洋画

2023年1月26日 (木)

佐伯祐三 自画像としての風景・・・世紀末の旅人

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第311回
【美神を追い求めた青春の光芒】佐伯祐三(1898-1928)は、世紀末の旅人。1923年東京美術学校卒、1924年パリに渡航、画家ヴラマンクから、怒声を浴びたことが、佐伯祐三を覚醒させた。ヴラマンク、ゴッホ、ユトリロに影響を受けた。パリの家の窓、ポスターが貼られた壁、プラタナスの並木道、カフェ、教会。画家活動6年、パリ郊外の病院で、30歳で死す。19世紀、リアリズムの世紀、世紀末の亡霊。印象派の残光。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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探検家、分析家のための7つの教え
【利益重視の女はどんなにきれいでも嫁にしてはいけない。カマキリの雌は交尾後、雄を食べる。ハリガネムシとなって寄生する】アル中の向上心のない男と結婚する女はクズ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は万病の元。ガン、脳梗塞、痴呆症の原因は飲酒癖。
秘密を風に教えてはいけない、森全体に伝わる。お金には敏感になれ、一気に与えると腐る、棘がある良い人になれ。騙そうとする人は心地よい、体に悪いものは美味い、酒は毒薬。見栄張りの人の心は小さい、真相バラされると憎しみ付きまとう。不公平は当たり前。行きたくない会合は、喜んで行くか、断れ。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【世紀末の旅人 夏目漱石 アンチリアリズムへの旅】
夏目漱石(1867-1916)は、リアリズムの世紀からアンチリアリズムの世紀へ、時代の転換期、ロンドン留学した旅人。
【夏目漱石、1900年、倫敦留学】1900年は、ヨーロッパ文化の転換期。19世紀リアリズムから、20世紀アンチリアリズムへ。物語は崩壊、幻想へ。
【夏目漱石、作家活動11年間、49歳で死す】アンチリアリズムを生涯追求した。『草枕』(1906)。三十歳の画家が温泉に行き女、那美と出会う。「小説は、何となくよい感じが残ればよい」「面白い部分だけ読めばよい」漱石。物語は崩壊している。現実は漱石の理想と隔絶。
【夏目漱石、作家活動11年間、『猫』】千駄木の家に猫くる。1904年12月『猫』第1章を書く。高浜虚子「山会」で「猫伝」朗読。1905年「ホトトギス」に発表。1907年40歳、早稲田南町に転居。漱石山房にて9年、作家生活。1916年49歳で死す。
【夏目漱石、漱石山房9年、漱石山脈】木曜会、漱石の家に小宮豊隆、鈴木三重吉・森田草平・寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成、さらに芥川龍之介や久米正雄、内田百・野上弥生子らが集う。漱石山脈とよばれる。作家活動11年間、49歳で死す。
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【20世紀、アンチリアリズムの世紀】19世紀ヨーロッパ文学はリアリズムを追求したが、20世紀はアンチリアリズムの世紀。18世紀小説、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』に夏目漱石は、深い影響を受けた。これを実験したのが『草枕』(1906)。
【ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』】アンチリアリズムの実験をした夏目漱石『草枕』
(*未完の小説。全9巻1759年の末から1767年)。この18世紀小説に、20世紀文学、アンチリアリズム文学は深い影響を受けた。アンドレ・ジイド、カフカ、ジェイムズ・ジョイズ『フィネガンズ・ヴェイク』、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト。他方、日本の明治文学は、1900年以降、やっとリアリズム文学に辿りつく。花袋『布団』藤村『破戒』。
【漱石山房記念館、開館1周年記念講演会、奥泉光『漱石の孤独』】2018年10月8日
【奥泉光『夏目漱石の孤独』【人間関係を構築できない漱石】『吾輩は猫である』猫の雌猫は、2回で死ね。『こゝろ』友人を裏切る。『門』『それから』『三四郎』『こゝろ』人間関係を取り結べない孤独。「主人公の孤独」は近代小説の特徴。漱石「みんなから離れて一人になる」孤独ではなく「誰かと関係を結ぼうとして失敗する」孤独。
【奥泉光『夏目漱石の孤独』】人間関係を構築できない漱石。『明暗』の孤独。『明暗』は夫婦間のぎくしゃくする緊張を描く。夫婦は主導権を握ろうと存在レヴェルで争う。和解のしようがない対立が無限に続く。耐えて生きて行くしかない。未完になったのは仕方がない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【夏目漱石、不幸な少年時代】本名は夏目金之助。母親が高齢出産だったこと、漱石誕生の翌年に江戸が崩壊し夏目家が没落しつつあったことなどから、漱石は幼少期に数奇な運命をたどる。生後4ヶ月で四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出され、更に1歳の時に父親の友人であった塩原家に養子に出される。その後も、9歳の時に塩原夫妻が離婚したため正家へ戻るが、実父と養父の対立により夏目家への復籍は21歳まで遅れる。
 漱石は、家庭環境の混乱からか、学生生活も転校を繰り返す。小学校をたびたび変え、12歳の時に東京府第一中学校に入学するが、漢学を志すため2年後中学校を中退、二松学舎へ入学。しかし、2ヶ月で中退。その2年後、大学予備門の受験には英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎へ入り、頭角をあらわしていく。17歳のとき、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学。ここで、のちに漱石に文学的・人間的影響を与えることとなる正岡子規(まさおかしき) と出会い、友情を深める。学業にも励みほとんどの教科において主席であった。特に英語はずば抜けて優れていた。
【漱石山房記念館】
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ヴラマンク(Maurice de Vlaminck 1876年4月4日 - 1958年10月11日)野獣(フォーヴ)の檻
1905年、ドラン、ヴラマンク2人のアトリエを訪れたアンリ・マティスの勧めでサロンに出品。マティス、ドラン、ヴラマンクの作品が展示された一室の色彩が強烈だったことから「野獣(フォーヴ)の檻」と批評され、「フォーヴィスム(野獣派)」が誕生するが、それは短命に終わる。
藤田 嗣治(1886年11月27日-1968年1月29日)パリの寵児となった藤田 嗣治と佐伯祐三(1898-1928)は一部重なるが、リアリズムの世紀の残光である。
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展示作品の一部
《コルドヌリ(靴屋)》1925年、石橋財団アーティゾン美術館
《ガス灯と広告》1927年、東京国立近代美術館
《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》1927年、大阪中之島美術館
《郵便配達夫》1928年、大阪中之島美術館
《モランの寺》1928年、東京国立近代美術館
《下落合風景》1926年頃、和歌山県立近代美術館
《汽船》1926年頃、大阪中之島美術館
《滞船》1926年、ENEOS株式会社
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参考文献
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て
「没後50年 藤田嗣治
展」東京都美術館・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
『佐伯祐三 自画像としての風景』図録、2023
酒井忠雄『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』2009
佐伯祐三 自画像としての風景・・・世紀末の旅人
https://bit.ly/3wx4tQw
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街に生き 街に死す、描くことに命を捧げた伝説の洋画家
大阪、東京、パリ。3つの街で、画家としての短い生涯を燃焼し尽くした画家、佐伯祐三(1898-1928)。2023年に生誕125年を迎える佐伯の生涯は、多くのドラマと伝説に彩られています。彼が生み出した作品群は、今なお強い輝きを放ち、見る人の心を揺さぶらずにはおきません。
1898年に大阪で生まれた佐伯祐三は、25歳で東京美術学校を卒業し、その年のうちにパリに向かいます。作品を見せたフォーヴィスムの画家ヴラマンクから、「このアカデミック!」と怒声を浴びたことが、佐伯を覚醒させます。2年間の最初のパリ滞在中に、ユトリロやゴッホらからも影響を受け、佐伯の作品は大きな変貌を遂げていきます。1年半の一時帰国を経て、再渡欧したのは1927年のこと。このとき佐伯は29歳になっていました。パリに戻った佐伯は、何かに憑かれたかのように猛烈な勢いで制作を続けますが、結核が悪化して精神的にも追い詰められ、1年後にパリ郊外の病院で亡くなりました。
佐伯にとってパリは特別な街でした。重厚な石造りの街並み、ポスターが貼られた建物の壁、プラタナスの並木道、カフェ、教会、さらには公衆便所までが、傑作を生み出す契機となりました。また、多くの画家たちや作品と出会い、強い刺激を受けたのもパリでのことです。一方で、生誕の地・大阪、学生時代と一時帰国時代を過ごした東京も、佐伯芸術を育んだ重要な街でした。本展では3つの街での佐伯の足跡を追いながら、独創的な佐伯芸術が生成する過程を検証します。
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佐伯祐三 自画像としての風景、東京ステーションギャラリー、1月21日(土)〜年4月2日(日)

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2022年8月30日 (火)

生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎・・・青木繁、28歳で死す

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』288回

3人の画家は、運命の出会いを果たし、運命の別れ、それぞれ独自の人生を歩む。
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【『星の王子さま』星めぐり】六つの星を訪れる。六つの星の支配者たちは、サンテグジュペリが飛行機から見た地上の人間たちの姿。王様=命令する人、自惚れる人、飲酒に溺れ酩酊する人、金を数える人、点燈夫=日常業務の人、探検家を利用する学者。人と競争、詐欺と搾取の競争社会。ここにいないのは、指揮官、探検隊、藝術家。
【人生の舞台】16の性格、外交官グループ、提唱者、仲介者、主唱者、広報運動家。番人グループ、管理者、擁護者、幹部、領事官。探検隊グループ、巨匠、冒険家、起業家、エンターテイナー。分析家グループ、建築家、論理学者、指揮官、討論者。人生という舞台、自分の必殺技をどう披露するか。特性、強み弱み、どう発揮するか
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青木繁、浪漫主義の悲劇
夭折の天才画家と称される青木繁の生涯と芸術を考えるとき、22歳で福田たねと出会ったことが、青木にとっての悲劇の始まりだった。17歳の時に画家を志して上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入塾した。不同舎で福田たねと出会った。
東京美術学校西洋画科選科在学中の21歳の時に白馬会第8回展に「黄泉比良坂」など神話画稿を出品し、白馬会賞を受賞した。若くしてその才能を認められた青木繁。
1904年、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともに4人で房州布良(現在の館山市)に旅行し、この旅がきっかけで青木の代表作「海の幸」が生まれた。
たねは第一子を出産、その子は「海の幸」にちなんで「幸彦」と名付けられた。翌年、未婚のまま親子3人で水橋村のたねの実家を訪問し、以後は福田家の援助を受けて生活する。ここで東京府勧業博覧会に出品するため「わだつみのいろこの宮」1907を制作。
1911年、九州各地を放浪しながら制作し、再び文展に出品するが落選。精神も肉体も病み、毎日喀血するようになり、大量喀血、28年8カ月の生涯を閉じた。
3人の運命、青木繁、福田たね、坂本繁二郎
福田たね
たねは、青木が去ってから3年後の明治43年、地元の野尻長十郎と結婚し7人の子をもうけた。野尻の転勤に伴い、日光、大阪、大津、札幌などを転居し、昭和29年の野尻没後には再び絵を描きはじめ、示現会などに出品し、83歳で死去した。
坂本繁二郎(1882-1911)
1924年、3年間のパリ留学を終えて郷里久留米へ戻った後、1931(昭和6)年、八女市へ移り、没するまでその地で制作を続けた。1969年87歳の長寿を全うするまで、その静謐な作風で牛や馬、能面や月などを多く描いた。
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展示作品の一部
青木繁「海の幸」1904
青木繁「わだつみのいろこの宮」1907
坂本繁二郎「うすれ日」(三菱一号館美術館寄託)
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参考文献
「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」アーティゾン美術館、2022
生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎・・・青木繁、28歳で死す
https://bit.ly/3wBtOt1
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青木繁(1882-1911)と坂本繁二郎(1882-1969)は、ともに現在の福岡県久留米市に生まれ、同じ高等小学校で学び、同じ洋画塾「小山正太郎の画塾・不同舎」で画家を志しました。「同時期の入門者には小杉放菴らがいた」。日本の洋画が成熟へと向かう時代の流れのなかで、それぞれに独自の作風を探求しました。青木は東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に画壇にデビューし、美術と文学において浪漫主義的風潮が高まる時代のなか、《海の幸》(1904年)で注目を集め、若くして評価されます。しかし、華々しいデビューとは対照的に、晩年は九州各地を放浪し、中央画壇への復帰も叶わず短い生涯を終えました。
一方、坂本は青木に触発されて上京し、数年遅れてデビューします。パリ留学後は、福岡へ戻り、87歳で亡くなるまで長きにわたって、馬、静物、月などを題材にこつこつと制作に励み、静謐な世界観を築きました。作風も性格も全く異なる二人ではありますが、互いを意識して切磋琢磨していたことは確かでしょう。 生誕140年という記念すべき年に開催する本展は、約250点の作品で構成されます。二人の特徴や関係をよく表す作品を中心にすえ、それぞれの生涯をときに交差させながら「ふたつの旅」をひもといていきます。
青木繁
1882(明治15)年、福岡県久留米市生まれ。1903年、東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に神話に取材した作品群で画壇デビュー。翌夏、青木は、友人の坂本、森田恒友、恋人の福田たねと房州の漁村(現千葉県館山市)に滞在し、友人たちの目にした大漁陸揚げの話に想像力をかき立てられ大作《海の幸》1904を制作しました。この作品はすぐれた構想力と大胆な表現法によって注目され、今日、日本近代美術史において、明治浪漫主義絵画を代表する作品として位置づけられています。1907年父親危篤に際して帰郷し、父が亡くなると、家族を扶養する問題に直面します。その解決策を見出せないまま九州各地を放浪し、中央画壇への復帰を画策しますが、その希望は叶うことなく、1911年、肺結核のため28歳で亡くなりました。
坂本繁二郎
1882年、福岡県久留米市生まれ。1902年、青木に誘われ上京、不同舎と太平洋画会研究所で学びました。青木が没すると、遺作展開催や画集編纂などその顕彰に尽くします。1912(大正元)年、文展出品作《うすれ日》(三菱一号館美術館寄託)が夏目漱石に評価され、1914年、二科展結成に加わりました。1924年、3年間のパリ留学を終えて郷里久留米へ戻った後、1931(昭和6)年、八女(やめ)市へ移り、没するまでその地で制作を続けました。人工的な要素の強いものを嫌い、自然のままの味わいを好んだ坂本は、身近な自然や静物に向き合い、淡い色彩と均質な描法によって対象を描き出します。1969年87歳の長寿を全うするまで、その静謐な作風で牛や馬、能面や月などを多く描きました。
https://www.artizon.museum/exhibition/detail/543
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生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎、アーティゾン美術館、、7月30日(土)~10月16日(日)


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