仏教美術

2021年10月26日 (火)

「最澄と天台宗のすべて」2・・・比叡山、嵯峨天皇、慈円、鎌倉仏教、織田信長、覚恕、天海

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』256回

比叡山は、平安時代から、権力抗争の舞台である。1200年にわたる歴史の記録、秘宝、秘仏の展示である。最澄と法相宗興福寺との対立の記録。第2代天台座主円仁は814年、唐より帰国した、聖観音菩薩立像、毘沙門天、堂宇を建てて安置した。現存する聖観音菩薩は鎌倉時代12世紀。「六種の観音が六道に迷う衆生を救う」という六観音と六道輪廻の思想は、天台大師智顗『摩訶止観』による。

【比叡山焼き討ち、覚恕と織田信長と正親町天皇】元亀2年、天台座主覚恕は、織田信長に抵抗し武田信玄のもとに逃れる。天皇と座主は個人的な敵対関係。覚恕は正親町天皇の異母弟である。信長を後援したのは正親町天皇。信長は正親町天皇を経済的に支援。天皇は綸旨を3度出し信長包囲網を解く。

【天台宗、怪僧たち】天台宗には、怪僧がいる。天狗となる良源(912年-985年)、魑魅魍魎の天台座主、覚恕法親王。天海大僧正は、家康、秀忠、家光を補佐、108歳まで生き天海版一切経4000巻出版、延暦寺に天海の鎧がある。
徳川家康による比叡山復興を担当した天海大僧正の座像。天海105歳の時に彫られた像。
「嵯峨天皇宸筆 光定戒牒、弘仁14年(823)」「最澄筆 尺牘 久隔帖 弘仁4年(813)」「聖観音菩薩立像 鎌倉時代12世紀 延暦寺、横川中堂蔵」、「慈眼大師(天海)坐像、康音作 寛永17年(1640)輪王寺蔵。天海105歳の時に制作された」。
聖観音菩薩の意味は6世紀「六観音」天台智顗『摩訶止観』に遡る*注。

*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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比叡山延暦寺と権力抗争 室町幕府、織田信長
【慈円と藤原定家と親鸞】慈円(1155-1225)は、関白、九条兼実の弟、4度、天台座主になる。九条家は藤原定家の主家、千載和歌集、新古今和歌集、小倉百人一首に収載、『愚管抄』を著す。『徒然草』に「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえて可愛がった」。反武家勢力を代表する源通親は九条家の競争者近衛家を擁し、建久7(1196)年、兼実打倒の政変に成功。兼実は48歳で政界を去る。
慈円は、異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方、弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受ける。
【鎌倉仏教】比叡山延暦寺から、教祖が生まれた。浄土教の源信『往生要集』、浄土宗の法然、一向宗、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、只管打坐の道元『正法眼蔵』、法華宗の日蓮ら、教祖が生まれた。
【室町幕府、比叡山焼き討ち】1435年、第6代将軍足利義教は、延暦寺の僧たちをおびき寄せ斬首、僧たちは根本中堂に立て籠もり義教を非難。失望した僧たちは根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げる。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼き討ち。1571年、織田信長、延暦寺根本中堂焼かず。
【銀閣寺】室町幕府8代将軍・足利義政は「天皇になろうとした将軍」義満を祖父にもち「万人恐怖」の義教を父にもつ。義政も同じく専制政治を指向していた。時代はそれを許さなかった。足利政権は、もともと政治・軍事・財政の何れにも欠陥があり、彼の優柔不断な性格が、拍車を掛けた。
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【焼討ちの中心人物、明智光秀】光秀の直筆による元亀2年9月2日付『明智光秀書状』「比叡山麓の仰木のことは、ぜひともなでぎり(皆殺し)仕るべく候」焼き討ちが行われる10日前。比叡山周辺の仰木地域(滋賀県大津市)の人々は織田軍に非協力的であった。「皆殺しだ」と光秀が大号令をかけた。
【比叡山延暦寺焼討、織田信長の真実】明智光秀は延暦寺焼討の特殊部隊。「仰木村、なで斬りすべし」光秀。比叡山の通行料を奪うため宇佐山城を築城、穴太衆の野面積みで石垣を組む。比叡山と京都の通路を断つ。延暦寺、瑠璃堂が残る。瑠璃堂と京都への通路を開放。薬師瑠璃如来。
【信長包囲網】戦国時代末期より安土桃山時代にかけて発生した反織田信長連合。信長包囲網、第一次‐第三次包囲網。1570元亀元年(1570年)4月、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗。1571元亀2年(1571年)織田信長と足利義昭の対立。武田信玄の死
【醍醐寺三宝院 元亀四(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信。「天下布武」印。武田信玄、死す(1573)。信長包囲網、瓦解。
【織田信長の戦い】反信長包囲網(1570-1580)。第1次包囲網、浅井朝倉、比叡山。第2次包囲網、足利義昭、挙兵。室町幕府滅亡。第3次包囲網、本願寺光佐(顕如)と和睦
【南都北嶺、二つの寺院権力闘争】南都は興福寺を、北嶺は延暦寺を指す。藤原氏の氏寺である興福寺は摂関政治以降勢力を拡大し、東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧が独占した。一方、延暦寺は大乗戒壇設置以降南都との間に確執が生まれ、朝廷への強訴を通じて牽制し合った。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城、天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、炎上する。『安土日記』『信長公記』
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徳川家康、天海大僧正
【慈眼南光坊天海】108歳で死す。本徳寺「明智光秀像」僧侶になると記述。慈眼寺、光秀が建設。比叡山延暦寺、慈眼堂に、南光坊天海の墓、天海の甲冑あり。天海、家康と面会。東叡山開山慈眼大師縁起によると、1608年に天海が駿府を訪れ、家康と初めて面会をしたのにもかかわらず、二人は旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合っていた。すでに家康65歳、天海72歳。家康はこの出会いをこう評している。「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」。この遅すぎた出会いこそが家康の死後に天海が大きく関わる所以でもある。
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*【六観音、天台智顗『摩訶止観』】
六観音は、六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという思想から生まれた。地獄道=聖観音、餓鬼道=千手観音、畜生道=馬頭観音、修羅道=十一面観音、人道=准胝観音、天道=如意輪観音という組み合わせである。
六観音名及び七観音名の根拠 天台大師智顗『摩訶止観』
『観音信仰事典』(速水侑/編 戎光祥出版 2000年刊)34~38頁
「第1章「観音信仰」入門 六観音、七観音」の項
「そもそも、六観音信仰は、六世紀に中国の天台大師智顗が『摩訶止観』で展開した説にはじまります。大師は書中で、大悲・大慈・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の六観音を説きました。<中略>しかし、この六観音信仰に対して、真言宗の小野仁海は「天台宗が『摩訶止観』に説いている六観音は、実は従来より真言密教で説いてきた正・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪の仮の姿、変化身である」と唱えはじめました。<中略>これに対して天台宗では、真言密教に対する天台密教(台密)の立場から、聖・千手・馬頭・十一面・不空羂索・如意輪という新たな六観音を説くようになりました。こうして六観音(天台六観音と真言六観音を合わせれば七観音)が結局、密教の観音ばかりになってしまうと、これら七つの観音は、現世の利益に来世の救済も兼ね備えるようになり数多い観音の中でも、貴族から民衆に至るまで、わが国で広く信仰される観音菩薩としてしだいに定着していった」
薬師寺東院堂聖観音像:東院堂の本尊。衣のひだを通して脚が透けて見える技法には、インドのグプタ様式の影響が伺える。
【天台智顗】智顗。538年~597年。六朝・隋に活躍した僧、中国天台宗の事実上の開祖。開皇 11 (591) 年晋王楊広 (隋の皇帝、煬帝) の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★展示作品の一部
★★★重要文化財 聖観音菩薩立像 平安時代・12世紀 滋賀・延暦寺、横川中堂蔵、円仁の時代、作られた。展示会場:九州、京都
★★★国宝 聖徳太子及天台高僧像 十幅のうち 最澄、平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵
★★★国宝 光定戒牒、嵯峨天皇宸筆 平安時代・弘仁14年(823) 滋賀・延暦寺蔵
空海とならび称される三筆の一人、嵯峨天皇の気品に満ち溢れた風格の書。光定は最澄の優れた弟子の一人。戒牒とは戒を受けたことを示す公的な証明書、最澄の悲願、大乗戒壇の設立に尽力した光定が、そこで初めて授戒が行われたときに下付された証明書。
★★★国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4年(813) 奈良国立博物館蔵 
展示期間:10月12日(火)~10月31日(日) 展示会場:東京
現存する唯一の最澄自筆の手紙(尺牘は手紙や書状)。書き出しに「久隔清音」とあることから「久隔帖」と呼ばれている。弘仁4年(813年)に、最澄が、空海のもとにいた弟子の泰範に宛てて出したもの。空海との交流を物語る、日本史で最も有名な手紙の一つ。
★★★重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 滋賀・観音寺蔵[展示会場:東京、九州]
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【空海の経歴】
774年 讃岐国多度郡屏風浦で生まれる。幼名、佐伯真魚。
792年 18歳で長岡京の大学寮に入る。大学での専攻は明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ。
793年 修行僧になる。山林修行。
797年 24歳、『聾瞽指帰』(『三教指帰』)著作。
804年 遣唐使、入唐。
805年 密教第七祖・恵果より伝授され、密教第八祖になる。
806年 帰国。
809年、平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に滞在し、嵯峨天皇の勅許、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺、高雄山寺に入る。
815年 『弁顕密二教論』著作。
弘仁7年(816年)初頭に最澄と訣別する
818年 嵯峨天皇より賜り、高野山金剛峯寺建立。
819年 『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』。
823年 嵯峨天皇より東寺を賜る。嵯峨天皇、上皇となる。淳和天皇、即位。
828年 大僧都就任。日本初の民の大学・綜芸種智院創設。
830年 『秘密曼荼羅十住心』および『秘蔵宝鑰』、淳和天皇に上進。
832年 高野山にて隠棲生活に入る。
835年 61歳で入定。奥の院に眠る。
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参考文献
立川武蔵『最澄と空海』講談社1998
「最澄と天台宗のすべて」図録、東京国立博物館2021
武覚超「「最澄と天台宗の歴史」p8-13
皿井舞「伝教大師最澄の革命」p56
皿井舞「最澄自刻の薬師如来像」p71
皿井舞「慈恵大師良源 救済と調伏の力をもつ高僧」p152
土屋貴裕「魔仏一如――中世の天狗の実像」p288
宇代貴文「根本中堂と不滅の法灯」p292
瓜生翠「天海僧正と一切経」p305
皿井舞「最澄と東国」p314
大久保正雄3「空海と嵯峨天皇、空海と最澄、嵯峨天皇と平城上皇」
大久保正雄4、空海『秘密曼荼羅十住心論』
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と戦いの叙事詩、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
大久保正雄【空海、理念と象徴、密蔵深玄翰墨難載。更仮図画開示不悟】
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt

「最澄と天台宗のすべて」2・・・比叡山、嵯峨天皇、慈円、鎌倉仏教、織田信長、覚恕、天海

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2021年は、伝教大師最澄の1200年の大遠忌にあたります。最澄は平等思想を説いた『法華経』に心惹かれ、この教えを礎とする天台宗を日本でひろめました。最澄が創建した延暦寺は多くの高僧を輩出し、彼らが説いた多様な教えは日本文化に大きな影響を及ぼしてきました。本展では、延暦寺における日本天台宗の開宗から、東叡山寛永寺を創建して太平の世を支えた江戸時代に至るまでの天台宗の歴史をご紹介します。日本各地で守り伝えられてきた貴重な宝物や、『法華経』の説く万民救済の精神をあらわす文化財を、地域的な特色を示しながらご覧いただきます。秘仏をはじめ、天台の名宝が集う貴重な機会です。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
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「最澄と天台宗のすべて」東京国立博物館10月12日~11月21日
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
九州会場(2022年2月8日~3月21日、九州国立博物館)
京都会場(2022年4月12日~5月22日、京都国立博物館)

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2021年10月23日 (土)

「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』255回

10月猛暑の日、秋の森を歩いて博物館に行く。15年ぶりの「最澄と天台宗」展。比叡山の権力抗争の痕跡を観る。最澄の生涯と思想、比叡山と天台宗の歴史的遺産の1200年。比叡山をめぐる人々の証拠物件の展覧会である。聖観音菩薩立像(延暦寺横川中堂蔵)は優美、2015年に見た。
【比叡山焼き討ち、覚恕と織田信長】元亀2年、天台座主、覚恕は、織田信長に抵抗し武田信玄のもとに逃れる。覚恕は正親町天皇の異母弟である。信長を後援したのは正親町天皇。信長は正親町天皇を経済的に支援していた。
【元三大師、良源】良源.(912年- 985年(延喜12-永観3 )、滋賀県浅井郡の生れ。叡山護持の執念から死後天狗道に堕して住山し、寺門の降伏を企てた。「巻20第8話 良源僧正成霊来観音院伏余慶僧正語 第八」。975年、良源は横川中堂を改造、聖観音像を安置、不動明王を加え三尊像とする。
【天海】天海大僧正は、徳川家光に「長寿の秘密は陀羅尼を唱える事」「飲酒せず熟睡」と教え108歳まで生きた。家康、秀忠、家光に仕え、天海版一切経4000巻を残す。天海僧正(1536?~1643)。
【最澄と円仁】最澄は56歳で死す。円仁は45歳で入唐『入唐求法巡礼行記』を著す、71歳で死す。円珍は40歳で入唐、77歳で死す。
【慈円と藤原定家と親鸞】慈円(1155-1225)は、関白、九条兼実の弟、4度、天台座主になる。九条家は藤原定家の主家、千載和歌集、新古今和歌集、小倉百人一首に収載、『愚管抄』を著す。『徒然草』に「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえて可愛がった」。反武家勢力を代表する源通親は九条家の競争者近衛家を擁し、建久7(1196)年、兼実打倒の政変に成功。兼実は48歳で政界を去る。
慈円は、異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方、弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受ける。
【鎌倉仏教】比叡山延暦寺から、教祖が生まれた。浄土教の源信『往生要集』、浄土宗の法然、一向宗、浄土真宗の親鸞、禅宗の道元、法華宗の日蓮ら、教祖が生まれた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【最澄の生涯、法相宗興福寺との抗争】
近江出身。俗名は三津広野。通称は叡山大師,根本大師。諡号は伝教大師。父は三津首百枝『叡山大師伝』。神護景雲元(767)年-弘仁13(822)年。56歳で死去。
比叡山開創、比叡入山と一乗止観院
神護景雲元(767)年8月18日生まれ。宝亀11年(780年)11月12日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事する。12歳で出家。延暦4(785)年最澄、東大寺で受戒。具足戒を受けて程ない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。比叡山に登り草庵を結ぶ。延暦7(788)年一乗止観院を創建、自刻の薬師如来を祀って不滅の法灯を掲げる。19歳のときから12年間比叡山で修行する。
21歳で創建した一乗止観院が、後に、根本中堂となる。
入唐と天台宗の開宗
802年9月、先に上奏した入唐求法の請願に対し、入唐請益天台法華宗還学生の桓武天皇の勅許が下り、延暦23年(804)7月に訳語僧義真(ぎしん)を伴い肥前(長崎県)田浦(たのうら)から出帆した。空海らと唐にわたり、天台山に行き、天台・密教・禅・戒をまなぶ。延暦24(805)年、帰国。延暦25(806)年日本天台宗を開く。
徳一との論争
徳一が最澄と論争をしていた弘仁8年(817年)頃から弘仁12年(821年)頃に書かれた最澄の著作には「陸奥の仏性抄」(『照権実鏡』)とあり、最澄との間でやりとりされた三一権実諍論のことである。徳一との論争や『依憑(えひょう)天台義集』(813)などにより南都仏教とくに法相宗、興福寺との対立が生じ争った。
大乗戒壇の独立
晩年徳一との教理論争をおこなう一方、大乗戒壇の設立につくした。弘仁13年6月4日死去。56歳。著作に「山家学生式」818「顕戒論」821「守護国界章」など。
最澄が設置をめざした戒壇(円頓戒壇)のことをいう。奈良時代,出家するためには天下の三戒壇とよばれる奈良東大寺,筑紫観世音寺,下野薬師寺のいずれかの戒壇で受戒しなければならなかった。そこでの戒は小乗戒で,菩薩戒授受のための戒壇はなかった。最澄はその不備をつき,天台宗の僧侶は大乗戒である梵網戒をうけるべきとして比叡山に独立の戒壇を設置する勅許を求めた。822年(弘仁13)最澄死後7日目にこれが認められ,以後比叡山僧侶の身分決定の場となる。
国宝とは何か。道心(悟りを求める心)を持つ人を名付けて国宝という。ゆえに古来の哲人は「径1寸の珠10枚は国宝ではない。世の一隅を照らす人が国宝である」と言う。最澄『天台法華宗年分学生式』821
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【最澄の思想】
桓武天皇の勅許で環学僧として遣唐使で入唐求法。最澄は、法華一乗思想、本覚思想(山川草木悉有仏性、一切衆生悉有仏性)、大乗菩薩戒を主張した。法相宗興福寺と年分度者をめぐって争い、法相宗徳一と教理論争、大乗菩薩戒壇を嵯峨天皇に申請した。死後7日に勅許。『山家学生式』818『顕戒論』821『守護国界章』『願文』。【格言】一隅を照らすもの此れ即ち国宝なり(「山家学生式」)

【天台智顗】智顗。538年~597年。六朝・隋に活躍した僧、中国天台宗の事実上の開祖。開皇 11 (591) 年晋王楊広 (隋の皇帝、煬帝) の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。
【最澄と桓武天皇】【第50代桓武天皇】平安京を築いた。天武天皇の血統の称徳天皇(女帝)が子供を産まず、急遽、天智天皇の血統から父親の白壁王子が光仁天皇として即位することになった。これは、その息子、桓武天皇への道をつけるためのものだった。桓武天皇は、天武天皇の血すじの地、奈良から、長岡京、平安京へ遷都する。南都から北嶺へ変革する最澄と軌を一にする。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【最澄、空海との出会いと決別】
【最澄、空海から灌頂を受ける】弘仁3年(812年)10月27日には乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めた。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。
【空海と最澄、第16次遣唐使】延暦23(804)年、第1船、遣唐大使・藤原葛野麿。空海は第1船に乗船。第2船、副使・石川道益(入唐後に没)乗船。最澄は第2船。最澄は、桓武天皇の勅命により遣唐僧、空海は私度僧。他の2船は遭難、沈没。
【空海、波瀾の遣唐船漂流、謎の生涯】24歳で『聾瞽指帰』を書く。57歳で『秘蔵宝鑰』を書く。大学入学18歳から31歳、遣唐使留学僧、入唐まで、大学中退、山林修行、謎の12年間。宝亀5年(774)6月15日生まれる。承和2年(835) 4月22日入定、62才。
【空海、嵯峨天皇、教王護国寺】空海は、嵯峨天皇の勅許を得て、弘仁14(823)年、東寺、教王護国寺を建立し始めた。言葉では伝え難い密教の教えを、視覚的に表現する二十一尊の仏像で立体曼荼羅を構想。12年後入定
【空海、東寺、立体曼荼羅】密教を視覚的に表現する二十一尊の仏像で立体曼荼羅。東寺講堂、最上位の大日如来を中心に四方に4体の如来を配置した五智如来、その右側に金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に不動明王を中心にした五大明王、四方に四天王と梵天、帝釈天
空海「風信帖」空海が最澄に送った手紙。平安時代初期(812. 年頃)風信雲書、天より翔臨(しやうりん)す。之を披(ひら)き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲(かか)ぐるが如し。兼ねて止観の妙門を恵まる。頂戴供養し、厝(お)く攸(ところ)を知らず。
【空海、『理趣釈経』借覧拒否】最澄は、弘仁4年(813年)11月23日、『理趣経』の注釈書である不空の『理趣釈経』を借覧しようとしたが、空海は断る。空海『答叡山澄法師求理趣釈経書』(『遍照発揮性霊集』)
空海【聖なる者は悪を滅ぼす】【『理趣経』「第三段」】『理趣経』「第三段」の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、彼は「三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならない」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★展示作品の一部
★★重要文化財 薬師如来立像、平安時代・11世紀  京都・法界寺蔵
京都市の郊外、平等院のある宇治に近い日野の法界寺で、厨子の奥深くに守られてきた平安の秘仏。延暦寺の総本堂、根本中堂に安置される、最澄作の秘仏本尊の薬師如来像に近い姿と考えられており、数多く造られた模刻像の一つと言えます。像内に最澄自作の薬師像を納めていた最澄にゆかりの深い像です。
★★重要文化財 聖観音菩薩立像 平安時代・12世紀 滋賀・延暦寺、横川中堂蔵。円仁の時代、オリジナルは作られた。展示会場:九州、京都
★★国宝 聖徳太子及天台高僧像 十幅のうち 最澄、平安時代・11世紀 兵庫・一乗寺蔵
[展示期間 10月12日(火)~11月7日(日)]
国宝「聖徳太子及び天台高僧像」は現存最古の最澄の肖像画を含む、インド・中国・日本の天台ゆかりの人物たちを描いた大変貴重な平安絵画です。
10幅すべてが展示されるのは東京会場のみ、11月2日(火)~11月7日(日)の6日間限定で10幅を同時公開します。
10月12日(火)~11月7日(日)=最澄、円仁、龍樹、善無畏
11月2日(火)~11月21日(日)=智顗ちぎ、慧思えし、湛然たんねん、聖徳太子
★★国宝 光定戒牒、嵯峨天皇宸筆 平安時代・弘仁14年(823) 滋賀・延暦寺蔵
空海とならび称される三筆の一人、嵯峨天皇の気品に満ち溢れた風格の書。光定は最澄の優れた弟子の一人です。戒牒(かいちょう)とは戒(かい)を受けたことを示す公的な証明書のことで、最澄の悲願、大乗戒壇の設立に尽力した光定が、そこで初めて授戒が行われたときに下付された証明書です。
★★国宝 尺牘(久隔帖) 最澄筆 平安時代・弘仁4年(813) 奈良国立博物館蔵 
展示期間:10月12日(火)~10月31日(日) 展示会場:東京
現存する唯一の最澄自筆の手紙(尺牘は手紙や書状)。書き出しに「久隔清音」とあることから「久隔帖」と呼ばれている。弘仁4年(813年)に、最澄が、空海のもとにいた弟子の泰範たいはんに宛てて出したもの。空海との交流を物語る、日本史で最も有名な手紙の一つ。
★★重要文化財 伝教大師(最澄)坐像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 滋賀・観音寺蔵[展示会場:東京、九州]

重要文化財 不動明王坐像、平安時代・10世紀 滋賀・伊崎寺蔵

重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・12世紀 岐阜・願興寺(蟹薬師)蔵
岐阜県可児郡御嵩町の古刹、願興寺の秘仏本尊。東山道の交通の要所に位置し、厚い信仰を集めてきました。最澄の東国布教の際、この地で自刻の薬師如来像を安置したのが寺の始まりとされています。平安時代後期の優品で、日光・月光菩薩立像、2メートルを超える四天王立像(いずれも本展不出品)もまた、かつての寺勢をうかがわせます。

重要文化財 阿弥陀如来立像、平安時代・10世紀 京都・真正極楽寺(真如堂)蔵
[展示期間 10月19日(火)~11月3日(水・祝)]
紅葉の名所として知られる京都の真正極楽寺(真如堂)の秘仏本尊。年に一度、お十夜という念仏法要が行われる11月5日~11月15日に厨子の扉が開かれます。最澄の高弟、円仁の作という伝承があり、優しい顔立ちをした平安時代中期の名品で、阿弥陀の立像として造られたことが確かなもっとも古い像です。

慈眼大師天海(1536?~1643)
元亀2年(1571)、比叡山は織田信長による焼き討ちにあい壊滅的な被害を受けますが、豊臣秀吉や徳川将軍家によって復興されました。復興に重要な役割を果たしたのが慈眼大師天海(1536?~1643)です。天海は、徳川家康に仕え、没後東照大権現として神となった家康を祀る東照宮や輪王寺を日光山に整備します。一方、江戸には「東の比叡山」東叡山寛永寺を創建し、関東での天台宗発展の基礎を築きました。本章では、江戸文化の一つとして大きな存在感を放つ、徳川将軍家の庇護が生んだ華麗な江戸天台の遺品をご紹介します。
★慈眼大師縁起絵巻、絵=住吉具慶筆・詞書=胤海筆 江戸時代・延宝8年(1680)東京・寛永寺蔵
[中巻展示期間 10月26日(火)~11月7日(日)]
寛永寺を創建した慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)の生涯を描いた絵巻物。下巻に詞書を記した弟子の胤海(いんかい)と、絵巻を描いた住吉具慶(すみよしぐけい)による奥書があり、延宝7年(1679)から翌年にかけて制作されたことがわかります。華麗な彩色と愛らしい人物描写に特徴があり、江戸幕府御用絵師を務めた具慶の基準作として重要な作品です。写真は、寛永寺境内を描いた場面です。
★重要文化財 慈眼大師(天海)坐像、康音作 江戸時代・寛永17年(1640)  栃木・輪王寺蔵
慈眼大師天海の生前に造られた肖像(寿像)。天海は、徳川家康、秀忠、家光の絶大な帰依を受け、江戸城の鬼門に東叡山寛永寺を創建し、比叡山延暦寺の復興造営に尽力するなど八面六臂の活躍を見せました。寿像ならではの写実性に富み、老いてもなお威厳をまとった迫力のある姿に、天海の力強い生きざまをうかがわせます。
★岡山県明王寺「聖観音菩薩立像」(平安前期)
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参考文献
立川武蔵『最澄と空海』講談社1998
「最澄と天台宗のすべて」図録、東京国立博物館2021
武覚超「「最澄と天台宗の歴史」p8-13
皿井舞「伝教大師最澄の革命」p56
皿井舞「最澄自刻の薬師如来像」p71
皿井舞「慈恵大師良源 救済と調伏の力をもつ高僧」p152
土屋貴裕「魔仏一如――中世の天狗の実像」p288
宇代貴文「根本中堂と不滅の法灯」p292
瓜生翠「天海僧正と一切経」p305
皿井舞「最澄と東国」p314
大久保正雄3「空海と嵯峨天皇、空海と最澄、嵯峨天皇と平城上皇」
大久保正雄4、空海『秘密曼荼羅十住心論』
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と戦いの叙事詩、生命の根源
https://bit.ly/315UPn8
大久保正雄【空海、理念と象徴、密蔵深玄翰墨難載。更仮図画開示不悟】
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt

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伝教大師1200年大遠忌記念
「最澄と天台宗のすべて」東京国立博物館10月12日~11月21日

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2096#1
九州会場(2022年2月8日~3月21日、九州国立博物館)
京都会場(2022年4月12日~5月22日、京都国立博物館)

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