10月27日(火) ~ 2016年2月21日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1732
★「アート オブ ブルガリ 130年にわたるイタリアの美の至宝」東京国立博物館表慶館
2015 年9 月8 日(火)-11 月29 日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1733
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
東晋の風狂貴族、王羲之は、権力に阿ることを好まず、卑俗にして醜悪な権力闘争に身を浸すことを倦み、美意識を極度に洗練する。蘭亭の曲水流觴の詩会(三五三年)の2年後、上司、王述との軋轢から辞職し、世を離脱する。苦悩と隠遁の生涯から、美しき書が生みだされた。魏晋貴族は、乱世に身を置きながら、実利を求めず、憂き世離れした生きかたを求め、酒と清談に酔い、風狂的生活を誇り、崩壊する帝国をやり過した。王羲之は、隠遁して10年、59歳で没した。王羲之の死後、300年。
唐の太宗皇帝は、王羲之の書を愛するあまり、王羲之の最高傑作である『蘭亭序』は、自らが眠る昭陵に副葬された。太宗皇帝が、王羲之の書を愛したのは何ゆえか。
王羲之の書の模本、唐時代に作られた「双鉤塡墨」は、この世に10点を残すのみといわれる。原跡はこの世になく、模本、臨本、拓本が残された。
唐の太宗皇帝(599‐649)は、唐朝の第二代皇帝。高祖李淵の次男で唐王朝の基礎を固め善政を行い、中国史上最高の名君と称えられる。『晋書』王羲之伝は自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰り太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせた。充実した政策により、太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。「家々は泥棒がいなくなったため戸締りをしなくなり、旅人は旅先で支給してもらえるため旅に食料を持たなくなった」(『旧唐書』)後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂された。
■参考文献
井波律子『中国の隠者』文春新書2001
井波律子『酒池肉林―中国の贅沢三昧』講談社現代新書
吉川忠夫『王羲之―
六朝貴族の世界 ―』岩波書店2010
魚住和晃『書聖 王羲之 その謎を解く』岩波書店2013
★王羲之『蘭亭序』八柱第三本(「神龍半印本」)は、東京で展示。「北京故宮 書の名宝展」江戸東京博物館、2008(平成20)年7月15日~9月15日
■展示作品
行穰帖 (部分) 原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸
プリンストン大学付属美術館蔵 Princeton
University Art Museum / Art Resource, NY
王羲之尺牘 大報帖
原跡=王羲之筆 東晋時代・4世紀 唐時代・7~8世紀摸 個人蔵
国宝 孔侍中帖(こうじちゅうじょう)(部分)
原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 前田育徳会蔵
喪乱帖(そうらんじょう)
原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
妹至帖(まいしじょう)
原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 個人蔵
楽毅論(越州石氏本)(がっきろん えっしゅうせきしぼん)
王羲之筆 原跡=東晋時代・永和4年(348) 東京国立博物館蔵
褚模蘭亭序(王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 東京国立博物館蔵)
定武蘭亭序─許彦先本─(ていぶらんていじょ きょげんせんぼん)
(部分)
王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 東京国立博物館蔵
唐時代の欧陽詢(おうようじゅん)が臨書したと伝えられる、定武蘭亭序として名高い一本。蘭亭序の後ろに、煕寧5年(1072)9月4日に、許彦先が見たという識語があり、北宋時代に珍重されていた。
定武蘭亭序─韓珠船本─(かんじゅせんぼん)
王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 台東区立書道博物館蔵
蘭亭図巻─万暦本─(らんていずかん(ばんれきぼん))(部分)
原跡=王羲之等筆 明時代・万暦20年(1592)編 東京国立博物館蔵
国宝 真草千字文(しんそうせんじもん)
智永筆 隋時代・7世紀 個人蔵
展示構成
序章 王羲之の資料
第1章 王羲之の書の実像
第2章 さまざまな蘭亭序
第3章 王羲之書法の受容と展開
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中国4世紀の東晋時代に活躍した王羲之(303~361、異説あり)は従来の書法を飛躍的に高めました。生前から高い評価を得ていた王羲之の書は、没後も歴代の皇帝に愛好され、王羲之信仰とでも言うべき状況を形成します。王羲之の神格化に拍車をかけたのは、唐の太宗皇帝でした。太宗は全国に散在する王羲之の書を収集し、宮中に秘蔵するとともに、精巧な複製を作らせ臣下に下賜して、王羲之を賞揚したのです。しかし、それゆえに王羲之の最高傑作である蘭亭序は、太宗皇帝が眠る昭陵(しょうりょう)に副葬され、後世の人々が見ることが出来なくなりました。その他の王羲之の書も戦乱などで失われ、現在、王羲之の真蹟は一つも残されていません。そのため、宮廷で作られた精巧な複製は、王羲之の字姿を類推するうえで、もっとも信頼の置ける一等資料となります。
この展覧会では、内外に所蔵される王羲之の名品を通して、王羲之が歴史的に果たした役割を再検証いたします。
蘭亭序とは
永和9年(353)3月、王羲之は会稽山陰の蘭亭に41人の名士を招き、詩会を催しました。これが有名な、蘭亭の雅宴です。王羲之を含め都合42人が曲水の畔に陣取り、上流から觴(さかずき)が流れ着くとその酒を飲み、詩を賦(ふ)します。しかし、詩が出来上がらなければ、罰として大きな觴の酒を飲まなければなりませんでした。
この日、四言と五言の2編の詩をなした者11人、1編の詩をなした者15人、詩をなせず罰として大きな觴に3杯の酒を飲まされた者は16人でした。
酒興に乗じて王羲之は、この詩会でなった詩集の序文を揮毫しました。世に名高い蘭亭序です。28行、324字。王羲之は酔いが醒めてから何度も蘭亭序を書き直しましたが、これ以上の作はできず、王羲之も自ら蘭亭序を一生の傑作として子孫に伝えました。
東京国立博物館
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■日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年
特別展「書聖 王羲之」
東京国立博物館2013年1月22日(火) ~ 2013年3月3日(日)
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
権力と財力は美を生まない。美は金では買えない。物欲に明け暮れ、精神が腐った帝国。皇帝の権力、財力と狡猾な官僚統治による搾取と腐敗の帝国、七百年の歴史。帝国の支配システムが確立した12世紀から18世紀、精神の死の匂いがする。文化の息吹が残っていたのは南宋時代まで。北宋の皇帝徽宗の北宋絵画から、南宋絵画『出水芙蓉図冊』、明朝、永楽帝。漢民族の明朝を倒した満州族の清朝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝に至る皇帝のコレクション。第6代皇帝、乾隆帝時代(在位1735年10月8日-1796年2月9日)、清の版図は最大規模に広がり、膨大なコレクションを蒐集した。死の帝国である。
変人皇帝、北宋の皇帝徽宗(1100年-1125年)は文人、画人としてその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の1人。痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称される。徽宗の真筆は極めて貴重な文化財、日本にある桃鳩図は国宝に指定。異常な性格を感じる。
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『草書諸上座帖巻』黄庭堅筆 北宋時代・元符2~3年(1099~1100)頃。黄庭堅は禅学に造詣が深く、書において求道者のような精進を続け、過去の技量を否定しながら、より高い境地を目指した。この作は円熟した最晩年の作と考えられる。荒れ狂うような草書と、最後に続く行書の対比が素晴らしい。
『行書扈従帖』蔡襄筆 北宋時代・11世紀。蔡襄は、宋の四大家の中で唐時代の書法を最もよく継承した人物。文豪の蘇軾も蔡襄の書は宋時代の第一であると絶賛した。李端愿(りたんげん)という人物に宛てたこの書簡は、新茶を贈られたことに対する礼状。扈従とは天子に随行すること、蔡襄が都で天子に随行し、また新茶に言及していることから、皇祐4年(1052)春頃の揮毫と推定。
『出水芙蓉図冊』蓮は泥水から出ても泥に染まらず。社会の困難にあっても気高く生きる文人、高潔な君子の象徴である。香り立つような美しい南宋画の描写が魅力的。
『水村図巻』趙孟頫(ちょうもうふ)元時代・大徳6年(1302)。趙孟頫は南宋皇室の家に生まれたが、征服王朝の元に仕えるという苦渋の決断を迫られた人物。内面の孤高が、美しい筆墨のなかに現れている。中国絵画史が新しい文人絵画へと展開していく時期の最も重要な作品。
北京故宮博物院は、明時代の永楽帝から清時代の宣統帝溥儀まで24人の皇帝が居住とした紫禁城に由来し、壮麗な宮殿建築と180万件を超えるコレクションを誇る。
■主要展示作品
一級文物『祥龍石図巻』趙佶(徽宗)筆1巻、北宋時代・12世紀
一級文物『行書扈従帖』蔡襄(さいじょう)筆 北宋時代・11世紀
一級文物『出水芙蓉図冊』作者不明 南宋時代・13世紀
一級文物『清明上河図』(北宋時代)中国美術史上屈指の名作といわれる。張択端(ちょうたくたん)が描いた5m余りの図巻、北宋の都・開封(現在の河南省開封市)の街のにぎわいが克明に生き生きと描かれている。
一級文物『長江万里図巻』趙芾筆1巻、南宋時代・12世紀
一級文物『水村図巻』趙孟頫筆1巻、元時代・大徳6年(1302)
一級文物『桃竹錦鶏図軸』王淵筆1幅、元時代・至正9年(1349)
一級文物『雪江漁艇図巻』姚廷美筆1巻、元時代・14世紀 加山又造の水墨画を想起する。
一級文物『草書諸上座帖巻』黄庭堅(こうていけん)筆 北宋時代・元符2~3年(1099~1100)頃。
一級文物『楷書閏中秋月詩帖』趙佶(徽宗)筆1枚 北宋時代・大観4年(1110)
一級文物『行草書中流一壺帖』范成大筆1枚 南宋時代・12世紀
一級文物『行書城南唱和詩巻』朱熹筆1巻 南宋時代・12世紀
一級文物『青花唐草文杯』景徳鎮窯「永楽年製」銘、明時代・永楽年間(1403-1424)
一級文物『黄地琺瑯彩牡丹文碗』「康熙御製」銘、清時代・康熙年間(1662-1722)
一級文物『康熙帝南巡図巻』第11巻、第12巻、王翬等筆、清時代・康熙30年(1691)
『宝生仏坐像』1躯、インド・パーラ朝・10世紀
『上楽金剛(チャクラサンバラ)立像』1躯、チベット・18世紀 ヤブユム仏
一級文物『文殊菩薩坐像』1躯、元時代・大徳9年(1305)
『大威徳金剛(ヤマ-ンタカ)立像』1躯、清時代・18世紀
■展示構成
第1部 故宮博物院の至宝 -皇帝たちの名品-
第2部 清朝宮廷文化の精粋 -多文化のなかの共生-
第1章 清朝の礼制文化 -悠久の伝統-
第2章 清朝の文化事業 -伝統の継承と再編-
第3章 清朝の宗教 -チベット仏教がつなぐ世界-
第4章 清朝の国際交流 -周辺国との交流-
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中国の首都・北京市の中心部にある故宮博物院は、明朝の3代目皇帝永楽帝から、清朝のラストエンペラー宣統帝溥儀まで、500年あまりの間に24人の皇帝が暮らした壮大な宮殿「紫禁城」に由来します。広さは約72万平方メートル、無数の建築群にはおよそ8700ともいわれる部屋があった「紫禁城」は、皇帝たちの政治の中枢であり、かつ、私生活の場でもありました。とてつもない規模と、技術の粋を集めた壮麗な建築は、中国古代建築の集大成といえるもので、皇帝の世界観を反映しています。
1911年の辛亥革命ののち、紫禁城は「かつての王宮」という意味で「故宮」と名付けられ、1925年に「故宮博物院」として成立、王朝の伝統として皇帝が収集し、愛蔵してきた中国歴代王朝の至宝は一般に開放されることとなりました。収蔵されている文物の数は現在、180万件以上にのぼります。
故宮博物院はその歴史的・芸術的価値の高さから、1987年、世界遺産に登録されました。収蔵品は大切に保管・公開され、建築や至宝を一目見ようと訪れる世界中の人々でにぎわっています。
これらの貴重な文献から選りすぐりの名宝200件が出品される。門外不出とされていた宋・元時代の書画全41件のうち39件は、日本初公開。
本展は、故宮博物院の収蔵品のなかから特に優れた一級文物を中心に展覧する、同博物院の開催する海外展として質・量ともに最大規模の展覧会であり、また、東京国立博物館で初めて開催される故宮展となります。
「清明上河図」
「清明上河図」は、北宋の都・開封[かいほう](現在の河南省開封市)の光景を描いたものと言われています。作者である張択端[ちょうたくたん]は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。全長約5メートル、縦24センチの画面のなかに登場する人物は773人。まさに神技。
汴河[べんが]の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、宋代の風俗を知るためにも一級の資料です。北宋文化の絶頂期・徽宗皇帝のために描かれたとされ、庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れ、後世にもたくさんの模本が作られました。
ここまで精密に描かれた都市風景は、もちろん同時代の西洋にもほとんどありません。今まで北京故宮でもほとんど公開されたことがなく、上海博物館で公開された時は夜中まで行列が続いたほどの熱狂的大ブームを巻き起こしました。まさに中国が誇る至宝であるとともに、世界でも屈指の幻の名画なのです。
第Ⅰ部
第Ⅰ部では故宮博物院の豊富な収蔵品から、これまで門外不出とされていた作品を含む宋・元の書画41件の出展に加え、陶磁器・青銅器・漆工・琺瑯・染織の名品約50件を厳選して展示します。書画では、書道ファン必見の宋四大家のうち、黄庭堅[こうていけん]、蔡襄[さいじょう]、米芾[べいふつ]の名品や、元代文人たちの傑作が、器物では青銅器・玉器[ぎょっき]の傑作や、汝窯[じょよう]の名品が、漆芸では幻の巨匠である張成[ちょうせい]、楊茂[ようも]の作品が、ずらりと並びます。まさに北京故宮が誇る歴代王朝の名品が勢ぞろい。故宮博物院が開催した海外展としては、過去最大規模となります。
第Ⅱ部
第Ⅱ部では、現代の中国にもつながる、清朝300年の豊かな世界観をご紹介します。清朝は第6代皇帝であった乾隆帝[けんりゅうてい](在位1735〜1796)によって最盛期を迎えます。この展示では乾隆帝の4つの肖像画を軸に、大清帝国の夢見た多文化共生の世界観を読み解いていきます。北京故宮ならではの歴史の証人となる文物によって、清朝の宮廷世界を大規模に紹介する、日本で初めての展観となります。
http://www.kokyu200.jp/
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★『北京故宮博物院200選』展、2012年1月2日-2月19日
東京国立博物館http://www.kokyu200.jp/
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』 より
王羲之は、水の流れに盃を浮かべ、詩を吟ずる宴を催した。曲水流觴の宴である。永和九年(353)三月三日、暮春の初め、王羲之は会稽山陰の蘭亭に士人を招いて詩会を催した。せせらぎに浮かべた杯が流れ着く前に詩を賦し、詩ができなければ罰として酒を飲む、文人の雅宴である。三十六人が、詩を吟じた。
この詩集に叙した序文が王羲之「蘭亭序」である。
■数奇な運命をたどる名筆・・・太宗皇帝が愛するあまりあの世に持ち去る
王羲之(303~361)は東晋の武人で弁舌鮮やかな人であった。4世紀、魏晋南北朝時代である。この書は、その後、三百年の時を経て、唐の太宗皇帝が手に入れる。太宗皇帝(598~649)は、王羲之の書を愛するあまり墓に副葬させ、この世から消え去った。しかし、皇帝は生前著名な工匠に複製を作らせた。
★「神龍半印本」(八柱本、第三本)
その中で名品中の名品とされ、現存する作品中に筆跡の鮮やかさを凌ぐものはないと言われる「神龍半印本」(八柱本、第三本)がある。唐の第二代皇帝・太宗皇帝が搨書(とうしょ)の名人馮承素(ふうしょうそ)に書き写させたものと伝わる。清時代には乾隆帝が所蔵し、北京故宮で所蔵されている作品である。
「太宗皇帝之寶」という巨大な印鑑が押印されている。
荘重にして流麗な書は、千四百年の時の流れを超えて美しい。
■王羲之「蘭亭序」は史上最高の書として知られるが、その文章も名文である。
掉尾の一節を引用する。
昔の人が生死の際に感動したわけは、私のこころと割符を合わせたようにぴったりと一致している。昔の人が感慨を述べた文章に接すると、いまだ一度も嘆き悲しまないではいられず、その悲しみのわけを悟ることができなかった。もとより生と死を同一視することはいつわりであり、七百年も長生きをしたという彭祖(ほうそ)と、若死にした者とを同じに見るのはでたらめである。後世の人々が今の我々のことを見て感慨をおこすのは、今の我々が昔の詩文に接して心を動かすことと同じである。古今不変のその思いは、何と悲しいことであろうか。
そこでここに集った人々の名を列記し、彼らが述べた詩を書きとめておく。時世は変わり、事がらが異なっても、感動の源は同じである。後世、これを読む人も、またこれらの文に心を動かすことがあるであろう。(富田淳・訳)
■「神龍半印本」八柱本、第三本
史上空前の傑作書が来る
書の世界で古今、書聖として最も尊ばれてきた王羲之(おうぎし)。書を芸術の域に高めた人物として今日までその功績が伝えられてきました。本展では、その最高傑作として世に伝わる「蘭亭序」(らんていじょ)(八柱第三本)を含む国外不出の国宝の書13点と北京故宮博物院収蔵の書跡の名宝、計65点を紹介します。
「蘭亭序」とは、永和9年(353)3月3日、王羲之が会稽(かいけい)(現・浙江省紹興市)の景勝地、蘭亭で名士42人を招いて催した曲水の宴で詠まれた詩編に、みずからがしたためた序文です。今回出品の「蘭亭序」は、唐の太宗皇帝が搨書(とうしょ)の名人馮承素(ふうしょうそ)に書き写させたもので、清時代には乾隆帝も所蔵していた、現存する肉筆本では名品中の名品とされています。
日中平和友好条約が締結されて30年を迎える今年、中国から日本へと伝承された文字文化の神髄に触れる絶好の機会です。
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書の聖人 王羲之
空海「風信帖」、藤原佐理「離洛状」
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