パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂・・・シャガール「夢の花束 」
エドガー・ドガ「バレエの授業」1873-76、オルセー美術館
アレクサンドル・カバネル「クレオパトラ」1883
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第206回
12年前「ヴィルヘルム・ハンマースホイ、静かなる詩情」(2008)には数度、国立西洋美術館に行った。その時、フェルメールとの対比でみた。今回、19世紀デンマーク絵画の黄金時代の作品、スケーイン派、と比較してハマスホイ絵画をみると、スティーブン・キングの世界のようである。『呪われた町』。友人の詩人が、ハマスホイを愛好している。
憂いを帯びる世界。背を向けて佇む、若い女。後期バロック様式の100年前の古い部屋、静かに降り積もる時間。晴朗な夏空を描いた風景画も、霧がかかったように、陰影を帯びる。 だれもいない部屋。
ハマスホイは、100年前の古い家に住み、100年前の家具を集め、古書を1000冊蒐集し、初版本蒐集家で、古い時に刻まれて、51歳まで絵を描きつづけた。1891年、友人の画家、ピーダ・イルステズの妹イーダと結婚。イーダは以降、ハマスホイの室内画のモデルになり、妻イーダの後姿を描きつづけ、その後、誰もいない部屋を描いた。
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時の止まった部屋 誰もいないときこそ、それは美しい
ハマスホイの絵には、夏も冬もない。それは憂いを帯びた、遥か昔の遠い、遠い、彼方にある、こことは別の世界のものである。1906年「独立展」レビューより
「私はかねてより、古い部屋には、たとえそこに誰もいなかったとしても、独特の美しさがあると思っています。あるいは、まさに誰もいないときこそ、それは美しいのかもしれません」ハマスホイ1907
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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デンマーク絵画の黄金時代
19世紀デンマーク絵画、1800~64年、「デンマーク絵画の黄金時代」の風景画は、画家たちが郊外で自然の観察を通し、デンマークの風景を描写する。
スケーイン派、デンマークの外光派
1870年代の画家たちは、デンマーク北端の漁師町・スケーインを発見し、多くの画家がスケーインを訪れ、「スケーイン派」と呼ばれる画家のグループが誕生した。ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ-アナ・アンガとマリーイ・クロイア》1893
北欧の内向する世界「ヒュゲ(hygge:くつろいだ、心地よい雰囲気)」家族、友人と閉じ籠る人々。ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》1891年
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静寂の絵画、ヴィルヘルム・ハマスホイ(Vilhelm Hammershøi)1864年5月15日–1916年2月13日
1891年、友人の画家、ピーダ・イルステズの妹イーダと結婚。1898年、ハマスホイはコペンハーゲンのストランゲーゼ30番地に移住。その後、室内を題材に、《室内——開いた扉、ストランゲーゼ30番地》(1905)や《室内——陽光習作、ストランゲーゼ30番地》(1906)を描く。1909年の秋、ハマスホイはブレズゲーゼ25番地に移住し、《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》(1910)や《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》(1910-11)などの代表作を発表する。51歳で死す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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展示作品の一部
ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》1898年スウェーデン国立美術館蔵 (C)Nationalmuseum, Stockholm / Photo: Nationalmuseum
ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》1905年 デーヴィズ・コレクション蔵 (C)The David Collection, Copenhagen
ヴィルヘルム・ハマスホイ《背を向けた若い女性のいる室内》1903-04年 ラナス美術館蔵 (C) Photo: Randers Kunstmuseum
ヴィルヘルム・ハマスホイ《画家と妻の肖像、パリ》1892
ヴィルヘルム・ハマスホイ《農場の家屋、レスネス》1900、《ライラの風景》1905
コスタンティーン・ハンスン《果物籠を持つ少女》1827
ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ-アナ・アンガとマリーイ・クロイア》1893年 ヒアシュプロング・コレクション蔵 (C) The Hirschsprung Collection
ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》1891年ヒアシュプロング・コレクション蔵 (C) The Hirschsprung Collection
ピーダ・イルステズ《ピアノに向かう少女》 1897年 アロス・オーフース美術館蔵 ARoS Arhus Kunstmuseum / (C) Photo: Ole Hein Pedersen
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★参考文献
ヴィルヘルム・ハンマースホイ、静かなる詩情・・・陽光、あるいは陽光に舞う塵
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「ハマスホイとデンマーク絵画展」図録、東京都美術館2020
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ、静かなる詩情」図録、国立西洋美術館2008
佐藤直樹、監修「ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画」平凡社2020
萬屋健司「ヴィルヘルム・ハマスホイ 静寂の詩人」2020
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ハマスホイとデンマーク絵画展、東京都美術館、1月21日(火) ~3月26月(木)
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山口県立美術館、4月7日~6月7日
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第161回
金木犀の香る森を歩いて、美術館に行く。薄羽蜉蝣の飛ぶ丘、銀杏並木を歩き、グリーグ『ペールギュント』ソルベーグの歌が胸に浮かぶ。放浪の旅から帰国後、ムンクが愛したオースゴールストラントの海、月光の輝く海と女たち。
「私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた」ムンク
30歳の時の作品、エドヴァルド・ムンク『叫び』。怖れおののいて耳を塞いでいる姿。血のように赤く染まったフィヨルドの夕暮れ、赤い空、暗い背景、遠近法の構図。「自然を貫く果てしない叫び」。この主人公が叫びを発しているのではない。『叫び』、4枚の絵画がある。(1893テンペラ、クレヨン、1893クレヨン、1895パステル、1910テンペラ)
*大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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【エドヴァルド・ムンク、波瀾の生涯、愛と絶望と放浪の果て帰国、2万8千点、80歳で死す】30歳の作品『叫び』(1893)で世界に名をとどろかせたムンク。26歳から46歳まで、外国を放浪。1892年29歳の時「ムンク事件」、批評家の攻撃でベルリンの個展が1週間で打ち切り。1902年39歳の時、結婚を迫る恋人トゥラ・ラーセンを拒否、破局、銃爆発事件で指を負傷。1909年46歳の時、クリスチャニアに帰国。1927年、64歳、ベルリンとオスロで回顧展。1940年77歳。全作品、2万8千点の作品をオスロ市に遺贈。1944年、80歳で死去。
【波瀾の生涯】エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。1863年、5歳の時、母死す、1877年、姉ソフィエ、結核で死す。17歳、画学校、入学。1889年、26歳、パリ留学。父、脳卒中で死去。46歳で帰国、『地獄の自画像』(1909)。
1916年、エーケリーの丘の家ヘ移り住んだ後、多数の召使兼モデル志願の若い女たちがムンクの家を訪れた。
『すすり泣く裸婦』(1913-14)に描かれた女、女召使兼モデル、16歳のインゲボルク・カウリン、ムンク50歳と恋に陥る。インゲボルグに惹かれ合うが彼女には婚約者がいた。
「文学、音楽、藝術は生血によって制作される。藝術は生きた人間の血なのだ。作品は、魂と意志をもつ結晶であり、子供である」エドヴァルド・ムンク
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い』
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エドヴァルド・ムンク『叫び』「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」ムンク『日記』
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展示作品の一部
エドヴァルド・ムンク《叫び》テンペラ・油彩画(1910年?)オスロ市立ムンク美術館
ムンク「絶望」1892-94 キャンバスに油彩 92×67cm ティール・ギャラリー蔵
ムンク《マドンナ》1895年 リトグラフ
ムンク《病める子Ⅰ》1896年 リトグラフ 43.2×57.1cm
ムンク《自画像》1882年 油彩、紙(厚紙
ムンク《夏の夜、人魚》1893年、オスロ市立ムンク美術館蔵
ムンク《星月夜》1922-24年 オスロ市立ムンク美術館蔵
ムンク『地獄の自画像』(1909)
ムンク『すすり泣く裸婦』(1913-14)
ムンク『緑色の服を着たインゲボルク』(1912)
ムンク『森の吸血鬼』(1916-18)
ムンク《生命のダンス》(1925)
ムンク《自画像、時計とベッドの間》(1940-43)
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参考文献
大久保 正雄『藝術家と運命との戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・カミーユの愛と死
https://bit.ly/2ncZAIR
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
https://bit.ly/2vikIlL
「ムンク展 共鳴する魂の叫び」図録2018
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「ムンク展」(国立西洋美術館 2007年10月6日(土)—2008年1月6日(日)
「ムンク展 画家とモデルたち Edward Munch and his Models」(伊勢丹美術館1992)
「ムンク展 愛と死 The Frieze of Life」(出光美術館1993)
「ムンク展 EDWARD MUNCH」(世田谷美術館1997)
「ムンク展 生の不安―愛と死」(東京国立近代美術館1981)
「冬の国―ムンクとノルウェー絵画」(国立西洋美術館1993)
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世界で最もよく知られる名画の一つ《叫び》を描いた西洋近代絵画の巨匠、エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。画家の故郷、ノルウェーの首都にあるオスロ市立ムンク美術館が誇る世界最大のコレクションを中心に、約60点の油彩画に版画などを加えた約100点により構成される大回顧展です。
複数描かれた《叫び》のうち、ムンク美術館が所蔵するテンペラ・油彩画の《叫び》は今回が待望の初来日となります。愛や絶望、嫉妬、孤独など人間の内面が強烈なまでに表現された代表作の数々から、ノルウェーの自然を描いた美しい風景画、明るい色に彩られた晩年の作品に至るまで、約60年にわたるムンクの画業を振り返ります。
――
「ムンク展 共鳴する魂の叫び」東京都美術館、10月27日-2019年1月20日
https://www.tobikan.jp/
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第153回
灼熱の夏の午後、森陰の道を歩いて美術館に行く。面相筆の細密画、乳白色の肌の画家の旅を想う。
旅する画家、藤田嗣治。藤田嗣治は、1913年27歳でパリに旅立つ。1920年代、モンパルナスで活躍する。1930年代、中南米・アジア・日本へ旅する。1949年、日本を去る。絶望の離日。63歳でニューヨークへ旅立つ。1950年パリに帰還。藤田、ヴィリエ・ル・バクルに住む。【藤田嗣治 最後の旅】帰る国を失った画家。最後の作品、ランスの『平和の聖母礼拝堂』1966-67。「それは後世に残るもの。私が生きたことの思い出として残したいと願う永遠の作品なのです。私の仕事のすべてを天にささげます。それが私の喜びなのです」
【藤田嗣治 NYの旅】藤田嗣治『カフェ』 1949 は、ニューヨークにて「パリのカフェにて便箋を置いたまま物思いにふける。パリを想う藤田自身の姿」。『美しいスペイン女』1949、NYにてレオナルド『モナリザ』を想起する画家。パリに想いを馳せる。藤田嗣治の運命の時は、4つの時があった。1918年、1923年、1949年、1966年。
『二人の少女』1918、『五人の裸婦』1923、『自画像』1929、『争闘 猫』1940、藤田嗣治『カフェにて』( 1949 )。**
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
大久保正雄『藝術家と運命の戦い 運命の女』
――
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、苦難の道を歩いた画家】
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、32歳にして様式確立。黄金時代1918-1929 81歳で死す】
藤田嗣治(1886-1968)。1905年に19歳で東京美術学校西洋画科に入学する。が、黒田清輝らの勢力に合わなかった。
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦、藝術家の運命】
1913年(大正2年)に渡仏、パリのモンパルナスに住む。エコール・ド・パリの画家たちと交友する。シャガール、モディリアーニ、ジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイーズ・キスリング。第一次大戦1914-18。戦時下のパリで、絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖をとる。
【藤田嗣治 乳白色の肌の裸婦 藝術家の運命】
1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚。初めて絵が売れる。7フラン。シェロン画廊で最初の個展。絵も高値で売れるようになる。1918年、第1次大戦、終戦。面相筆による線描を生かした技法による、透きとおる画風を、このとき確立。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙される。急速に藤田の名声は高まる。
【藤田嗣治 中南米、日本への旅 苦難の道を歩いた画家】
1933年、南アメリカの旅から日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911-2009)と出会い、一目惚れ。翌年5度目の結婚。終生連れ添う。『争闘 猫』1940。日本において陸軍美術協会理事長に就任。『アッツ島玉砕』(1943)などを描く。戦後、戦争責任を追及され藤田一人だけを追放。63歳で1949年日本を去る。絶望の離日。祖国で正当な評価を得られない失意の日々。「絵描きは絵だけを描いて下さい。仲間げんかをしないでください。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」藤田
【藤田嗣治 日本を去りNYに行く、苦難の道を歩いた画家】
1949年日本を去る。63歳、ニューヨークに行く。『カフェ』『美しいスペイン女』。まだ入国を許されないパリを想う。
1950年、フランス入国許可が下り、ニューヨークからパリに行く。
1955年にフランス国籍を取得、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章、受章。1959年73歳で、カトリックに改宗。レオナール・フジタと名付けられる。
【藤田嗣治 苦難の道を歩いた画家、最後の旅】
1965年、79歳でランスの礼拝堂の建設に着手。マルヌ県ランスにあるマム*の敷地内に『平和の聖母礼拝堂』「フジタ礼拝堂」1966の設計、内装デザイン。80歳で90日間、漆喰に描く、フレスコ画。完成2か月後、倒れる。「私の仕事のすべてを天にささげます」1968年1月29日にスイス、チューリヒにて死す。81歳。
【フレスコ画】漆喰が乾かぬ間に、インスピレーションのまま描くスピード。命を懸けて描いたフレスコ画。受胎告知に始まる『キリストの受難』キリストの生誕、洗礼、十字架への道、磔、キリスト降架、から復活まで。祭壇画の祈る人々の手に仏像の祈りの手を描く。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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藤田嗣治、代表作
藤田嗣治『私の部屋、目ざまし時計のある生物』1921、『ジュイ布のある裸婦』1922、『五人の裸婦』1923、『舞踏会の前』1925、『自画像』1929、『争闘 猫』1940、『私の夢』1947、『カフェにて』( 1949 )、『美しいスペイン女』( 1949 ) 豊田市美術館蔵
藤田嗣治『花の洗礼』(1959)、『礼拝』(1962-63 )パリ市立近代美術館蔵、『タピスリーの裸婦』1923年 京都国立近代美術館蔵
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*「(藤田は)面倒見が良く人懐っこい。‟孤高の画家“ではありませんでした」高階秀爾
*「ノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂」
*シャンパン・メーカー、マムの社長ルネ・ラルー(René Lalou)。
レオナール=フジタと最後の妻君代はここに埋葬されている。
**林洋子「藤田の4つの年、1918、1923、1940、1949」2018.7.30
「美の巨人たち、レオナール・フジタ『平和の聖母礼拝堂』」2008.12.27
――
参考文献
「生誕120年 藤田嗣治展-パリを魅了した異邦人-」東京国立近代美術館、2006年3.28-5.21
「没後40年レオナール・フジタ展」、上野の森美術館・・・魂の昇華
https://bit.ly/2LqLRbw
『没後50年 藤田嗣治展』図録、2018
――
大久保正雄『藝術家と運命の戦い、運命の女』
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
――
★「没後50年 藤田嗣治展」東京都美術館、7月31日-10月8日
京都国立近代美術館、10月19日-12月16日
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第146回
アレクサンドロス大王は、20歳で復讐を果たして人生の旅に旅立つ。ペルシア帝国を滅ぼし、バビロンにて33歳で死す。ナポレオンは、51歳で絶海の孤島セント・ヘレナで死す。王妃マリー・アントワネット、コンコルド広場にて処刑、37歳。波瀾の人生の果てに、若くして死す。人生の戦いに勝利した偉大な王は、何を手に入れたのか。価値ある生とは何か。人生の冒険に破れた詩人。人生の戦いに破れた哲人、理念を追求する思想家。輝く天の仕事をなし遂げる人。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
――
【偉大なる王の死】アレクサンドロス3世、33歳。ダレイオス1世66歳。ダレイオス3世60歳。ラムセス2世92歳、子供100人を残す。ハトシャプスト女王49歳。アクエンアテン王29歳。ツタンカーメン18歳。アンケセナーメン27歳。美しき宗教改革者ネフェルティティ63歳。絶対権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【フランス革命の死】マリー・アントワネット37歳。ルイ16世38歳。ロベスピエール36歳。ダヴィッド77歳。ナポレオン51歳。1804年、ナポレオン法典制定、帝位につく。ナポレオン1世となる。
【ルネサンスの死】1492年、ロレンツォ・デ・メディチ43歳。1478年4月26日、ジュリアーノ・デ・メディチ25歳。アンジェロ・ポリツィアーノ39歳。ミランドラ31歳。フィチーノ62歳。ボッティチェリ65歳。ミケランジェロ88歳。シクストゥス4世70歳。1499年プラトンアカデミーの思想家、死す。1600年、ジョルダーノ・ブルーノ52歳。
【復讐する精神】アレクサンドロスは、父王フィリッポス2世を側近貴族によって暗殺、復讐を果たして人生の旅に旅立つ。紀元前336年、アレクサンドロス20歳。織田信長は、織田信行の二度目の謀反に復讐を果たし、人生の冒険に旅立つ。弘治三(1557)年、信長24歳。
【ナポレオン】余の栄誉は40回の戦勝ではなく、永久に残るのは余の民法典である。
ナポレオン、身長168。27歳でイタリア遠征軍司令官に抜擢され、第1次対仏大同盟を崩壊させ、イギリスとインドの通商を絶つため、エジプト遠征。1800年第2次対仏大同盟を解体、終身統領となる。1804年、ナポレオン法典制定、帝位につく。ナポレオン1世となる。1810年、オーストリア皇帝の長女マリー・ルイーズと結婚。1812年、ロシア遠征挫折。1813年、諸国民戦争に敗れ、エルバ島に流刑。1815年、エルバ島を脱出し、帝位につく。ワーテルローの戦いで破れ、絶海の孤島セント・ヘレナ島に流される。51歳で死す。
【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。
*「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。」Utilitarianism.1861
“It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.” Utilitarianism.1861
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
大久保正雄『藝術と運命との戦い、運命の女』
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展示作品の一部
「アレクサンドロス大王の肖像」、通称《アザラのヘルメス柱》2世紀前半、リュシッポスによる原作(前330年頃)に基づきイタリアで制作イタリア、ティヴォリ出土 大理石(ペンテリコン産)
ディエゴ・ベラスケス「スペイン王妃マリアナ・デ・アウストリア」1652
アントワーヌ=ジャン・グロ「アルコレ橋のボナパルト(1796年11月17日)」1796年
クロード・ラメ「戴冠式の正装のナポレオン1世」1813年
アンヌ=ルイ・ジロデ・ド・ルシー=トリオゾンの工房「戴冠式の正装のナポレオン1世の肖像」1827年
ヴェロネーゼ(本名パオロ・カリアーリ)「女性の肖像」、通称「美しきナーニ」1560年
セーヴル磁器製作所(ルイ=シモン・ボワゾに基づく)「フランス王妃マリー=アントワネットの胸像」1782年 ビスキュイ(素焼きの硬質磁器)
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「フランス王子、オルレアン公フェルディナン=フィリップ・ド・ブルボン=オルレアンの肖像」1842年
サンドロ・ボッティチェリと工房「赤い縁なし帽をかぶった若い男性の肖像」1480-1490年頃 ロレンツォ・イル・マニフィコの従兄弟であった、ロレンツォ・トルナブオーニ(1465-1497)とする説がある。
ジャック=ルイ・ダヴィッドと工房「マラーの死」1794年頃 油彩/カンヴァス
「青冠をかぶったアメンホテップ3世」在位前1391-1353
子はアメンホテプ4世アクエンアテン王。老王アメンホテプ3世は、若く美しいネフェルティティを迎えるが自身は病に苦しみ、ほとんど政治は正妃のティイに任せ、彼女は、父との不仲で中央から遠ざけられていた、12歳の息子のアメンホテプ4世を呼び寄せ、ネフェルティティと結婚させる。
「神官としてのアウグストゥス帝」
「トガをまとったティベリウス帝」
「胴鎧をまとったカラカラ帝」
フランシスコ・デ・ゴヤ「ルイス・マリア・デ・シストゥエ・イ・マルティネス」1791
ジュゼッペ・アルチンボルド「春」1573年 油彩/カンヴァス
――
参考文献
大久保正雄『地中海紀行』53回アレクサンドロス大王1
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第73回
ハプスブルク家 マリーアントワネット 革命に散る
https://t.co/LsGpsWXdsT
――
★「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」
国立新美術館、5月30日-9月3日
大阪市立美術館、9月22日(土)- 2019年1月14日(月・祝)
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
真夏の夕暮れ、美術館に行く。友人たちが集まり、美術史家、池上英洋先生によるレクチュアである。展示室で絵をみながら講義をきく。
講義によると、だまし絵には次の6つの分野がある。
1、擬似彫刻 (高価な大理石の代用、グリザイユ技法、ダミー・ボード)例えば、ヤン・ファン・エイク「ゲントの祭壇画」*グリザイユ:彩色による立体感。
2、擬似建築 (画面を窓として奥を見る、画面の奥に広がる仮想空間) 例、ジョット「スクロベーニ礼拝堂」
3、額縁の否定・逆利用 (窓のこちら側にある世界を空想させる)例、ラファエロ『システィーナの聖母』Raffaello,La Madonna Sistina,1513、天使プットが額縁の下枠にもたれ、カーテンの幕がたれている。トロンプルイユ(騙し絵)の一種である。
4、“超”現実主義 (写実技法の誇示)例、カラヴァッジョ『果物籠』。ガラス瓶に写りこんだ物体を描き込み、書棚に並ぶ本や収集品を現実に存在するように再現。静物画は、ヴァニタスを表現する。「形あるものは滅びる」。象徴として髑髏が描かれ、果物は腐る。17世紀フランドルのヘイスブレヒツは、だまし絵の帝王と呼ばれる。
5、アナモルフォーズ (強調遠近法・歪曲画)17世紀の対宗教改革における幻視ヴィジョンの追求として、錯視を利用し、一種のモラルを風刺的に隠した作品(判じ絵)。例、ハンス・ホルバイン「大使たち」1533、ボッロミーニ「スパダ宮 錯視回廊」17世紀
6、多義図 (遠近法的な仕掛けを用いない錯視を用いた多義図=寄せ絵)アルチンボルト『ウェルトゥムヌス』これには、三重の主題が隠されている。果物(四季を超越した神格的存在)、ウェルトゥムヌス神の像、皇帝の肖像。多義図は「だまし絵」トロンプルイユではない。
■すべての絵画は「騙し絵」である
池上先生は、結論として「絵画とは画面の向こうに何かがあるように描くもの」であり「すべての絵画は"騙し絵"である」と示している。例えば、マザッチョ『聖三位一体像』1426(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会)は、歪曲された教会の内廊を背景にキリストの磔刑が描かれている。これを聞いて次のように考えた。
■ミメーシスとしての藝術
プラトンは『国家』10巻において「ミメーシス(描写)は現実を対象とする」という。が、さらに「対象としての現実はイデアの似像(コピー)である」という。目に見えるものが真実ではない。
だまし絵は、自ら絵画の限界を示すことによって、藝術は対象そのものではない、藝術はミメーシスである、ことを示している。目に見える世界が欺くことを示している。
「だまし絵」とはトロンプルイユ(フランス語「目だまし」)を示し、観る者に束の間、一時、目の前にあるものは本物の事物であるという錯覚を起こさせることを意図する絵画の総称である。
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★展示構成
第1章 トロンプルイユの伝統
第2章 アメリカン・トロンプルイユ
第3章 イメージ詐術(トリック)の古典
第4章 日本のだまし絵
第5章 20世紀の巨匠たち -マグリット・ダリ・エッシャー
第6章 多様なイリュージョニズム -現代美術におけるイメージの策謀
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展示作品
アントニー・ヴァン・ステーンウィンケル「ヴァニタス―画家とその妻の肖像」1630年代 油彩・キャンヴァス アントワープ王立美術館
ジャン・ヴァレット=プノ「サラバットの版画のあるトロンプルイユ」18世紀
ジャン=フランソワ・ド・ル・モット「トロンプルイユの静物」1685
ギヨーム=ドミニク・ドンクル「トロンプルイユ」1785
コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ「トロンプルイユ」1665
ジュゼッペ・アルチンボルド「ウェルトゥムヌス(ルドルフ2世)」1590年ごろ、スコークロステル城(スウェーデン)、SkoklosterCastle,Sweden
コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ「食器棚」1663、フレズノ市博物館(カリフォルニア州)
ルネ・マグリット「夢」「白紙委任状」1965ワシントン・ナショナル・ギャラリー
サルヴァドール・ダリ「スルバランの頭蓋骨」1956「アン・ウッドワード夫人の肖像」
ピエール・ロワ「田舎の一日」1931ポンピドゥーセンター
エッシャー「上昇と下降」1960
河鍋暁斎「幽霊図1883年ごろ、掛幅(描表装)絹本着色、オランダ国立民族学博物館(ライデン)
福田美蘭「壁面5°の拡がり」1997年、変形額、国立国際美術館
トリック・ヒューズ「水の都」2008
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夏の夜の宴
美術館の後、教授、美術マニアたち、青い宝石さん、彩音さん、優佳さんたちと、恒例の夜の宴。終電まで渋谷で藝術談議に盛り上がる。彼女たちは終電がなくなり「ミッドナイト・クルージングに出かけます」という。2009/07/17
――
「だまし絵」は、ヨーロッパにおいて古い伝統をもつ美術の系譜のひとつです。古来より芸術家は迫真的な描写力をもって、平面である絵画をいかに本物と見違うほどに描ききるかに取り組んできました。それは、そこにはないイリュージョンを描き出すことへの挑戦でもありましたが、奇抜さだけでなく、あるときは芸術家の深い思想を含み、また時には視覚の科学的研究成果が生かされるなど、実に多様な発展を遂げました。本展覧会では、16、17世紀の古典的作品からダリ、マグリットら近現代の作家までの作品とともに、あわせて機知に富んだ日本の作例も紹介し、見る人の心を魅了してやまない「だまし絵」の世界を堪能していただきます。
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★「奇想の王国 だまし絵」展、Bunkamuraザ・ミュージアム
2009年6月13日(土)-8月16日(日)
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/09_damashie/index.html
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
羽のあるニンフ、香水壜、常夜灯・二羽の孔雀。ラリックのガラス・コレクションが美しい。ギリシア神話、西洋美術のモチーフを用いた作品が圧倒的に美しい。400点、最大規模、膨大な作品が、優雅な空間に展示されている。
エミール・ガレより魅力的である。アール・ヌーヴォーからアール・デコへ、装飾藝術を極めたガラスの美。必見。
7月10日金曜日午前中、某所にて「論文作成」講義を行なう。午後、六本木の3つの美術展に行く。疲れていたので、国立新美術館「ラリック展」、ソファで昼寝する。サントリー美術館「天地人」にて狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565上杉博物館蔵)をみる。人影疎らな美術館で『洛中洛外図屏風』をじっくり見る。フジフィルムスクエアにて大山行男「日本の心 富士山展」みる。夕暮れ時、友人に招かれた、上野、東京文化会館小ホール、田村麻子ソプラノリサイタルに行く。シューベルトの歌曲、ドビッシー、ドリーブ、ヘンデル、バーンスタイン、グノーのオペラアリア3曲を聴く。
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展示構成
第1部 華やぎのジュエリー
1.目覚め
2.愛の女神アリス
3.花開くジュエリー:モティーフの展開
自然-花
自然-草木
自然-動物
象徴-女性と花
象徴-風
象徴-水
象徴-ダンス/音楽
象徴-神話/宗教/物語
デザイン画
4.グルベンキアンの愛したラリック
5.透明の世界へ
第2部 煌めきのガラス
1.ガラスへの扉
2.ふたつの時代、ふたつの顔
アール・ヌーヴォーのなごり
アール・デコへの展開
3.創作の舞台裏
4.シール・ペルデュ(蝋型鋳造)
5.1925年アール・デコ博覧会
6.皇族・王族とラリック
7.香りの小宇宙
コティの香水瓶
挑戦的デザイン
8.装いのガラス
アクセサリー
化粧道具
9.スピードの時代
10.室内のエレガンス
11・テーブルを彩るアート
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ルネ・ラリック(René Lalique、1860-1945)
19世紀-20世紀のフランスのガラス工芸家、宝飾(ジュエリー)デザイナー。
アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した。
前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、第一人者として名声を得た。宝飾デザイナー時代から、素材としてのガラスに注目していたが、ガラス工芸家に転進するのは50歳を過ぎてからである。花瓶のような工芸品から、豪華客船の装飾、ガラス製の噴水に至るまで様々な分野の作品があり、後半生は近代ガラス工芸の開拓者として、また素材としてのガラスの可能性を広げた。ガラス工芸史上、特筆される存在。
――
★生誕150年 ルネ・ラリック 華やぎのジュエリーから煌きのガラスへ
2009年6月24日(水)-2009年9月7日(月)、国立新美術館
http://
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
春風の吹く4月の晴れた夕暮れ、美術館に行く。愛の神、エロスの像に見惚れてたたずむ若い女性がいる。
「古代エジプトのハトホル神に授乳するイシス女神」、「愛の神、エロス、クピド、アモール」、赤像式スタムノス「蛇を絞め殺す幼児ヘラクレス」、「キリストとマリア、聖母子像」、「東方三博士の礼拝」、「アンティステリア祭、酒神ディオニュソスの祭」、「眠るエロス」、「画家の亡くなった娘への思い」、<子どもの図像>をめぐる四千年の文化史である。
ドニ・フォワヤティエ「アモール」(19世紀)に、見惚れてたたずむ若い女性がいる。ギリシアのペンテリコン大理石の肌が美しい。翼あるエロスは弓と矢をもつ。その矢で射貫かれると愛を抱く。女性は矢で射貫かれたのである。
Denis Foyatier (1793‐1863),Amour
■展示作品
ヤン・ファン・ハンスベルヘン「授乳する女性」1675
ジャン=バティスト・ドフェルネ「悲しみにくれる精霊」大理石
ジャン=フレデリック・シャル「生のはかなさへの思い」1806
ジャン=バティスト・ルイ・ロマン「無垢」
ジョシュア・レイノルズ「マスター・ヘア」1788
ペーテル・パウル・ルーベンス「母と二人の子どもと召使」
フェルディナント・ボル「山羊の引く車に乗る貴族の子どもたち」
ジャック・フランソワ・サリ「髪を編んだ少女の胸像」
ジョシュア・レノルズ「マスター・ヘア」
ピエール=ジャン・ダヴィッド・ダンシェ「テレーズ・オリヴィエ」
ベラスケス工房「フランス王妃マリー=テレーズの幼き日の肖像」
ティツィアーノ「聖母子と聖ステバノ、聖ヒエロニムス、聖マウリティウス」
ペーテル・パウル・ルーベンス「少女の顔」
「子どものサテュロス」ローマ帝国時代
ドニ・フォワヤティエ(1793-1863)「アモール」
「子どもの音楽家のフリーズ」
デュショワゼル「アモール」
フランソワ・ブーシェ「アモールの標的」
■展示構成
1.誕生と幼い日々
2.子供の日常生活
3.死をめぐって
4.子供の肖像と家族の生活
5.古代の宗教と神話のなかの子ども
6.キリスト教美術のなかの子ども
7.空想の子ども
ルーヴル美術館の7部門のセクション(古代エジプト美術部門、古代オリエント美術部門、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門、彫刻部門、美術工芸品部門、絵画部門、素描・版画部門)から合計約200点が出品されている。古代エジプト中王国から19世紀半ばまで、4000年の歴史を展望する。絵画や彫刻の他、古代エジプトの少女のミイラ、衣服や靴や玩具、書字板、エマイユの封蝋入れ、メダル。様々な形態で作られた子供のイメージ。
■ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち、国立新美術館
L'enfant dans les collections du musée du Louvre
2009年3月25日(水)-6月1日(月)
http://www.asahi.com/louvre09/
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
エコール・ド・パリの寵児として活躍した世界的画家、藤田嗣治Leonard Tsuguharu Foujita(1886~1968)の幻の群像大作4点すべてが日本で初めて一堂に会する「レオナール・フジタ展」。フランスにおける藤田嗣治の藝術に焦点を当てた展覧会である。
1928年に制作された幻の大作、「構図」「闘争」。「闘争」の2点は長い間、行方不明だった。
■繊細にして可憐な藝術
晩年のフランス時代(1955~1968)の作品は繊細で可憐である。藤田嗣治は「乳白色の肌と繊細な鋭い線」が魅力である。
晩年の宗教画は繊細で美しい。パリ市立近代美術館(Musee d'art moderne de la Ville de Paris)所蔵の作品群が美しい。「キリスト降誕」「磔刑」「黙示録(七つのトランペット)」(1960)、「花の洗礼」「十字架降下」(1959)、「礼拝」(1962-63)。「黙示録(四騎士)」、「黙示録(新しいエルサレム)」(1960)。これらは「生誕120年 藤田嗣治展LEONARD FOUJITA」東京国立近代美術館2006、に展示されていたが、何度見ても美しい。
その他、「イヴ」(1959、ウッドワン美術館)、そして「聖母子」(1959、フランス個人蔵)が良い。
■「平和の聖母礼拝堂」・・・魂の昇華
「平和の聖母礼拝堂」(chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)は、シャペル・フジタ(Chapelle Foujita)と呼ばれる。最晩年に到達した至高の境地である。壁画のフレスコ画と同寸の綿密なデッサンが展示されている。この絵の美しさ、高貴な輝きには、宗教の壁を超えて、敬意を表さざるを得ない。
「文藝春秋」2006年2月号に藤田嗣治夫人、藤田君代のエッセイがある。「祖国に捨てられた天才画家」。このタイトルが藤田嗣治の人生の苦難を象徴している。
「平和の聖母礼拝堂」は、不屈の才能の優れた才能たるゆえんを顕示して、美へのあくなき挑戦の足跡である。画家の息づかいを感じる。藝術を極めた人生である。
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エコール・ド・パリの寵児として活躍した世界的画家、藤田嗣治(1886~1968)の幻の群像大作4点すべてが日本で初めて一堂に会する「レオナール・フジタ展」。フランスにおける藤田嗣治の藝術に焦点を当てた展覧会である。
1928年に制作された幻の大作、「構図」「闘争」。「闘争」の2点は本邦初公開である。長い間、行方不明だった。
「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘I」「争闘II」と名付けられたこの連作は、1928年に制作され、いずれも2点1組で縦3メートル、横6メートル。翌年「構図」のみ日本で発表されたのち所在不明で、1992年にパリ郊外の倉庫で発見された大作である。また、その際見つかったパリ日本館壁画と関連する貴重な大作「馬とライオン」も、世界初公開作品として加わる。
これら5点は藤田が最晩年を過ごしたエソンヌ県に寄贈され、仏政府が日本の国宝に相当する国家財産として認定、フランス第一級の修復家の手によって、昨秋、大規模な修復を終えた。現在、エソンヌ県ではこれらを常設展示する美術館の建設を計画中であり、本展が日本における最初で最後の一挙公開となる。
日本人でありながらも、フランス人レオナール・フジタとしてその生涯を終えた数奇な異邦人、藤田嗣治。帰化し、カトリックの洗礼を受け改名するに至った彼の晩年に焦点をあて、エソンヌ期のアトリエの一部を再現し、日本初公開の豊富な生活資料や作品などとともに展示。宗教画の傑作や、自身が「人生最後の仕事」として手掛けた、ランス「平和の聖母礼拝堂」のフレスコ壁画の習作群、本展のために再現されたステンドグラスも特別展示するなど、出品総数約230点(油彩約35点、水彩・ドローイング約90点、アトリエ関連作品・資料約100点)という圧倒的なスケールでその実像に迫る。
展示構成
第1章 初期、そしてスタイルの確立へ
繊細な筆致と「素晴らしき乳白色」の肌によって描かれた裸婦で、当時のパリ画壇の話題をさらい、一躍、「エコール・ド・パリ」の寵児として、その名を全ヨーロッパに轟かせた藤田嗣治。世界のフジタとなった時代の作品を中心に、「大作群」へとつながる独特な人物表現にスポットをあてて紹介します。
第2章 大画面と群像表現、「大作」への挑戦
80年ぶりに日本に里帰りする「構図」の連作2点、そしてこの「構図」と対をなす「争闘」の連作2点(日本初公開)が完全な形で一堂に会し、日本で初めて同時公開となります。これらの「大作」を中心に据え、主題と密接な関わりを持つ作品とともに、フジタの群像表の謎に迫る。
第3章 ラ・メゾン=アトリエ・フジタ― エソンヌの晩年
最晩年を過ごしたエソンヌ県の小村ヴィリエ=ル=バクルの“ラ・メゾン=アトリエ・フジタ” Maison atelier Foujitaには、現在でもさまざまな作品、資料が豊富に残されています。手作りによる多彩な家具や食器、小物、人形、アトリエや教会の模型、写真などは、作家の実生活を生き生きと伝えるものとして、今も大切に当時のままの状態で保存されています。今回、エソンヌ県の協力により、これらの資料をまとまったかたちで日本で初公開し、アトリエ・フジタを再現する。
第4章 フジタ、魂の昇華「平和の聖母礼拝堂」(chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)
建物内部を覆うフレスコ画、ステンドグラスはもとより、細部にいたるまで自ら装飾を手掛けた、ランスの「平和の聖母礼拝堂」(Chapelle Foujita)。この礼拝堂のためにフジタは、壁画のフレスコ画と同じサイズの綿密なデッサンを残していた。これら原寸大の迫力あるデッサンとともに、建築家との詳細な手紙のやりとりや貴重なエスキースなど、礼拝堂建設に関する豊富な資料を公開。フジタの宗教観に迫ります。さらに、本展のために再制作されたステンドグラスも特別展示。フジタが晩年を捧げて建立した礼拝堂の全貌とそれに連なる宗教画を展示する。
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「没後40年 レオナール・フジタ展」上野の森美術館、2008年11月15日~2009年1月18日
http://wwwz.fujitv.co.jp/events/art-net/index.html
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
秋晴れの午後、木枯らしが吹き枯葉舞う日、紅葉の枯葉の絨緞を踏みしめ、森の中を歩いて美術館に行く。
■誰もいない部屋
ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi 1864-1916)は、人のいない風景、後ろ向きの肖像、人のいる室内、誰もいない室内、を描いた。陽光が銀色に反射する湖は、淡い光で霧と靄に包まれたようである。交通の激しい道路、人の満ちあふれた都市も、人のいない空間として表現される。薄い霧の立ち込めたような場所として描かれる(「ゲントフテ湖、天気雨」1903)。例外なく、天候は曇り日である。あるいは、淡い日差しである。何もない室内空間は、微妙な陰影をもって表される。
初めは妻イーダの後姿が描かれていたが、次第に、人のいない部屋へと展開を遂げて行く。「たとえ人がいなくても、誰もいないからこそ部屋は美しい」(ハンマースホイの言葉)
ハンマースホイが暮らした「室内、ストランゲーゼ30番地」の家の7つの部屋、その中の3つの部屋だけを描いている。
フェルメールの影響
ハンマースホイは、1887年5月23才の時、初めてオランダを旅し、デン・ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムを訪れ、フェルメールとデルフト派の絵画を見て研究した。「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が都美術館で同時に開催されているのは、奇しき因縁である。静かさの支配する空間、室内の微光、人の少ない室内空間、これらの特徴をフェルメールと共有している。
ハンマースホイは、最初の作品「若い女性の後姿」は、妹アナ・ハンマースホイをモデルとしたものだが、写真撮影してから構成している。ハンマースホイは写真のような絵である。フェルメールの絵が写真のようだといわれるように。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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■白い扉
「白い扉」1888、「イーダの肖像」1890、「陽光習作」1906、「白い扉、あるいは開いた扉」1905.これらの作品の本質は、「音のない沈黙の支配する世界」である。部屋に差し込む光を描くためだけに空間を描いているようだ。ハンマースホイの絵画は、意味と意味の結びつきを断ち切り、意味のない世界を表現している。これはフェルメールの絵画の世界を解く鍵である。フェルメール後期の絵画は、寓意画の世界から意味のない世界へと到達している。
「陽光、あるいは陽光に舞う塵」(1900)オードロブゴー美術館
この絵画は展示されていない。究極的には、「陽光、あるいは陽光に舞う塵」の世界、誰もいない部屋、淡い光の中で、差し込む陽光に、ハンマースホイの世界は到達する。沈黙の支配する空間は、寂寞と孤独の世界である。「世界には意味がない」ということを表現しているのである。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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★参考文献
『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』図録、国立西洋美術館2008
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展示構成
芸術家の誕生から、主題別に、最後は誰もいない部屋にたどり着くという仕掛である。
1:ある芸術家の誕生
2:建築と風景
3:肖像
4:人のいる室内
5:同時代のデンマーク美術
6:誰もいない室内
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ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi 1864-1916)は、デンマークを代表する画家の一人である。没後、急速に忘れ去られ近年、再び脚光を浴びている。ハンマースホイの作品は17世紀オランダ絵画の強い影響を受け、フェルメールを思わせる静謐な室内画を特徴としている。室内画の舞台は自宅であり、登場人物として妻のイーダが後姿で繰り返し描かれている。イーダの後姿は、我々を画中へと導くが、同時に、陰鬱な冷たい室内と彼女の背中によって、我々は拒絶感を覚える。モノトーンを基調とした静寂な絵画空間が綿密に構成されている。音のない世界に包まれているような感覚に浸る。
ハンマースホイの芸術世界を日本で初めて紹介する本展では、同時期に活躍した、デンマーク室内画派とよばれるピーダ・イルステズやカール・ホルスーウの作品も合わせて紹介します。デンマーク近代美術の魅力に触れることのできる大規模な回顧展。ハンマースホイ約90点にハンマースホイと同時代に活躍したデンマークの画家ピーダ・イルステズとカール・ホルスーウの約10点を加えた総数約100点、これまでにない大規模の回顧展。
*国立西洋美術館
――
★ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情:国立西洋美術館
Vilhelm Hammershøi:The Poetry of Silence、
2008年9月30日(火)~12月7日(日)
http://
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