織田信長

2020年7月15日 (水)

織田信長の苦悩、信長と道三、復讐の嵐。連動する美濃と尾張、帰蝶と絶世の美女、生駒吉乃

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第219回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「この世は舞台であり、人は役者にすぎぬ」『お気に召すまま』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【天人午睡 :世界の果てへの旅】
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、夕暮れのアポロン神殿に行く。糸杉の丘、仏陀の智慧が覚醒する。奇想の画家、若冲は「千歳、具眼の士をまつ」といった。
天人はこの世に舞い降りて、餓鬼道の者に嫉妬され虐げられることがある。如意輪観音菩薩は、この世に生きる天人を救う。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
――
1、
【織田信長と斉藤道三、復讐の嵐】尾張守護代織田彦五郎の家老坂井大膳が守護斯波義統を暗殺。義統の嫡男義銀が織田信長を頼る。信長の叔父信光が彦五郎を暗殺。親信長派の斎藤孫四郎・喜平次が勢いづく。反信長派の斎藤高政が孫四郎・喜平次を暗殺。斎藤道三と高政、全面戦争へ。孫四郎様と喜平次様の亡骸を確認して悲嘆、そして狂乱する斉藤道三。
【斉藤道三と斎藤高政の戦い】
斎藤道三に反旗を翻した後、斎藤高政は一時期「范可」と名乗る。これは中国の故事で父親殺しを行った人物の名に因んだもの。逆に言えば、高政は道三を実の父親だと認識していた。長良川の戦い、弘治2年(1556年)4月、道三、死去。
【斉藤道三の最後】孫四郎と喜平次の亡骸を確認して、悲嘆し、そして狂乱する道三、リア王。リア王は生来の気性の荒さと老いからくる耄碌で、2人の娘の腹の底を見抜けず、裏切られ、悲嘆と狂乱のうちに哀れな最期を遂げる。
道三の状況とよく似ている。「麒麟がくる」
――
2、
【織田信長の逆境、連動する尾張と美濃】長良川の戦い、弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去。織田信勝は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵。8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死(稲生の戦い)。信長、報復を果たす。弘治3年(1557年)弟信勝、信長を殺害しにくる。信長、返り討ち。
――
3、
【織田信長の妻。帰蝶、生駒吉乃】
帰蝶は、ただの政略結婚。帰蝶は斉藤龍興と対立、斉藤道三は龍興に敗れ、闇に消える。
【絶世の美女、生駒吉乃】吉乃の子。信忠(1557-82)26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【織田信長3人の妻:帰蝶、生駒吉乃、お鍋の方】道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫、行方不明。生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)、信忠・信雄・徳姫。お鍋の方、側室、七男の信高と八男の信吉、娘・於振の母。近江の豪族・高畑源十郎の娘。本能寺の後、いち早く岐阜城へ戻り、信長の遺品を「龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し」
【織田信忠】信長の長男。母は側室の生駒吉乃。信長の後継者として、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐(1582年)では織田軍の総大将を務めた。
【蝮の道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫】美濃国の戦国大名、守護代、斎藤道三(利政)と正室である小見の方の唯一の子、政略結婚で尾張国の織田信長に嫁ぐ。信長の正室であるが『信長公記』にその名は無く、後半生の逸話が極めて少ない。早くから死別、或いは離縁されたとの説が立つ。謎の人生
【蝮の道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫】斎藤道三(利政)は、稲葉山城を斎藤義龍(高政)に譲って出家、再び道三と号して鷺山城に退く。翌年、この城から古渡城の織田信長のもとに嫁いだため、鷺山殿とも呼ばれた。江戸時代に成立した「美濃国諸旧記」では帰蝶、歸蝶、奇蝶、「武功夜話」では胡蝶。
【織田信長13人の子、政権争い】清州会議
――
4、尾張と美濃、連動する戦い
【道三と高政、美濃を二分する戦い、高政と帰蝶、敵対】斉藤道三、大桑城から出陣、明智軍、明智城から出陣、鶴山に集結。稲葉山城の高政、岩倉城の織田信賢と内通、さらに今川義元と内通。清州城の織田信長、織田信賢と敵対。【桶狭間の戦い】信長と義元の戦いに発展する。
――
参考文献
織田信長の苦悩、信長と道三、復讐の嵐。連動する美濃と尾張、帰蝶と絶世の美女、生駒吉乃
https://bit.ly/2ZvHEwX 
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃
https://bit.ly/2oacbQH
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城
https://bit.ly/2FkeiJX
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY

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2020年3月10日 (火)

織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第209回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、謀反に始まり、謀反に死す】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。本能寺の変、光秀1万3千人に信長70人。自刃。49歳。
【織田信長、稲生の戦い、信長の評価が一変した兄弟対決】弘治2年8月(1556年)24日、信長も700人たらずの手勢で清洲を出陣し、正午頃には稲生原で信勝方と衝突する。信長軍はまず柴田軍を攻めたが、佐々孫介ら屈強な家臣が討たれ劣勢。奮戦して信長が大声で敵に怒鳴る
【織田信長、稲生の戦い】弘治2年8月24日。5月26日、信長が弟の安房守秀俊(信時)と二人だけで信勝のいる那古野城に赴いた。絶好の機会とばかりに林通具が信長の暗殺を企てるが、兄の林秀貞が「主君をここで殺害するのは恥知らずで天罰が恐ろしい」として諌める。
【復讐する精神 織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。争った弟側が滅亡。弘治3(1557)年、織田信長は、弟信行を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放、弟信繁と共存。伊達政宗は実弟小次郎を手打ち。天正十八年4月7日
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【天下布武】「武とは戈を止めることである(止戈)」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
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【織田信長 本能寺の変】天正十(1582)年6月2日、払暁。明智光秀軍1万3000人、本能寺を襲撃。信長勢70人。信長、弓矢をとって自ら戦うが「是非もない」、自刃。女たちを逃がす。光秀謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。反信長包囲網。アンシャンレジームの反撃。

【織田信長と絶世の美女、生駒吉乃、最愛の妻】信長、最愛の妻、生駒吉乃、38歳で死す。生駒屋敷、家宗の娘。信長の嫡男、信忠。信雄、徳姫を生む。織田信忠は、本能寺の変で、二条城にて自刃。徳姫は、徳川家康の嫡男、夫、松平信康の謀反を、信長に知らせる。

【織田信長、本能寺の変の黒幕】1、羽柴秀吉説 中国大返しが実現できた理由2、徳川家康説 変の後に甲信地方を獲得3、長宗我部元親(四国)説 手紙の発見4、足利義昭説 陰謀将軍が備後の鞆の浦から5、本願寺教如説 仏敵 第六天魔王信長6、安国寺恵瓊説7、朝廷・公家
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【本能寺の変、本因坊算砂】天正 10 (1582) 年6月本能寺の変前夜に鹿塩利賢 (のちの好敵手利玄坊とは別人) の紹介で織田信長に召し出され、鹿塩との対局で三劫(コウ)を生じたと伝えられる。
【織田信長「そちはまことの名人なり」】1578年(天正6年)上洛した織田信長が寂光寺に立ち寄って僧、日海(後の本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露した所、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒め讃え、これが「名人」の用語の起源とされる。
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【信長の孤立、安土城】
天正七年、安土城、天主完成時より信長の孤立は極まる。天主5層八角形の仏教建築、天主5層は金閣の楼閣建築、信長は家臣団から屹立。謀反から始まり謀反に終わる。正義は信長にあり。「復讐は正義の実現である」。天正10年、本能寺の変の13日後、天主炎上。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、地上5階地下2階。
7階、信長の部屋、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、8日後、炎上する。太田牛一『安土日記』『信長公記』
【安土城】天正4(1576)年に築城を開始。普請総奉行丹羽長秀、奉行森可成、天正5(1577)年5月11日、天主完成、5月27日、安土城にて安土宗論。結構は山城から平城に移行する過渡的形式、天正7年(1579年)に石造 5層 7重の天守閣を中核とする城完成。安土城、総見寺、天正9 (1581) 年頃、安土城郭内に信長が自らの菩提寺として創建。

【織田信長と天下三肩衝】信長が入手当時、「初花肩衝」は「新田肩衝」に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていた。信長は当時「楢柴」を所持していた島井宗室に対して献上するよう申し入れていた。本能寺で、三肩衝を披露する。本能寺の変の前日。
――
【織田信長の言葉】攻撃を一点に集約せよ。臆病者の目には、常に敵が大軍に見える。必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ。人城を頼らば城人を捨てん。仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事をやるのは、雑兵だ。

【織田信長の価値観】1、天下第一の名人。美しい人。卓越性のある人。2、役に立つ人。3、地位、肩書き、外面だけで役立たずな人。詐欺師。地位と権力の奴隷。4、地位、肩書、権力を悪事に使う人。
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★参考文献
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc  
織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃
https://bit.ly/2oacbQH
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城 
https://bit.ly/2FkeiJX
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長 安土城、琵琶湖のほとりに聳える、築城した3つの城
https://bit.ly/2tNV0Yd
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
【運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー】トロイの王子パリスは、3人の女神からアプロディーテを選択し、スパルタの王妃ヘレンをつれ去り、アカイア軍の総攻撃を受け、トロイは滅亡する。傾国の美女、ヘレネー。
アトレウス王家、血族の抗争、エウリピデス『オレステス』・・・トロイア戦争の起源
https://bit.ly/2ssTE40

和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級資料』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団、派閥と人間関係』中公新書
藤田達生『謎解き本能寺の変』講談社現代新書
今谷明『信長と天皇』講談社現代新書
本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い』祥伝社新書
谷口克広『天下人の父、織田信秀』祥伝社新書
小島毅『織田信長 最後の茶会~「本能寺の変」前日に何が起きたか~』光文社新書2013
『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』中公新書
★写真「本法寺」櫻子さんCopyright

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2019年9月28日 (土)

織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃・・・戦う知識人の精神史

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』193回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、【織田信長、元亀の争乱】1570年、足利義昭に5か条の条書。浅井長政、離反。姉川の戦い、織田徳川連合軍、浅井朝倉を破る。1571年9月12日、比叡山焼き討ち。1572年10月3日、武田信玄は織田信長とは親戚関係にあったがこれを反故、西上作戦を開始。12月22日、三方が原の戦い、織田徳川連合軍、信玄に敗れる。1573年武田信玄の死と包囲網瓦解。
2、武田信玄の死、天正
【織田信長、元亀4年(天正元年)の展開】1573年4月、武田信玄の突然の死。1573年7月、18日、足利義昭、追放。7月21日。信長は、改元を内覧した。信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」と定め、信長が武家政権の長として改元に容喙した。28日決定。8月13日、浅井朝倉連合軍に大勝。今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』
【織田信長、天正】清い静けさ(自然の静寂)は、天下を正しく在るようにあらしめ、成るように為す。成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。『老子』45章
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3、室町幕府滅亡
【信長、足利義昭へ、五箇条条書】1570年(永禄13年)織田信長は、将軍・足利義昭への要求五箇条を列記した条書を、明智光秀と朝山日乗宛てに送った。足利義昭はこれを承認し黒印を捺した。
【信長、足利義昭へ、十七箇条】1572(元亀3)年9月、岐阜に帰国した信長は、武田信玄出陣間近の危機的状況の中、将軍足利義昭に対し、十七箇条に及ぶ異見書を突きつける。 表向き義昭との対立を避けていた信長も、信玄まで動き出したこの状況に我慢も限界に達しての最後通牒。将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。
――
4、絶世の美女、生駒吉野、無償の愛
【絶世の美女、織田信長の最愛の妻、生駒吉乃、美人薄命39歳で死す】生駒屋敷、生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)。織田信長の3人の子を産む。吉乃1566年、小牧山城にて三十九歳で死ぬ。信長は、吉乃の死に号泣した。
【絶世の美女、生駒吉乃の子。信長の3人の遺児】嫡男、奇妙丸、信忠(1557-82)、本能寺の変により、26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
絶世の美女、徳姫、政略結婚
【徳姫、織田信長に十二箇条の手紙、信康切腹】松平信康の正室・徳姫が、実父である織田信長に送った十二箇条の手紙によって、夫である信康及び姑である築山殿との不仲を訴え、信康の不行状、信康の実母である築山殿が武田家と内通、信康にも武田家への内通を勧誘していると糾弾。家康は松平信康に切腹を命じた。
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5、織田信長の言葉
【織田信長】攻撃を一点に集約せよ。臆病者の目には、常に敵が大軍に見える。必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ。人城を頼らば城人を捨てん。仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事をやるのは、雑兵だ。
【信長の価値観】1、美しい人。卓越性のある人。2、役に立つ人。3、地位、肩書き、外面だけで役立たずな人。『旅する哲学者 美への旅』
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6、【復讐する精神】織田信長は、病で伏せる信長を殺しに来た信行の二度目の謀反を清州城で復讐を果たす。弘治三(1557)年、11月2日、信長24歳。アレクサンドロスは、父王フィリッポス2世を側近貴族によって暗殺。人生の旅に旅立つ。紀元前336年、20歳。
【織田信長、稲生の戦い】織田信長は、長男。兄弟は11人。次男、信行は謀反、稲生の戦い、弘治二(1556)年、弟信行の軍勢1700人に信長700人で戦う。弘治三(1557)年、11月2日、病の信長を殺しに来た信行の二度目の謀反を清州城で復讐を果たす。
【織田信長、壮絶な戦い】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。本能寺の変、光秀1万3千人に信長70人。自刃。49歳。
【親は敵、兄弟は第一の敵】織田信長は、謀反した弟織田信行を清州城にて返り討ち。武田信玄は、父、信虎を追放。弟、信繁に家督相続させようとした信虎。斉藤道三は、子、義龍に殺される。徳川家康は、嫡男、信康に自害を強要。信玄は、嫡男、義信に自害を強要。伊達政宗は、同母弟、小次郎を殺害。毛利元就は、異母弟、元綱を殺害。
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参考文献
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2FkeiJX
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84

和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級資料』
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2019年4月 3日 (水)

織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第178回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
【死生学 復讐劇】復讐劇の傑作、『オレステス』、『ハムレット』、『モンテ・クリスト伯』、ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「毒のある木」、『スウィーニー・トッド』。復讐する人は、絶望に立ち向かう。絶望を超えて、
美の理念を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、天下布武
【天下布武】「武とは戈を止め(止戈)て用いない」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』宣公12年「武有七徳」楚の荘王の「七徳の武」。
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2、第六天魔王
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」
 【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。空海『秘密曼荼羅十住心論』第三住心、嬰童無畏心『秘蔵宝鑰』第三章。
★『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。
――
幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。
 化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。
 下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。
なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、
 生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
――
『般若理趣経』経典の《教主》は五智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・清浄法界智)を具えた大毘盧遮那如来であり、《時》はあるとき、《住処》は三界(欲界、色界、無色界)のうち欲界の最頂上にある他化自在天である。
――
3、堺と茶の湯と鉄砲
【織田勝長、堺、鉄砲、茶の湯】津田宗及と今井宗久、千宗易
 信長は、かつての同朋衆に代わる「茶堂(さどう)」として、堺の政商である津田宗及と今井宗久をまず起用。津田宗及は貿易商、今井宗久は千宗易の師である武野紹鷗の娘婿で、武具と鉄砲とを商いとする。津田宗及と今井宗久が、千宗易を信長に推薦した。
 堺は鉄砲の火薬の原料である硝石を独占輸入し、鉄砲を生産する技術もあった。堺の商人たちは逸早く為替システムを創って、各地の情報も色々入ってきた。今日で言う金融・経済、流通、情報を一手に握っていたのが堺という町。
 天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺での茶会で、千宗易が「濃茶(こいちゃ)」の担当になる。茶堂のトップに位置付けられた。利休52歳。
 信長の茶会は、信長が入京した永禄十一年(1568年)から安土城が出来る天正四年(1576年)までは、禅宗か日蓮宗の大寺院で催されていた。
 信長の茶会は、「天目台」に茶碗を載せて出す格式の高い作法。
★生形貴重「信長と秀吉、そして利休の至高の美意識」
*千宗易:利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号。
――
4、戦いと茶会
【織田信長と茶会、本能寺の変】天下布武、天下の三肩衝
1567年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
 岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作る。銀閣寺「漱蘚亭」にならった。*
1568年、10月2日、堺に矢銭を課した織田信長に抗戦しようとする町衆を今井宗久らが説得。この日、今井宗久は、織田信長に、松島茶壺、紹鴎茄子を献上。
1569年、織田信長、丹羽長秀、松井友閑らに命じて、洛中洛外の茶器の名物狩り。
1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会を催す。茶頭は、今井宗久。この年、比叡山焼き討ち。
 天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺で茶会。
1574(天正2)年、相国寺、茶会が開かれ、松井友閑、千利休、今井宗久、津田宗及らが集い、織田信長は方丈で点前を披露した。(『津田宗及茶湯日記』)。
1574年天正二年、4月3日、織田信長、相国寺にて茶会を催す。蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
 千利休は51歳の1573年、1574年(52歳)、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。茶会は宴。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
 羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。
【信長、物欲に執着せず】
 【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。
――
5、復讐する織田信長
【織田信長、壮絶な生涯】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主次の間で返り討ち、24歳。本能寺の変、信長70人に光秀1万3千人。自刃。49歳。
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参考文献
大久保正雄『織田信長、戦う知識人の精神史』
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・『戦う知識人の精神史』『旅する哲学者 美への旅』
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2FkeiJX
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
 権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
若き織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵、復讐する精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2lbezTP
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84 
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★本法寺、京都、櫻子さんの写真

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2018年11月21日 (水)

織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・『戦う知識人の精神史』

Giuliano_de_medici_michelangeloSeikadou大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第163回
復讐する偉大な王。偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長。
【復讐する織田信長】血をもって書かれた精神史。織田信長は、織田信行の謀反を清州城天主北櫓次の間にて報復。病気の信長を襲う弟を返り討ち。弘治3年、信長24歳。「稲生の戦い」弘治2年8月24日、信長700人、織田信行勢1700人に襲いかかる。信長の所領を横領する兄弟。光輝の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、将軍家、天皇、寺院、貴族。血をもって書かれた精神史。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1、【織田信長と茶会、天下布武】
永禄10(1567)年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山上に茶室を作る。銀閣寺「漱蘚亭」にならった。*
永禄11(1568)年、10月2日、堺に矢銭を課した織田信長に抗戦しようとする町衆を今井宗久らが説得。この日、今井宗久は、織田信長に、松島茶壺、紹鴎茄子を献上。
1569年、織田信長、丹羽長秀、松井友閑らに命じて、洛中洛外の茶器の名物狩り。
1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会を催す。茶頭は、今井宗久。この年、比叡山焼き討ち。
天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺で茶会。
1574年(天正二)年、1月1日、髑髏盃で宴。信長、飲酒せず。2月3日、岐阜城内にて茶会を催す。3月28日、蘭奢待を賜る。信長41歳。
1574年(天正二)年、4月3日、織田信長、相国寺にて茶会を催す。松井友閑、千利休、今井宗久、津田宗及らが集い、織田信長は方丈で点前を披露した。(『津田宗及茶湯日記』)。蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
*千利休は51歳の1573年、1574年(52歳)、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。
――
2、【信長、物欲に執着せず】
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。
【蘭奢待を下賜】1574年(天正二)年、3月28日、蘭奢待を賜る。4月3日、蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
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3、【運命の本能寺、天下三肩衝】
織田信長は、肩衝茶入「天下の三肩衝」(さんかたつき)を集めるため、本能寺にて、茶会を催す。2つは織田信長が持っていた。*
*「天下の三肩衝」といわれる「楢柴」「初花」「新田」。
博多豪商の島井宗室が「楢柴」をもっていた。
【本能寺の変、天下三肩衝、楢柴肩衝】天正十(1582)年、六月一日。織田信長は、本能寺で、茶会を開き、天下三肩衝を披露する予定だった。島井宗室が「楢柴肩衝」を信長に献上すべく訪れたのが本能寺の変の前日
――
4、【武田氏、滅亡】1582年(天正十年)3月11日、武田勝頼、自害。
【信長、上洛】1582年(天正十年)5月29日、信長、上洛。
【信長5軍団】信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいない。信長は70人の供の者だけであった。
――
5、【織田信長 最期の茶会 本能寺の変】
【織田信長 最期の茶会】1582年(天正十年)6月1日、本能寺にて信長が茶会を催す。
利休60歳。信長49歳。1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催される。この夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。
【織田信長 本能寺の変】天正十(1582)年6月2日、払暁。明智光秀軍1万3000人、本能寺を襲撃。信長勢70人。信長、弓矢をとって自ら戦うが「是非もない」、自刃。女たちを逃がす。光秀謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。反信長包囲網。アンシャンレジームの反撃。怨恨はあり得ない。小和田哲男、谷口克広。小和田哲男『集中講義 織田信長』P.166
――
★【織田信長】参考文献
小和田哲男『集中講義 織田信長』新潮社
小和田哲男『戦国合戦事典』PHP 文庫
小和田哲男『名城と合戦の日本史』新潮社
小和田哲男監修『芸術・美術・建築からわかる日本史』
小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
谷口克弘『織田信長合戦全録』中公新書
泉秀樹『戦国なるほど人物事典』PHP文庫2003
泉秀樹『織田信長と戦国武将天下取りの極意』講談社+α文庫 2007
泉秀樹『戦国武将伝 織田信長』PHP2004
『図解 戦国史』成美堂出版
堺屋太一他『信長 天下一統の前に悪などなし』プレジデント社2007
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
加来 耕三『戦国美女は幸せだったか』 筑摩書房
外川敦『戦国史』
――
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
岩沢愿彦、奥野高広『信長公記』 (角川ソフィア文庫―名著コレクション) 1984
現代語訳『信長公記』(全) (ちくま学芸文庫) 2017
現代語訳『信長公記』 (新人物文庫) 角川
ルイス・フロイス『日本史』12巻、中公文庫
小和田哲男『合戦図屏風で読み解く 戦国合戦の謎』青春新書
本郷和人『戦国武将の素顔』宝島社新書
――
★大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2FkeiJX
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID

Giuliano de' Medici, Michelangelo.1526
曜変天目茶碗、静嘉堂文庫美術館

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2018年11月12日 (月)

織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』

Himeji_cherry_blossom_0Jacques_louis_david__bonaparte_fran大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第162回
血をもって書かれた精神史。織田信長は、織田信行の謀反を清州城天主北櫓にて報復する。病気の信長を襲う弟を返り討ち。弘治3年、信長24歳。光輝の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、寺院、貴族、将軍。血をもって書かれた精神史。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天下一の仕事を成し遂げる。
【勝者が敗者を裁く。勝者によって歴史は書き換えられる】「皇帝ネロは暴君ではない。スエトニウス『ローマ皇帝伝』タキトゥス『年代記』プルタルコス『英雄伝』」「織田信長、比叡山延暦寺、根本中堂、焼き討ちは無かった」「織田信長、天下布武は、武力征服を意味しない」 だまされる大衆は教養の欠片もない。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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1、【天下布武】世界の旧勢力を敵にする。すべての権力に立ち向かう。
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定。
【織田信長、天下布武】1567 (永禄10) 年、信長、34歳。岐阜城にて、天下布武印を用いる。沢彦宗恩の意見による。「既存の階級社会の否定」を意味する。 武は「七徳の武」「武の七つの徳を備えた者が天下を治めるにふさわしい」『春秋左氏伝』
【織田信長、天下布武、知的で革命的】既存の階級社会、価値観を否定。ニヒリズム。知的で革命的。妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えによる。天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
小和田哲男『集中講義 織田信長』
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2、織田信長、8つの戦い
【織田信長、8つの戦争】1560桶狭間(今川義元)、1567稲葉山城の戦い(斉藤龍興)、1570姉川の戦い(浅井・朝倉)[1571比叡山焼討、元亀4=天正元(1573)義昭追放、室町幕府滅亡]、1573三方が原の戦い(武田信玄)、武田信玄死す。1574 伊勢長島一向一揆征伐(一向宗)、1575長篠の戦((武田勝頼)、(1570-1580)石山戦争(石山本願寺)、1582本能寺の変、天正10年6月2日。
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3、信長包囲網 信長は11年間、包囲網と戦う
【信長包囲網】戦国時代末期より安土桃山時代にかけて発生した反織田信長連合。
【織田信長の戦い、信長包囲網】信長包囲網(1570-1580)。第1次包囲網、浅井朝倉、比叡山。岐阜城にて髑髏盃の宴。1570-1573 第2次包囲網、足利義昭、挙兵。室町幕府滅亡。1573 第3次包囲網、石山戦争(1570-1580)本願寺光佐(顕如)と和睦1580
元亀元年(1570年)4月、浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗。元亀2年(1571年)織田信長と足利義昭の対立。織田信長と足利義昭の対立。武田信玄の死と包囲網瓦解。1573年5月13日。
1576天正4年、毛利氏、上杉氏の本格介入と松永久秀の謀叛。
1580天正8年石山本願寺との戦い。石山戦争(1570-1580)
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4、信長包囲網と正親町天皇 包囲網の窮地を天皇が解決
【信長包囲網第1次】元亀元年、生涯最大の窮地、志賀の陣、正親町天皇の綸旨による勅命講和。
【信長包囲網第2次】天正元年足利義昭との戦い。天皇による勅命講和。1573 (天正元年) 室町幕府滅亡1575年 (天正3年)
天正2年(1574年)た「蘭奢待切り取り」勅許。
【信長包囲網第3次】天正8年石山本願寺との戦い。天皇による勅命講和。1580(天正8)年。
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5、延暦寺、根本中堂、焼討は無い
【比叡山焼討事件の真相】6代将軍、足利義教が行った比叡山攻撃とその後の根本中堂自焼。1435年、延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し斬首する。1499年、室町幕府の管領(将軍の補佐役)細川政元によって焼き討ち。元亀二(1571年)9月12日、織田信長が比叡山焼き討ち。浅井・朝倉攻めが目的である。
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6、穴太衆、野面積み、天下一の石垣
織田信長「比叡山の焼き討ち」。信長は焼き討ち後、再興の目を徹底的に潰すため、臣下の丹羽長秀に焼け残った石垣などの打ちこわしを命じる。しかし、不落の石垣。
【織田信長、安土城、穴太衆】延暦寺伽藍の石垣は、頑丈すぎてなかなか壊すことができない。それを丹羽長秀が信長に進言すると、信長は後世に城の歴史を変えた名城、安土城の築城に「穴太衆」を召し抱えた。天正4(1576)年、安土城、天主閣完成。野面積である。但馬竹田城、姫路城、伊賀上野城、大阪城、名古屋城、江戸城の石垣も穴太衆の手になる。
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★参考文献
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
「真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者のことである」ナポレオン。
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」国立新美術館・・・絶対権力者が手に入れられない秘宝
https://bit.ly/2Jc9WBY
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【死生学】どんなに教養があって立派な人でも、人の痛みがわからない人は存在する価値がない。生きる価値がない。魂が醜い。存在の根源である心が腐っているからである。「魂のことば」『旅する哲学者 美への旅』

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2018年9月13日 (木)

織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』

Antoinejean_gros__bonaparte_on_the_Cranach_salome_1530_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第156回
血をもって書かれた精神史。織田信長は、弟信行の反逆を予知して、巧緻な罠に陥し入れ、清州城天主にて復讐する。冒険の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。
織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、寺院、貴族、将軍。血をもって書かれた精神史。
虐め、差別、嫉妬が渦巻く血の階級社会。無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい、階級社会。反逆、裏切り、詐欺、陰謀、不正、魍魎が跳梁跋扈する階級社会。血をもって書かれた精神史。
無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい、階級社会。武塔の神が、蘇民将来を救うように、守護精霊は美しい者を救う。*
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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1、織田信長の復讐、親は敵、兄弟は第一の敵
【織田信長の復讐、親は敵、兄弟は第一の敵】弟、織田信行を返り討ち。弘治3年(1557年)、信行*は岩倉城の織田信安に通じるなどして二度目の謀反を企て、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行った。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって暗殺された。あるいは、信長を謀殺しようとして返り討ちに遭い、信長の目の前で自刃した。
*武蔵守信成

【織田信長の復讐】弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、織田信行は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵した。8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。
――
2、織田信長、卓越した情報力
【織田信長、桶狭間】信長は、梁田政綱の情報により、今川本陣が田楽狭間に入ったことを知る。今川義元は、田楽狭間にて鷲津砦、丸根砦の勝利を祝って宴会。酒に酔っている今川本陣。そこを信長は襲撃した。永禄3年5月19日1560年6月12日。信長27歳。

【織田信長、桶狭間】なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか。桶狭間の合戦の謎。永禄3年5月19日(1560年6月12日)
小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中。小兵力が勝つ軍事学の要点。

【織田信長、卓越した情報力と分析力】情報力で、敵の謀を討つ。
弟織田信行の謀反を返り討ち。信長24歳。桶狭間の戦い、二万五千の今川義元を迎え撃つ、織田勢四千。信長27歳。
長篠の戦い、武田勝頼の騎馬隊を千挺の鉄砲と馬防柵で撃つ。信長42歳。
天正6年、第2次木津川合戦、戦国最強の毛利水軍を6隻の鉄甲船で粉砕。信長46歳。

【織田信長 武功より情報力】2千の寡兵で2万5千の大軍を討つ。永禄3(1560)年5月19日「義元は2万5千の兵のうち2万を、沓掛城から鳴海城へ向かわせた。5千を率いて大高城へ向かい、義元直近にはわずか3百の旗本しかいなかった。」梁田正綱の情報

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3、織田信長 青春の日 26歳-40歳
【織田信長 青春の日 26歳-40歳】1560年(永禄3年)26歳 桶狭間の戦い。4千の兵で5万の今川軍を破り、大将の今川義元を討ち取る。1561年(永禄4年)27歳 美濃国主である斎藤義龍(よしたつ)が没、子の龍興(たつおき)が跡を継ぐ、美濃攻略を本格化。
【織田信長 延暦寺焼討、38歳】朝倉・浅井両家に加担した延暦寺を攻める。1572年(元亀3年)39歳 武田信玄が三方ヶ原にて、織田・徳川連合軍を破るが、駒場(こまんば)にて病死。1573年(天正元年)40歳 室町幕府を滅ぼす。反乱を起こした将軍・足利義昭を京から追放。

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*【死生学 武塔の神】武塔の神が、嫁を探しに旅をしてきた。泊まる宿を求めた。巨旦は意地悪く「うちは貧しいから泊められない」と嘘をついて断った。蘇民は貧しいながら世話をした。金持ちでうそつきで意地悪の弟、巨旦。貧しい兄、蘇民。武塔の神は、美しい者を救う。蘇民将来の伝説。『備後国風土記』守護精霊は、美しい者を救う。
【死生学 血をもって書け】いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを。『ツァラトゥストラ』  第1部第7章 読むことと書くことについて
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★参考文献
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-e107.html
若き織田信長、親は敵、兄弟は最大の敵・・・復讐する精神
https://bit.ly/2lbezTP
――
★Diego Velázquez, El príncipe Baltasar Carlos, a caballo Hacia 1635
★「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」フェリペ4世の長男で王位継承者であったカルロス王太子の肖像画。バルタサール・カルロス(1629-46)はフェリペ4世の長男として生まれ、広大なスペイン帝国の王位後継者として国中の期待を一身に背負って育てられたが、16歳で早逝した。
★ルーカス・クラナッハ『ヨハネの首をもつサロメ』Lucas Cranach,Salome 1530

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2018年9月 5日 (水)

織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・『戦う知識人の精神史』

Velazquezthe_surrender_of_breda_1_5Boston2012大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第155回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天下一の仕事を成し遂げる。
【死生学 復讐劇】復讐劇の傑作、『オレステス』、『ハムレット』、『モンテ・クリスト伯』、ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「毒のある木」、『スウィーニー・トッド』。復讐する人は、絶望に立ち向かう。絶望を超えて、美の理念を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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1、織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定。
【織田信長、天下布武、知的で革命的】既存の階級社会、価値観を否定。ニヒリズム。知的で革命的。妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えによる。天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
小和田哲男『集中講義 織田信長』

【織田信長、尾張の大うつけ】既存の階級社会、価値観を否定。子供の時から、尾張の大うつけ。奇妙な服をまとい、自由にふるまう。
妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えにより、天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
織田信長、知的で革命的。「信長、食を節し、飲酒せず」ルイス・フロイス『日本史』

【織田信長、権威主義を拒否】「酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。」ルイス・フロイス『日本史』
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2、第六天魔王 織田信長
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」

【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。
★『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』

【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。

幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。
化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。
下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。
なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、
生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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3、織田信長と茶の湯、織田信長、物欲に執着せず。
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。

【織田信長と安土城】天正四(1576)年、1月、丹羽長秀に命じて安土に築城開始。2月23日、安土に移る。

【織田信長と茶会 本能寺の変】天正十(1582)年、六月一日。織田信長は、本能寺で、茶会を開き、天下三肩衝を披露する予定だった。島井宗室が「楢柴肩衝」を信長に献上すべく訪れたのが本能寺の変の前日、その後宗室は博多に逃げ帰った。(『仙茶集』)これにより天下三肩衝を手に入れる夢は幻と消える。
その後、九州征伐後に秋月種実から「楢柴肩衝」が献上されたことで、秀吉の手元に天下三肩衝が揃うこととなった。

【織田信長、酒を飲まず】一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、茶の湯を愛好】「酒を飲まず食を節し、自邸においてきわめて清潔、宗教・迷信を信じず、偶像を見下し、茶器・良馬・刀剣・鷹狩を愛した。」ルイス・フロイス『日本史』

★安土城
【織田信長、安土城、狩野永徳】5層7階、地下1階の天主閣。この世から消滅した狩野派絵画、安土城天主閣。6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。
天正十年6月2日、本能寺の変の後、炎上する。『安土日記』『信長公記』「狩野派決定版」

第六天魔王、織田信長は、下天の酒食に溺れる者を俯瞰する。天下布武。信長34歳。
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★参考文献
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
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★狩野永徳『檜図』1590、曽我蕭白『雲竜図』(1763)
★『ブレダの開城』Velasquez,Surrender of Breda,1635
1625年、オランダの要塞都市ブレダを陥落させたとき、オランダ軍総督ナッサウがスペイン軍司令官スピノラに城門の鍵を渡す場面。

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2017年2月13日 (月)

若き織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵、復讐する精神・・・『戦う知識人の精神史』

Caravaggio_1599Kano_eitoku_1565大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
戦国時代。陰謀、裏切り、だまし討ち、下剋上、何でもありの乱世。
理念を追求する人は、天のために戦う。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する不滅の魂の神殿に旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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若き織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵・・・復讐する精神
【織田信長、清州城北櫓次の間において、弟信行を謀殺】
織田信長は、1557年弘治3年11月2日、清州城北櫓次の間において、弟信行を謀殺した。信行の二度目の謀反に反り討ちにした。信長24歳。弟信行が、信長の家督を奪おうとしたことに対する報復である。

【織田信長、父織田信秀の葬儀】若き織田信長、尾張の大うつけ 相続争い
【織田信長、父織田信秀の葬儀】父親(信秀)の葬儀で喪主である
のに遅刻、大うつけの姿でやってきて、位牌に抹香を掴んで投げつけて帰った。後見役の平手政秀は切腹する。悲しんだ信長は政秀のため寺を建てて弔った。『信長公記』
*織田信秀、41歳で死亡。この時、信長18歳。天文20年3月3日(1551年4月8日)

尾張では家督相続争いが起き、弟の信行は家臣と共に、信長 に対し2度「謀反」を起こした。
【織田信長、嫡子、信忠(奇妙丸)、誕生】
1557(弘治3)年、生駒家宗の娘、吉野との間に嫡子、信忠、幼名、奇妙丸、誕生。
★戦国時代、親は敵、兄弟は最大の敵
【武田信玄、暴虐な父信虎を追放】
武田信玄は、暴虐な父信虎を追放した。武田信虎は、嫡男、信玄の弟、信繁に家督を相続させようとした。信虎追放(天文10年1541年)。
伊達晴宗は、対立した父植宗を幽閉した。天文の乱(1542年)である。
織田信長は、天文3年1534年、誕生。
【アレクサンドロス、クレオパトラ7世】
アレクサンドロス3世は、母オリュンピアスと、父を謀殺。クレオパトラの結婚式の時、アレクサンドロスの父フィリッポスは、アレクサンドロスの妹クレオパトラの婿に相続を画策したからである。紀元前336年。
クレオパトラ7世は、姉ベレニケ4世、妹アルシノエ4世、弟プトレマイオス13世と対立した。相続をめぐり一族に紛争が起きる。クレオパトラ7世(在位BC51-30)。
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戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず
https://t.co/VH3SqMi4ns
★カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」1599
★狩野永徳「洛中洛外図」1565
★織田信長、名古屋城
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
2017年2月13日

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2017年1月29日 (日)

才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず・・・『戦う知識人の精神史』

Kano_eitoku_cypress_treesKanoueitoku_kachouzu大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
織田信長は、旧制度(ancient regime)の矛盾を破壊するために、天下布武、楽市楽座、戦略をもって敵と戦った。安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。天下一の者をあらゆる領域で求めた。織田信長は、非凡を見つけ、活躍する場を与えた。画人、狩野永徳もその一人である。
織田信長は、人の才能をみぬき、地位につける最高の才能をもっていた。名伯楽である。*階級制を無視した尾張のうつけにしかできない最高の才である。甲冑でさえ、家格により制限されていた時代である。織田信長は、天下一の者をあらゆる領域で求めた。*「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」韓愈*。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
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*千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。(韓愈『雑説』四首・其四)
〔世に伯楽有り。然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇(た)だに奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)し、千里を以て称せられざるなり。・・・嗚呼、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。〕
いかに才能のある者も、才能を見抜く人(それを認めてくれる人)がいなければ、力を発揮できない。「伯楽」は、もともと星の名で、天上で馬の世話をするのが役目であったというが、転じて馬の素養を見分ける人をいうようになった。韓愈(七六八~八二四)は伯楽の喩えを「温処士の河陽軍に赴くを送る序」や「人の為に薦めを求むる書」にも用いており、自分の才能を認めぬ上流の人への憤懣をもらしている。
★三省堂『中国故事成語辞典』金岡照光編
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【韓愈の悲劇】
【韓愈】韓愈(768-824年)は、唐を代表する文人。官僚としては不遇であったが、詩人として名を残した。韓退之とも呼ばれる。唐宋八大家の一人で詩人として名高く、白居易と並び称された。生まれてすぐに母を、3歳の時に父を亡くし兄夫婦に育てられた。
【科挙3度落第】19歳の時に初めて科挙を受けたが落第。3度目まで失敗した。4度目、792年に25歳で進士に及第する。 監察御史となったが、京兆尹の李実を弾劾したことで広東省に左遷される。
唐【徳宗、順宗、憲宗】805年に徳宗が崩御して順宗が即位すると、大赦によって許される。順宗、病により退位、在位7ヵ月。805年8月、憲宗が即位する。
中央に復帰した後は中書舎人などを経て吏部侍郎となる。818年に仏教に傾倒していた憲宗が法門寺の仏舎利を長安の宮中に奉迎することを計画すると、「論仏骨表」を上奏して怒りを被り再び広東省に左遷された。
憲宗が崩御して穆宗が即位すると再び許され、兵部侍郎、吏部侍郎となって退官。間もなく死去。享年56歳。
【古文運動】9世紀初め、唐代に韓愈や柳宗元がおこした散文改革運動。六朝時代に対句や典故、平仄などを極端に重視する四六駢儷文が流行し、唐代にも引き継がれた。安史の乱(755‐763)によって貴族社会の基盤が大きく揺らぐとともに、この装飾的で内容の空疎な美文に対する反省の機運が高まった。特に科挙出身の新興官僚層が彼らの思想や主張を表現できる達意の文体を強く求め、その模範を司馬遷の『史記』や諸子百家の文章に見いだした。★(『世界大百科事典 第2版』)
韓愈は古文運動を推進して、対句や典故を多用して事実や論理よりも技巧や華麗さを追求する駢文を批判した。
【科挙】韓愈は3度目の落第の時には「今の世で才能があると呼ばれる人は、時勢に逆らうことなく権力者へ媚びを売る人達である。私も同じようにすれば出世することが出来るのかもしれないが、そんなことでは満足することはできない」と言った。尚、合格した4度目は、担当した試験官も美辞麗句を重視する駢文に疑問を持っていたので文体による影響を受けなかった。★ http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_ka/goi_ka_10.html
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★参考文献
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
https://t.co/FmdQyofuL9
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅
https://t.co/RggoniP3wD
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★狩野永徳『檜図」「花鳥図」
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

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