江戸絵画

2025年10月 7日 (火)

円山応挙 革新者から巨匠へ、・・・雪の中の老松と若松、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林の抵抗派竹林七賢


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第409回
円山応挙は、二つの要素の対比の空間、森羅万象を描く。雪の中に陽光に輝く老松と若松、青楓と瀑布、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林に集う抵抗派竹林七賢。「雪松図」「青楓瀑布図」「龍門図」「牡丹孔雀図」「竹林七賢図襖」「梅鯉図屏風」。
伊藤若冲「竹鶏図屏風」1790円山応挙「梅鯉図屏風」(1787)は、竹林と鶏、梅と水と鯉。
羅万象を描く円山応挙
伊藤若冲、曽我蕭白、長澤蘆雪ら「奇想の画家」たちに席巻された18世紀江戸絵画だが、
しかし、応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者でした。写生に基づく応挙の絵は、超写実主義のように眼前に迫ってきた。応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。そして、多くの弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成する。
9月25日、山下裕二先生のギャラリー説明会を聞く。監修者・山下裕二教授からのメッセージ。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【円山応挙1733~1795】最も魅力的な作品、得意分野は何か。「孔雀図」国宝「雪松図」「美人画」「山水画」「水墨画」「竹林七賢図屛風」「聖賢図」「仔犬図」「釈迦図」、幽霊図「返魂香之図」。円山応挙. 1733~1795(享保18~寛政7) 写実主義を確立。弟子、長澤蘆雪。
円山応挙 革新者から巨匠へ、・・・雪の中の老松と若松、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林の抵抗派竹林七賢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-13cd31.html
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若冲、応挙 初の合作新発見 伊藤若冲「竹鶏図屏風」円山応挙「梅鯉図屏風」
円山応挙(1733~1795)と伊藤若冲)(1716-1800)、江戸時代、京画壇のランキングはナンバー1が応挙、ナンバー2が若冲であることが当時の京都の人名録「平安人物志」に記されている。お互い四条通り付近に住むご近所同士だったのに二人の接点を示す史料はこれまでありませんでした。
唯一、応挙が若冲を訪ねたとの記録が残っていますが、おそらく対面は叶わなかったのでしょう。応挙はその前年にすでにこの「梅鯉図屏風」を仕上げていたので、その時若冲を訪ねてもう一隻の進捗状況を尋ねたかったのかもしれません。
二人がじつは合作していたという、この奇跡的に発見された作品は本展が初公開!2024年

【円山応挙の謎】円山応挙は、なぜ、階級社会の中で、亀岡の農民の子から一級の絵師になることができたのか。円山応挙は、なぜ、死の年、一門十三人を率いて、大乗寺襖絵を描いたのか。 応挙の運命の扉を開いたのはだれか。応挙は、京都で、大乗寺、密蔵上人に出会った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【農家の子から尾張屋】亀岡の農家に生まれた応挙は、京都に丁稚奉公に出て暮らす。15歳の時に玩具屋の尾張屋勘兵衛の世話になる。ビードロや覗き眼鏡を扱っていた尾張屋の元で、応挙は覗き眼鏡に使われる遠近が効いた眼鏡絵を描いた。
【狩野派から円山派】円山応挙は、狩野派の石田幽汀に学んだ、一方、西洋由来の遠近法の眼鏡絵、中国絵画の影響も受け、後に綿密な写生と伝統的な装飾性をあわせた独自の様式を確立した。応挙の元では息子の応瑞や山口素絢、長沢芦雪ら多くの絵師が育った。虎の絵を得意とする岸派、竹内栖鳳、上村松園に受け継がれていく。応挙の画風に南画の情趣を融合させて四条派を確立した呉春。円山・四条派の全容に迫る展覧会。
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
若冲は35歳の時、相国寺にて、僧、大典顕常(1719年—1801年)に出会う。売茶翁(1675年—1763年)とも出会う。若冲という名を得て、若冲『動植綵絵』を10年の歳月をかけて完成する(宝暦7年頃1757年から明和3年1766年)。人知れず隠れて、寺院の秘密の部屋で超絶技巧を磨き貫き、技を駆使して、革新的技法、創造的芸術を探求した。裏彩色、色彩の魔術師。8万6千の方眼の中に描かれている極彩色の屏風、『鳥獣花木図屏風』。枡目描きは、西陣織物商、金田忠兵衛がいた。
若冲の超絶技巧の超細密画、微細な生きものの神秘な世界。マクロコスモスとミクロコスモスの調和、宇宙と小宇宙の融一を観照する。寺院の秘密の部屋。
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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永遠を旅する哲学者は、千年後に具眼の士が現われるのを待つ。旅する哲学者は、瞬間の永遠、永遠の今のなかに、美と真理を探求する。美は真であり、真は美である。詩人の魂は、怨みにある。李白の美の源泉は、恨みである。
若冲が『動植綵絵』で追求したものは何か。作品を評価してくれる人が現れるまで千年待つ。天上の宇宙と心の中の宇宙。天上の宇宙と心の中の宇宙。若冲は、生きものの神秘と美に魅入られたのか。若冲の絵画『動植綵絵』の方法とは何か。「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」「いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、わが天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」。内なる宇宙は、何を志向したのか。
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』より
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【伊藤若冲、謎の生涯】
伊藤源右衛門(若冲)(1716-1800)、京都の富裕な青物問屋に生まれ23歳で家業を継ぎながら、40歳で次弟に家督を譲り、異常に緻密な細密画に生涯没頭したのはなぜか。84歳まで、絵画を追求した若冲。相国寺、大典に出会い、人生が一変する。師なき領域で独創的藝術を探求した。
南蘋派の絵師、鶴亭に影響を受けて1000点に及ぶ中国絵画の臨写(模写)をするが、模写を止め独創性を追求する。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる創造的藝術の探求。「動植綵絵」20「群鶏図」に溢れる鶏への愛はなにゆえか。
若冲は10年の歳月をかけて『動植綵絵』『釈迦三尊像』『釈迦三尊像』を描き、京都、相国寺に寄進した。
*『動植綵絵』「群鶏図」「老松孔雀図」「老松鳳凰図」「牡丹小禽図」「雪中錦鶏図」「芍薬群蝶図」、鳥、植物、微細な生きものの輝く宇宙。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
■主な展示作品
三井家が援助したこんぴらさんの襖絵、特別出品
重要文化財「遊虎図襖(16面の内)」円山応挙筆 天明7年(1787) 香川・金刀比羅宮/虎の毛皮を見て描いた応挙、モフモフ感に注目!
新発見の若冲、応挙初の合作、東京初公開!
左:「竹鶏図屏風」 伊藤若冲筆 寛政2年(1790)以前 個人蔵/右:「梅鯉図屏風」 円山応挙筆 天明7年(1787) 個人蔵/若冲の鶏、応挙の鯉、それぞれの得意な画題で競い合う!
応挙の傑作、国宝「雪松図屏風」と重要文化財「藤花図屏風」が登場!
国宝「雪松図屏風」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 三井記念美術館 【展示期間:9月26日~ 10月26日、11月11日~24日】/陽光にきらめく新春の雪景色に注目!
重要文化財「藤花図屏風」円山応挙筆 安永5年(1776) 根津美術館 【展示期間:10月28日~11月10日】/水墨と着色のコントラストが見事!
多彩な人物表現
「大石良雄図」 円山応挙筆 明和4年(1767) 一般財団法人武井報效会 百耕資料館 【展示期間:10月28日~11月24日】/忠臣蔵の主人公を等身大で描いている
「元旦図」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 個人蔵/初日の出を拝む応挙の後ろ姿!?
生き物に向けられる温かなまなざし
「雪柳狗子図」 円山応挙筆 安永7年(1778) 個人蔵/仔犬のキャラクターが大人気
「木賊兎図」 円山応挙筆 天明6年(1786) 静岡県立美術館 【展示期間:10月28日~11月24日】/触れたくなるような、ふわっふわの毛並み
山形県指定文化財 「鼬図」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 本間美術館 【展示期間:9月26日~10月26日】/下から横から正面から、応挙の観察眼が光る
「虎皮写生図屏風」 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 本間美術館/リアルに描かれた虎柄のヒミツ
「青楓瀑布図」 円山応挙筆・皆川淇園賛 天明7年(1787) サントリー美術館 【展示期間:9月26日~10月26日】/清涼感あふれる 夏の滝
「華洛四季遊戯図巻」(下巻) 円山応挙筆 江戸時代・18世紀 徳川美術館 © 徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom/洛中のにぎわいを写す尾張徳川家ゆかりの絵巻
応挙の傑作、国宝「雪松図屏風」は、三井記念美術館が所蔵する作品のなかでもっとも有名な作品の一つとして知られていますが、今年度は、秋に開催される開館20周年記念特別展のなかで公開されます。本展の監修を手掛けるのは、美術ファンから厚い支持を集める山下裕二教授。大阪中之島美術館で先行して公開され、伊藤若冲とのコラボ作品(合作屏風)として話題となっている「梅鯉図屏風」も東京で初公開となります。応挙の傑作が一堂に会し、華やかな展示内容となる本展。
近年、同時代を生きた伊藤若冲、曽我蕭白ら“奇想の画家”たちの人気に押され気味の円山応挙。応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者。写生に基づく応挙の絵は、当時の鑑賞者にとって、それまで見たこともない眼前に迫ってきたのです。その画風は瞬く間に京都画壇を席巻、多くの弟子が応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成しました。本展では、応挙が「革新者」から「巨匠」になっていくさまを、重要な作品を通して知ることができます。
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円山応挙 革新者から巨匠へ、三井記念美術館、
監修者・山下裕二教授からのメッセージ
円山応挙は、従来より江戸時代を代表する画家として、確固たる地位を占めて高く評価されてきました。しかし近年、伊藤若冲をはじめとする「奇想の画家」たちの評価が高まるにつれて、いくぶんその注目度が低くなっていることは否めません。
しかし、応挙こそが、18世紀京都画壇の革新者でした。写生に基づく応挙の絵は、当時の鑑賞者にとって、それまで見たこともないヴァーチャル・リアリティーのように、眼前に迫ってきたのです。そして、そんな応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。
そして、多くの弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成することとなりました。応挙の絵は、21世紀の私たちから見れば、「ふつうの絵」のように見えるかもしれません。しかし、18世紀の人たちにとっては、それまで見たこともない「視覚を再現してくれる絵」
として受けとめられたのです。この展覧会では、そんな応挙が「革新者」から「巨匠」になっていくことを、重要な作品を提示しながらみなさんに見ていただきたいと思います。
開館20周年特別展 円山応挙―革新者から巨匠へ
会場:三井記念美術館(東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階)
会期:2025年9月26日(金)~11月24日(月・振休)

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2025年8月11日 (月)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
「老子」第45章。梅荘顕常、伊藤若冲、織田信長。
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。梅荘顕常は若冲という号を与えた。
「大盈(大きく盈ちる)は冲(むな)しきが若く」大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。「老子」第45章。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
織田信長が、天正の元号を命名したのは、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成する。
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた背景は何か。
伊藤若冲「乗興舟」「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755)
「旭日鳳凰図」(1755)、原型はどこにあるのか。
伊藤若冲の鳥の目と顔は不気味。その原型はどこにあるのか。「旭日鳳凰図」(1755)から始まる鳥の探求。『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃?明和3年(1766年)頃、若冲41歳から、50歳に、不気味な鳥の目が描かれている。
『鳳凰石竹図』林良筆に原型がある。
『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀
林良(りんりょう、15-16世紀、生没年不詳)は、精彩な着色の花鳥画を得意とし、鳥や樹石の水墨画では、力強く素早い筆致が「草書の如き」と評された。水墨による《鳳凰石竹図》では、鳳凰の尾羽や土坡にその草書的筆致が見られ、素早い筆致ながら精緻さをも保つ。羽を逆立てた首の表情は、まるで樹木の葉のようでもあり、その首自体の細さも相まって、異様な造形を成している。雪舟をはじめその後の日本画家に影響を与えた筆致や特異な造形表現には、伊藤若冲が描いた奇想の原点をみる。
『百鳥図』伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。花鳥画には、吉祥の意味が込められている。鳳凰は、中国の伝説上の鳥で百鳥の中の王とされ、その表情は愛らしく、手塚治虫の「火の鳥」を連想させる。
伊藤若冲「乗興舟」楽しかった大坂への旅「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。
【伊藤若冲『動植綵絵』30幅 宝暦7年(1757年)頃∸明和3年(1766年)頃】
若冲41歳から、50歳まで10年間描く。
生誕300年、若冲展、東京都美術館・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
2、円山応挙『牡丹孔雀図』1771
円山応挙は、なぜ、『牡丹孔雀図』を描いたのか。
円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経、孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
【伊藤若冲と円山応挙は、同時代人】自身の天職と一家の方針とが矛盾する。
若冲と応挙の合作、『竹鶏・梅鯉図屛風』18世紀、個人蔵が、2024年発見された。
【伊藤若冲と円山応挙】江戸時代、階級社会の厳格な世で、封建制度の身分を捨て、絵師の道を選ぶことができたのは、なぜか。
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3、空海、宮沢賢治 自身の天職と一家の方針とが矛盾する
【空海の苦悩】父は佐伯直田公、母は阿刀家の阿古屋【大学寮入学】延暦10年(791)18歳で大学寮明経科に入学【大学寮中退】延暦11年(792)空海19歳。官僚の出世を諦め山林修行【19歳から31歳まで謎の12年】私度僧から遣唐使へ(797)二十四歳『聾瞽指帰』
【空海と阿刀大足】母方の阿刀[あと]氏は帰化系民族で、外舅[がいきゅう]の【阿刀大足】は桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講として従五位にあたる。空海は十二歳から十五歳まで国学(大学の一種)大足に論語、孝経、史伝、文学などを学ぶ。
【最澄と空海】延暦23年(804)第16次遣唐使。遣唐使船の第二船に、38歳の還学生・最澄、第一船に、31歳の留学生20年の長期留学生の空海が乗船。最澄はエリート官僚、桓武天皇の官度僧、還学僧。雲泥の差、私度僧。空海、なぜ、留学僧に選ばれたか不明〈伯父の阿刀大足
【空海と不空】不空は、空海(774~835)の師、恵果の師、不空金剛(705~774)『理趣釈経』の著者。空海は不空金剛の生まれ変わりという伝説がある。不空訳『理趣釈』を最澄が借覧を願い出たが、空海は借覧拒否。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」814
【宮澤賢治、妹トシの苦悩】日本女子大卒業論文と一生の仕事について、妹トシ(21歳)は賢治(22歳)に相談した「理想を申し上ぐるならば兄上様ご自身の天職と一家の方針とが一致する事が何よりも望まれ候」『妹トシの手紙、大正7年11月24日』大正11年1922、11月27日午後8時半、肺結核で死去。宮澤賢治、昭和8年死去。
「妹トシから宮沢賢治への手紙は1通だけ存在する』『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修、1989
1924(大正13)年『心象スケッチ 春と修羅』序より「春と修羅」、「無声同国」
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参考文献
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L
「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj
禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html

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2025年4月12日 (土)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第395回
11歳で就任した3代将軍・足利義満は、相国寺を創建、夢窓派の祖・夢窓疎石、高弟の春屋妙葩を迎える。鹿苑寺金閣を開き、北山文化を生み、孫の足利義政は、慈照寺銀閣を作り、東山文化、東山御物を残した。
夢窓疎石、春屋妙葩、絶海中津、大典顕常(1719年-1801年)は、雪舟、若冲、如拙と周文、円山応挙に影響を与える。
――
臨済宗、禅宗は、中国仏教であり、老荘思想であり、ニヒリズムであり、無の宗教である。無、無為自然、無用の用、玄徳、道(万物の根源)は無、混沌、大道廃れて仁義あり、『老子』。万物斉同、逍遥遊、邯鄲の夢『荘子』。
「大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章」。★
【明代初期の花鳥画家、文正『鳴鶴図』1376年】6世、絶海中津、中国から帰朝する時に、招来した。この絵画を雪舟、伊藤若冲、狩野探幽が学んだ。
【狩野永徳『洛中洛外図屏風』】足利義輝が発注、1566永徳が制作、1574織田信長が上杉謙信に贈呈。どこから見た洛中洛外図か。
【相国寺七重塔。1339年三代将軍・足利義満が建立(11歳で将軍就任)】1470年、猿物により炎上(『相国寺七重塔炎上之事』応仁記)。
【伊藤若冲「乗興舟」】1767年頃、若冲が交流の深い相国寺の禅僧、梅荘顕常(大典)と淀川下りをした感興を表した。季節は春、京都・伏見から大坂・天満橋まで6時間ほどの船旅を、幅約29センチ、長さ約11.5メートル。漆黒の空に白い松並木や遠くの家並み、淡い灰色の川
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、足利義満の時代、相国寺創建 夢窓疎石 春屋妙葩
【足利義満】[1358~1408]室町幕府第3代将軍。在職1369~1395。義詮(よしあきら)の子。南北朝合一を果たし、明と勘合貿易を開いて室町幕府の最盛期を現出した。能楽の保護、金閣の建立などこの時代の文化を北山文化とよぶ。北山殿義満。
第一章 開山の祖、夢窓疎石、相国寺に関わる高僧の墨蹟。
相国寺は、11歳で将軍職についた室町幕府三代将軍・足利義満が永徳 2 年(1382)に発願し、開山・創建された禅宗の古刹。夢窓派の祖・夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山に迎え、高弟の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を実質的な創建開山とした。京都の地、御所の北側の広い敷地に伽藍を構える大寺で、金閣寺、銀閣寺の通称で名高い鹿苑寺、慈照寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山。
相国寺は美術の発展にも尽力。640年以上の歴史の中で数々の芸術家を育て上げ、名作の誕生を導いてきた。1984年には相国寺をはじめ、鹿苑寺、慈照寺などに伝わる文化財の保存修理、展示公開、禅文化の普及を目的に相国寺承天閣美術館を創設。現在、国宝5点、重要文化財145点を含む優れた作品を収蔵する。寺に伝わる什物(じゅうもつ=代々伝わってきた宝)は美的価値だけでなく歴史的価値も高いものが揃っている。明から伝来した名品を見ることができる。相国寺は創建当初から中国との文化的交流の中心地であった。
展示作品
《鳳凰》室町時代 15世紀 鹿苑寺 応永五年(1398)の創建当初から金閣の頂上にあった。
重要文化財《鳴鶴図》 文正筆 中国・元-明時代 14-15世紀 相国寺 絵の前から立ち去り難い端正さを持つ。

2、雪舟の時代 室町幕府の御用絵師・如拙と周文を師とする
第二章「中世相国寺文化圏 ―雪舟がみた風景」雪舟が目にした文化的風景を偲ぶ
開山から間もない15世紀の相国寺には、相国寺文化圏と称するべき美の営みがあった。室町幕府の御用絵師であった相国寺の画僧・如拙と周文は室町水墨画の様式を確立、さらに二人を師と仰いだと書き残している雪舟は、若き日を相国寺にて過ごした。室町水墨画の巨匠・雪舟が目にしたと想像される文化的風景が展開される。
展示作品
重要文化財 雪舟《毘沙門天》 室町時代 15世紀 相国寺蔵
林良筆《鳳凰石竹図》明、16世紀、雪舟から若冲にまで影響を与えた。重要文化財
周文筆《十牛図巻》より 右から「尋牛」「見跡」「見牛」 伝 周文筆 室町時代 15世紀 相国寺
相国寺の画僧・周文が描いた《十牛図巻》では、禅や悟りを人と牛との関係にたとえ、十の過程で示した。牛の姿は「真の自己」を表し、真の自己を求める自己は牧人として描かれている。
《花鳥図》伝呂紀筆 :《花鳥図》兪増筆 いずれも中国・明時代 16世紀 相国寺
雪舟は相国寺を出たのち、明に渡って約3年を過ごし、その間、多くの中国絵画を目にした。室町時代には数々の明代絵画が相国寺にもたらされ、日本の絵師に影響を与えた。

3、92世住持・西笑承兌
第三章「『隔蓂記』の時代 ―復興の世の文化」
室町時代に文化的興隆を見せた相国寺、1467年に応仁の乱が勃発し、続いて戦国の世になると荒廃した。戦国時代以降の相国寺を復興したのは 92世住持・西笑承兌(せいしょうじょうたい)。天下人秀吉、家康のブレーンとなり外交僧として活躍、相国寺中興の祖となった。続いて1600年代、復興の相国寺に登場するのが鳳林承章(ほうりんじょうしょう)。西笑承兌の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を伝えられた弟子)で鹿苑寺の住持を務め、75歳で亡くなるまで34年間にわたって日記『隔蓂記(かくめいき)』を書き残した。鳳林承章をめぐる風雅の時と場を再現する。
狩野派とのかかわり
『隔蓂記』の時代は江戸時代前期と重なり当時、文化の中心にいたのが文芸復興に尽くしたことで知られる後水尾(ごみずのお)天皇である。鳳林承章とは親戚関係にあり、相国寺には後水尾天皇からの寄進による作品が残されている。当時もっとも勢いのあった狩野派の作品も含まれている。京都に滞在していた探幽に鳳林自身が画絹を持参し、制作を依頼したと『隔蓂記』に記されている。
展示作品
西笑承兌墨蹟「檀忌香偈(だんきこうげ)」 西笑承兌筆 桃山時代 天正13年(1585) 相国寺
《西笑承兌像》 江戸時代 17世紀 豊光寺 ※いずれも前期展示
『隔蓂記』鳳林承章筆 江戸時代 寛永12-寛文8年(1635-1668)鹿苑寺
狩野探幽《観音猿猴図》狩野探幽・狩野尚信・狩野安信筆 江戸時代 正保2年(1645)相国寺 両側の猿がユーモラスな本作は「後水尾天皇寄進状」に記載のある作品。

4、奇想の画家・若冲を開花 第113世住持・梅荘顕常 維名周奎
第四章「新奇歓迎!古画礼讃! ―若冲が生きた時代」
若冲は京都・錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、絵を描くことが好きだったものの、40歳まで枡屋当主として家業に励んだ。
★★★
梅荘顕常 若冲の名「老子」第45章
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。
「老子」第45章。大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
愚者よ、外見で無用と決める愚かさに気づけ。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成。若冲は梅荘の尽力によって、鹿苑寺大書院を飾る襖絵50面を描くという大プロジェクトを任される。当時、若冲は44歳の無名絵師。梅荘の存在がなければ、これほどの大仕事を得られることはなかった。
★★★
梅荘顕常と伊藤若冲「動植綵絵」、「乗興舟」
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた文化的背景を探る。
展示作品
《竹虎図》絵:伊藤若冲筆 賛:梅荘顕常筆 江戸時代 18世紀 鹿苑寺
伝李公麟「猛虎図」(朝鮮・朝鮮時代)に依拠して描かれており、虎のユーモラスな表情、猫のように拳を舐める仕草、体躯の力強い表現。虎の背後には風に揺れる竹の葉が筆勢の強い墨線で表現。梅荘顕常の賛は「いずこの竹林、長く嘯く声の中。突如もの寂しげな夕刻の風が巻き起こる」と詠む。虎嘯風生(こしょうふうしょう)の故事「虎の遠吠えが風を生む」、「英雄が出現すると天下に風雲が巻き起こる」という喩えである。若冲と梅荘は、虎が巻き起こす風をそれぞれの手法で表現した。
重要文化財《鹿苑寺大書院障壁画 一之間襖絵 葡萄小禽図》伊藤若冲筆 江戸時代 宝暦9年(1759)鹿苑寺蔵
伊藤若冲「乗興舟」
「動植綵絵」を完成させた直後の明和4年(1767)春、親友である相国寺の禅僧・大典と共に京の伏見から大坂の天満橋まで川下りをした時の風景を描写した 長大な画巻。拓版画と呼ばれる、ネガフィルムのように白と黒が反転した技法。漆黒の空に記される白抜きの詩文と巻末の跋文は、大典の筆跡。若冲は下絵を制作した後、そこに記す文を大典に依頼した。

5、近世・近代 俵屋宗達 円山応挙
第五章「未来へと育む相国寺の文化 ―”永存せよ”」
相国寺の什物は中世より伝来するものもあれば、近世や近代の寄進などの新規受入により加わったものもある。今回の展覧会では、什物の経歴や履歴という視点も重視した。現在、相国寺に集まった数々の什物は、今後も相国寺で活かされ、価値を見いだされ、永く伝えられてゆくことが期待されている。そのような近代に収集された作品群。
長谷川等伯《萩芒図屏風》(前期3/29~4/27展示)は金地着色画の大作。花を咲かせた萩が風になびく右隻、芒の茂みに野菊が顔を覗かせる左隻。シンプルで明快な構図ながら、繊細な情緒にあふれている。
円山応挙筆《七難七福図巻》より「福寿巻」江戸時代 明和5年(1768) 相国寺 ※前期・後期で場面替えあり
応挙初期の作品。天災を描く上巻、人災を描く中巻、そして福寿を描く下巻からなる大作、応挙は制作に3年を費やし、三巻の全長は39メートルに及ぶ。人の世の苦難と寿福とを絵解きするために制作された絵巻。人々が天災や大蛇から逃げまどう様子などがリアルに、時にユーモラスに描かれている。
重要文化財《蔦の細道図屏風》伝 俵屋宗達筆 烏丸光広賛 江戸時代 17世紀 相国寺 ※後期展示
『伊勢物語』より宇津の山の場面を表し、大胆な構成、金箔の地に緑青という鮮やかな色使いが目を引く。
《百鳥図》伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。
【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
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参考文献
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj

禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B

「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz

妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史

東京藝術大学美術館、3月29日~4月27日、 後期(4/29~5/25)
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2024年12月10日 (火)

英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第385回

【藝術家と思想家、運命との戦い】藝術家と思想家は、運命と戦う。理想と思想をもつ人は運命と戦い、現実界と理想の狭間に、美の潮流を生み出す。旅する思想家は、美の源泉に旅し、美の根拠に至る。壮麗な美の神殿、宇宙円環と魂の円環のコンコルディア。精神文化が栄えた地に立ち、真言陀羅尼を唱えるとき、古えの精神が蘇る。
【英一蝶(1652~1724)波乱万丈な生涯】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。宝永6年(1709)、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻る。三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉。
【英一蝶の謎】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。綱吉死去で江戸に戻る。一説、第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」違反。【河野元昭説】遠島は死罪に次ぐ重罪で、徳川幕府の掟にそむいた者が対象、不受布施法華宗はそれにあたり、幕府は法華宗の僧や門徒を弾圧した。一蝶は家付流人で妻帯し、支援もあって恵まれた流人。安村敏信館長が申される島一蝶のプロデューサーは、宝井其角。3、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた。
【英一蝶(1652~1724)、多賀朝湖】英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医。狩野探幽の弟・安信に師事、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。
英一蝶(1652~1724)英一蝶、61歳、涅槃図を描く72歳で死す。仏涅槃図、1713ボストン美術館
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
【光悦の謎(1558-1637)】本阿弥光悦は俵屋宗達とどこで出会ったのか。なぜ楽焼の田中常慶に習ったのか、古田織部に茶の湯を学んだのか。元和元年(1615年)徳川家康から鷹峯の地を拝領したのはなぜか。豊臣家が滅びた元和元年凱旋の家康から鷹峯に東西ニ百間の土地を与えられ一族郎党、五十五軒の屋敷を構え移り住み洛中と往還したのはなぜか。本阿弥家の名は、一遍上人の遊行念仏、南無阿弥陀仏に由来する、なぜ日蓮法華衆に属したのか。雁金屋、尾形光琳・乾山はなぜ光悦の影響を受けたのか。
本阿弥光悦の大宇宙・・・現世即、常寂光土
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2af811.html
「没後300年記念 英一蝶」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_4/index.html
英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/12/post-22e347.html
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英一蝶(1652~1724)は元禄年間(1688~1704)前後に、江戸を中心に活躍した絵師である。はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けるが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出した。この新しい都市風俗画は広く愛され、一蝶の画風を慕う弟子たちにより、英派と呼ばれる一派が形成された。他にも、浮世絵師・歌川国貞のように一蝶に私淑した絵師は多く、後世にも大きな影響を与え続けた。また、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむなど、幅広いジャンルで才能を発揮している。
加えて、その波乱万丈な生涯も人気に拍車をかけた。一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪になるという異色の経歴を持つ。宝永6年(1709)、将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻るが、島で描かれた作品は〈島一蝶〉と呼ばれ、とくに高く評価されている。そして江戸再帰後は、「多賀朝湖」などと名乗っていた画名を「英一蝶」と改めた。
2024年は一蝶の没後300年にあたる。この節目に際し、過去最大規模の回顧展を開催。瑞々しい初期作、配流時代の貴重な〈島一蝶〉、江戸再帰後の晩年作など、各地に残る優品を通して、風流才子・英一蝶の画業と魅力あふれる人物像に迫る。
第1章 多賀朝湖時代
英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(はくあん・伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医をしており、一蝶が15歳(あるいは8歳)のときに、藩主に伴い一家で江戸に下りました。母の姓は一説に「花房」であったとされ、島流しから江戸に戻った後に名乗る「英」の氏は母方に由来すると考えられています。
狩野宗家の狩野安信に入門し、江戸狩野派の高い絵画技術と、古典に関する幅広い教養を身に付けた一蝶は、次第に狩野派の枠を飛び出し、独自の絵画世界を確立していきます。生き生きとした人物描写と、ユーモアあふれる視点、狩野派仕込みの確かな画技が合わさった唯一無二の風俗画によって、一蝶は一躍人気絵師へと上り詰めました。また、古典画題にひねりを加えた戯画も多く、安信門下で得た知識を一蝶ならではの表現へと昇華させています。
このような新鮮な感性は、俳諧を通して培われたと推測されます。20、30代の頃に松尾芭蕉に学び、俳諧師の宝井其角(たからいきかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)らと生涯親しく交流した一蝶は、自らも暁雲(ぎょううん)という号で複数の句を残しています。俳諧の機知や滑稽味に富んだまなざしは、一蝶の絵師としての姿勢にも大きな影響を与えました。
多様な作品を手掛けた一方、仏画、風景画、花鳥画のような王道の主題にも正面から取り組んでおり、狩野派絵師としての自負を強く持ち続けていたことが分かります。
本章では、「多賀朝湖」と名乗っていた時期の一蝶が、狩野派に基盤を持ちながらも、風俗画家として能力を開花させていく様子を追います。また、俳諧の分野での活動も紹介し、そのマルチな才能に焦点を当てます。
第2章 島一蝶時代
40代ですでに絵師として不動の人気を得ていた一蝶は、突然悲劇に見舞われます。第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」を皮肉った流言に関わった疑いで捕らえられ、元禄11年(1698)、三宅島へ流罪となります。ただし、この事件の真犯人はすぐに捕まったため、実際の理由は別にあったと考えられています。【一番有力な説は、江戸吉原に出入りし幇間(ほうかん・太鼓持ち)として大名などと交流していた一蝶が、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた】という理由な どで、幕府から目を付けられていたというものです。島流しは原則無期であり、一蝶も二度と江戸の地を踏めないことを覚悟したと思われます。しかし幸運なことに、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって、一蝶は江戸への帰還を果たします。
配流中の作品は、江戸の知人たちからの発注によるものと、三宅島や近隣の島民のために制作したものの二つに大別されます。前者は遊興に取材した風俗画が多く、江戸から送られてきた貴重な紙や絵具を丁寧に使用した、華やかな画風で知られます。一方、後者は神仏画や吉祥画など、信仰関連の作品が大半を占め、堅実で穏やかな作風が特徴です。
三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉と呼ばれる、一蝶の画業を象徴する作品が多数生まれました。本章では、配流中に描かれた〈島一蝶〉の傑作を通して、その制作の様子をご紹介します。
展示作品の一部
重要文化財 布晒舞図 英一蝶 一幅 江戸時代 17~18世紀
遠山記念館 【展示期間:10/16~11/10】
吉原風俗図巻(部分) 英一蝶 一巻 元禄16年(1703)頃
サントリー美術館 【通期展示(場面替あり)/本場面の展示期間:10/16~11/10】
神馬図額 英一蝶 一面 元禄12年(1699)頃東京・稲根神社 【通期展示】
第3章 英一蝶時代
配流先の三宅島から江戸へ奇跡的に戻った一蝶は、画名を「英一蝶」に改め、精力的に制作に励みます。名の由来は、中国戦国時代の思想家・荘子の「胡蝶の夢」で、島での生活や恩赦の知らせが夢か現実かと思い悩む心情を、この説話になぞらえたとされています。
再帰後は「今や此の如き戯画(風俗画)を事とせず」と宣言し、一蝶の代名詞ともいえる風俗画から離れる決意を固めます。その言葉を裏付けるように、謹直な仏画、狩野派の画法を順守した花鳥画や風景画、古典的画題に実直に取り組んだ物語絵や故事人物画などが増えていきます。一方で、風俗画の依頼は絶えなかったようで、都市や農村に生きる人々の営みに、一蝶ならではの諧謔味を加えた《雨宿り図屛風》や《田園風俗図屛風》のような大作も複数残されています。また、古典的主題をアレンジした戯画も引き続き描いており、江戸再帰後も生来の洒落っ気は健在であったことをうかがわせます。なお、親友の其角や嵐雪は配流中に亡くなっていたため再会は叶いませんでしたが、俳諧との関わりは継続しており、様々な俳書に挿絵を寄せています。
一蝶は享保9年(1724)、73歳でこの世を去りました。辞世の句「まぎらはす 浮き世の業(わざ)の色どりも 有りとや月の薄墨の空」からは、生涯を風俗画に捧げた一蝶の強い自負が感じられます。
展覧会を締めくくる本章では、晩年期の優品や俳書を通じて、卓越した才能と洗練された美意識で人々を魅了した「風流才子」こと英一蝶の画業と人となりを浮き彫りにします。
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「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_4/index.html

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