大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第401回
アンドレ・ブルトンは、1924年「シュールレアリスム宣言―溶ける魚」を発表。
ミロは、シュールレアリストか、細密画家か、〈星座〉シリーズか、本質の画家か。90歳、名声に包まれた画家の本質は何か。
ジュアン・ミロ(1893~1983年)は、1893年スペイン、カタルーニャ州に生まれた同郷のピカソと並び20世紀を代表する巨匠。
太陽や星、月など自然の中にある形を象徴的な記号に変えた、詩情あふれる独特な画風、晩年、日本と交流、日本でも高い人気を誇る。
ミロの70年に及ぶ創作活動全体を振り返る大回顧展「ミロ展」。〈星座〉シリーズをはじめ、世界中から傑作が集結、ミロの芸術の真髄を体感できる大回顧展。
ミロの生涯を振り返る大規模な個展が日本で開催されるのは、画家が存命中の1966年に開催されて以来となる。没後40年を迎え、ミロの創作活動が再評価されている今、本展は改めてミロの業績を顧みる機会となる。また、困難な時代のなかで自由な表現を希求し続けたミロの足跡をたどることは、政治的分断や戦争の脅威が高まる今日、見る者にとって示唆に富む。
――
上智と下愚は移らず。論語、陽貨篇
【権威の化けの皮が剝がれる】あなたが信じた人の豹変を、何人、見たか。【化けの皮】【面が割れる】先生と対面していると、面が割れて、中から蜥蜴が出てきた。【信じていた女の化けの皮が剝がれる】女は化け猫【信じていた人の化けの皮が剝がれる】中から蛇、蜥蜴、蛙、豚、蛇蝎、猫、虎、魔物が出てくる。【宝誌和尚立像】
知識人の化けの皮【人の命令で動く、点燈夫】【ルーティン教授】【我が道を行く】【ライオンだと思っているがただの猫】【王の中の王King of Kings】【闇に潜む棺桶教授】
【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても下落せず、最下の愚者は 、どんなによい境遇にあっても向上しない。どんなに地位と肩書が高くて富裕でも、知性の貧困は隠せない。地位と肩書が高く高度な職業でも、魂の貧困は隠せない。「論語」陽貨篇。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
参考文献
ダリ『記憶の固執』、『記憶の固執の崩壊』・・・スペインの荒涼とした大地、記憶の迷路
https://bit.ly/2PtGnyk
シュルレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
https://bit.ly/2vikIlL
生誕120 周年サルバドール・ダリ―天才の秘密―・・・魔術的写実主義、ヴィーナスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-0c6967.html
デ・キリコ、形而上絵画の謎・・・形而上絵画と古典絵画を往還する
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-bf7c56.html
ミロ展、シュルレアリスム 夜空に描かれた希望、星座が織りなす詩
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/05/post-89b7de.html
――
ミロ、生涯と作品
第1章 若きミロ:芸術への決意 モンロッチ村からパリ 1910-1920
1893年にバルセロナで生まれたミロは、父親の強い希望もあって1910年に会計の仕事に就く。
【ミロ1911年、モンロッチ村】
ミロは1911年、18歳の時にうつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチ村に滞在。このモンロッチ村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えた。
病にかかったのを機に、両親から画家となる許可を得た。
1912年からバルセロナ、フランセスク・ガリの美術学校に通って学び、国際的な前衛芸術運動に共鳴、セザンヌやキュビスム、フォーヴィスム、ダダイズムなどの影響を受けて制作に励む。自然と親しむことで生まれたモンロッチの風景には、カタルーニャ人の資質と現代的な表現が同居した。
【静かな頑固者、細密画的な風景画、樹々、植物を克明に描きこむ】
初期の名作《ヤシの木のある家》1918
1918年夏にモンロッチで描かれた細密画的な風景画の一つ。風景を緻密に描写する作風は1922年頃まで続くが、その作風を告げる重要な節目の作品である。
《ヤシの木のある家》 1918年 油彩/カンヴァス 国立ソフィア王妃芸術センター、マドリード Successió Miró Archive © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5746
《自画像》 1919年 油彩/カンヴァス ピカソ美術館、パリ Successió Miró Archive
【ミロはカタルーニャで、ピカソに会う。ピカソに理解される】
ミロ、個展を開くが、異様な細密画が攻撃される。
第2章 モンロッチ – パリ: シュルレアリスム 田園から前衛の都へ 1920S
1920年、ミロは初めてパリを訪れる。翌年アンドレ・マッソンの隣にアトリエを構え、シュルレアリスムの画家や詩人たちと交流する。以後、ミロはパリとモンロッチを行き来、故郷カタルーニャの大地で、シュルレアリスムに影響を受けた詩的な表現を確立。
【アンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリスムの画家として認められる】1928、35歳
芸術の都パリでシュルレアリスムの画家として名を知られる。1928年頃からコラージュ作品を制作、非芸術的な素材や要素を作品に用いて、伝統的な絵画表現への反抗を試みる。
《オランダの室内Ⅰ》1928 17世紀オランダの画家ヘンドリック・ソルフの絵画を基にして描いた作品。原作の自然主義的な立体感や遠近法を拒絶し、リュートと男性の頭部、フリルの襟を強調して描いている。
《カタツムリ、女、花、星)》1934
第3章 逃避と詩情:戦争の時代を背景に 1930S―1946 〈星座〉シリーズ
【フランコ独裁政権、1936年スペイン内戦が勃発】
ミロはバルセロナからパリへ逃れる。不穏な現実から目を背けるように、ミロの作品は自身の内面を探求する詩的なものへと変化していく。
【星座〉シリーズ 1940年から1941年 47歳】
この時期の傑作が〈星座〉シリーズ。第二次世界大戦が勃発した翌年、1940年から1941年にかけて戦火を逃れるなかで制作された全23点の作品群であり、夜や音楽、星といった要素から着想を得ている。ミロが戦争という苦しい現実から逃避し、詩や音楽に触発されて描き始めた。音楽的な線を持つ儚い画面、夜空に着想を得た神話的な世界、その中の女性、鳥、星、梯子が描かれる。これらのモティーフは、ミロの絵画の象徴となり、以後の作品で繰り返し登場することになる。
本展では、〈星座〉シリーズのうち3点が集結する。
《明けの明星》(1940)、《女と鳥》(1940)、《カタツムリの燐光に導かれた夜の人物たち》(1940)
《絵画(カタツムリ、女、花、星)》 1934年 油彩/カンヴァス 国立ソフィア王妃芸術センター、マドリード
Donation of Pilar Juncosa, 1986 Successió Miró Archive © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5746
《明けの明星》 1940年 グアッシュ、油彩、パステル/紙 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ Fundació Joan Miró, Barcelona. Gift of Pilar Juncosa de Miró.© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5746
《カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち》 1940年 水彩、グアッシュ/厚い水彩用網目紙 フィラデルフィア美術館
Philadelphia Museum of Art: The Louis E. Stern Collection, 1963-181-46 Successió Miró Archive © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5746
第4章 アメリカで名声 夢のアトリエ:内省を重ねて新たな創造へ 1940 S―1960 S
1947年にミロは初めてアメリカを訪れ、依頼された壁画の制作に取り組む。そこで旧友たちと再会したほか、アメリカの若い画家とも交流して刺激を受ける。以後、ミロの評価はアメリカでも高まっていく。1956年、マジョルカに長年の夢であった広いアトリエが完成、自身の芸術を再検討し、じっくりと作品に向き合って制作する時期に入る。また、日本の文化に大きな関心を寄せていたミロは、1966年と1969年に訪日し、日本文化と自身の芸術の親和性を再確認していく。
本章では、日本の画僧・仙厓義梵が描いた《○△□》から着想を得て描かれた《太陽の前の人物》など、ミロの東洋的な感受性や日本との繋がりを示す重要な作品も展示される。
第5章 絵画の本質へ向かって
1960年代には、アメリカの若い芸術家たちに影響を受け、より大画面の作品を制作するようになる。技法的にも伝統的な絵画技法に抗い、バケツや壺から絵の具をこぼす、カンヴァスに火をつける、あるいはナイフで切り取るという手法を使うようになる。ミロが自身の表現を更新し続けたのは、彼が絵画の本質を追い求めた結果であり、その探求は1983年に90歳で亡くなるまで続く。
――
ミロ展
2025年3月1日(土)~7月6日(日)
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
最近のコメント